絞り込み条件を変更する
検索条件を絞り込む

すべてのカテゴリ

212 件中 1 - 60 件表示
カバー画像

即身成仏という祈り――真言宗の修行が教えてくれる、宇宙と私を結ぶ知恵

 日々の喧騒に追われていると、ふと自分の心を見失いそうになることがあります。 仏教における厳しい修行の数々は、一見すると現代の私たちから遠い世界のことのように思えますが、その根底にあるのは、誰もが抱える迷いや苦しみから自由になるための、極めて実践的な知恵です。 特に、弘法大師・空海が開いた真言宗の教えには、今を生きる私たちの心にも深く響く、瑞々しい世界観が広がっています。 真言宗の教えが目指す究極の境地、それは「即身成仏(そくしんじょうぶつ)」です。これは、はるか遠い未来や死後に仏になるのではなく、この肉体を持ち、生きている今この瞬間に、自分自身が仏の境地に達するという思想です。  そのために、真言宗では独自の修行を行います。修行の本質は、決して単なる苦行ではありません。それは、自らの「身(身体)・口(言葉)・意(心)」という3つの営みを、仏と一体化させていく「三密(さんみつ)の修行」というプロセスなのです。 具体的には、仏と同じ「印」を指先で結び(身)、神秘的な力を秘めた言葉である「真言」を唱え(口)、心に仏の姿を鮮やかに思い描き(意)ます。 こうして自分の身体、言葉、心を仏と完全に一致させることで、私たちの奥底に眠っている「仏の心」を呼び覚ましていくのです。 また、滝行や断食、険しい山中を歩くといった肉体の限界に挑む厳しい行も、すべてはこの即身成仏への道のりです。 過酷な環境の中で自分自身の慢心や、物事への執着といった「煩悩」を焼き尽くし、心を極限まで浄化していきます。 そうして得られた強い精神力や功徳(エネルギー)は、決して自分一人の満足のためだけには使われません。 それ
0
カバー画像

正しさ

昨日、並木氏のチャリティーワークに参加して、被災地にエネルギー的手助けを送るようなことなどをやりました。 並木氏、被災地であんな辛い目に遭っている人がいるのだから、自分の楽しみを諦めようとか、質素にしようとか、自分を抑えるような方向へ向けてはならないというようなことを説明されていて、あくまでどんな大変なことがあったとしても、自分の中心軸に自分を置くということが大事だということを強調されていたように思います。 相手と一緒に自分も悲しみに暮れたり、不安になったりすることにはなんの助けにもならないし、意味もないっていうことを言われていたと思うんですけども、自分はそれって、すごく東京的な人の考えだなぁって思ったんですよ。京都の洛中の人は、辛い人がいた時、一緒に共感して相手の心を受け止めようとします。ものすごく聞き上手です。感情を込めて、自分も相手と一緒の気持ちになります。けど、それが意味のないことだとは自分には思えないんですよね。なぜなら、「ああ、私の気持ちが伝わった」と思った瞬間、その辛い人はホッとすると思うんですよね。 自分しか見えていないと思っていた世界が、他の人にも共有してもらえたことで、やっと孤独の意識から抜けることができるからです。 もちろんいろんな状況でいろんなことを求めている人がいるので一概には言えないかもしれないけども、そういう場合、自分の辛い状況をお話しする方というのは、別に誰かの同情を引きたくて、辛いです、ってお話ししている訳ではないと思うんですよ。自分がどう受け止めていいかわからない、自分しか見えない意識世界の中で、不安と孤独を感じて、無意識に何か感情的なエネル
0
カバー画像

「安心」と「薬壺」が教えてくれること―21年のうつ病闘病と、サカナクション山口さんの言葉から考える「受け入れ」の処方箋

 薄暗い本堂で仏像と向き合うとき、私はいつもそのお姿のなかに、深い知恵を見出そうとしてしまいます。  なかでも、病気や心身の苦しみから人々を救うとされる「薬師如来」には、とても分かりやすい特徴があります。 それは、左手のひらに小さな「薬壺(やっこ)」を乗せていることです。万病に効く霊薬が入ったこの器こそが最大の目印。 そして、もう一方の右手は胸のあたりに掲げ、手のひらをこちらに向けています。これは「施無畏印(せむいいん)」と呼ばれ「恐れなくてよい」という安心のサインを示しているのだそうです。 仏教における他の有名な仏様――たとえば阿弥陀如来などは、私たちが旅立ったあとの「死後の世界(極楽浄土)」で人を救うことで知られています。 それに対して、薬師如来のまなざしは常に、私たちが「今生きているこの世界(現世)」に向けられています。生きている間の病や飢え、苦しみから今すぐ救い出すという強い誓いを持ったそのお姿は、仏の世界における、まさに「医療従事者」と言えるのではないでしょうか。 つまり、偉大な仏様であっても、奇跡のような加持力(かじりき)(念力)だけで病を消し去るわけではありません。最前線の医師や薬剤師のように、きちんと「お薬」を携えていらっしゃるのです。  そのお姿を見つめていると、ひとつのロジックが浮かび上がってきます。 右手が示す「安心しなさい」という薬師如来の想いは、まずは心身をリラックスさせ、今そこにある病を「受け入れなさい」と促しているのではないでしょうか。 そして、心が少し落ち着きを取り戻したところで「さあ、左手にあるお薬を飲みなさい」と、治療の手を差し伸べている。そ
0
カバー画像

宇宙の呼吸に包まれて――阿字観が教えてくれる、ありのままの自分

 日常の喧騒から少し離れ、静かに自分と向き合う時間。そんなひとときをもたらしてくれるのが、真言密教の伝統的な瞑想法「阿字観(あじかん)」です。 これは平安時代、弘法大師・空海によって日本へと伝えられた、歴史ある心の調律法です。 阿字観では、目の前に掲げられた掛け軸を見つめます。そこに描かれているのは、満月のような丸い輪(月輪)と、その中心にある梵字の「阿(あ)」という一文字。 この「阿」はすべての言葉の始まりであり、宇宙の生命の根源を象徴しています。 呼吸を重ねながらこの文字を心に描き、仏の心を自分の中へと受け入れていくと、やがて「宇宙と自分は一つである」という、おだやかな一体感に包まれていきます。 よく比べられる「座禅」が、頭を空っぽにして無を目指すものだとすれば、阿字観の姿勢はとてもあたたかです。 「悩みや煩悩を抱えたままでいい、ありのままの自分を認めよう」という、自己肯定の優しさに満ちています。息を吐き出すとともにネガティブな感情を外へ送り出し、吸う息とともに宇宙の清らかなエネルギーで満たされていくイメージは、現代を生きる私たちの心をも深く癒やしてくれます。 その基本的な実践は、次のような丁寧なステップで進んでいきます。調身(ちょうしん):姿勢を整えます。足を組み、背筋を伸ばして、肩の力をふっと抜きます。調息(ちょうそく):呼吸を整えます。「あーー」と声を出しながら細く長く息を吐き、吸う時も心の中でその響きを感じる「阿息観」を行います。調心(ちょうしん):心を整えます。半分目を開けた状態で阿字の掛け軸を見つめ、月の光と仏の心を自分の中へと溶け込ませていきます。 このような
0
カバー画像

幸せに生きるためって! 教えて!           

人間には、どうしても避けて通ることができない苦しみがあります。たとえば、だんだん年をとって若さが失われていく苦しみ、 病気の苦しみ、そして最後には死んでしまう苦しみもあります。お釈迦様は、この世には8種類の苦しみがあることに気がつきました。「生」「老」「病」「死」(しょうろうびょうし)の四苦(しく)です。 4つの苦しみです。・愛別離苦(あいべつりく):愛する人と別れる苦しみ・怨憎会苦(おんぞうえく):憎しみを感じる人と会う苦しみ・求不得苦(ぐふとくく) :欲しいものが手に入らない苦しみ・五蘊盛苦(ごうんじょうく):心身の欲望が満たされない苦しみはじめの四苦とあわせた8つを「四苦八苦(しくはっく)」と言います。お釈迦様は‘‘そんな苦しみが多い世の中でも、幸せに生きることができる”と教えてくれたのが「仏教」です。お釈迦様は‘‘そもそも生きることは苦しいことである”という結論を出し、‘‘なぜ苦しいのか”を考えたところ‘‘思い通りにしたいのに、思い通りにならないから苦しい”ということに気がつきました。思い通りにしたいという心を「煩悩(ぼんのう)」と言い、苦しみの原因は煩悩であることがわかったのです。そして、煩悩をやっつけることで幸せに生きられると考えました。 お釈迦さまは「そんな苦しみが多い世の中でも、幸せに生きることができますよ」と 教えてくれました。   それが、仏教です。お釈迦さまは、「そもそも、生きることは苦しいことである」という結論をだしました。そして、「なぜ苦しいのか」を考えたのです。仏教がおしえていること!「七仏通戒偈(しちぶつつうかいげ)」というお経の言葉です。お釈迦さ
0
カバー画像

情報とは、こころを伝えることだ

情は、こころである。そう考えれば、愛情は愛するこころのことだと納得がいく。 そして、さらに、情報という文字にまでこころがかかわりあっていることに気づくだろう。情報とは、数字やグラフや統計や知識の断片ではない。それは、こころを伝えることなのだ。情報化社会とは、こころをコミュニケートする社会のことである。「仏教の心」(五木寛之 著)より情報とは、こころを伝えることだ。情報化社会とは、こころをコミュニケートする社会のことだ。血の通わない、こころを伝えない情報はいらない。だから、情報化社会の意味を改めて考えたい。モノが欲しくて頑張ってきた時代があった。そして、モノが充足された今、誰もが情報を欲しがっている。モノ社会の中に情報が溢れたように見えるが、実は、私たちはモノ社会を離れ情報化社会の中で生きている。モノは限られた空間と時間の中で、それ以上詰め込むことは出来ない。しかし、情報は枠を持たない。膨張するばかりだ。これが厄介だ。そして、これは、こころに似ている。だからこそ、情報化社会の中では、こころをコミュニケートしなければならない。どうするか? まだわからない。でも、情報という言葉を使ったら、同時に、こころという言葉を思い出さなければいけない。今それだけはわかる。なんともいえない世の中である。さて、みなさんがたよ、私たちはどうすればよいのか。そこで親鸞はいう。ともがらよ、「悲泣せよ」と。悲惨な世間を見て、悲しんで大声で泣く、そのような柔らかく人間的なこころをとりもどすことが先決なんだよ、と。対策を論じたり、原因を分析したりする先に、悲しんで涙を流すような柔らかなこころを回復しようではない
0
カバー画像

仏教は、心を縛るものではなく、苦しみをほどくための理性です

仏教と聞くと、多くの方は「宗教」「お寺」「お経」「供養」といったイメージを持たれるかもしれません。もちろん、仏教には信仰としての側面があります。お寺の行事や儀式、手を合わせる時間、亡き人を想う心も、仏教の大切な一面です。しかし、私が仏教に深く惹かれている理由は、そこだけではありません。仏教の本質には、極めて冷静で、理性的な「心の見つめ方」があります。人は、なぜ苦しむのでしょうか。相手が悪いから。環境が悪いから。運が悪いから。自分が弱いから。苦しんでいる時、私たちは原因を外に求めたり、逆に自分だけを責めたりします。しかし仏教は、もう少し静かに、そして厳しく問いかけます。「その苦しみは、どこから生まれているのか」怒り。執着。不安。比較。思い込み。認められたい心。失いたくない心。思い通りにしたい心。仏教は、これらを単なる感情として流しません。心の働きとして観察します。たとえば、職場で誰かに冷たくされた時、私たちは「なぜあの人はあんな言い方をするのか」と苦しみます。もちろん、相手の言い方に問題がある場合もあります。しかし同時に、自分の中に「認められたい」「嫌われたくない」「自分を軽く見られたくない」という執着があることもあります。そこに気づかないままでは、相手の表情や声のトーンに、いつまでも心を支配されてしまいます。仏教は、無理に我慢しなさいとは言いません。ただ優しく慰めるだけでもありません。苦しみの構造を見つめなさい。自分が何を握りしめているのか見なさい。手放すべきものと、向き合うべき現実を分けなさい。そう教えてくれるものだと、私は感じています。仏教的な視点とは、感情を否定することで
0
カバー画像

