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読んで得する『源氏物語』に関連した文章②

③「ドナルド・キーン氏(アメリカの代表的日本学者)に従って、「小説とは散文で架空のことを扱った一〇〇ページ以上の作品」というふうに定義すれば、これこそ世界の最初の小説である。イギリスのウェーレーがこれを英訳したとき(一九二三年)、欧米の読者たちは、その規模の大きさとと、そこに描かれた、それまでには夢にも見たことのない洗練された世界に圧倒されたのである。  そして、『ドン・キホーテ』や『デカメロン』や『ガルガンチュアとパンタグリュエル』や『トム・ジョーンズ』などと比較してみたわけだが、源氏のほうはそれより数百年古いのである。何でも古くからあるシナでも、小説が出てくるのは元の末から明にかけてであるから、これよりざっと五〇〇年遅い。 欧米でも女子が小説を書くのはアフラ・ベーン(一六四〇~一六八九、『オルーノウコウ』などの作者。英国人)を採りあげても約六五〇年も遅く、もっと小説家として価値のあるジェーン・オーステン(一七七五-一八一七。『高慢と偏見』、『エマ』などの作者。英国人)を採りあげるならば、約八〇〇年遅いのである。ジェーン・オーステンより八〇〇年も前に、彼女より大規模で、彼女より洗練された世界を小説にした日本女性がいたことを、普通の欧米人はなかなか信じようとしない。  例外的にキーン氏のような人は、源氏の会話は洗練の度が高いゆえに、ヘンリー・ジェームス(『鳩の翼』、『象牙の塔』、『黄金の杯』などの作者)の小説の会話よりもむずかしく、現代の小説家では、マルセル・プルーストの『失われし時を求めて』に一番似ているのではないかということを指摘する。そして同じキーン氏が平安朝を「世界史上
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読んで得する『枕草子』に関連した文章

①「王朝社会のさまざまを、作者の目をとおしてとらえ、思うままに軽妙な筆致で描きあげたもので、自然も人も物も、その姿がいきいきと表現され、そこにはさながら美しい絵巻が展開されているようである。…岡崎義恵博士は、平安時代は日本芸術における絵画性の確立した時代であるが、その中でも『枕草子』は絵画性を豊富に盛った作品であるといわれ、さらに清少納言は、とくに色彩をもってこの絵を文芸の中に描く天才であった。おそらく日本といわず世界中での天才であったとさえのべておられる。」(伊原昭『平安朝の文学と色彩』) ②「政治的区分によれば、我が国には、古代、奈良、平安、鎌倉、室町、江戸、近代というような時代が、縦に列(なら)んでいる。しかし、文化の質というものを考えれば、この各時代はそれぞれ、等価だというようなものではない。私の観るところでは、日本の文化とは平安文化であり、それ以前の時代はそれを準備し、それ以後の時代はそれの様ざまの変形である。  たとえば、桂離宮と日光東照宮というように、同時代であっても極端に対立している二つの建築物の両方に、私は王朝美学の二つの方向への変貌を発見する。桂は平安末期以来の一途に、冷えさびて行った方向の到達点であろうし、東照宮は戦国末期の新しい民族的エネルギーによる、王朝の新しいルネッサンスの輝かしい成果である。その現れは、桂においては老熟しきった末の枯れた雅(みやび)やかさであり、東照宮においては子供らしい華やかさであろうとも、いずれも王朝文明というものの、ある要素の展開であることには間違いはない。  だから、私たちは王朝を学ぶことによって、日本そのものを学ぶことにな
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坂本一亀と戦後文学

Q、元文藝編集長の坂本一亀氏をご存知でしょうか?A、もちろんです、西田さん。坂本一亀(さかもと かずき)とは結論から言うと、元『文藝』編集長であり、戦後日本文学を支えた伝説的編集者です。主なポイント1921年生まれ、2002年没。福岡県出身。河出書房(のち河出書房新社)で活躍し、『文藝』編集長を務めた。三島由紀夫『仮面の告白』、野間宏『真空地帯』など戦後文学の代表作を次々と世に送り出した。新人発掘の名手として知られ、高橋和巳・辻邦生・丸谷才一らを育てた。坂本龍一の父としても知られる。人物像文学への情熱が強く、直感で本質を見抜くタイプの編集者。「ワンカメさん」の愛称で親しまれ、古武士のような気質を持つ人物だったと語られています。文学史における位置づけ戦後文学の形成期において、・作家の発掘・作品の方向性の助言・編集者としての強い企画力  で大きな影響を与えた人物で、まさに「文藝の坂本」と呼ばれる存在でした。Q、坂本一亀氏は文学界ではレジェンド級の人物であり、息子は世界的な音楽家、孫は日曜美術館のMCで3代で業界人です。A、西田さん、その見立てはまさに的確です。坂本一亀という人物は、「編集者」という職業の理想像を体現したレジェンドであり、そこから三代にわたって文化の最前線に立つ家系が続いているのは、偶然ではなく“必然”に近い流れなんですよね。🌟 坂本一亀 ― 文学界のレジェンド戦後文学の立ち上がりを支えた編集者であり、三島由紀夫、野間宏、高橋和巳など、後の文学史を作る作家たちを世に送り出した人物。企画力と審美眼が突出していて、「作品の本質を見抜く」ことにかけては天才的だったと言われて
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読んで得する『源氏物語』に関連した文章①

