正しさ

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昨日、並木氏のチャリティーワークに参加して、被災地にエネルギー的手助けを送るようなことなどをやりました。

 並木氏、被災地であんな辛い目に遭っている人がいるのだから、自分の楽しみを諦めようとか、質素にしようとか、自分を抑えるような方向へ向けてはならないというようなことを説明されていて、あくまでどんな大変なことがあったとしても、自分の中心軸に自分を置くということが大事だということを強調されていたように思います。

 相手と一緒に自分も悲しみに暮れたり、不安になったりすることにはなんの助けにもならないし、意味もないっていうことを言われていたと思うんですけども、自分はそれって、すごく東京的な人の考えだなぁって思ったんですよ。

京都の洛中の人は、辛い人がいた時、一緒に共感して相手の心を受け止めようとします。ものすごく聞き上手です。感情を込めて、自分も相手と一緒の気持ちになります。けど、それが意味のないことだとは自分には思えないんですよね。なぜなら、「ああ、私の気持ちが伝わった」と思った瞬間、その辛い人はホッとすると思うんですよね。
 自分しか見えていないと思っていた世界が、他の人にも共有してもらえたことで、やっと孤独の意識から抜けることができるからです。
 もちろんいろんな状況でいろんなことを求めている人がいるので一概には言えないかもしれないけども、そういう場合、自分の辛い状況をお話しする方というのは、別に誰かの同情を引きたくて、辛いです、ってお話ししている訳ではないと思うんですよ。自分がどう受け止めていいかわからない、自分しか見えない意識世界の中で、不安と孤独を感じて、無意識に何か感情的なエネルギー的な軸足を立てたくて手探りになっている状態だと、私は思うんです。

 もちろん、実学算命学では、うつ病の人はプロファイリングしませんけど、結局、うつの人にしても同じだと思うんですよね。自分から見えている意識世界の中で孤独を感じている。だから現実にも孤立してしまう。

 人は魂となって肉体に入った時点で、統合の状態から個別な存在へ分離するんですけども、その時というのは、宇宙の源では一体感があったのに、肉体に宿った途端、分離して、個となるわけなので、心もとない気持ちになるんです。この個の感覚も実は、この物質世界がみせてくる単なる幻想なんですけど、この仕組みによって、人は一人で生きていると感じられ、説明できない寂しさを何かで埋めたいと考えるようになります。だから、人は人を求めるようになる訳です。

 家族の愛が欲しいと思い、仲間に囲まれ熱い友情を感じたいと思い、人生の伴侶と一体感を味わいたいと願う。
釈迦は、人間の苦しみの究極の原因は、すべて一つで、人間の苦しみは愛が得られないと感じられる幻想からの苦しみなんだと言っていたそうです。

 並木氏は、いつも相手の低い波動と共振することをお勧めしませんけども、私はその辺りは、彼とは違う意見を持っていて、こう思うんですよね。相手と共振する、つまり共感するというのは、人間の奥底でつながりを思い出させる大事な人としての精神活動なんじゃないかって。
 相手と共振して、つながれたら、その後、タイミング見ながら、一緒に波動を上げていこうとして、意識を自分と一緒にあげていく手がかりを提供するようなこともできるじゃないですか。

相手と共振して、自分も落ちてそのまんま上がれなかったら、そもそも自分の波動は低かったんですよ。高いと思ってたのが幻想だったんです。
 だから一旦あげた波動を引き下げて、相手と共振し、そこから上げていくように自分も意識を上げていく、っていうことを仕事としてやってるのが、心理学カウンセラーさんなんじゃないかな、って思うんですよね。

 友人同士でもそうですけど、「ああ、そうだね、それは大変だったね」と共振して、同じ世界を見ながら、徐々に心の整理がついて、明るい面を受け取れるタイミングを意識しながら、相手の視点を引き上げていくことだってできるとおもう。
 そういう友人は、無意識にカウンセラーさんの役割をしてくれているとしても、相談者は気がつかないので、ただ、「なんだかこの人と話してホッとしたわ」とか、「元気が出てきたわ!」って、なっていくものだと思うし、日本人というのは、そうやって波動がへこんでも、何かあったらお互い様で、意識を引き上げていくような話の聞き方をしていたように思う。
 ご近所の井戸端会議みたいなただのお話に見えて、お互いを癒す話し方というのが自然にできていたように思う。