幸せな人は「抽象度」が高い

抽象度において、最も高い概念は「愛」です。 それを「理解」や「共感」と呼ばれる方もいらっしゃいますが、今回は「愛」とします。 この「愛」をゴールとした人、つまり抽象度の高い人はどのように幸せを掴んでいくのでしょうか? 最も重要と思われる点を2つ紹介していきます☆ まず1番目は、抽象度の高い人は、 「全てを自己責任」として捉えます。 そうすることで、うまくいかなかったことから解決策を見つける方へ、自分か他人を責めることから次に何をすべきかを考える方へ向かいやすくなり、穏やかな感情を保つことが出来ます。それだけではありません。 他者や環境のせいにしないということは、自分自身の改善点を見つける結果を生み出すため、成長速度が人よりも著しく早く、変化にも強い。 この「自己責任として捉える」ということが如何に大切なことかは、世界的大ベストセラーである「7つの習慣」を見るとわかります。 7つの習慣では、第一の習慣として、 「主体的である」 と、書かれています。 「主体的である」というのは「自分の人生の責任を引き受ける」ということです。 私たちの行動は周りの状況によって決まるものではなく、自分自身の決定と選択によって決まるものです。 7つの習慣では、 私たちは、自分の身に起こったことで傷ついていると思っている。しかし実際には、その出来事を受け入れ、容認する選択をしたことによって傷ついているのだ。 とあります。 厳しい言い方になるかもしれませんが、自己責任として考えることを始めなければ、人生のスタートラインにも立てません。 逆を言えば、大業を成す為には高い抽象度が必要であり、主体的に物事を考え始
0
カバー画像

パブリックコミットメント(公的関与)の効果とは?

自分のことは自分が一番よく解っていると思いがちですが、実は人は思っているほど、自分の気持ちを正確に把握できていません。 そんな時は、 実際に言葉にしてみる。実際に言葉にすると、言葉に公共性が生まれるため、その言葉を実現しようと心理が働きます。心理学ではこれを、「パブリックコミットメント(公的関与)」の効果といい、やりたいことや考えなどは、内言(頭の中での言葉)よりも、外言(声に出す言葉)にすると、実現性は高くなります。 また、紙に書いたり見える場所に貼ることも効果的で、心が向かう方向をはっきりさせるため、外言と同じ効果が得られます。 それを言葉として読み上げれば、パブリックコミットメントの効果でさらにモチベーションは上がります☆ 是非皆様もこの心理学のスキル、お試しくださればと思います☆ 本日も最後までお読みくださり、ありがとうございました☆ ◇今日の名言◇ 人生が終わってしまうことを恐れてはいけません。 人生がいつまでも始まらないことが怖いのです。 グレース・ハンセン( アメリカの女流作家)◇「空の体得」により「観自在(かんじざい)」と呼ばれる境地を体感で共有、自立のサポートをさせて頂いております◇  観自在とは字のごとく、観念=思考であり、 「(色々なものを)観察することが自在である」ということ。  訓練を重なることでより日常に定着し、ポジティブになることで悩む時間を極端に短くしていくことができます。  推定時間約 60分 是非お問い合わせをお待ちしております。
0
カバー画像

本来の瞑想の目的とは

次に、瞑想の目的についてお話しします。 全ての瞑想の目的は、 「悟り」 です。 まず、仏教は本来インド哲学という哲学であり、宗教とは無縁の関係でした。 それが良いとか悪いとか評価をするものではなく、ただ元々は哲学であったということだけをご理解してくだされば幸いです。 哲学は新たに知識を得ていくというよりも、智恵によって矛盾を無くすことが目的です。 言い方を変えれば、抽象度を上げて無矛盾性を目指す、ということが言えると思います。ではなぜ、過去の先人達は揃いも揃って悟りを目指したのでしょうか? それは、全ての原因が外部(他者や環境)ではなく、自らの心にある事を理解していたからです。 その為、瞑想をすることにより心を整えることをしました。 悟りの内容をブログでお伝えするには少し足りませんので、割愛しますが、 全ての原因は自分自身の心、解釈が決めているということを今日はご理解して頂ければ良いかと思います。 瞑想は必ずしも座禅でなければならないという訳ではなく、どんな時でも行うことが出来ます。 家事をしている時や仕事中であっても、1人の時間があれば、瞑想は行えます。 ポイントは最初から思考を、 「手放すことを決めておく」ことです。 呼吸や感覚に意識を持っていき、無意識的に思考が発生したら、そこに判断や評価を加えずただただ流す。 呼吸に意識する。 ↓ 思考が発生したらそれに気づき手放す。 ↓ 呼吸に意識を戻す これを繰り返し行い、思考を沈めていきます。 瞑想を行うことで、 思考に客観性が生まれ、冷静さを手に入れていくことが可能となります。 昨日もお伝えしましたが、その為にも まずは無意識的
0
カバー画像

抽象度を上げる

結論から言いますと、抽象思考を身につけることで、今やるべきことに大きなエネルギーを注ぐことが出来るようになります。 抽象度とは普遍性の度合いであり、広辞苑によれば、普遍性とは、 「全ての物事に通ずる性質」 とあります。 抽象度が高くなればなるほど、矛盾は少なくなり、分析が楽になります。僕、渡辺和夫の抽象度を上げていくと、 人間(僕を含めた全ての人間が含まれます) ↓ 動物(人間だけでなく、犬や猫、全ての動物が含まれます) ↓ 生命(動物だけでなく、植物やバクテリアなども含まれます) ↓ 物質(生命を含めた全ての物質が含まれます) ↓ 空・完全情報・不確実性・不完全性 (空に関しては、また別の機会にお話ししますね。) となっていきます。 東洋哲学では智慧という言い方をしますが、現代では抽象思考という言い方をします。 それでは抽象思考を使って、「幸福」とは何か?を考えてみますが、その前に、 不幸になる方法をお伝えします。笑 不幸になりたい人は当然居ませんが、私たちは無意識的にこれをやってしまいがちです。 私たちが不幸を感じるのは、環境や他人、自分のネガティブな部分など、 「無い物に思考する時」です。 〇〇が無いから。 なぜ、〇〇してくれないのか。 〇〇が変わればいいのに。 というように、無いものを追いかけると私たちは不幸や憤りを感じます。 つまり、 幸福になるためには、その逆を行く。 つまり、有るものに目を向けるだけでいい。 〇〇も有る 〇〇をしてくれている。 〇〇という違いが有るから良い。 などというように、解釈を有る方向にへと向けていく。 無いものは無い。 無いものを言葉で追い
0
カバー画像

不安と恐怖に対するアプローチ

不安や恐怖は、 解らないものに対してのみ発生します。 例えば、外から中身が見えない箱を準備し、その中にタワシを入れます。 そして、中身に何が入っているか解らない人に「中に何が入っているか、手を入れて当ててください」と言います。 何が言いたいかは、すぐにおわかりだと思います☆ 見えない=解らない 解らない=不安・恐怖 に変わるのです。 仏教の言葉に無有恐怖(むうくふ)、という言葉があります。 意味は、恐怖をなくすには、混乱せずに、静かに観察すること。 つまり、解ってしまえば不安や恐怖は自然とおさまるんですね☆ 不安や恐怖に対して目を背ける行為は、更なる不安と恐怖を生み出します。 そうではなく、 混乱せずに静かに観察し、突破口を探る。 方向性を示すことが出来れば、安心して行動に移せます☆ そして不安や恐怖は、人によってはワクワクと言葉にされる方もいます。 不安や恐怖という感情と、ワクワクする感情は同じ感情だと言われています。 つまり武者震いのように、恐怖心の裏にはワクワクがあり、ワクワクする感情の裏には恐怖心もある。 表裏一体であり、ただ使っている言葉が違うだけ。 状況によるとは思いますが、そうだとするのなら、 「不安だ!怖い!」 よりも、 「ワクワクするなぁ〜!」 と、どうせなら言いたいものですね☆ 本日も最後までお読みくださり、ありがとうございました☆ ◇今日の名言◇ 行動に移された誤った考えは、移されなかったよい考えより100倍もましだし、ただ始めるだけで、あなたのなかにある不安を消し去る助けとなる。 コリン・ターナーまた、ココナラ電話サービスにて、悟りの体感共有を行っており
0
カバー画像

戒定慧(かいじょうえ)

仏教には人がついつい陥ってしまうことや、その解決のために必要なこと、目指すべきことなどが説かれており、あらゆる物事に通じる広さと深さがあります。 例えば今この記事を書いている私や、読んでいるあなたは、方法はどうであれ、何かしらの目的を達成しよう。という意思があるはずです。 目的といえば、些細なことからその人の人生観に関わる大きなことまで、大小さまざまですが、やはり人は幸せを求めて動く生き物なのではないでしょうか。 これまでは悩みや不安などから解放されて有意義な時間を過ごせるようにするようなお話をしてきましたが、今回はその道順のようなものをご紹介しますね。 仏教における三学 仏法には三学と呼ばれるものがあります。 これは悟りを得て、苦悩から解き放たれた真理へと向かうために説かれたものです。それぞれ 戒(かい) 定(じょう) 慧(え) と言います。 戒 悪を止めること 仕事であれば、不正な取引きやその場しのぎだけの作業。不必要なほどに長い雑談や愚痴などです。 誰かを欺いたり、自分だけが得をするような行いは、長続きするものではありません。上手くいっているように見えても、楽をした綻びがどこかで大きな亀裂を生んでしまいます。 愚痴話も同じで、それを建設的なものに昇華させることが出来なければ、意味はないのです。 もちろん、潔癖になれというわけではありません。 その場しのぎが精一杯である局面もありますし、適度な雑談は職場でのやり取りも円滑にしますので、要は溺れてしまわないことが大切なのです。 定 心を静めること 荒れた心を意識して、静めてみる。すると、意外と自分でも気付かなかった見落としがあ
0
カバー画像

六道輪廻から抜け出す方法とは

   前回、お地蔵様がいつも六体でセットになっているのは、地獄道、餓鬼道、畜生道、修羅道、人道、天道の六道にいる人々をそれぞれ救うためと説明しました。そして、人々はいつもその六道を回っていて、それを六道輪廻と言うと書きました。    今回はこの六道から抜け出す方法です。これは仏教(天台宗)の話ですから、当然、仏教を勉強し始めることが六道から抜け出す第一歩になります。    六道から抜け出た人は四聖と言いますが、仏教の勉強を始めた人は仏の声を聞き始めた人なので声聞といいます。    次に仏教の勉強を続けていると部分的な悟りをひらくことが出来るようになるので、その人たちを縁覚(独覚)と呼びます。    この二つの四聖を二乗と呼びます。 この人たちは部分的な悟りを開いていますが、人を積極的に救っていないのが難点です。  それに気づいて人を救い出すと菩薩の世界に入ります。お地蔵様の本当の名前が地蔵菩薩なのは人々を救う存在だからなのです。 そして、その利他行を気が遠くなるくらい何度も生まれ変わって続けていると、やがて最高の悟りの境地である仏になるというわけなのです。  四聖を整理しますと下記になります。  声聞 仏教を勉強し始めた世界  縁覚(独覚)部分的な悟りを開いた世界  菩薩 人を救う行動をする世界  仏 完全な悟りをひらいた世界  なお、仏教に関係なく偉大な発明発見をした科学者、哲学者なども縁覚(独覚)に数えることが出来ます。  たとえば、アインシュタイン、アリストテレスなどは縁覚(独覚)と言っていいと思います。  そして、六道と四聖を合わせて仏教(天台宗)では十の世界があるので
0
カバー画像