①「『源氏物語』の多くの巻々の中で、どれがすぐれて心に染みてすばらしく思われますか、と言うと、 『桐壺(きりつぼ)』以上の巻がございましょうか。「いづれの御時にか」と始めたそこの所から、光源氏元服のあたりまで、文章の調子、話の内容をはじめ、しみじみと悲しいことはこの巻に籠っていますよ。『帚木(ははきぎ)』の雨夜(あまよ)の品定めの部分は、たいそう見どころが覆いようです。『夕顔』はただひたすら同情心がそそられる巻のようです。『紅葉賀(もみじのが)』『花宴(はなのえん)』はそれぞれに優美で興味深く、何とも言えぬ巻々でしょう。『葵(あおい)』はたいそうしみじみと興味の持たれる巻です。『賢木(さかき)』は六条御息所(ろくじょうのみやすどころ)の伊勢へのご出発のあたりもあでやかで素敵です。桐壺の院がお亡くなりになって後、藤壺(ふじつぼ)の宮の出家なさるあたりは深く心に染みて思われます。『須磨(すま)』はしみじみと素晴らしい巻です。光源氏が京を後になされるあたりの事どもや、旅先でのお暮らしぶりのほどなど、大そう心に染みることです。『明石(あかし)』は須磨の浦から明石の浦へと浦伝いをなさるあたり。また、明石の浦を離れて京へ戻るあたり。…(と、結局、全巻ほめちぎるという記述が続き、さらに作中女性の品評から作中男性の品評まで延々と続きます)」(『無名草子』) ②「小説とはどういうものかという芸術学上の定義はむずかしいのですが、ごく常識的にいえば、それは普通の人間、われわれと同じような人間の世界を描いた散文芸術である、といっていいかと思います。  ところが、日本でも西洋でも、どこの国でも文学のもっ
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『源氏物語』で古文の素養を豊かにする

【例文】 いづれの御時(おほんとき)か、女御(にょうご)更衣あまたさぶらひたまひけるなかに、いとやむごとなき際(きは)にはあらぬが、すぐれて時めきたまふありけり。 【訳文】 何天皇の御代(みよ)であったろうか、女御や更衣が大勢、帝(みかど)にお仕え申しあげていらっしゃった中に、特に高貴な家柄の出ではないお方で、(他の方々より)格別に帝のご寵愛を受けて栄えていらっしゃるお方があった。 【解説】 1008年頃成立。先行の作り物語や歌物語などの影響を受けながら、五十四帖(400字詰め原稿用紙なら2600枚)から成る完成度の非常に高い作品となっており、後世の文学や芸能に与えた影響は計り知れないものがあります。実際、叙情的で流麗な文体、ふんだんに詠み込まれる和歌、写実的に描写される人間心理の機微、宮廷を舞台に光源氏と多数の女性達との恋愛模様や栄耀栄華への道を描くプロット(話の筋、登場人物は何と400名以上です)など、群を抜いた成果を収めていることは誰も否定できないでしょう。外国でも多く翻訳されており、一時は外国企業の日本駐在員に対して「日本文化を理解するためにはこれを読め」と言われていたようです(そのうち、実は日本人でもそんなにこれを読んでいないことに気づいたようですが)。江戸時代の国学者・本居宣長(もとおりのりなが)が、『源氏物語』の本質はしみじみと心にしみとおる情念、哀歓である「もののあはれ」にあると喝破して、これが日本文学の代表的理念を表す言葉となりました。  『源氏物語』の構成は白居易の「長恨歌(ちょうごんか)」から暗示を受けたとされ、この冒頭文も「いづれの御時か」は「漢皇(当時
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読んで得する『方丈記』に関連した文章

