「全ては仏様からの預かり物!💜」🎾🚴‍♀️⚔️🏓⛳🏊😎😍

記事
コラム
💎これ仏教の基本原理です。
例えば生きている私たち人間も仏様から命というものを預かって
存在しているのです。

少子化傾向が加速する今は、「子供を産む生まないは親の権利」の如く
思われているようですがとんでもない話です。
家父長制が色濃く残り、親の権利が今とは比較にならないほど
大きかった昔ですら、子供は仏様からの授かりものという考え方がありました。これがまっとうな考えなんですね。
現代の若い母親のメンタリティーは手強いものです。
「授かったってことは、生まれてきたらもう私のものってことでしょう。」
と詰め寄ってくる女性が少なくないのです。
この「所有権」の主張にはいささか閉口せざるをえません。
ゆえに、「お預かりしている」というようにしたわけです。
子供は、仏様からの預かり物ですからそのままに育てればいいのです。
例えば、目に障害があって生まれてきた子供は、ほとけさまが
その姿で預けられたのですから、目が見えるようにしなければなどと
考える必要はないという事です。
目がみえないまま幸せにしてあげることを仏様は望まれているという事です。
生まれてきた子供が短い命で終わってしまうということもあるでしょう。
それも仏様がそのように預けられたんですね。
「この世にいるのは三日間頼むね幸せにしてあげてね!」というご意思で
預けられたと受け止めればいいのです。
決して長生きをさせてくれとおっしゃっているわけではないのです。
命を長らえさせるために体を切り刻む臓器移植など愚かな考え方だと
思うんですね。

子供が学校に行くようになると親は勉強をさせることに躍起になります。
「本当に勉強嫌いなんだから、しょうがない子ね。そんな事じゃ自分が困るのよ、もっと勉強しなさい。」
手を変え品を変え勉強を強いる。
それが親の務めと考えているのでしょう。
しかし、仏様は親にそんな事を頼んではいません。
勉強嫌いな子を預けたのだから勉強嫌いなまま幸せにしてあげるようにというのが「預け親」に望まれていることなのです。
”自分のものだと思うから、あれこれいじりまわしたくなるのです。”
ペットを隣家からあずかったものなら、妙な躾(しつけ)などしようとしないはずです。
子供は、、仏様の預かり物なので我が意のままにしようなどと
もっての他なんですね。
中には、預かってしんどいという親がいることもあるでしょう。
しんどいと思えば捨てればいいと思いませんか。誤解されないように!
昔は貧困で子供を養えなくなった親が、お寺の前に捨て子をするという事が
少なからずありました。お寺はその子供を育ててきたのです。
ヨーロッパでも教会の前に捨て子をするということが多かったのです。
子供は預かり物なので、みんなで育てようという思想が根ずくことが
条件になるのでしょうが、自由に捨て子にできる世の中がいいと
思っています。
育てるのが面倒、子供が親の思い通りにならないからといった理由で
「子殺し」をする世の中よりはずっといいはずです。

もちろん、親の手を離れた自分もまた仏様から預かっているわけです。
その命は、歳もとれば、病気にもなります。
だったらそのままに預かることがベストな事なのです。
「老後、病気で寝たきりになったらどうしよう」
「衰えていくのは嫌だ。いつまでも若くいたい」
こういうことは、下手の考え(へたのかんがえ)でしかない、休むに似たりです。
病んだわが身、老いさらばえたわが身をきちんとお預かりすればいいのです。
幸せとはそういうものなのです。
ただし、一つだけ条件があります。それは、
預かった命だから自分には一切の責任がないかというとそうではないのです。
・タバコを吸って体を痛めつけ、命を削る。
・麻薬によって心身ともにボロボロにする。
・大酒を食らって自堕落になるといった行為。
は仏様に対する裏切り行為です。
預かった命には、責任を持たねばなりません。
「どうせ、俺の命どう扱おうと勝手じゃないか」などという開き直りは
間違っているのです。
「そうはいっても、寝たきりになったら息子も娘も面倒を見てくれそうもないし」
介護問題は老後、もっともな深刻な問題かもしれません。
故に、子供世代に言いたいことがあります。それは、
「自分の親は、仏様から預かっていると思ってほしい!」と.....!
たとえ”寝たきり”であっても、
”認知症”になっていても、
あるいは、”どうしようもない親”であってもです。
「預かっているという思い」があれば、
”経済力や環境”による違いはあるにしても、
親と子のかかわりはまっとうなものになるはずなんですね。

同時に”配偶者”もお互いに、相手は仏様からの預かり物という意識を持つべきと
思います。
老いたぐうたら亭主も、気の利かない女房も預かっている限り
ほどほどに責任をもって付き合っていくしかないという事です。
そうこうしているうちにどちらかの命を仏様にお返しする時が
やってくるのです。

命を預かっているのと同じように、
”生きる糧(かて)”も仏様から預かっていると思っています。
一人一人に生きる糧をお預けになった。
しかし、現実は違います。
資源の分捕り合いは、後を絶たないし
「これは俺のものだ」という
国家エゴ、企業エゴは大手を振ってのさばっています。
現実は、
泥棒国家を許し、詐取をほしいままにする企業を放置しているんですね。
しかし、仏様が生まれながらに等しく預けたはずの糧を誰かが横取りする世界がそう長く続くことはありません。
間違った世界の命脈を少しでも早く絶つには、声を上げることです。
「私には、仏様から与えられた生きる糧があるはずだ。
それをかすめ取ることは許さない!」
もっともっとそう主張しましょう!!



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