気の世界

 9月の中秋の名月、ブルームーンの前後で宇宙からすごくきついエネルギーが降ってきてましたよね。自分、あの時、その満月で肉体エネルギーのバランスを大きく崩してしまったんですよね。 肉体が固まってしまい、首と肺がロックされて、呼吸が抑え込まれるみたいな状態に陥っていき、「流石にどうしよう、もうダメかも、この肉体はもう自分には手に余る!」と心の中で助けて〜と絶叫したい気持ちになったほど、追い込まれた瞬間がありました。 そして、ご存じ、この特殊体質ですんで、もちろん普通の医療機関が対応できるわけがない。助けを求めようがないんですね。  東京のいつもの先生にお願いするにしても物理的に遠すぎるし、現状があまりにきつい状況だったんで、徐々に血流がいかなくなって頭が働かなくなり判断する力すら失って、ただ、横になって時間が過ぎるのを待つだけ。 も〜ほんとに、気に敏感な自分の肉体を疎ましく思い、生まれ直したい、と思い、精神的にも苦しかったんですよ。ガチッと体が固まる瞬間は最悪です。 どうしたらいいか、しばらくぐるぐる思考を巡らせた後「あ、やっぱ、だめだ」とバタッと力を抜いて、床に倒れながら、「どうか、自分に最適な人を繋げてほしい!」とただ、ガイドたちにお願いしました。そしたらね、普段全然連絡こない大阪の治療家の先生から、いきなりポーンとLINEにメッセージが入ったんですよね。「最近〜体の調子、どうですか?」えっ、忙しいこの先生から連絡って、めっちゃレアなことだなと思って、....しかもこの先生だったら、自分を治せるんですよね。 時間がかかりながら、動かない頭で文章組み立ててやっとのこと返信すると 
0
カバー画像

決めつけないで考えてみる

困難に当たってるとき   辛いことがあったとき   悩みがうまれたとき   渦中、しんどいですよね。   自分で自ら生み出してしまった ケースもあれば   外部から襲ってくるものもありますね。   そういう時、上手に切り替えられる人もいれば 沼にはまり込んでいく人もいて   状況によっては、それぞれ ハマり方が異なるものもありますね。 知り合いや友人の話を聞いていて   「そんなことでそんなに悩む?」   こんなふうに思ったことありませんか?   そうなんです。   人って、経験も感じ方も乗り越え方も 得手不得手も様々なので、一概に   そんなこと   の一言で、簡単に決めつけられないのです。   例えば 恋愛真っ最中の人、そうでない人 ご結婚されてる人、されてない人 または仕事の環境、育った環境…etc   環境や状況の違いでも見解が変わってきますよね。   あなたも周りも、同じなんです。   明日も佳い一日になりますように(*^^*) ※台風、お気をつけください。無事に過ぎますように。阿闍梨様のお言葉です↓
0
カバー画像

飛騨高山暮らし「千光寺・円空仏」

0
カバー画像

頭陀袋から思い出したこと

先日、知人のお寺で説法を聞く機会がありました。その日のテーマは「ずたぶくろ」でした。皆さんは、頭陀袋をご存じでしょうか。「頭陀」とは、お釈迦様の教えに従い、衣食住への欲をできるだけ少なくし、質素な暮らしを送りながら修行することをいいます。昔の修行僧は、人里離れた場所で修行をしたり、托鉢をしながら生活していました。その際、お経や法具、そして托鉢でいただいた食べ物や施しの品など、必要なものを入れて持ち歩いていたのが頭陀袋です。説法を聞きながら、「そういえば…」と思い出したことがありました。父が旅立つときのことです。故人に白装束をお着せします。その姿は、お遍路さんの装いにもよく似ています。頭陀袋を手に掛け、六文銭に見立てたものを納め、あの世への長い旅路へ向かう支度をします。そして少し大きめのおにぎりも持たせました。「道中、お腹が空いたら困るからね。」そんな気持ちを込めながら。もちろん、本当に食べるわけではありません。でも、送り出す家族の心としては、「困らないように」「寂しくないように」という願いを込めたくなるものです。頭陀袋のお話を聞きながら、修行僧の袋のことよりも、父を送り出したあの日の光景が浮かんできました。説法というと、仏教の教えを学ぶ時間という印象があります。けれど私にとっては、それだけではありません。一つの言葉から、大切な人との思い出がよみがえったり、自分の心を静かに見つめ直したり。そんな時間でもあります。皆さんにも、何かをきっかけに、懐かしい記憶がふっとよみがえった経験はありませんか。日常の何気ない出来事の中にも、自分の心と向き合うきっかけは、案外たくさんあるのかもしれま
0
カバー画像

全てがひっくり返った世界

あなたが求めているものは、本当に幸福を呼ぶものですか?私たちは、幸福を求めて生きています。お金がほしい。評価されたい。愛されたい。家族とうまくいきたい。仕事で認められたい。安心できる場所がほしい。誰にも傷つけられず、穏やかに過ごしたい。そうした願いを抱きながら、日々、何かを探し、何かを手に入れようとしています。けれど、ここで一度立ち止まって考えてみたいのです。私たちが求めているものは、本当に幸福なのでしょうか。たとえば、お金があれば幸福でしょうか。たしかに、お金があることで避けられる苦しみはあります。生活の不安が減り、選択肢も増えます。困った時に取れる手段も広がります。しかし、お金によって苦しむ人もいます。失う不安。人間関係のこじれ。比較。欲の拡大。もっと増やしたいという焦り。持っているものを守らなければならない緊張。お金は幸福の条件になることもあります。しかし、同時に不安の種にもなります。では、家族がいれば幸福でしょうか。もちろん、家族が支えになることはあります。愛情や安心を感じる場所になることもあります。孤独から救われることもあるでしょう。しかし、家族によって深く苦しむ人もいます。分かってもらえない。期待を押しつけられる。距離が近いからこそ傷つく。離れたいのに離れられない。愛情があるからこそ、怒りも悲しみも濃くなる。家族もまた、幸福の種になることがあります。しかし、苦しみの種にもなります。では、仕事で評価されれば幸福でしょうか。評価されれば、自信になるかもしれません。自分の価値を感じられるかもしれません。報酬や立場も得られるかもしれません。しかし、評価されるほど、今度は評価
0
カバー画像

溺れる者同士で、なぜ妬み合うのか

人間関係の悩みの中で、特に厄介なのが嫉妬です。あの人ばかり評価されている。あの人だけ恵まれている。自分ばかり損をしている。自分だけが報われていない。なぜ、あの人はあんなにうまくいくのか。このような思いが起きる時、心はとても苦しくなります。嫉妬は、単なる怒りよりも複雑です。相手が憎い。でも本当は羨ましい。自分も認められたい。でも認められていない気がする。相手が悪いわけではないと分かっている。それでも、心がざわつく。嫉妬とは、相手を見ているようで、実は自分の不足感を見せつけられている状態なのかもしれません。そしてこの時、私たちの判断はかなり感情に引っ張られています。「あの人は恵まれている」「私は不遇だ」「あの人ばかり得をしている」「私は大切にされていない」そう感じる時、その感情はとてもリアルです。しかし、リアルに感じることと、それが正しく現実を捉えていることは別です。ここで必要になるのが、理性です。理性とは、感情を否定することではありません。冷たい人間になることでもありません。何も感じないようにすることでもありません。理性とは、ものごとをできるだけありのままに見る力です。怒りがあるなら、怒りがあると見る。嫉妬があるなら、嫉妬があると見る。不満があるなら、不満があると見る。ただし、その感情をすぐに「正しい判断」として採用しない。これが大切です。感情は、自分の都合を中心に世界を切り取ります。自分が苦しい時、相手の苦しみは見えにくくなります。自分が評価されていないと感じる時、相手の努力は見えにくくなります。自分が損をしていると感じる時、自分が受け取っているものは見えにくくなります。つまり
0
カバー画像

「他人を批判すること」

他人を批判することは容易いです(*^^*) 他人の粗を探すのは簡単なこと。 誰にでも欠点や、短所はあるからね😌 でも、他人に言葉にしろ、行動にしろ、攻撃を加えれば、それはきっと加害者である人に返ってくる。 仏教ではこれを「因果応報」という🥰 全ての物事には原因があり、やったことは返ってくる。 これは自然の摂理なんだよね😊 だから、できるだけ他人を批判したり、攻撃したりしない方がいい( ´∀`) 「自分がされて嫌なことは他人にもするな」 って幼稚園で習ったよね🤣 これは至極当たり前のこと。 第一、他人の粗ばっか探して、そんなに楽しいですか?って感じよね(・W ͜ ʖ ͡° ) 折角だから、他人のいいとこ、探していこうよ☺️ みんな、この星に住む仲間なんだからさ😄 今日もよき日にしてくださいね(。-_-。)
0
カバー画像

学力よりも楽観性

心理学者マーティン・セリグマンは、ペンシルバニア大学の1年生、500人に対して楽観主義のテストを試験しました。 楽観主義のテストの成績は、知能テスト、または高校の成績表よりも、翌年の成績をより正確に予測することを発見しました。 つまり、 「勉強時間や宿題を増やすよりも、体験の見方を変える方法を教える方が、学校の成績を上げる助けになる」 ということが発見されたのです。 幸せなこどもは、不平や不満を言うことではなく、ゴール設定のやり方を学んでいます。 自分に差し出された困難をゴールとして、 「リフレーム(見方を変えて説明)」 し、起きてほしいと思うことに注意を以降させるやり方を学んでいるんです。 例えば、目標に向かっている時にA君とB君はミスを犯します。 A君はミスを、失敗と見て落ち込み、諦めることを考えてしまいます。 B君はミスを、成功に到達するための一つの材料、と考えます。 もし子供がA君のような解釈をした場合、すぐに親は子供に対してこのリフレームを行い、より良い解釈へと方向性を変えます。 成功を決定するのは目標、ゴールであり、知能またはスキルではありません。 リフレームすることは、うまくいかなかったことから解決策を見つける方へ、自分か他人を責めることから次に何をすべきかを考える方へ、こどもを移行させてあげられます。 子供は言ったようには育ちませんが、見たままに育ちます。 子供の解釈を肯定的にリフレームしてあげることは大切なことです。 しかし、最も大切なのは、子供が最初に見る親がどれだけ肯定的解釈が出来ているかです。 育児は育自。 至ってシンプル。 子供を正しく育てようと考える
0
カバー画像

飴と鞭→鞭と飴の順番が正解?