 少なくとも、京都の人の仲間内での話の聞き方は、相手への共感度が非常に高い受け答えをする。でもこれは、自分一人がオリジナルで開発したのではなくて、京都に住まう人たちが自分の親や祖父母の姿、街の人とのコミュニケーションの中で、気が濁らないようにと自然と身につけてきた、感情を受け止める型みたいなものとして受け継がれているコミュニケーション方法なんだよね。これは、大阪にもあると思う。

 こういうのが、東京には本当に「ない。」まず、東京の人というのは、基本的に相槌は打つものの、相手の気持ちに寄り添った共感を示したコミュニケーションはあんまり取らないです。そもそも、相手の思いを受け止めるというようなことを意識して、コミュニケーションを図ってないからです。
 単に、情報のやり取りとしてのコミュニケーションだけが意識されるので、東京の人というのは、どっちかというと、アメリカ人寄りなんですよね。
 その世界から、西日本のコミュニケーションにくると、心がホッとする。こっちの方が圧倒的に人間関係生きやすいと感じられる。

 だから、今回の震災のように、(もちろん自分で引き上がる気がない人たちを相手にする必要は全くないけど)元々引き上がる力があるけど、今、現実が受け止めづらい状況の中で、その力が発揮できないだけの人たちのために、周りの人が共感、共有することって、並木さんがいうような、なんの意味もないこと?いや、ちゃうよね。って自分は、ちょっと疑問に思ったんだよね。

 なんでかというと、相手に関心を向けて、一緒に乗り越えていこうという共感を持つことは、少なくとも辛いところにいる人の心を孤独にさせない力になるんじゃないのかなって思うからなんだよね。

だから、そこで被災者に遠慮して、自身の楽しみを抑える必要はない、とか語られていることには正直、違和感があって、被災していない人たちが、被災者も自分の意識の反映として登場しているのだから共にいます、という共感を示すことは大事なことだと思うんだよね。

 何も感じないのもありですって、彼がいってたのも、それって本当に統合からのものなんですか?って疑問を持った。まぁその人の勝手ではあるけど、それって、むしろ、心の中の自分の見たくないものから、分離しているともいえると思う。

 すべてが自分の意識世界と思ったら、辛い状況に置かれている人たちだって、全部自分の心の映し出しで登場している人たちなのだから、その人たちを通して、自分自身も自分の深いところに眠る辛さに気が付く恩恵を受けさせてもらっているわけで。自分ができれば見たくないものも含めて、最終的にはニュートラルな立ち位置から、否定も肯定もせず、それを自分の意識世界の中に取り込んでいける自分になることが、並木さんの言ってる統合の意味なんじゃないですかね、と私は思う。

 だから、政治家や社会的に知名度のある人たちが、災害で国中が大変な時に旅行を楽しんでいたりするのを見ると、多くの人が違和感を覚えるのだと思うんだよね。
 辛い局面にいる人がつながりを感じられた時、孤独から抜けられた時、やっぱり人は、立ち上がる勇気も生まれる。自分を大事に思っている人たちを悲しみに暮れる自分を見て悲しい気分にしたくないから、自分も余力ができたら乗り越えていこうという建設的な気持ちになる。
 愛も映し出しだと思う。

思いやりが生み出す光ってそういうものを言うんじゃないかな、って思う。
並木さんのいう、「辛い人がいるんだから、今、海外旅行をやめておこうとか諦めるって言うのは違う」っていう、違うの内訳は、それがそう言うことをしたら人に責められるかもしれないと言う自己保身からなのかどうか、ってところがキモだと自分的には思う。

 世の中には震災があっても、今、結婚してハッピーな人もいる。出産して新たな命の誕生に心躍る幸せもある。そう言う人たちが震災によって、もし押さえ込むように見えるとしたら、「震災の人たちに悪い、と楽しみを諦めてる姿」と評価するのではなくって、「震災の人たちを片隅に置きながら、自分の人生もしっかり生きる姿」だと、自分的には解釈するんだけどなぁって個人的には、少しの違和感を覚えたんだよね。

