この世界には多くの人が住んでいます。
そして
誰もが幸せになりたいと願っており、
「こうすれば私は幸せになるはずだ」
と各々が信じた行動を日々とっています。
「お金があれば幸せになれる」と信じている人は、
一生懸命お金を稼ぐ人生になるかもしれません。
「良い恋愛が出来れば幸せになれる」と思っている人は、
恋愛を最優先にした人生になるかもしれません。
ここで言いたいことは、ほとんどの人が
「○○すれば幸せになれる」という条件づけを暗黙の前提にしている
ということです。
「○○すれば幸せ」
もしくは
「○○があれば幸せ」
これはごく一般的な感覚なように思えますが、
裏を返せば「○○が満たされなければ不幸せ」
と言っているのと同じことなのです。
この「人生に対して『幸福のための条件を課す』」という行為。
実はこれこそが真の幸福を妨げる原因なのです。
人生において、
この世界において、
保証されている人生などあり得ません。
10年後社会がどうなっているかも分からないですし、
もっと言えば1年後自分が生きているかどうかさえ分からない。
どこまでいっても不確かな世界なのです。
この世界の不確かさ。
仏陀はこれを
「諸行無常」や「諸法無我」といった言葉で表現しています。
すなわち
形ある全ては移り変わり、
もともとそこに在るようで無い、不確かなものだということです。
確固たる実体として存在する物など、この世界にはひとつもないのです。
そこに形を保ってたしかに存在するかのように見えているものも、
実は万物が流転してたまたま今その形を保っているだけであったりします。
たとえば
今あなたの目の前にペットボトルに入ったミネラルウォーターがあるとします。
あなたがそれを飲んだとき、
飲んでペットボトルから消えた水は、どこに行ったのでしょうか?
あなたの胃の中ですか?
では
それはあなたの胃の中にあるミネラルウォーターでしょうか?
それともそれはもうあなたなのでしょうか?
このように、とってもあやふやで不確かな世界なのです。
ただ見えるようになる形が移ろうだけの世界であり、
真実を言えば
確固たる実体として在る「何か」というものはひとつも存在しないわけです。
形あるもので確かなものは、何もないのです。
これが仏陀の見抜いた真理でした。
さらに仏陀は続けてこう言います。
「苦しみの原因は執着である」と。
つまり先ほどの
「○○さえあれば私は幸せだ」の、「○○」
それが執着の対象です。
幸せの条件付けを自ら設定してしまったのです。
世界の本質は不確かですから、当然自ら設定した幸福の条件も、移り変わってしまいます。
すると人は嘆くのです。
「こんなはずじゃなかった!」と。
どんなはずではなかったのでしょう?
それは実は
あなたがあなたの幸福を認めるために
自らが幸福であることを自分自身に許可するために
あなたが勝手に設定した、恣意的な条件付けに過ぎなかったのです。
そうではなく、いま幸せなのです。
幸せに条件はありません。
強いて言えば
あなたが自分で自分を幸せと許可することが、唯一の幸せの条件と言えます。
あなたが認めれば、今、この場で幸せなのです。
それを認めましょう。
仏陀が言いたかったのはそのようなことだと、私は思っています。