心理学の実験で、 ①褒めた後にけなす ②けなした後に褒める ③終始ほめる ④終始けなす の4つの行動をしたときの相手の好感度を調べました。 その結果、一番嫌われたのは①番で、一番好感度が高かったのが②番でした。 つまり、人はけなされた後に褒められると、褒め言葉がよりプラスに感じられ、自尊心が高まる傾向にある。 飴と鞭という言葉がありますが、褒め上手になるなら、 鞭と飴 の順番で褒めるのが良いんですね☆ 皆様も是非、「褒める方」を意識してみてはいかがでしょうか? 本日も最後までお読みくださり、ありがとうございました☆ ◇今日の名言◇ 褒めるときのポイントは、「具体的なプロセスに着目する」「感想・気持ちを添えて伝える」「心持ちの部分を重要視する」の3つ。 山本直美◇「空の体得」により「観自在(かんじざい)」と呼ばれる境地を体感で共有、自立のサポートをさせて頂いております◇  観自在とは字のごとく、観念=思考であり、 「(色々なものを)観察することが自在である」ということ。  訓練を重なることでより日常に定着し、ポジティブになることで悩む時間を極端に短くしていくことができます。  推定時間約 60分 是非お問い合わせをお待ちしております。
0
カバー画像

考えすぎた人、哲学者イマヌエル・カントとは

哲学って本当に面白い☆ 哲学を深めたことで、今もこれからも僕はずっと幸せでいられると思います☆ なぜそんなふうに言えるのか、今日は哲学の面白さを少しでも解って頂けるよう、考えすぎた人(哲学者)の言葉とその意味を解説してみたいと思います☆ 本日解説するのは哲学者、思想家、大学教授でもあり、批判哲学を提唱したことで有名なドイツ観念論哲学の祖とされるドイツの考えすぎた人、イマヌエル・カントです。「われより哲学を学ぶべきにあらず、哲学することを学べ」 →そもそも哲学は学ぶものではなく、思考を観察し、その矛盾を無くすために答えを求めていくもので、知識ではなく知恵です。 「大自然の秩序は宇宙の建築家の存在を立証する」 →哲学の極は真理の発見にあり、その真理は全てに通ずる性質を持ち、宇宙の存在をも高次元で理解することができるとしています。 「苦しみこそが、活動の原動力である。活動の中にこそ、我々は生命を感じる」 →苦しみ=痛み とします。人間は相対的に幸せを感じる生き物です。 大きな傷みを味わうことで、それ以下の傷みは痛みであるにもかかわらず、「あの傷みに比べれば」と、幸福さえ見出すことも出来てしまいます。 目の前の苦しみがこれも1つの経験という捉え方ができるようになれれば、苦や楽に対して判断や評価をすることは無くなっていきます。 これに気づくためには、苦しみを観察する必要があります。 つまり、苦しみこそが活動の原動力となるのです。 「哲学の義務は、誤解によって生じた幻想を除去することである」 →無矛盾性の追求こそが哲学です。 哲学を深め幻想を除去し、自分で自分を幸福にする。 それができる人
0
カバー画像

瞑想

瞑想には2種類のやり方があります。 1つ目は止観瞑想。 字のごとく思考を止め、心を観る。 2つ目は思考をフルに活用し、無矛盾性を追求する。 まず1つ目の止観瞑想の効果をお伝えします。 人間は1日に4万~6万回思考すると言われています。 朝起きて、「よし起きよう」と考えた場合、これで1回。 「歯を磨こう」で2回、「よしコーヒーを飲もう」で3回と、このペースで数万回の思考を1日に行います。 機能脳科学では、 思考は「情報空間で行う運動」 と言われています。 ドーパミンは興奮状態になった時のみ発生するのではなく、思考によって常に少量ずつ発生しています。 その為、考えることで体力を使います。 なるべく思考しない1日を作ってみると、この事がハッキリと解ります。 だからこそ、止観瞑想を日常的にする事で身も心もリフレッシュすることができます。 なかなかアイデアが出ない時は、全く違う方向に答えがあったりします。 そういった時に思考を止めて観る。 そうすることで、良い結果を得やすくなります。 思考の原因を担う自我は、自然界の中で不自然な存在といえます。 赤ん坊は生まれながらに統一された存在であるのにも関わらず、大人になるに連れて自我は確立され、分離したものになります。 善か、悪か? 信か、疑か? 高いか、低いか? 良いか、悪いか? 美か?、醜か?など、人間は追求する生き物ですので、 自我の特徴である二限性をもって上記の内容を無限に思考します。 無限論を思考するのは当然疲れます。 その為にもまず、無意識的な思考に気づけるかどうかが重要となります。 身体に疲れを感じたら、いつものように身体を休めるの
0
カバー画像

世界はあなたが創造している?

実体があるから認識できたのではなく、認識があるから実体が存在します。 しかし私たち人間は、逆で認識をしてしまいます。 こういった認識論は、 コペルニクス的転回論と言われています。 wikipediaによると、 「認識論において、人間の認識は、外部にある対象を受け入れるものだというのが、従来の哲学の常識であった。それに対して、カントは、人間は物自体を認識することはできず、人間の認識形式が現象を構成するのだと説いた。こうして、人間の認識形式自体を問う近代的な認識論が成立した。」 とあります。 哲学だけでなく、認知科学でも同じような見解をします。 心→原因 環境→結果 そして、哲学や認知科学だけでなく、量子論においても同じような見解がなされています。 量子論に置いて、物質の定義は素粒子の振動状態で決まります。 振動が多ければ物質と呼び、少なければ真空と呼びます。 つまり物質とは不確実な物であり、その存在の定義は「観察者」が居て初めて存在となるわけですね。 何が言いたいかと言いますと、 私たちが認識する存在の全ては、認識があって初めて存在となります。 それは、 世界は一人一人の認識の中にあるということになるため、世界はあなたのためにあると言えるわけですね☆ つまり、 世界にあなたがあるのではなく、あなたがあって世界があります☆ 幸せな環境が有るから幸せなのではありません。 あなたが幸せだからこそ、幸せだと感じられる環境が見えているだけ。 それはつまり、今この瞬間に自分自身を幸せにすることが、本当の幸せを掴む為の早道となる訳ですね。 その為には無いものねだりを手放し、有るものにへと感謝
0
カバー画像

心の保ち方

私たちの人生は自分なりの解釈の上に成り立っており、ありのままの人生ではない。 アンソニー・ロビンズ最大の不幸とは物事を悪く考えることではないか。 人が想像する不幸は、決してあるがままの不幸ではないということを知るだけでも、すでにかなりの成功である。アラン 事実というものは存在しない。存在するのは解釈だけである。 フリードリヒ・ニーチェ 私たちの認識するこの世界はその人が 何を重要としているのかによって決まります。 例えば、朝起きて「今日は良い朝だ。」 と考える人と、「今日は悪い朝だ。」 と解釈する2人が居るとします。 どちらが事実でしょうか? 答えは、 どちらも事実ではなく、今日の朝は「ただの朝」です。 なんの意味も持たないただの朝。 しかし人間は物事に意味づけをしたがる生き物ですから、ただの朝に何かしらの解釈を加えます。 どうせ意味づけをするのなら、感情が望む方向にへと意味づけをしたいものですよね☆ その為には「思考の限界」を知る必要があります。 違う言い方で言うなら、「自我の構成を知る」とも言えると思います。 その答えが「不完全性」 良い朝だと解釈しても絶対にそうだと定義はできません。 悪い朝だと解釈しても絶対にそうだと定義はできません。 そもそも扱っているのが、言語である時点で不完全。 上文の選択は極に答えは出せず、無限論になります。 そして最終、「どちらでも良い」が最も楽であることに気づきます☆ どちらが良いか悪いかと言葉で判断するのではなく、何をしたいのかを感情に聞く。 そして、認知科学を学べば「どうせなら良い朝だと解釈しよう☆」と考えることが出来るようになります☆
0
カバー画像

幸福の条件ってなに?

この世界には多くの人が住んでいます。そして誰もが幸せになりたいと願っており、「こうすれば私は幸せになるはずだ」と各々が信じた行動を日々とっています。「お金があれば幸せになれる」と信じている人は、一生懸命お金を稼ぐ人生になるかもしれません。「良い恋愛が出来れば幸せになれる」と思っている人は、恋愛を最優先にした人生になるかもしれません。ここで言いたいことは、ほとんどの人が「○○すれば幸せになれる」という条件づけを暗黙の前提にしているということです。「○○すれば幸せ」もしくは「○○があれば幸せ」これはごく一般的な感覚なように思えますが、裏を返せば「○○が満たされなければ不幸せ」と言っているのと同じことなのです。この「人生に対して『幸福のための条件を課す』」という行為。実はこれこそが真の幸福を妨げる原因なのです。人生において、この世界において、保証されている人生などあり得ません。10年後社会がどうなっているかも分からないですし、もっと言えば1年後自分が生きているかどうかさえ分からない。どこまでいっても不確かな世界なのです。この世界の不確かさ。仏陀はこれを「諸行無常」や「諸法無我」といった言葉で表現しています。すなわち形ある全ては移り変わり、もともとそこに在るようで無い、不確かなものだということです。確固たる実体として存在する物など、この世界にはひとつもないのです。そこに形を保ってたしかに存在するかのように見えているものも、実は万物が流転してたまたま今その形を保っているだけであったりします。たとえば今あなたの目の前にペットボトルに入ったミネラルウォーターがあるとします。あなたがそれを飲ん
0
カバー画像

阿頼耶識について

阿頼耶識について 皆さまこんにちは。新年のスタートはいかがだったでしょうか。 私は、友人達との食事会やサイクリングなどで楽しい時間を過ごす事ができました。 さて、本日は「阿頼耶識(あらやしき)」について書こうと思います。詳しい方はご存じと思いますが、阿頼耶識は大乗仏教から来ている概念です。 心理学やヒプノセラピーで、よく取り上げられる言葉です。 Wikipediaによると ” ある人の阿頼耶識は、蔵している種子から対象世界の諸現象<現行(げんぎょう)法>を生じる。またそうして生じた諸現象は、またその人の阿頼耶識に印象<熏習(くんじゅう)>を与えて種子を形成し、刹那に生滅しつつ持続(相続)する。” とあります・・・・少しややこしいので簡単に書き直します。 「私たちがもつ阿頼耶識という深いところの情報空間に生じた一つの種子(しゅうじ)が芽ぶいて、現実世界に影響を及ぼす。さらにまた現実に生じた事象が阿頼耶識に種子を落とし、それが芽吹いて因果を形成する」 という事です。なんだか、興味深い内容ですね。 さて、私たちの持つ5感覚は、以下のように「識」へ変換されます。 大乗仏教による「識」は、通常8つの段階から形成されています。 <5感覚・識> 視覚(眼識) 聴覚(耳識) 味覚(舌識) 嗅覚(鼻識) 触覚(身識) これにプラスして、6番目に「意識」があります。 これはもう、体感として多くの方がご経験あると思います。 「唯識論」で言われる意識というのは、 心のことだとも、顕在意識とも言えると思います。 そして、 7番目の識である末那識と 8番目の識である阿頼耶識の2つが
0
カバー画像

ひとり言・信仰の自由

最近、TVを見るたびに××教会や新興宗教の話題が多い!個人的にも、昔、新興宗教に2回ほど誘われた経験があり、2回とも入信はしたものの1回目はすぐに何か違うと思いすぐ脱会。2度目は少しはまってしまった・・・2度目は仏教関係の団体であったが、確かにどこの宗教も悪い事は言っていないと思うことはあるのだが、今回の××教会のように地獄に落ちますよとか、同じような事を言われた記憶がある。そして人を助けるために勧誘しないといけない!しかしその勧誘が人の人生を狂わすこともある、今回の安倍首相の事件がそのものだと深く思う。日本人は特に不思議な人種でお正月には神社に神頼みに参り、盆にはお寺で先祖供養、クリスマスにはキリストを祝う?新興宗教については特に仏教の経典が多くその一部を抜粋していることが多く、お釈迦様が起源になっている。個人的にも仏教は少しながら勉強して若干の知識はあるのだが、あることがきっかけで2回目の宗教も脱会することができた。当時はそれが唯一無二なのでその他の神社仏閣はすべて邪という教えであった。マインドコントロールは本当に怖いもので脱会した後も、少しの間は神社仏閣には行けなかったのが事実。しかし時間がたつにつれ、その恐怖心はなくなり今は自由に神社仏閣にお参りさせて頂いている。反対に今のほうが自由に信仰をして毎日が充実している。けして新興宗教を否定はしないが、個人的意見としてご了承下さい。信仰についてのひとり言・・・
0
カバー画像

