英検三級を受けた話

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今日は、京都は雪です。
山から風に乗ってちらつく雪の日は先月から何度かあったのですが、本格的に積もるような雪というのは、今日が今年初めてで、窓から見える山々の白い稜線が新鮮です。
京都は古い物件が多いので、隙間風が多くて、非常に冷え込みます。
 町屋だったら、本当に寒さやばいんじゃないか、憧れだけにとどめておいてよかった、って思います。
 京都の建物が現代建築ばかりでいうほど街は風情がないじゃないか、と他県民に言われるけども、実際京都に住めば、わかる。寒いんじゃ!!!w


 自分、雨は苦手なんですが、静かで寒い雪の日は別で、なぜだかウキウキしてくるんですよね。
ウールの敷物を背中に引いて寝たら、底冷えも治まってよく眠れましたよ。
そして、やっぱり羊は最高だ!と思いながら、毛先をブラシでとかして浮かれている自分に気がつき、自分はやっぱり西方の遊牧民なんだな、と自覚した次第なんです。そして、自分にとっては、つまり、算命学の本当の裏舞台は、遊牧民社会なのだということの再確認です。
昨年7月に、実際にモンゴルに行った時も、そのことを強く確信しました。
 日本算命学の説明によると算命学が伝えられていたという清王朝は、もともと、遊牧系の民族の王朝ですからね。

 来週、大学最後の試験ですが、自分の過去生を実際の歴史で辿っていくプロセスは、日本の常識だけでは言語化できない自分の中では当たり前の考え方を、どうやって今の日本の人たちに説明したらいいのか、というヒントをもらえる点でホッとするし、無限に楽しいです。

 自分が教授に話したことがいちいち「あ、それ経典に書いてあるよ」と教授に言われたりすることも、自分が過去、どんな人であったのかを確認させられます。
 当時の遊牧社会が、アカデミックな世界の研究でも、何よりも迷信や形式上の儀礼ではなく、「実学」の方を常に重視していたことも知って、実学算命学という名称も(そもそも自分のスピリチュアル・ガイドにいただいた名称なんですが)なるほどね、と自分でも思いました。

 そんな自分ですが、集中力の調整が自分でできない、という問題があります。これまで英語の勉強自体は細々と続けてきたものの、学習障害が心理的な壁になって、一度も英検を受けたことがありませんでした。
 英語そのものがというよりも、そもそも試験に長い時間、集中できないんですよね。普通の人の何倍も勉強していて、もう何を聞かれても困らない状況にしているという条件下で、やっと普通の人の試験結果を出せるところにたどり着く、という感じでした。

 で、英検の存在自体はずっと前から知っていたものの、学生の頃はそもそも英検の申し込み方法がずっと理解できなくて、周りに聞くと本屋で申し込める、とはいうのですが、その先、どうやって試験会場が決まるのかとか、決まった試験場まで自分で行けるかどうか、親に頼れないし、自分の学習障害ゆえの壁が厚すぎて、いろんな不安要素を考えると、自分で試験を申し込むところまでどうしても行き着けなかった、というのが実態だったんですよね。(汗)
 その当時は昭和ですから、インターネット検索もできないし、グーグルマップで現地ナビとかしてもらえるというような端末はなかったんですよ!!

 ITのお陰、そして、ピカチュウのお陰で、自分の人生が広がりましたね。
 基本、集中が調整出来ないというのは、見落としも多いということですんで、ケアレスミスが多発します。子供の頃は、本当にみんなと同じ試験を受けるということが、ものすごくプレッシャーでした。
 だから、LDのお子さん、発達障害のお子さんの気持ちは、当事者視点でよくわかるんですよ。どうしてほしかった、と大人になってから思うのかも。

で、

上の娘のたまちゃんは、英語ネイティブなので、一緒に試験を受けてくれることになって。

そもそも、恥ずかしいのでこのことは娘に言えず、娘にかこつけて、英検三級を受けよう、お母さんも一緒に受けるから、と誘い、玉堂星・たまちゃんに英検三級の問題集をやらせんですけど、試験問題を眺めた途端、彼女は突然本気で怒り出して、

「お母さん、私を馬鹿にしてるの?!」と。
「受けたくない。受ける必要がないでしょ、こんなの。」
ええっ!?