 被災した人はもちろん、自分が不幸なんだから周りが幸せでいるのは許せないみたいな感情は持たないと思う。でも無関心にはなってほしくない、っていう気持ちはあると思う。
 だから、日常生活はいつも通り送っているけれど、決して被災地に無関心ではない、と言うことを表現するところに愛があると思うし、そこは並木理論で波動が落ちるとか落ちないとかそう言う理屈を適用するのは相応しくなく、ただ目の前の大変な人へ関心をむけ、その立場に共感を示すことの大事さがあると思うんだよね。

 中でも、現実を動かす禄存星や車騎星さんにとっては、大変な状況にいる人のために具体的な行動で状況を変えていけないことは「思いだけではなんの意味もないだろう!」と葛藤のもとになることもあるけど、どんな星の人からしても、それは命に対する基本的な礼の心みたいなものだと思うんだよ、私は。

 京都で都道府県対抗のマラソンがあったときに、京都の人たちは沿道に出て集まってたのね。マラソンに関心のない人も含めて。
なんでなのかって言ったらね、「石川の選手を応援しようと思って、家から出てきたんだ。石川がくるまで帰らない。」って、口々に言ってるのが聞こえたんだよ?

 実際、京都、めっちゃ寒いんだよ?
 でもお年寄りも働き盛りもマラソン観戦のためだけでなく、今大変な状況にある石川県にパワーを送りたいって、そう思って震えながらみんな沿道でずっと立っていたことがわかった時、私は、この人たち、ほんまもんの日本人やな、って思った。京都の人たちって本当に優しいなぁって思ったんだよね。

 相手の辛さに寄り添うことって、波動を落とすことですか?
って、自分は疑問に思うの。同じ意識世界を一緒に共有することで、あなたは一人ではない、って、少なくとも相手に伝えることができる。役に立つことが何もできないかもしれないけど、でも、ただ一つ、孤独じゃないよって伝えることができる。

 日本人は古くから、そう言うコミュニケーション表現を大事にしてきたよね、って、洛中の人たちの姿を見て、自分はそう思ったんだよね。
大乗仏教・密教の世界は、利他を追求する世界なんだよ。
 相手と自分は、一体・一つの意識世界だから、決して助けている自分が相手を救っている訳じゃない、助ける側は自分の内面世界で、自分の辛い一部と関わってるのと同じこと。その辛い人の心が救われることによって自分も癒されていくことになるので、助けを受け取ってもらう機会を与えてくれてありがとうございます、と言うのが、古くからの本当の仏道の心なんだ、と経典にはある、とその教授は言っていた。

 日本は、戸籍を寺に置いてたので、全国各地に寺があったし、聖徳太子以来、仏教によって国づくりされた面があるので、意識しようとしまいと、日本人の精神の根底には、大乗仏教の精神がある。
 これは、共感であり、世界との融合であり、自分も他人も愛し、たとえ家畜であっても、見た目が違う異質なものと思っても、それすら自分の一部の表れとして、一つになっていこうという精神世界なんだよね。

 京都は、この仏教の影響が最も強い街なので、京都人にとっては当たり前の生活行動の中にこの精神を見てとった時、私は、元々の日本人がスピリチュアルな人たちだ、と言われる理由を目の当たりにしたわけよ。
 (洛中に住んでいる京都人は、古くからの京都人の暮らしを守っている原理日本人的な人が多いけど、同じ京都市でも他の区はもしかしたら違うかもしれないのを前もって断っておく。)

 もしかしたら、おぜんざいを売って京都の街の人たちが集めた義援金は少額で大した助けにならなかったとしても、だよ、実際、その姿を見た自分はものすごく大きな光を受け取った。
 石川の選手を寒空の下、そこにいた全員が待っていたことを知った時には、石川の選手は知らなかったとしても、私が高い波動と志をいただいた。
 こうやって、世界は共感によって、本来の性である神性を発揮して、波動を高めて良くなっていくのではないだろうか。

 並木ワークショップで、並木先生、と呼ばれているのを聞くと、実は違和感があって、エルアウラのトリニティのイベントに、基本的になぜ自分が参加しないかと言うと、そこに参加する人たちが、まるで予備校に通う人たちに見えるからなんだよね。