お願いする前に、まず感謝を―祈願で大切にしたい心

8月13日。多くの地域では、今日からお盆を迎えます。ご先祖様をお迎えし、手を合わせる方も多いのではないでしょうか。お盆というと「先祖供養」を思い浮かべますが、私はもう一つ、「今、自分がここにいることへの感謝」を思い出す大切な機会でもあると思っています。私たちは祈願をするとき、「金運を良くしてください」「仕事がうまくいきますように」「家族が健康でありますように」「良いご縁に恵まれますように」と、さまざまな願いを仏様にお届けします。もちろん、願いを持つことは悪いことではありません。苦しい状況から抜け出したい。大切な家族を守りたい。人生を良い方向へ変えたい。そう願うのは、とても自然なことです。しかし私は、願いを届けるときに、もう一つ大切にしていただきたいことがあります。それが、「ありがとうございます」という感謝の心です。願いを叶えていただいたから感謝するのではありません。まだ願いが叶っていなくても、今日一日を迎えられたこと。食事ができること。住む場所があること。誰かが自分を気にかけてくれていること。そして、ご先祖様から命をつないでいただき、今ここに自分がいること。探してみれば、私たちの周りにはたくさんの「有り難い」があります。人は苦しい時ほど、「足りないもの」ばかりを見てしまいます。お金が足りない。運がない。良い人に恵まれない。仕事がうまくいかない。しかし、一度立ち止まって、「今、自分にあるものは何だろう」と見つめてみる。すると、心の向きが少し変わることがあります。私は、祈願も同じだと思っています。お願いするだけではなく、まず感謝する。そして祈る。さらに、自分自身も一歩動く。私が大切
0
カバー画像

道徳という暴力 正しさで人を裁く心を、理性的に見つめる

私たちは、さまざまなルールの中で生きています。常識。社会規範。道徳。法律。倫理。マナー。これらは、人が社会の中で共に生きていくために必要なものです。もし何のルールもなければ、安心して暮らすことは難しくなります。人は互いに傷つけ合い、奪い合い、不信と恐怖の中で生きることになるでしょう。だから、道徳や法律そのものが不要だと言いたいわけではありません。人は道徳的であるべきだ。人として正しく生きるべきだ。他者に迷惑をかけてはいけない。弱い者を傷つけてはいけない。誠実であるべきだ。こうした考えは、社会を保つうえで大切です。しかし、ここで一度、理性的に見つめてみたいのです。道徳は本当に、いつも人の心を清らかにするのでしょうか。実は、道徳は時として、人の心を乱します。それは、道徳を使って他者を裁く時です。自分が我慢してルールを守っている。だから、守らない人が許せない。自分が努力して正しくあろうとしている。だから、いい加減に見える人に腹が立つ。自分が迷惑をかけないように生きている。だから、周囲に配慮しない人を責めたくなる。この時、道徳は心を整えるものではなく、他者を攻撃する道具になります。「正しいこと」を言っているように見えて、その内側では怒りが燃えています。自分が我慢して道徳を守っているなら、守らない者に対して抱くのは怒りです。自分が安心を求めて道徳を守っているなら、守らない者に対して抱くのは恐怖です。そして、その怒りや恐怖に「正義」という名前をつけた時、人はとても攻撃的になります。私は正しい。相手は間違っている。だから責めてよい。だから排除してよい。だから傷つけてもよい。ここに、道徳という
0
カバー画像

寝ている間にも呼吸ができること。

「諸法無我」。これは「あらゆる事物は常に変化している為、形を変えないものなどどこにもない」という意味の仏教の大切な教えです。この「俺」という存在も変わり続けているため、この「俺」だったり、「我」だったりはどこにも存在しないということを述べているのです。今「俺だ」と思っているこの「俺」は、理屈上1秒後には変化している。そのようなものを果たして本当に「俺」と呼ぶべきなのかということですね。この世界に形を変えないものなどどこにもない。この世界のあらゆるものは常に変化を続け、定義に収まるところを知らないわけです。その一方で形を変えないものが1つだけある。それが先ほどから登場している「俺」という自我、つまり人間の概念です。繰り返しになりますが、我々人間の体に至っても、毎秒確実に歳をとっているわけです。その「変化すること」自体が、真実のあり方でもあるわけです。逆に言えば変化しないものが仮にあるとしたらそれは実存しているものではなく、空想の、あるいはまやかしの存在だということでもあるわけですね。この「自我意識」、あるいは概念というのは一向に変わりません。常にそこに延々と止まっている。だから常にこの「俺のこと」を紛れもなく「俺だ」と思ってしまうわけです。概念は変化しません。それ以外を除く、この世の全ては変化をします。この私も変化し続けており、従ってこれは私のものではなく、また私という存在でもないのです。例えば、「なんだ今日のご飯もお茶漬けか、味気ないなぁ。」このように思ったとします。実際に毎日味気ないご飯が出されると、このように愚痴をはきたくなるのが我々です。しかし味気ない食事だとしても「喉元
0
カバー画像

夢・信念

中国五大気功家の一人から上級課程を修了しました。現在は気功の教室を開いています。某お寺の坊主でもあります。(坊主歴30年)長年お寺に居りますがお寺関係の方だけでなく、もっと沢山の方々の悩みをお聞きしていきたいと思っております。何十年も前、私の火の不始末の為にお寺の境外の建物が燃えた時がありました。ある高僧に言われました。「西方の阿弥陀如来様に御負担がかかっている」と、それは、私も含めて正しい意識を持たない方々が好き勝手に神仏を使い物にしているからでした。私はそれ以降修行を重ねて、まず自分の意識を正しい方向に立て替えました。すると、非常に「生きやすく」なりました。自分が望んだように生きていることに気付かされました。現世利益も頂けましたし、心も救われて『幸せ』になりました。正しい意識の使い方をすれば、神仏を使い物にするようなことはありません。神仏を使い物にするような『意識』でも御利益は頂けますが、長い目で見れば不幸になります。それは神仏が罰を当てるのではありません。むしろ、私達を救うための慈悲です。気功的に言えば、宇宙の法則に則っていないので、ゆがめられたエネルギーが元に戻る時の反動から、私達に与えらるものです。「はやく気づいてください」と。私は仏教、気功、易などを通して、高位の存在の意志をお伝えしたいと思っています。今の世の中真の意味で、『物心』経済的にも、心も救われたいと言われる方は多いです。家庭、ビジネス、プライベート、etc・・・洗練された『意識』であれば、苦しみ悲しみは少なく、世で言われる成功も可能になるでしょう。正しいマインドの使い方をお伝えします。それが、貴方様も周囲
0
カバー画像

心に【不満足感】がある時…

「丁度よい」と思う事が出来ない心の状態が不満や不満足感を呼びます。 「足りない」 「もっともっと」「こんなのいやだ」という気持ち今いる環境に対する不満はエゴの声。 今いる場所で丁度よい 今の人間関係が丁度よい 今の収入が丁度よいそう感じる事が出来れば外側の世界に対する不満は減っていくのかもしれません。
0
カバー画像

魂には【五つの濁り】がある

仏教には「五濁悪世(ごじょくあくせ)」という言葉があります。世の中が五つの「濁り」で侵されている時は時代そのものが乱れ人の心も荒れ真実が見えにくくなっている(真実を見ようとしない)状態とも言えます。五濁とは劫濁(こうじょく)「劫」とは、仏教発祥の地であるインドで使われている単位で、永遠のように長い時間のこと。天災・戦争・疫病などが頻発し、地球全体が長きに渡り、乱れている状態。見濁(けんじょく)自分の物差しで測り、人に押し付ける事。見方や考え方・思考が歪み、偏った思想・価値観にある状態。煩悩濁(ぼんのうじょく)怒りや過剰な欲望、エゴなどの煩悩が人々の心に満ちている状態。衆生濁(しゅじょうじょく)悪い集団心理のようなもの。道徳心が失われ「みんなやっているからいい」「(悪い事を)みんなでやれば怖くない」「バレなければいい」というような考えを持っている状態。命濁(みょうじょく)命を尊び、大切にする気持ちの薄れ。他者の命や自らの命を大事に扱わない事。何をしても長生きをしたいというエゴにある状態。この言葉は約2,500年前に出来た【仏説阿弥陀経】に書かれています。 仏さまは悟りを開き「この世を澄んだ美しい世にしたい」と教えを広めていたのでしょう。 2,500年の時が経っても この世はまだ濁っています。 今も昔も人間はあまり変わっていない、という事が分かります。それ程までに人間の進化・成長は遅いのです。私たち一人ひとりが持つ魂は本来美しい輝きを放っていますがこの世に生きる内この五つの濁りに侵されてしまいます。私は、心の癒しやヒーリングというものはこの、魂についてしまった濁りを美しく澄んだ、本
0
カバー画像

アファメーション思い込みの力

世間にあふれる否定的な言葉は、無意識のうちに潜在意識にへと刷り込まれ、それが成長の足かせとなっています。しかし、それ以上の肯定的な言葉を自分自身に対し投げかけることで、成長できる可能性は飛躍的に高くなります。 本日ご紹介したいのは、「アファメーション」です。アファメーションとは、 「私は○○である」 「私は○○になる」 「私は○○をした」 など、 自分自身に対して建設的で前向きな思考を何度も繰り返すことを言います。 私たちの脳は否定形であろうが肯定形であろうが関係なく、その対象をイメージしています。 「赤いリンゴを想像するな」 と、否定形の質問を投げかけられても脳は勝手に想像してしまいます。 そのため、世の中にある否定的な言葉は、無意識の内に自分のセルフイメージに影響を与えています。 だからこそ、どんな時も否定的な言葉を自分自身で肯定的解釈にへとリフレームできるよう、常に訓練していく必要があります。アファメーションを別の言い方で言えば、「肯定的な思い込み」になるのだと思いますが、思い込むだけで私たちに大きな影響を与えます。 これはモラル違反であり、気持ちの良い実験ではありませんが、海外で死刑囚を使ったこんな実験がありました。 「手首を切って一定量(少量)出血させ続け24時間生き伸びられるか。」実際には手首に損傷はなく、切られたと思い込んでいる囚人の手首から落ちているのは、ホースに繋がれたただの水です。 しかし、翌日この囚人は亡くなりました。 他にも、熱したアイロンを被験者に見せて、そこから目隠しをし、冷やしたアイロンを腕に推し当てると患部が赤く腫れあがるなど、人間の思い込みの力
0
カバー画像

夢なき者に成功なし

本日はゴールについて、あれこれ書かせて頂きます。夢なき者に理想なし、理想なき者に計画なし。計画なき者に実行なし、実行なき者に成功なし。 故に、夢なき者に成功なし。 吉田松陰が残した言葉の中で、最も好きな名言です。ゴールが無ければ、理想をイメージすることも出来ず、目的を具体的に示すことも出来ません。行動の指針は目的により決定付けられる訳ですから、目的があってこそ、一貫性のある行動が得られます。 私達人間の脳は、情報であろうが物質であろうが、自分にとって重要と見なしたものだけが見えています。 逆に生命維持の為、重要で無いものは脳のフィルタリング機能によりシャットアウトされ、見え辛くなっています。 ゴールを明確に設定していくことが出来れば、ゴールに必要な情報の重要度が上がりやすくなるだけでなく、その達成方法までもが発見しやすくなります。 必要な情報はどんどん取り入れ、その重要度を上げることで、脳は必要とする情報を引き寄せてくれます。 引き寄せの法則は認知科学的でも説明がつきます。 人生のゴールや、一日の目的を持つことで、その行為の重要度を上げ、必要なものを引き寄せ臨場感を作る。 臨場感が得られれば、やる気も自己評価も自然と高まります。 ただ、ゴール設定をする時の注意点として、必ず自分がワクワクするようなものにします。 〇〇しなければならない。 ではなく、 〇〇したい! と思えるものにしてください☆ 最後にゴールを引き出す質問をいくつか載せさせて頂きますので、よかったら回答してみてください☆ もしかするとゴールのかけらが見つかるかもしれません☆ 本日も最後までお読みくださり、ありがとう
0
カバー画像