って、思ったら、玉ちゃんからすると、英検三級は幼稚園児の問題だそうで、こんなものを小学3年生にやらせるということは、能力を疑って馬鹿にしているとしか思えないと、玉堂星、完全にプンプンになってしまったんですよね.....昭和の日本人からしたら、英検三級は中学生卒業程度だったかと思いますが、基準点がだいぶ変わったのか。
玉堂星のプライドの持ち方はそうなのか。

 そういえば、前にロンドンから来たネイティブの女性に、玉ちゃんが簡単に自己紹介した時も、「まぁ英語がお上手ね!お勉強してるのね、えらい子ね!」と言われたんですよね。
 喜んでいるかと思いきや、玉ちゃんは不満顔で「たった一言二言で、あんなに褒められるって、一体どういうこと?彼女は、私をどう思ってるの。」と軽んじられたと違和感を訴えていました。
 もはや、玉堂星の反応に予測がつかない。

 本当に英語ネイティブの子供になると、そう感じるのか〜とびっくりしたのと同時に、多分、相手には悪意はないんだよ、伝えたんですけど。
 私だったら、一言、二言言っただけで、相手にあんなに褒めてもらえたら、嬉しいんだけどなぁ。

 それで、仕方なく、実は、会場で自分が試験監督の言ってることで、理解できないことが起こったら困るし、昔から英検が怖くて受けられなかったから、一緒に会場についてきてほしい、というネタバレを正直にしたら、

「早く言ってよ〜」
「ハァ〜そういうことね!!」と一つ返事でオッケーしてくれました。
 玉堂星さん、向上しようとする人には優しいです.....(T T;

そして、試験を受ける前の週に、過去問を一緒に解いたんですけど、もちろん玉ちゃんは、口語ではOKだけど、正式にはだめというレベルの問題を2問くらい間違えたのみで、それより多く間違えた自分は、自分が解けなかった箇所を小学3年生に、全部解説してもらっていたという。

しかし、その説明は、 「....it will getという言い方はしないんだよね。自分の経験上、そうした例には遭遇したことがない。抽象的ないろいろなものをあらわす時に意志を含むwillが必要になるというようなのは特殊な例なんじゃないかなぁ」という意図のことを、小学3年生の語彙で説明されて、結局のところ、全ては、自分が生まれて以来、聞いたことがないか、聞きなれない言い方だったから、という経験に基づく判断で英検を回答していたことがわかり、
もともと日本語だけが母国語の人には、なかなか難しい感覚基準すぎて、真似できなかったんだわ....

玉ちゃんは、英語の読書量も、日本語の読書量も、圧倒的に普通の小学生よりも多くて、公立ではクラスの英語の発音の先生役を担当しているらしい。
ライティング・グラマー五十分試験のところをたった十三分で回答し終えて、親が解き終わるのをじっと眺めながら、

「あ〜、なんで文章題でいろんなところに線をひいてるの!そんなのいらないでしょう。そんなスピードで読んでたら、回答まで行きつかないよ!
読んですぐにイメージ湧くでしょ。その記憶から回答を出せばいいでしょう!」

と静かに切々とアドバイスしてくる.....(汗)
極め付けは

「そもそも、この回答は、番号を塗りつぶすように書いてあるよ、番号かけとは書いてないから、罰になるよ。それに、ライティングは、指定された語数から超えてるでしょう。それも減点になる可能性があると思う。」

ええ〜!

と焦っていると、確かに問題文に指定があって、自分の集中力が甘くて読み落としが多いわ、リーディングも集中できずに違うことをすぐに考えてしまうという、過去のトラウマが蘇ってきて、「ヒェ〜お母さん、やばいわ〜」と叫びながら、英語で話せないわけではないものの、なぜこれまで、自分が点数をつける試験という試験が苦手だったのかの事実確認の振り返りになった....。

 実際、勉強が嫌いでも、そして知能が低いわけでもないけど、日本の試験形式がハードルになって、成績が低い人って、絶対たくさんいると思う!!!

 だからね〜まだ判明していない見えない学習障害、自閉症・アスペルガー、LDがある人、認知機能にばらつきがある子供たちにとって実際問題、怖いのはね、自分はみんなができる試験ができないから自分はダメなんだ、と自分に自分で見切りをつけ、学習や高度教育を諦めてしまうことだよ!!!

