どうやらこの世界に「自我」はない、という話がまことしやかに広がっている。
この自分だと思っているもの。理論上1秒後には姿形を変えているのだそうだ。細胞は生まれ変わっているからなのだという。
それを正確に捉えようとすると、果たしてこの自分がなんなのかわからなくなる。
という意味でいうと、確かに自我はないのかも、と思います。
昔、お釈迦さまの説法を楽しみに、多くの大衆が今回も固唾をのんで待っていました。
しかしそのお釈迦さまはというと、説法するため須弥壇に登ったはいいが、次にそこでは何も言わずに降りてきてしまった。
もちろんそれに納得できた大衆は一人もいなかった。
お釈迦さまは話をすることなく、ただ登って降りてくるだけ。
そこで何か話せば、ふむふむ、おやおやと納得するものもいたはずです。そういったことを大衆たちは期待していたわけです。
しかしそうはしなかった。ただご自身が登って、降りていく様を見せただけ。言ってしまえば人の移動を「見せた」だけ。
しかし実はこれこそまさに本当の「説法」だったのです。
真実には個人の納得がありません。痛いから痛い。うまいからうまい。暑いから暑いわけです。つまり真実には自我がないのです。
我々はそうした世界を見ようとせず、自分で作った概念縛りの世界に、気づかずに身を置いてしまいます。そのような世界に知らず知らずのうちに足を踏み入れてしまうのです。
そして勝手にそこで苦しんでいる。
世界を見渡せば、鳥が泣き、車の走る音が聞こえ、時に地震が起きています。
そこにはなぜ?が通用しません。人の概念が通じません。真実はいつもそのような大層なあり方を我々に示しているのです。
お釈迦さまは今回の、このご自身の行動を通して、納得とは無関係の、本来の大自然、世界の真実、我々の有り様を示してくれたのです。
確かに地震などによっては苦しむこともあります。しかしそれは苦しみとは言いつも、際限がないのです。剥き出しなのです。息つまりもないし、行きつまりも、生きつまりもないのです。時に救いとも受け取れるものだったのです。
いつだって息詰まって、自分を苦しませているのは「自分」。その概念です。
そしてそれというのは実は、自分が作り出したまやかしに過ぎないかもしれないのです。
そもそもいまこの自分だと思っている存在物に関して、この人は自分が寝ている間にも呼吸をしてくれています。また例えばジャガイモは好きだけど、ニンジンは嫌いという自分の好き嫌いがあったとしても、この胃袋はどんなものでも消化してくれます。呼吸に際しては、必要な酸素は市外から来たものか、県外からきたものか、はたまた国外から来たものなのかも定かではありません。
ここからここまでが俺の命と、決めつけることがどうしてもできないのです。
我々が生きることは全体が生きること。我々が生きることは、実はその全体によって生かされることだったのです。我々の命はただ全体であり、我々の一挙手一投足も全体の呼吸だったのです。
この世界には自我がない。自分でやっていること、自分で命を起こすということが実はまったくもってできないわけです。
事実「今、おにぎりについて考えろ!」といわれたとき、あなたの頭には同じくその「おにぎり」が頭に浮かんだはずです。
人はこの思考一つとっても、実は他によって生み出されており、我々の全ては大自然の産物なのです。思考の内容はさておき、思考のあり方としてはそこに生きつまりはないのです。
事実、足を組めば痛いわけですが、理論など通用せず、それは痛いから痛いわけです。
この大自然いっぱいの命をもっと大切にしたいと思う、この頃です。