自立には2種類の自立があります。

①お金を自分で稼ぎ、そのお金で一人で生活していける。②自分の感情を自分で制御でき、冷静な判断が出来る。 1は外側の自立ですが、2は内側の自立 です。 この2つが揃って初めて「自立」となるわけです。 1は社会に出てお金を稼ぎさえすれば実現可能ですが、2が伴わなければ精神的な安心安定はありません。 フォーカスすべきは2の自立。 哲学を深めることで、自分の感情を自分で見極め、冷静な判断が出来るように訓練していかなければなりません。 僕は自立は1であって、2の必要性には目を向けていませんでした。 とにかく昔の僕は、「どうして俺は」と自分を責めたり、「会社が悪い」や「あの人さえ居なければ」などと、他者や環境に問題を転換させて、外へ外へと逃げていました。 今思えば、その生き方が楽なものだと勘違いしていたのかもしれません。 その為に自己成長は無く、極端に環境の変化に弱かったのを覚えています。 2の自立を確立させるには、目標と覚悟を決める必要があると考えています。 目標→ゴールの設定(目標)覚悟→全ては自己責任(主体性)です。 順番的には、目標を定めてから覚悟を決めるのが良いと思います。 目標は高ければ高いほどエネルギーは生まれます。 ですので、ゴールは達成方法がわからなくてビビるぐらいのほうが良いと言われています。自己責任という覚悟は、最初は凄く大変だとは思いますが、少しずつ自分の在り方にへとセルフイメージを移行させていくことで、 他者からの信頼を得たり、同じような抽象度の高い思考を持った仲間と出会い、理解が増えてくると、心は徐々に居心地の良い現状にへと安定していきます。 これは必ずそうなり
0
カバー画像

悟り

悟りはゴールではなくスタートです。 悟りは事実として存在し、言葉の限界を超えた衝撃的体感です。 僕は27歳の時に真理を発見し、仏典などからそれが悟りであることを知りました。 つまり僕の場合、悟ろうと思って悟った訳では無く、ただ「真理とは?」という疑問を追求した結果が悟りだった訳です。 悟りによって気付いたことは、 仏教は願い事が叶うように外側へと祈りを向けるようなものではなく、 ということは、こうゆうこと。 ↓ ということは、こうゆうこと。 ↓ ということは、こうゆうこと。 という具合に、抽象度をどんどん上げ、真理に向けて無矛盾性を追求する極めて知的な宗教であり、優れた哲学です。 そしてその哲学は、「全てに通ずる性質を持ち合わせている」ということを、徐々に理解していきました。 まさに、森羅万象を知る為の智慧の教典。 「真の宗教は科学と矛盾しないだけでなく、科学を指導する。」(日蓮正宗教学より) 仏教(真理)は全ての学問にも通じ、そこから「価値とは何か」を教えてくれます。 では実際、悟りを開くと何が変わるのでしょうか? 僕の体験から申し上げますと、やはり一番大きな変化としては 「冷静な判断」 が出来るようになったことです。 過去の失敗に縛られることや、 未来に対する不安も無くなり、 今この瞬間だけが真実であると気づきました。 過去や未来は存在せず、それはただの妄想でしかない。 感情が暴れた場合、そこには必ず断定的、または絶対的といった偏った解釈(思考)が含まれており、その解釈は断定できず絶対とは言えない。 思考を主観的ではなく、客観的に見つめることが出来るようになり、楽観思考が身
0
カバー画像

「人を蝕む『三毒』」

おはようございます(⌒∇⌒)仏教では、人間に害を成す三つの概念を、「三毒」と呼んで、忌まわしいものとしています(*^^*) 「三毒」とは貪・瞋・癡の三つです。 貪とは、「貪り」。 止むことない欲望、止まらない執着です。 瞋とは、「怒り」。 人を憎み、恨みの炎を燃やす、強い怒りです。 癡とは、「愚かさ」。 無知が故に人を傷付けたり、道に迷ったりすることです。 この三つは、人間の一生を台無しにするものだそうです。 果てしない欲望は、いずれその人を滅ぼします。 欲にはキリがありませんからね。 そして、怒りはその人自身を滅ぼします。 怒りは「炎症」です。 強い怒りの炎は、その人自身を焼き尽くすことでしょう。 また、愚かさはその人のみならず、周囲の人をも巻き込んで、社会全体に害をもたらします。 知らないが故に、差別や嫌がらせの問題が起こります。 この三つは、日頃から避けなければいけないものです。 逆に言えば、普段から欲張らず、怒りを顕にせず、学ぶことを忘れないようにすれば、人は健やかに、楽しく生きていくことができます😆 三毒を遠ざけて、毎日を楽しいものにしたいですね😌
0
カバー画像

🌍世界は広い! 「人生は、楽しんだ者勝ち!」 (kkkkktorok と ある【仏教】長老の教え方の違い)

🌍世界は広い! 「人生は、楽しんだ者勝ち!」 (kkkkktorok と ある【仏教】長老の教え方の違い)★偶然に、 面白い動画を見つけてしまいました! ◾わたしの出品作品と、 =「結論は、ほとんど同じ!?」=と、 言っていい程の意味合いだったので、 ビックリしました。 ◾ただし、 わたしとは、まったく、 ま逆のアプローチの仕方でした。 ■長老さまのやり方は、【頭括型】 ■私のやり方は 【尾括型】 ◆【頭括型】→・長老さまのやり方は、言うなれば、「刑事コロンボ スタイル」だ! すでに、犯人を教えてからの謎解きの手法。 素晴らしい! すぐに答えが分かるので、 スッキリする! ・・・・・・ ◾つまり、 📹その動画の方は、 要は、・「人生を、初めっから、ゲームと考える。」    vs 🈁わたしの方は、 「人生の問題に、ぶち当たってから、 真正面に向き合って、 ・考えて・考えて、    ・ 解釈して・解釈して、      ・工夫して・工夫して、 =ゲームに変える。」 ◾おそらく到達するところは、 同じなのだろうけど、 💡初手から違う! し、  たぶん、答えまでの到達時間も違うと思います。 どっちが良いか? は、 → 「それは、あなた次第!(^^)!」 です。 🌍世界は広い🌍 ☆実に面白い!  \(^o^)/ https://coconala.com/services/2620945
0
カバー画像

第十六回 精進 ~努力~

仏教で勧められる様々の「善い行い」を、お釈迦様が私たちに分かりやすく六つにまとめてくだされたものを「六度万行」(ろくどまんぎょう(六波羅蜜))といいます。今回は「精進」です。精進とは、聴き覚えある方も多いのではないでしょうか。砕いて表現すれば「努力」ということです。私たちの日常とは努力の連続ともいえるものです。私たちは否が応でも、嫌でも精進努力なくしては生活すらしてゆけません。批難ではなく、路上で生活をなされておる方も、それ相応の精進をしなければ生きてゆけないでしょう。たとい街を離れても、山では山のサバイバル精進をせねば生きてゆけません。仏教でいう精進とは、仏教の目的とは、今現在の生きている時から、たとい肉体が滅びた後も永遠につづく、幸せの身に成ることであります。 生きている時に”その身に成る瞬間”というものがあり、それを浄土真宗では「平生業成」(へいぜいごうじょう)といいます。「平生」とは「生きているとき」「業成」とは「業事が成弁する」ということで「人間として生まれてきた目的・本懐が、生きている今実現する。」ということです。また、ここが最も大事なのですが、実現したならば「ハッキリ」するのです。何がハッキリするかと申しますと、生きている今、未来永遠の幸せの身となった暁には、肉体の死後は必ず「浄土に往生する」(極楽浄土に必ず生まれる)と、生きている今からハッキリするのです。経験していない、死後のゆく先が、がハッキリ知らされる、ということです。そのためには、是非とも続けて阿弥陀仏のお約束(本願)をお聴聞されてくださいませ。話がそれましたが、これが仏教の目的です。その目的に向かって精
0
カバー画像

神人靈媒日記 ~観音を崇めるな!~

==ついに、本当のあなたを 思い出す時期が来ました!== ~神人霊媒日記より~ 大日月神示の続編となります 本当に不思議ですが、続編からは、 今世、生まれる前に 自身の魂が約束してきたことを 思い出すタイミングがきた方しか キャッチできないメッセージとなっています この世の真(まこと)の仕組みを学び、 今こそ、本氣で生きることを謳歌したい方は、 ぜひ動画でメッセージを受け取ってくださいね☺️ 神示とは、聴き続けることによって 混沌としたこの世の生き抜き方 真(まこと)の見極め方がわかるようになり これから起こることが視えるようになってくる 大元の元の祖からの啓示です =ご縁ある御魂様へ= この動画は、できればイヤフォンなどで聞かずに、 スピーカーにしてラジオ感覚でいいので ”聴いて”みてくださいね これは、あなた自身はもちろん、 あなたの周囲にいらっしゃる守護霊様や ご先祖様、霊人様たちに、そしてあなたの御魂様にも 聴いていただきたいからです 仮に、最初はわからない神示であっても、 何度も何度も繰り返し聴いてみてくださいね 神示に氣付いた霊人様方が、 あなたを真(まこと)に導いてくださることでしょう そして、聴く度に異なる氣付きがあり 最幸の喜びに涙することとなるでしょう (^▽^) **神示をより深く理解したい方や、これからの本物の生き抜き方を学びたい方、また、最新動画を見逃したくない方は、チャンネル登録よろしくね^^ (動画の最後まで視て頂くと私のアイコンが出てきます。それをポチっと押してみてね^^) ♡弥栄弥栄♡
0
カバー画像

摩訶不思議の魔訶とは?