 自分だって、英検の申し込みができない、困難を抱えている、という本当の事情を人に相談することができなかったし、言ったところで親も誰も信じてはくれず、試験を受けたくない言い訳だ、怠慢だ、と怒られていたかもしれない。昭和というのはそういう時代だった。実際に検査の数字を見るまではピカチュウだって、信じようとはしなかった。

 しかし心の奥底についた傷や恐怖っていうのは、なかなか深いんだよ〜
 試験が怖くなる。先生に説明しても、余計に責められる、精神性の問題や学習姿勢を怒られる。自己イメージは低くなるし、自分があいつはどう考えてもアホだ、と思っている相手より、良い成績が取れない、ということを含めて、世の中の矛盾に悩む。

 この令和の世の中、自分でも言語化できない苦しさに苛まれている子供たち、多いと思うよ。
 だから、普通に見える子供であっても、全ての子供は、認知機能テストを受ける必要がある、必要なサポートと理解を得るために!!
と自分は思ってるんだよね。


それは、発達障害を持った子供を持つお母さんも同じことを言ってた。
 まさかね...、と思ったけど、子供の一人が自閉症だったからこそ、別な子供が何かおかしいとなった時、検査という発想がすぐに湧いた、と。そして、分かった時の子供のほっとした顔といったらなかった。できないことを無理強いして、子供の心を壊さなくて良かった、ともいってる。

 みんな凸凹なんだよね〜。
 環境と努力があったから成績が良いのだ、と当たり前のように考えるヒエラルキー型の「頭の良さ」で、世の中を見ている人は、もうそうじゃないという遺伝の真実にもちゃんと、気づくべきだと思う。
 そしたら、偏差値の高い学校へ行けるかどうかなどは、今のテスト形式が日本社会でこのまま維持される以上、生まれた時点で、何をどう努力しても変わらない事実を前に、その子に負担を強いるだけであって、その子が行ける領域はすでに決まっているんだということが理解できる。

 そしたら、もう一つの重要な真実にも気づくの。
あれ?この日本社会の教育システムって、生まれつきIQが高い人だけを炙り出して社会の権力中枢を支える組織に組み込む仕組みになってない??

っていう、真実よ。

 IQの高い人は、低い人よりも物事の正確な処理速度が速い。複雑性にも耐えられる。考えられる深度も一般よりも深い。(人間性・精神性は別。)
 そういう人が本当に社会のためにそのIQを使い始めたら、現在実権を握る権力層を倒す力になるかもしれない。

 だから、早めに、「権力から評価されてそれに応えることで、心理的な報酬をもらえる」というこの仕組みを、高いIQの人たちの頭の中に刷り込むという必要性があったんだよね。
 そしてIQの低い人たちにとっては、この教育制度は、高い人に支配されるのは当たり前だと、IQ差によるヒエラルキーを肯定するような概念を植え付けることができるので権力に対して、諦め半分の従順な庶民にすることができる。
 そして、その教育システムを実行し、政治や法律などの社会システムをパズルのように複雑化させることで、IQの平均・平均以下の人たちが、何をやっているのかが、正確に把握できないように隠しているんだ、という、この社会の本当の真実に気がつけると思うんだよね。

 IQの高い人のなかで、善意のある人は、そのイカサマに気がついて、一般大衆に対して、「おいおい!実際は朝三暮四で、搾取されてるんだよ!サルじゃないなら、気がついて!」というけど、一般大衆はそこに至るまでの説明が複雑すぎて、そう説明されてもなかなか気が付きにくいんですよ。

 そしてIQの高い人ほど、他の人へわかりやすくライトに説明する術を持たないので、権力者がしようとしていることのリスクや、世の中の権力が暴走しているような件のような話の類、この社会のイカサマを通報できない。

 また気がついた時には、高IQの所持者は、試験を勝ち抜いてすでに高待遇の社会的地位を得ているので、「それを捨てるのか」という生活や人生計画のプレッシャーにさらされ、自己保存の葛藤も生じるんです。
だから、人に言わないのが得策、と知ってても黙るんだよね。

そのいい例として、京大准教授だった宮澤先生が社会の人たちにコロナワクチンのイカサマをエビデンスを添えて、ちゃんと専門家の立場から明確にした後、その地位を追われたのを見ても、その仕組みがこの世の中にしっかり働いていることがわかるよね。(マトリックスで言えば、エージェントスミスみたいな奴らもいるんです。)