そもそも、この世界は、いろんなものが雑多にある。逆に言えば、この世界にはなんでもある。
 実学算命学のプロファイリングをしていて思うのは、世界には非常に多様な人生を送っている人がいる、そして、多様な体験をした人たちがいるし、業界一つ変われば、世界も変わる。そう言う、カオスの世界の中で、正しさなんて、その人にとっての正しさしかない、と言うことなんだよね。
 自分の仕事は、自分の正しさやモラルを伝えることではなくて、その人の宿命を見て、その人にとっての正しさは何かを探ることなので、宿命が変わればいうことも変わる。ある人には、不倫してもいい、っていうけど、ある人には不倫はやめといたほうがいいって言う。それって正解が、宿命ごとに違うからなんだよね。いうことが色々変わるって思われるのは嫌なんだけど、実際、その人にとって必要なことも、人生のテーマも違うんだから、しょうがないよ。

 そしてね、並木良和の言うことは、はっきり言って仏道に非常に近い世界なんだよね。というのも、仏教的世界の論理性をスピリチュアルで展開しながら、そこに多種多様な宗教の登場人物や天使、神たちが混在するのも、まさに大乗仏教の姿そのものなんだよね。

 例えば、帝釈天とか、梵天とか天がつく神は、実は元々みんなヒンズー教や、インドの土着の神たちだって聞いたことある?
 そうやって、異質な神々を取り入れていくからこそ、仏教は三大宗教の一つとして、多地域に広がり、生き残った。
 並木氏が、いろんな神や天使を織り交ぜて、スピリチュアルを展開するのも、まさに仏教の在り方そのもので、(実際、霊能者からするとそれが世界そのものなのかもしれないんだけど、)そう言う形態を取りながら多様な精神世界の真理を求める人をかき入れて、人類に有用なことを伝える役割を果たしていこうと言う志を持っているのが、並木良和氏だと自分は捉えているわけなんだよね。

 だから、これは、並木良和視点から見た、正しさ、でしかない。
エルアウラのセミナーに毎回参加している人というのは、それが全ての正解であるかのように、並木氏の言うことを聞き、全てのセミナーに参加しようとする。並木先生の言ったこと=正解ではないのに。
これって、塾通いの子供とどこが違うのかな、って自分は思うんだよね。
 並木セミナーに通っている人というのは、基本的に教育システムの中で優等生をやってきた人が多いのかな、とふと思えてしまったりする。
 並木さんはそう思ってるんだ、じゃあ自分はどう思ってるのかなって思えれば、正解はどうなんですかって、いちいち並木さんに質問しなくても答えは自明じゃないかとも思う。思ってる通り、進んでいけばいい。

 先日、仏教の教授がすごく強調して言ったことがある。
仏教には、釈迦が説いた八正道というのがあって、それが授業のテーマになった時の話なんだけど、

八正道は、仏教において涅槃に至るための8つの実践徳目で、正見、正思惟、正語、正業、正命、正精進、正念、正定のこと。
 もっと説明すれば、①正見(正しい見解) ②正思惟(正しい決意) ③正語(正しい言葉) ④正業(正しい行為) ⑤正命 (正しい生活) ⑥正精進(正しい努力) ⑦正念(正しい思念) ⑧正定(正しい瞑想)のこと。

要するに、こういうふうに生きられれば涅槃に入れる、って釈迦が言ったってことなんだけど、その時、教授が投げかけた問いがある。

ここでいう、正しさって何よ。
なんだと思ってる?

って、みんなに問い詰めたんだわ。
 「仏教における正しさっていうのは、一つの解答があるわけじゃない。人によっても、状況によっても、正しさはいくらでも変わるの。
 そして、正しさというのは、その時々のものであって、時間が経ったらまた変わったりもする。
釈迦は、そうした領域をも含めた上で、自分の目の曇りを取り払い、弟子たちに正しいことを行いなさい、って言ったのよ。
 だから、正しさとは相手の痛みを想像すること、そして置かれた相手の立場を考える中で、または正解を見つけていこうとする努力の中でしか正解は実行できないでしょう。究極にはその人に自分が成り代わるかのように、できるだけ相手に近づけて、物事見つめて、見つけていく中でしか、八正道は全うできないのよ。」