こんばんは!ここらぎです✨本日はちょっとしたミスをしてしまい、パソコン作業を全部やり直す羽目になってしまいました(´;ω;`)ウッ…2時間もやり直し作業ができてとってもとってもと~っても楽しかったです(⌍་д་⌌)ゲッソリ・・・さて、そんなことは置いておきまして、今回は摩訶不思議の「魔訶」についてお話したいと思います(*^▽^*)摩訶とは仏教用語で「人智の及ばないこと」を表します! ですので 摩訶不思議とは 誰にもどうしようもできないほどふっしぎ~なこと♪ という意味なのですね⸜( •⌄• )⸝ちなみに魔訶と発音が似ている「馬鹿」も元々は仏教用語の「モーハ(莫迦)」から来ています✨ダレガバカヤネン\(゜A゜)インドの言葉が日本で定着しているなんて、正に摩訶不思議ですね~(˙꒳˙ )あなたに私の記事をお読みいただけているこの事実も摩訶不思議です( *¯ ꒳¯*)有難いことです(⊙o⊙)ハッマタブッキョウデチャッタ※「ありがとう」も仏教が語源です滅多にないほど貴重なことだから身に染みて感謝する。このことを「有難い」と言います✨あなたへいつも本当にありがとうございますね(❁´◡`❁)ここらぎよりカッテクダサイネココラギヨリ
0
カバー画像

飛騨高山暮らし「安国寺」

0
カバー画像

第十四回 持戒 ~言行一致~

お釈迦様が教えられた「しあわせになるための六つの種蒔き(行為)」を、「六度万行」と申します。前回までは、その六つのうちの一つ「布施」についてお話してきました。次は「持戒」です。持戒とは、言行一致とか約束を守る、事をいいます。約束を守る大切さを示す一例として、このような話がのこっています。有名な話で、ご存じの方も多いかもしれません。それは、ある学生と女の子との約束の実話です。ある女の子が家族に頼まれ、買い物に行きました。しかし、大変なことにその帰り、大事な牛乳瓶を道に落として割ってしまったのです。そこへ通りがかった、ある貧乏学生。泣いている女の子から事情を聴くと、「わかった、今度の金曜日に同じ場所においで。私がその牛乳瓶の代金を君に渡すから。約束するよ。」それを聞いた女の子は「お兄ちゃん、本当?ありがとう!」と、泣き止み家路へと帰りました。しかし翌日、この貧乏学生にビッグニュースが入ります。あなたの研究を支援したいという、富豪からの申し出があったのです。ところが、面会したいという日時は今度の金曜日。なんと、先に約束した女の子と同じ時間でありました。学生はしばし考えました...そして、女の子との約束を守ることを決めました。せっかくの厚意を断られ、一時は激怒した富豪でしたが、後日、事の次第を知るに、ますますこの学生を支援したくなった ーーー というお話です。約束を守るということの大切さが伝わってくる逸話ですね。しかし、この学生の様に、私たちの日常で、純粋に約束を守るという事は、なかなか難しいものであります。特に利害が絡んでくるとなおさらです。「言うは易し行うは難し」わたくしも、胸に手
0
カバー画像

●心に響いた「説法」

こんにちは、尾本広美です。以前、 スピリチュアルツアーで行った時、 高尾山の中に 書いてあった言葉です。 心に響いたので、 紹介します。 数年前 比叡山に参拝した時、 そこで、 お坊さんの説法を 聞く機会がありました。 その時に、 もう十年以上経つのに、 今でも覚えている内容があります。 あの世には、 段階がある。 まず、極楽(天上界)と地獄。 死んだら、どちらかに 行くのだけど、 これは何も、 死んだらだけの話だけではない。今、生きている 私たちにも 例えられる話。 実際に、 天上界にも 段階がある。 地獄界にも、段階がある。 天上界と地獄界の間に いくつかの段階の層がある。 今、生きている 私たちの思考や行動一つで、 天国にもなるし、 地獄にもなる。 それは、 一日のうちでもそう。 仕事が辛いと思えば、 極端に例えると、 その世界は「地獄」に変わる。 仕事から解放されて、 うちに帰る時、 「天国」に変わる。 人を助けたい、 人の役に立ちたいと 行動すれば、 仏の世界に変わる。 自分のエゴを 押し付けようと 想ったら、 畜生道に落ちる。 そんな感じで、 思考や行動で、 コロコロと段階が変わる。 ということは、 どの段階にいたいのかは、 己自身で、決めれるということ! あの世は、 ぶっちゃけ、 死んでみないと 分からない。 ですが、 この世にいる時は、 己で選択することができる。 と、説法していただきました。 そんなとてもありがたい 説法の内容が、 今でも頭に残っているのでした。 なので、 私はこの地上で、 極楽浄土みないな世界を みんなと目指したい。 と
0
カバー画像

金運祈願を受ければ、お金持ちになれるのでしょうか?

「金運祈願を受ければ、お金が入ってくるのでしょうか?」このように思われる方もいらっしゃるかもしれません。最初に申し上げますと、金運祈願を受ければ、何もしなくても突然お金が入ってくる。私は、そのようなことをお伝えするつもりはありません。では、なぜ金運を祈願するのでしょうか。私が大切だと思うのは、「お金との良いご縁」を願うことです。お金は、私たちが生きていくうえで欠かすことのできないものです。食事をする。住む場所を守る。家族を支える。病院へ行く。誰かを助ける。こうしたことにも、お金は必要です。ですから、お金を求めること自体を「欲深いこと」と否定する必要はないと私は考えています。大切なのは、「何のためにお金を必要としているのか」です。自分や家族が安心して暮らすため。仕事や商売を発展させるため。大切な人を守るため。そして、いただいた豊かさを周りの人にも還元するため。そのような願いであれば、仏様の前で素直に願ってよいのではないでしょうか。純聖寺高槻布教所では、金運に関するご相談をいただいた際も、単に「お金が増えますように」と祈るだけではありません。ご依頼者様がお金にまつわる不安から少しずつ離れ、良い仕事、良い人、良い機会に恵まれ、生活がより良い方向へ向かいますようにと御宝前で祈願いたします。そして、もう一つ大切なことがあります。祈願をした後は、ご本人も一歩動くことです。仕事を頑張る。無駄な出費を見直す。人とのご縁を大切にする。いただいたものに感謝する。困っている人がいれば、自分のできる範囲で手を差し伸べる。そうした日々の行いもまた、良いご縁を育てていくのではないでしょうか。金運とは、宝く
0
カバー画像

はたして命は尊いのか?「私の命」への執着を離れたとき、平等が見えてくる

命は尊い。私たちは、幼い頃からそのように教えられてきました。命の価値は平等である。一人の命は地球よりも重い。人生は素晴らしい。生きているだけで価値がある。こうした言葉は、社会の中でとても大切に扱われています。実際に、それらの言葉が誰かを支えることもあるでしょう。深く傷ついた人にとって、命を肯定する言葉が救いになることもあります。だから、この記事は「命は粗末にしてよい」と言いたいのではありません。また、生きることに価値がないと言いたいわけでもありません。むしろ、その反対です。命というものを、感情的な美しい言葉だけで包むのではなく、もう少し冷静に、理性的に見つめてみたいのです。はたして、命は本当に尊いのでしょうか。そして、その時私たちが言っている「命」とは、いったい誰の命なのでしょうか。仏教には、「一切皆苦」という言葉があります。すべては苦である。この言葉を聞くと、暗く、悲観的な思想のように感じる方もいるかもしれません。しかし、ここでいう苦とは、単に痛い、つらい、不快だという感覚だけを指すのではありません。思い通りにならないこと。変化していくこと。失われること。期待が外れること。求めても満たされないこと。握りしめても保てないこと。そうした、生命の営みそのものに含まれる根本的な不安定さを指しています。私たちは、自分の身体さえ思い通りにできません。病気になります。老いていきます。疲れます。眠くなります。空腹になります。感情も揺れます。人間関係も思い通りになりません。大切なものも、いつかは変化していきます。命とは、常に安らぎに満ちたものではありません。むしろ、命は苦しみを条件にして動いて
0
カバー画像

幸せを求めるという不幸 未来を信じる前に、今つくっている原因を見る

人は誰しも、幸せを求めています。幸せになりたい。もっと満たされたい。安心したい。認められたい。愛されたい。理想の自分に近づきたい。今より良い人生を送りたい。このような願いは、ごく自然なものです。しかし、ここで一度、理性的に考えてみたいのです。人はなぜ、幸せを求めるのでしょうか。もし今、本当に満ち足りているなら、わざわざ幸せを求める必要はありません。今が幸せであるなら、「幸せになりたい」と強く願う必要はないはずです。つまり、「幸せを求めている」ということは、裏を返せば、今の自分や今の状況に不満があるということです。今の私は足りない。今の私は満たされていない。今の私は認められていない。今の私は本来あるべき姿ではない。今の人生は、理想からかけ離れている。そう感じているからこそ、人は未来の幸せを求めます。これは、少し厳しい言い方をすれば、今が不幸であることを、自分で証明し続けている状態です。「幸せになりたい」と願うほど、今の不足が強調されます。「もっと良い自分になりたい」と思うほど、今の自分が欠けて見えます。「いつか満たされたい」と思うほど、今の満たされなさが心に残ります。ここに、幸せを求めることの危うさがあります。仏教では、このような心の渇きを、渇愛や貪欲として見つめます。渇愛とは、乾いた喉が水を求め続けるように、心が何かを求め続けることです。もっと欲しい。足りない。満たされたい。変わりたい。認められたい。安心したい。この渇きがある限り、心は今に落ち着きません。たとえば、理想の自分を追い求めるとします。もっと堂々とした自分。もっと評価される自分。もっと人に好かれる自分。もっと余裕のあ
0
カバー画像

趙州従諗(じょうしゅうじゅうしん)禅師をご存知ですか?

趙州従諗(じょうしゅうじゅうしん)禅師(778年 - 897年)は中国唐代の僧で、中国禅宗における巨人です。「庭前の栢樹子」を例に見ても、その道に通ずる方であれば、知らない人はいないでしょう。今回はそんな趙州禅師とある二人の修行僧が残した逸話をご紹介し、「真実」とは何なのかを紐解いていきたいと思います。高齢で行脚修行に出た趙州禅師「趙州従諗」という禅僧が、かつて唐時代の中国にいました。師匠に当たる人は南泉普願(なんせんふがん)禅師という方で、こちらも非常に有名な方です。中国における仏法は彼らによって、相続されたと言っても決して過言ではありません。そのくらい力も持った方々です。そんな趙州禅師は幼くして曹州の龍興寺で出家し、7~8歳では既に悟りを得たとも言われております。また60歳を過ぎ、高齢にあっても、過酷に、あの広い中国国土を行脚修行されました。その行脚修行に出る際、七歳の子供でも私より優れた者があったならば彼に教えを請おう、また例え百歳の歳老いた老翁であっても私の方がもし優れていたら彼に教えようという。という一つの誓願を立てます。旅の途中で出会った二人の修行僧とある日、「庵主(あんしゅ)」と言って、一つの庵を構えてそこで坐禅三昧の修行をしている修行僧に出会います。趙州禅師は早速、その修行僧に向かって次のように質問します。有りや、有りや。「有りますかね?」という風に質問するんですね。つまり、「あなたは私を導いてくれる何かをお持ちでしょうか?」という風に声を掛けるのです。するとその修行僧は、その庵から出て来て、趙州禅師の目の前に「握り拳」をニョきっと出した。今で言う「ガッツポーズ
0
カバー画像

私という錯覚

「ミリンダ王の問い」として知られる問答があります。ギリシャ人の王ミリンダと、賢者ナーガセーナの対話を記したものです。ある日、ミリンダ王はナーガセーナに問いかけました。「あなたの名は何というのか」ナーガセーナは答えます。「私はナーガセーナと呼ばれています。しかし、ナーガセーナというものが、どこかに実体として存在しているわけではありません」王は驚きます。「それでは、ここで私と話しているあなたは誰なのか。衣を着て、食事をし、修行し、言葉を語っている者は誰なのか。もしナーガセーナという者が存在しないなら、善い行いをする者も、悪い行いをする者もいないことになるではないか」するとナーガセーナは、王に静かに問い返しました。「王よ、あなたは何に乗ってここへ来られましたか」王は答えます。「車に乗って来た」ナーガセーナはさらに尋ねます。「では、その車とは何ですか。車輪が車ですか。軸が車ですか。座席が車ですか。車体が車ですか」王は一つひとつ否定します。「それだけでは車とは言えない」ナーガセーナは続けます。「では、それらをすべて集めたものが車ですか。それとも、それらとは別に“車そのもの”というものがどこかにあるのですか」王は答えに詰まります。車とは、部品の一つに宿るものではありません。また、部品とは別に、独立して存在するものでもありません。車輪、軸、座席、車体など、さまざまな要素が集まり、ある働きを持ったとき、人はそれを便宜上「車」と呼んでいます。ナーガセーナは言います。「私という存在も、それと同じです。身体、感覚、記憶、意志、意識。それらが集まり、はたらいているものを、世間ではナーガセーナと呼んでい
0
カバー画像