 アカデミックな世界ではいろんな異端な学説があっていいはずで、通常なら悪くて、「それはその先生の理論よね、それもあり得るかもね。」って取り扱いになるくらいで、それ自体を潰すような動きにはならない。

 潰す、というのは、社会の支配者にとって、不都合だったから。
そして「自分達は頭が悪いし、成績も良くなかったから、どうせ聞いたところで理解できない」と考えることを放棄してしまった多くの人たちは、先生が自己保存本能に打ち勝って、警鐘を鳴らした内容を掴むことすらしない。

まさにこの世界を支配する権力の狙い通りなんだよ。
みんな、教育洗脳されているんだよ。

しかし、洗脳されている人は、洗脳されていることに気がつかない。

ここに、危険で過激な宗教思想があったとする。
それが少数であるうちは、カルトとして、大多数の人が認知できる。
でもそれが国民のほとんどになった時は、誰もそれをカルトとは認知できなくなるんだよ。洗脳される人数が多ければ多いほど、洗脳されていることに気づかないし、それが社会常識となる。

そうした状況が実際に起こったのが、ドイツにおけるナチスだったわけじゃない?

でも日本も今、おんなじでしょう。
徹底的に自民党や他の政党を使って、あらゆる方向から外国にこの日本が壊されているのに、その状況は自然に起こっている、と思わされているんだよ?
 あたかも、その政治家、政党一つが悪いかのように思わされているところが、まさに教育洗脳だよ。
 こんなことは組織的に行わなければ、実行できない、という当たり前の真実に目覚めてほしいと思うんだよね。

 日本には、日本国憲法よりも遵守しなくてはいけないことになっている、とある組織が存在する。その組織が日本という国の全てを裏から掌握し、支配し、破壊しているんだ、ということ。
陰謀でもなんでもない。実際にある。

 これまで自分は頭が悪いとどこかで思っている国民も、学校の試験ができないことと、自分達の未来を考えることとは、全く関係がないことだということを気がつかなきゃいけない。
 日本の権力層が決めた頭の良さの基準こそが、陰謀なんだってことだよ。
このトリックに気がつかなきゃ、みんなが投票によって自分の未来を選択し、その組織の力を効果的に追い出すこともできない。

 残念だけど、今、本当に知性を持っている人が、洗脳から目覚めなければ、日本は瀬戸際に立つことになる。
 みんなが、自分の得意なことを社会に活かして生きる世界、凸凹がある一人一人の能力をうまく組み合わせて、日本という絵を作り上げるように、一斉に何か始めることからでしか、この日本は変えられない。

それ以前に、自分は無力だ、と考えるところからは、何も生まれない。
でも、このバラバラに分離し孤立した一方見の能力主義、個人主義社会を、すべての人が自分を不自然に抑えこむことなく、自分らしくありながら調和させる鍵はある。そして、それは日本人にしかできない。

 それは、精神次元を高め続けること。そして科学力を上げ続けること。

実は、これは戦争の全責任を負わされ、A級戦犯として処刑された東條英機が最後に残した、日本国民への遺言だと言われている。
 すべての策謀を知り尽くし、それを墓に持っていった戦犯とされた人たちは、死ぬ間際まで、どうしたら日本がこのDS包囲網の中で勝てるのかを考えていたのだと思う。

 人に、なんとかいう前に、自分を振り返ると、自分には科学力を高める力はないけど、精神方面だったらやれることがある。
だから、自分の立場からそれをやれるとしても、今、日本の大学の理系は、先端技術世界からすると、もうボロボロだって言われているらしい。
 玉堂星・龍高星の科学者たちに、その分野の改善はお願いしたい。

 敵対するAIロボット作品が多い西洋の映画作品に対して、鉄腕アトム、ドラえもんが表すように、「ロボットは友達だ」という漫画作品をいっぱい書いてきた日本人。
 生きとし生けるものをすべて慈しむ精神で続いてきた日本のいのちの捉え方は、シルクロードからの遺産だ。人が作ったロボットですら、単なる道具ではなく、人と同じように命のこもったものとして扱う心を持てる可能性を持つのが、日本人だ、と自分は考える。

 最終回・ドラえもんにおいて、玉堂星・のび太が示した科学者としての姿勢は、未来の日本人の在り方だと自分は思える。
 世界からのいじめられっ子、日本。だめだ、だめだ、旧世界の遺物、鈍臭い馬鹿で単純、とジャイアン・スネ夫の西洋社会から叩かれて、アジア新興国しずかちゃんだけが、のび太に優しい評価をしてくれる。のび太の世界は、辛い現実からジャパンクールと、アニメや漫画に逃げ込むことしかない。
いや、違うんだ、のび太日本は、慈愛があるから知恵を正しく使えるんだ!
そこに気づけ日本人!!

