「老いを自然に迎えるちょっとした習慣!💜」🎾🚴‍♀️⚔️🏓🤿🏸⛳

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コラム
💎「働かざる者食うべからず」という言葉があります。
働くことの大切さ、もっと言えば人間は、働く義務を背負っているのだという事を示す言葉だと思われている節があるのですが、本当の意味はちょっと違います。
イエス・キリストの没後、教徒たちはすぐにもイエスの再臨があると信じていました。再臨すれば最後の審判が行われ世界の終末が訪れるのだから
何もその間あくせく働く必要などないじゃないかという思想がはびっこたのです。聖パウロは、それに対して、「そういう考えで働かないというのなら、食わなくたっていいでしょ」というくらいの意味合いでこの言葉を語ったんですね!つまり、働かないことを強く戒めたものではないわけです。
日本の歴史をさかのぼっても、働かないものは、食っちゃいけないなどという考え方はありません。
遠く縄文時代を見ると、当時は、採取経済でした。
自然の恵みである木の実を拾い集めたり、狩猟をして暮らしを立てていたわけです。その縄文人は、集めた木の実や狩猟で得た獲物を”平等”に分けていたといいます。
狩猟に出かける時は、リーダーがいて、みんなはその人に従うということはあったようですが、獲得したものについてはリーダーも狩りに参加した者も
狩りにいかない老人や病人にも同じように分け合ったのです。
これは歴史家が考証しています。
働かざるもの食うべからずという思想は全く存在しなかったのです。
仕事に関する意識ということで言えば、「生きるために働くという事はやむを得ないし、働いて得たものはみんなのものだ。
自分はみんなの代わりに嫌々ながら働いているんだ」ということになるでしょうか。
このような「稼いだものは、みんな(家族)のもの」という考えは、
ひと昔まで残っていました。
一家の生活を賄うために働く父親は、給料日になるともらってきた給料をまず
仏壇に供えたものです。
それが意味するところは、所有権の放棄です。
仏壇に供えることで給料は父親のものではなく、仏様のものになるのです。
家族の生活は、仏様から頂いた給料で成り立っていくわけです。

ここでひとつ考えていただきたいのですが.....!
兄がどこからか小さなケーキを一つお土産にもらってきました。
家には弟がいるわけですが、さて、このケーキをどうするべきか?
選択肢は三つです。
A.兄弟が半分ずつ分けて食べる。
B.兄が食べて弟にはやらない。
C.兄弟二人とも食べない。
たいがいの人は、Aが正しいと考えると思います。
しかし、これが一番いけないことなのです。
何故でしょうか?
自分がもらったケーキを弟に分け与える兄に”優越感が生まれる”からです。
「俺がお前に半部やるんだぞ!」という意識ですね!
小生意気な兄なら「おい、ケーキほしいか。ほしけりゃ三ベン回ってワンしてみろ」と来るかもしれません。

Bは、ユダヤ教の考え方です。
砂漠に生きるユダヤの民にとって水は、文字通り命綱です。
砂漠を行くときに一人は水を用意してきたのに、もう一人は用意してこなかったというケースで、水を持っている人はもっていない人に一滴たりとも分け与えてはならないとユダヤ教では教えます。
水を分け合って飲めば、その瞬間は二人の渇きが癒されるかもしれないが
水を調達できるオアシスに行く前に二人とも死んでしまうかもしれないと
考えるからです。
その背景には、携えてきた水は神からその人に与えられたものであり、
与えられなかった人がそれをとってはいけないという律法があるわけです。
このユダヤ教に従えば、兄はケーキをひとかけらも弟にはやらず
自分一人で食べることが正しいことになるのです。

では、Cはどうでしょうか?
実は、Cが仏教の考え方なのです。
これには、紀元前二世紀ころのギリシャの哲学者カルネアデスが提起した
「カルネアデスの船板」という問いが関わっています。
乗っていた船が難破して、海に投げ出された船客の一人が
船板に捕まってかろうじて浮き、救助を待っています。
そこへもう一人の船客が泳いできます。
船板は、二人が捕まれば沈んでしまいます。
この場合、最初から船板に捕まっている人は、
泳いできた人を見殺しにしていいのか、あるいは、
泳いできた人が船板を奪い、捕まっている人を死に至らしめていいのか
「さてどっち?」というのがカルネアデスが投げかけた問題なのです。

仏教では、「布施」という考え方で問題に答えています。
船板につかまっている人は、泳いできた人に
「この船板は二人がつかまると浮いていられないんです。
ですから、どうぞあなたが助かって下さい。私は死にます。」
といって船板を差し出す。
一方泳いできた人は、
「いえ、その船板は縁あってあなたがつかまっているんです。
助かるのはあなたです。私は死にますから、どうぞつかまったままで」
と、差し出された船板につかまろうとはしないのです。
結局二人は死んで海面には船板だけがポカリと浮いている。
これが仏教の布施という事なのです。

ケーキに話を戻すと
二人とも食べないのが布施という事なのです。
ただし、腐るに任せるという事ではないのです。
つまり、ケーキを仏壇に供えればいいのです。
仏様にお供え(おそなえ)すれば、兄の所有権は放棄されて
ケーキはもう仏様から頂いたものになるという事なのです。
この感覚がポイントなのです。
仏様は、兄弟が二人いれば、半部ずつ下さるから
二人で分け合って食べればいいのです。
結果的にはAと同じですが、
兄に”所有権”があるなしの違いは決定的に大きいものなのです。

何もかもが仏様から頂いたのだと考えられるようになると
・あくせく稼ごうとか、
・会社に忠誠心を示して出世しようとか言う、さもしい気持ちはなくなります。働くという事では、ここが一番肝要なところなのです。
「家族が生きるための糧は、仏様から頂いている。
たまたま籍を置いてはいるがこんな会社なんかなんぼのもんでもない」と
会社をハナから馬鹿にすることができるのです。
この境地になるのは若ければ若い程いいのです。

定年まで滅私奉公で勤め上げた人の老後は、悲惨の一語に尽きます。
その時点でようやく、拠って立っていたもの(会社)が何ら実体のないもの
だったことに気づかされ、
抜け殻だかぬれ落ち葉だかになるほかなすすべなしなのです。
仕事が生きがい、会社が命だと家族をないがしろしてきたツケで
家族にもそっぽを向かれ、不幸を嘆くだけの老後を送ることになるのです。
何かしようと思ってもそれができないのです。
一方、若いころから、
会社を馬鹿にしてきた人は、老後にも自然に入っていけます。
会社から、解放された爽快感に心が満たされ、
しっかり築かれた家族の絆に幸せを感じながら過ごす
充実の老後がそこにあるのです。




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