安心して苦しめばいい

我々は何か物を判断する時は必ず自分の「物差し」で判断をします。「犬のうんちは汚い」とか「ダイヤモンドは美しい」とか。そういった自分の「物差し」というのを人間であれば必ず誰しもが持っているわけです。もちろんそのようなものがつきまとうのは、生まれ育ってからの習い性であり、ある意味仕方のないことでもあります。人間癖なのです。しかしその「物差し」というのは自分にとって都合の良いものだけを寄せ集めて作られております。つまりは自分基準。さらにそれを手に取って示すこともできない。とても厄介な存在だということです。その点「仏法」の基本は「無我にて候う」です。大自然に倣った仏教においては、大自然そのものがその教えとなり、そしてかかるその大自然には本来そんな「物差し」は存在しないからです。例えば突然に地震が起きることもそう、どんなに抗っても1秒ごとに風化をしていき老化をしていくこともそう。こうしたことに自分都合の「物差し」というものは通用しません。そこには自分の概念というものが一切介入できないのです。我々人間は育っていく過程でいつの間にかこの「物指し」だったり「自我意識」という物が形成されてしまう。そしてあたかもそれが全てだと思ってしまう。マイルールがこの世の全てだと思ってしまう。そしてそれが人間関係、社会のシステム、日々の生活。そのような時に働き、時に暴走してしまうのです。我々はいついかなる時も、必ずや自分勝手になる一面があり、あるいは生きている限り、我々は常に暴走し続けているといっても過言ではないのかもしれません。そこをこの仏教はもとより、大自然の働きが抑えてくれているのです。教えようとしてく
0
カバー画像

我々は「生きること」ができる。坊さんだけに大袈裟な話。

先日縫い物をする機会があって、「針」を使いました。その針を誤って自分の指に刺してしまったんですね。今回はその時の話です。もう思いっきり、やってしまいました。「指に刺したくらいでどうってことないではないか・・・。」この記事をお読みの、あなたはきっとそう思われるでしょう。しかしとんでもなく痛かったんです、、痛いものは痛いのです。我慢できないくらい痛いのです。この「針を刺した痛み」は誰かと比較できない「宇宙一杯の痛み」であり、我々の真実の「命」なのです。「宇宙一杯の痛み」とは何か?「絶対」とは何か?「相対」とは何か?「完璧」とは何か?「我々の命」とは何か?今回のこの記事をもって、あなたに何かしらの気づきがあれば幸いです。我々は生きることができる。我々は普段から生身の体で生きております。・手が熱湯に触れればアチッと言って手を引っ込める。・鐘の梵鐘も意図せず、自然と聞こえてくる。・目の前に展開しているものがごく当たり前に見える。そういう隠し用のない、生身の「命」を生きているわけです。これらを「生命の実物」という言葉として、一旦横に置いておきましょう。我々はこの「実物」が無かったら生きていくことができません。例えば「熱湯」に手が触れた時、熱さを感じずに大火傷をしてしまいます。また「針」だらけの壁が目の前にあったとして、それが見えなかったらぶつかってしまい、大変危険です。しかし「熱湯」が熱いと感じるのは紛れもなく「確かな事」である一方で、不思議とそこには理由というものがありません。熱いから熱い、誰が触れても熱いわけです。だからこそ、また誰もがそこでその熱い「熱湯」が手に触れると熱いと感じる事
0
カバー画像

蝉の声に見る「仏の心」

いきなりですが、我々の生きる「本来の命」には何も引っ掛かりがありません。無条件で「呼吸」をし、無条件で「消化」する。円通であり、「円」そのものであると。これを仏教の言葉で「道本円通」といいます。教義としては、「本来この方、今まで長い事変わらずに、少しも変化なく、足し増しもない。我々の生きる世界というものは常に円通である。」ということですね。かの有名な松尾芭蕉が次のような詩をうたっております。閑さや岩にしみ入る蝉の声(しずかさや いわにしみいる せみのこえ)。夏場、ミンミンミンミン「蝉」がうるさくてしょうがない。しかし、芭蕉のこの「詩」から言わせればその「蝉」のうるささは、むしろ「静かさ」だというんですね。何かしらの引っ掛かりがあれば、確かに「蝉」の鳴く声は非常にうるさく、「騒音」になってしまう。しかし本来物事というのは「円通」であり、その真実に立ち返れば、それは騒音でもなんでもないということなんですね。そのようなことは我々の単なる決めつけであり、本来の大自然としてはそうではありません。私や人間の価値観というフィルターによって、そのような「諍い」が生じてしまうということなのです。この世界に引っ掛かりは何もない。引っ掛かっているのは常に自分の思惑なのです。もちろんうるさいと感じるのも大自然の事実です。なのでそれは確かに「うるさく」もあり、でも実際は「静か」でもある。そのような姿勢が正しいということでしょうか。
0
カバー画像

仏教とスピリチュアリズムが語る四十九日

 仏教では亡くなられてから49日後に生まれ変わり先が決まると言われています。行く場所は、極楽浄土、または六道(地獄、餓鬼、畜生、修羅、人間、天)のうちのどこかです。 <49日目までの審判内容> 7日目:無益な殺傷に関する審判を受ける 14日目:盗みに関する審判を受ける。 21日目:不貞に関する審判を受ける 28日目:ウソに関する審判を受ける 35日目:閻魔大王によって、どの六道に行くか審判を受ける、 42日目:六道の中で、具体的にどの場所に生まれるか詳細が決定される。 49日目:生まれ変わる姿が決定される。  ウソを話したことも審判されますし、なんと生まれ変わる時の容姿さえ決められていたのですね。  次にスピリチュアリズムでは次のように言われています。  亡くなられてから49日間は生きてきた時の家族、親戚、友達、知り合いにお別れをする時期。実際に魂はその人たちのところに訪れてお別れをします。(敏感な人は感じると言われています)  次に魂はこの世に残って幽霊的存在になるか幽界に行くかを選択します。この世に未練がある魂はこの世に残ります。  幽界は生きてきた時の出来事を反省させられる場所です。しかし、痛みをともなうことは一切なく、それは魂の成長のためです。幽界で一定期間(最高で50年程度)過ごすと、魂は霊界に移動します。  そこで魂は、ふたたび今世に戻るか、守護霊的な存在になるかを選択します。ただし、守護霊になるには一定以上の霊格がないとなれません。  また、非常にまれですが別の惑星に生まれ変わる魂や神界に行く魂もいます。  仏教とスピリチュアリズムが語るあの世の世界、あなたはどち
0
カバー画像

ここでは「花が枯れ」、「腹が減る」。私は仏。

ここでは花は枯れ、腹が減ります。それはもう絶対です。それは大自然の働きです。大自然は絶対です。花だけでなく「私の体」もそうです。それはどうすることもできません。しかし絶対ということは、それはある意味お救いです。お救いとは「絶対に〜してくれる。」「絶対に〜を叶えてくれる」。このように捉えられがちですが、確かにこの「絶対」以上の救いはこの世界に存在しません。絶対的なものはどうあっても「救い」なのです。自分の体も含め、世の中の全ては絶対です。絶対に腹が減る。絶対に足が痛くなる。絶対に花が枯れる。しかしこれはお救いなんです。全てはお救いだったんです。お救いとは仏様のことですから全ては仏様だということですね。ここは仏様のみの世界だということです。無論私も「仏様」だということです。花は枯れると目の前からなくなります。腹が減ると死んでしまいます。足を組むと痛いです。とても悲しいことかもしれない。花が枯れるのは悲しいことです。しかしそれは紛れもなく存在しているということで、それは仏様の息がかかっているということです。仏として生きているということです。紛れもなく救われているということです。全てがそうです。ここでは花が枯れ、腹が減ります。それが事実として常に共にあります。事実は全て仏なんです。事実は全て救いなんです。どんな事情があるにせよ、その事実が常に共にあるんですね。どんな事情があるにせよ、そこでは花は枯れて、腹が減っているはずです。そしてこの世界にあるのは事実だけです。会社が倒産した。貧乏暮らし。大病をした。事情はさまざまでも必ずそこには「事実」があります。その事実においては仏のみなのです。
0
カバー画像

「雑草」という名前の草花はない。

今『雑草』に関して辞書を引くと、我々人間の望まない場所に生える植物の事とあります。ひどいものです。人間からすればその草は雑草か、雑草でないか。或いはそれは部屋に飾ることのできる綺麗な花か、そうじゃないか。せめて食べられるものか、それとも食べられないのかという比較が大切で、そこで人間たちの役に立たないものは名前すら覚えてもらえない。雑草としてしか覚えてもらえない草花がたくさんあります。しかし「雑草」という名前の草はないように、あらゆる草花にはきちんとした名前があって、そこでは真実の姿を現成しております。仮に名前などなくてもそれは真実のお姿です。役に立つ役に立たないというのは人間界だけに通用する話なのです。大自然においてはそれこそ単なる物差しで、「人間の役に立つ」が逆に全く役に立たなかったりするわけです。それでむしり取られたり、除草剤をかけられたりする。人間が食べられないものだとしても、虫たちの栄養になっていたり、小さい動物の棲家になっていたり、何かしらの役には立っているものです。また仮に役に立っていなかったとしても、毎年季節が巡ればきちんと顔をだす。咲いては枯れていく。一秒後ごとに朽ちていく。彼らは嘘偽りなく真実の姿を表していて、真実に生きております。彼らも私たちと同じこの世界の一員なのです。この仏の世界の住人です。「草花」だけではありません。我々の眼の前に展開しているあらゆる物事に対してもこれは言える事です。もちろん私たちもです。一秒ごとに老化しています。ややもすると悲しいことも、しかし実はとても尊い。それは仏の、真実の、悟りの姿だからです。この仏の世界の一員として「真実」を表
0
カバー画像

✨とある占い師の思考の沼でひと休みシリーズ✨ 🚀 「運命 vs. 引き寄せ」ちょうどいい塩梅、見つけました! 🚀

こんにちは、松河と申します。 ココナラさんで占いや人生相談のメニューを提供しております。 今日は 「ちょいポンコツ×学びオタク占い師の思考の沼でひと休み」 コーナーを 唐突に 始めます! このコーナーでは、私・松河が ぐるぐる思考の旅に出た末に掘り当てた「お役立ちネタ」 をシェアしていきます✨ 今日のお題は…→ 「運命は決まってる?それとも創れる?」です!✨ちょっとポンコツ占い師の思考の沼でひと休みシリーズ✨ 🚀 「運命 vs. 引き寄せ」ちょうどいい塩梅、見つけました! 🚀 --- 💭 「人生って、もう決まってるんかな?」 💭 「それとも、全部自分で創れるんかな?」 このところの私、ぐるぐると考え続けておりました。スピリチュアル界隈でよく聞く、この 「運命論 vs. 引き寄せ万能論」 という戦い🔥 引き寄せ大流行以降、今は「現実は全て自分が作り出したもの」という考え方が主流なのかしら。 ただ、ツインレイ、ソウルメイトという考え方は、運命論的でもありますよね。 でもね、よくよく考えるとね、ぶっちゃけどっちもしんどくない?って ずっとずっとぐるぐるしていました。 --- 📌 極端すぎると、こうなる! ① 完全なる運命論 → もう決まってるし、受け入れるしかない… ✅ 「結局何しても無駄や…」 ✅ 「私はこんな星のもとに生まれたから…(遠い目)」 ✅ 「やる気でない😇」 💀 結果 → 無気力&諦めモード --- ② 引き寄せ万能論 → すべては自分の選択! ✅ 「あなたが今の現実を創ったんです!」 ✅ 「すべては自己責任!変えたければ自分を変えろ!」 ✅ 「過去も今も未来も、ぜんぶ
0
212 件中 1 - 60