 同世代の京都のお母さんが、「人形を苦しめたらあかん」って、子供に怒った話を聞いたことがあって、「道具だろがなんだろうが、ものにも命が宿っている。ものにも心があると思って大事にできる人は、自分も大切にできるし、自分を取り巻くすべてにも優しくできる。」と教えていたんだけど、それって、平成の人には珍しい考えかもしれないけど、元々古くから日本人が教えていたことだと思う。

 つまりね、どんなに科学技術が発達していっても、人の心を忘れないまま、人が人らしく生きていく知恵って、そこにあると思うんだよ。
 実理性と合理性と精神性のすべてをバランスよくとる日本人の世界観ね。
そのバランス感覚を、もう一度取り戻す時なんだよ。
精神性だけに偏るのもダメだし、形式だけに流れるのもダメだし、実生活のスピード感に合わないことを選択するのも違う。
 新しい日本人のバランス点を、みんなが開発する時にきてるんだと、思うんだよね。
 自分は、アメリカやイギリスに大きく影響されてきた東京という世界の代表的な先端都市に育ち、今は日本古来のシルクロードの遺産を備えたアジアの詰まった京都という古典的な都市に住んでいて、両方の目線がわかる。二つの視点が交錯する中では、日本の未来について、色々な気づきがある。
 自分は権力層にいるわけじゃないので、それを反映させていく実行力はないけども人がこれからどこへ向かっていけばいいのか、そういう視点はもてる。
 試験勉強が得意じゃなかったとしても、だからと言って、自分の能力がないわけでもないし、自分がダメなわけじゃない。
 単に、自分がやれることが試験では、測れなかったというだけなんだよね。そういう、普通の人たちが、いっぱい日本中には、いると思う。
そして、みんな泣きっ面ののび太をやってる状態。

 その普通の人たちが動き出すところに、日本の目覚めはあると思う。
 だってね、京都にいるとその普通さの強さ、を感じるんだよね。普通こそ、実は強い。嘘つかない誠実さとか、コツコツ努力を蓄積する真面目さとか、思いやりとか配慮とか、血のつながらない他人と信頼関係を結ぶことだとか、西洋社会がそんなことしてなんの得になるんだよ、と馬鹿にするような、そんな当たり前のことを大事にすることの方が、実は強いんだって思うんだよね。


 はい、ここで、お気づきの方。w
こうして、よく文章が脇道に逸れるのも、要するに自分がしょっちゅう「気が散る」からなんですよ。テーマ設定を決めても、あっちにきたりこっちにきたり。w そもそも、テーマ自体を忘れることもあります。
日々、気が散って、目の前でやってることと違うことを考える。


 で、肝心の英検なんですけど、3級の試験会場に行ったら、試験監督にいきなり保護者腕章を渡されて「付き添いはこれをつけてください」って言われたんだよね。

「いえ、自分が受けるんです。」って言ったら、ちょっとびっくりされたし、自分は、「付き添いの保護者ってなんだ?」と思って教室に入っていったのね。過保護すぎやしないか?って。

そしたらさぁ〜
英検三級、幼児と小学生だらけだったんだよ。その脇にガッチリとどの子にも保護者が付き添いしてて、試験間際まで色々と世話を焼いていたんだよね。
 普通に考えて、問題文の漢字も、どう書けばいいかわからない、何を問われてる文章なのかが読めないような年齢の子供たちまでが3級受けてんの。

 要するに、早期英語教育の鬼のような保護者が、問題集の反復解答させて、子供に英検三級を受けさせているという今の社会現象をそこで知ったんだよね。
 で、保護者も子供たちも、みんな自分を見るのよ!!!
なんだよう!●歳が英検3級受けちゃ悪いか!w

まさか、中年のおっさんおばさんが試験受けるとは誰も、思わなかったんだろうね。時代が変わったなぁ。

第一、うちの場合は玉ちゃんが付き添い受験であり、自分が真性受験者なんですよね。w 
 そして案の定、試験始まったら、幼児たちは足をぶらぶらさせながら、前の机をガンガン蹴りながら解いていて、うるさい。そんな状況だよ。