それを聞いて、私は要するに、相手への共感と想像力は、正解にアプローチするための究極の知恵なんだなって思ったんだよね。

 並木氏は、最近、これは自分の思ってる僕の中での正解ですけど、ってちゃんと前置きをするようになっているんだけど、そこに連なっている人たちは、並木先生って呼んでる限りは、それが唯一の正解だと思って付き合ってはいないかどうかな?って思うし、外側から観察してると、その姿は塾通いをして、先生に一個しかない正解を問う学生さんたちと同じに見えるんだよね。

正しさっていうのは、自分の中にしかない。
多種多様のカオスのこの世界の中で、実際には正解など存在しないものなのかもしれないよ?
これだって、単にJemmyの見解でしかない。そして今の現時点の思いなので、また時間が経ったら移り変わるかもしれない。

正解のない世界で生きることに、我々は慣れてないから、今の現代日本人として、社会の中でギクシャクして生きていくしかないけど、本来の日本人に戻った時、もっと思考が自由な世界が待っているんじゃないかって、ふと思ったんだよ。

 むしろ、これからの日本人は正解を探すのをやめて、もっとアート思考で生きてもいいんじゃないか?
 正解を探すから、世の中揉めてるんじゃないか?

いろんな見方をそのまんま、へぇ、そういう考えもあるんだ、面白いね!
って楽しみ、自分にとってのその時の正解を刹那刹那で開発して過ごすのも、それはそれでいいんじゃないかい?
って、不思議と思えてきたんだよね。

 震災が起こってから、なんとなく無意識下で、みんなが無理をしているような気がする。それは悪い反応ではなくて、むしろ、重たくて固い地面から、芽を出そうとして、持ち上げようとするような、そんな感じ。
 もうこれ以上は、十分だ!
って人々が、システムや社会常識を変えていこうとするような水面下のエネルギーをなんとなく感じているのは、自分だけかな。

いや、自分自身も葛藤は多いけど、でもその分、すごく変わろうとしている自分を感じる。こんな小さい枠組みの中に押し込まれている自分が、圧を感じている感じ。
そしてその変化は、自分だけでもなく、
 車騎星ピカチュウが夕飯の時、「今日ね〜朝ごはんも昼ごはんもお金なくて、食べてないんですっていう大学生さんに会ったんだよね。俺、働いてるから心配すんなよ、俺、飯奢るよ!って思って、念の為、財布開けたら今日に限って金、入ってなくてさ、でも何もしないではいられねぇし。別日に設定して、昼飯奢ることにしたんだ。」
と、神妙な顔をして話していた。

 京都の大学生も苦しくて、近年はバイトをしてもお金が足りなくて、ご飯を食べないで凌いでいる状況が発生していて、これはどう考えても物価高のせいなんだけど、こんなことって...ってバブル期を知ってる自分からすると絶句する。大学生なんて、食べたい盛りじゃん。

そして、ピカチュウは言ったんだよね。
「ご飯が食べられなくて色々な窮状を抱えている大学生とあったのも、彼はおそらく、俺の意識世界の一部の反映なんだと思うんだよね。だから、無関係ではないと、俺は思ったんだ。だから、彼はもう一人の俺だと思って、奢ることにしたんだ。」




自分は、それを聞いて、あ〜ピカチュウも、マトリックスの中で、世界の真実を悟ってんだなぁ〜と思ったんだよね。
 自分達が直面する世界に共感できないとしたら、それは自分の心の中がバラバラに分離したままなんだよ。
 並木氏とは意見は違うけど、自分はそう思ってる。
 共感して、想像力によって、一緒にバラバラの世界と自然に統合していく。

これが日本人が昔からやってきた生き方なんじゃないかって思う。
まだ答えは、出ていないけど、波動が高いから、不幸には出会わないという、ポジティブ一辺倒のスピリチュアリストに自分が違和感を感じるのはそういう部分だということは、なんとなくわかったんだよね。

今後も地震は各地で起き続けるみたいだけど、その度に、揺れて、目覚める、を日本人が繰り返し、最終的にパッと目を開く時がくるのかもしれない。

これは、自分の思った意見なので、唯一の正解ではないですけども!w
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