 試験前の玉ちゃんは、英語で好きな小説を読みながら、周りの子どもたちと親をじっと観察していたそうで、

「試験の直前まで英検問題集を開いて、これは、どうなの、これは?と、子供に解かせてるんだよ!最悪〜!そんなことされたら、自分なら一気にやる気失くすし、第一、子供に失礼だよね。」と憤慨してた。

 うちはそんなアプローチは一度もしたことがないため、玉ちゃんは英検の問題集自体が英語の勉強として異質に感じるらしい。

そして、これだけが解けたとしても、実際、英語で外国人とおしゃべりして友達になれないでしょ、だって。

だから玉ちゃんは全く英検の勉強などしていない。

 そんなことやったら、かえって英語がつまんなくなっちゃうじゃん、大人たちは一体、子供に何やらせてんのよ、とのこと。(汗)←小学3年生の意見です。

 でも、英検の問題は、触れてきた英語経験の中でカバーできるような問題が多いので、それでも難なくとける。
 当たり前のことだけを聞くクイズ大会みたいな感覚らしい。もしかすると健康診断の問診票みたいな感じなのかな。
 実際、試験が終わってから、自宅で二人で自分の回答チェックした時も、全問正解だった。

 主星・玉堂星の子っていうのは、知的好奇心が高いので、環境だけ用意すれば、勝手に気に入った師匠を見つけて、自分なりの学習方法を見つけてやってしまうという面がある。基準は、自分が面白いと思うかどうかだけ。
 圧力かけられてやらされると、玉堂星の真性の知恵は発動しない。
のび太が、宿題やりなさい!と怒られると、むしろやれなくなるのと同じ。
 そういうこともあって、自分が玉ちゃんに学習を教えるみたいなことは昔からほとんどなくて、自分が面白いと思ったことをシェアすることはあったけど、むしろ子供が先生になって教えてくれることの方が多かったような過去の実情なんですよね...それが玉ちゃんの場合は、たまたま英語だった。

 下の子もそうで、逆に自分が外でたくさん学んで、その学んだことを(どうもちょっと頭の悪いと思われる)お母さんに自分が教えてあげる必要がある、と思っているようなんですよね。
 だから、なんかよくわかんないけど、子供たち、本屋でドリルを買って欲しいとねだり、自分でコツコツ勉強してるんです。

よくわからないんですけど、一般に子供たちは、なんかこの人、自分が助けてあげないとだめだなぁ、と思うようなんです。w
やっぱり、そのぐらい不器用そうなんでしょうか。

 確かに自分に会った人は、思ったより、すげーフツーの人だ、むしろなんとなく手を出してあげないと危なっかしい人だ、っていう印象を持つ方が多いように思います。何もない道で普通にコケたりもするんで。(汗)ピカチュウも、最初にあった時、待ち合わせ場所に現れないため、すっぽかされたと思ったと言っていた。(でも実際は待ち合わせ場所に、たどり着けなかっただけ。)
 でもね、どんな人にも、その人にしかやれないこと、その人がやれることはあるんですよ!
 そして、子供たちに危うい人だと思われながら、自分の場合、非常にマニアックな世界にそれが発露されるだけなんです。



 だから、「Jemmy先生」は、自分としては非常に違和感があります。
むしろ皆さんの方が、現実の能力的には高いはずですから。
 ただね、成功体験よりも、努力に関わらない挫折体験の方が圧倒的に多いから、辛い現実に直面したり、迷う人の気持ちがたくさんわかるってことはありますけどね。w




 さて、英語自体は、玉ちゃんの教え方がめっちゃうまくて、優しくて、面白いんですけど、学習障害に対応した能力判定試験がないのでどこまでチャレンジできるかわかんないですが、とりあえず1次試験はパスしそうなので、あとは書いた枠を間違ってないことを真剣に祈って二次のスピーキング頑張ります。



 今年は、仏教英語とチベット語とサンスクリット語を学び始めますが、試験がなければ、大丈夫.....。
 小さな試験を解くことから、自分を改善して、単位目的の試験に対応できるようにしていこうと思います。

玉堂星・龍高星を持っているけども、活かせてない人、今は昭和とは違います。いろんな学び方ができますから、幾つになってもぜひ、高等教育を諦めないでほしいと思います。
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