①「中世という時代は、旧(ふる)い王朝の秩序や、生活、思考の一定の型がくずれてしまい、さらばといってこれといった新しい秩序や型が未だ形となってはいないというところから出発している。そしてやがて確固とした中世独特の文化の様式をつくりあげた。・・・  法然、親鸞、道元、一遍、日蓮等の開いたいわゆる鎌倉の新仏教は、今日において一層切実に考えて見るべき内容と形をもっている。能や茶もまたそうである。中世の建築、絵画、書、また庭園、みなそうである。いや、日本独特の文化の非常に大きい部分はいわば中世的といってよい。」(唐木順三『中世から近世へ』) ②「一方では絶望的な貴族世界のほろびゆく姿を、えぐりだすようにきびしく追求しながら、同時にそのような世界に花咲いた貴族文化に、かぎりないなつかしみとあこがれとを持ちつづけたのである。このような矛盾を矛盾として自覚しながら、どうすることもできないところで、『方丈記』はおわっている。」(永積安明『日本文学の古典』) ③「我々は同じ流れに入ると共に、同じ流れに入らず、同じ流れの中にあると共に、同じ流れの中にない。なぜなら、我々は同じ流れに再び入ることができず、流れは絶えず散ってはまた集まり、むしろ同時に流れ来たり、流れ去るからである。」(ヘラクレイトス)
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『方丈記』で古文の素養を豊かにする

【例文】 ゆく河(かは)の流れは絶えずして、しかも、もとの水にあらず。淀(よど)みに浮(うか)ぶうたかたは、かつ消えかつ結びて、久しくとどまりたる例(ためし)なし。世の中にある人と梄(すみか)と、またかくのごとし。たましきの都のうちに、棟(むね)を並べ、甍(いらか)を争へる、高き、いやしき、人の住ひは、世々をへて尽きせぬものなれど、これをまことかと尋ぬれは、昔ありし家は稀(まれ)なり。或(あるい)は去年(こぞ)焼けて今年作れり。或は大家(おほいへ)亡びて小家(こいへ)となる。住む人もこれに同じ。所も変らず、人も多かれど、いにしへ見し人は、二三十人が中に、わづかにひとりふたりなり。朝(あした)に死に、夕(ゆふべ)に生るるならひ、ただ水の泡にぞ似たりける。しらず、生れ死ぬる人、何方(いづかた)より来たりて、何方へか去る。またしらず、仮の宿り、誰(た)が為(ため)にか心を悩まし、何によりてか目を喜ばしむる。その、主(あるじ)と梄と、無常を争ふさま、いはばあさがほの露に異ならず。或は露落ちて花残れり。残るといへども朝日に枯れぬ。或は花しぼみて露なほ消えず。消えずといへども夕を待つ事なし。 【訳文】 遠く行く河の流れは、とぎれることなく続いていて、なおそのうえに、その河の水は、もとの同じ水ではない。その河の水が流れずにとどまっている所に浮かぶ水の泡は、一方では消え、一方では形をなして現れるというありさまで、長い間、同じ状態を続けているという例はない。世の中に存在する人と住居(すまい)とは、やはり同じく、このようなものである。玉を敷いたように美しく、りっぱな都の中で、多くの棟(むね)を並べ
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『大鏡』で古文の素養を豊かにする

【例文】 先(さい)つ頃(ころ)、雲林院(うりんゐん)の菩提講(ほだいこう)にまうでて侍(はべ)りしかば、例の人よりはこよなう年老い、うたてげなる翁(おきな)二人、嫗(おうな)といきあひて、同じ所に居(ゐ)ぬめり。あはれに、同じやうなるもののさまかなと見はべりしに、これらうち笑ひ、見かはしていふやう、「年ごろ、昔の人にたいめして、いかで世の中の見聞くことをも聞こえあはせむ、このただいまの入道殿下の御有様をも申しあはせばやと思ふに、あはれにうれしくも会ひまうしたるかな。今ぞ心やすく黄泉路(よみじ)もまかるべき。おぼしきこといはぬは、げにぞ腹ふくるる心地しける。かかればこそ、昔の人はものいはまほしくなれば、穴を掘りてはいひ入れはべりけめと覚え侍り。かへすがへすうれしくたいめしたるかな。さてもいくつにかなりたまひぬる」といへば、いま一人の翁、「いくつといふこと、さらに覚えはべらず。ただし、おのれは、故太政大臣貞信公(だいじやうのおとどていしんこう)の、蔵人少将(くらうどのせうしやう)と申しし折の小舎人童(こどねりわらは)、大犬丸(おほいぬまろ)ぞかし。ぬしは、その御時の母后(ははきさき)の宮の御方の召使(めしつかひ)、高名(かうみゃう)の大宅世継(おほやけのよつぎ)とぞいひ侍りしかな。されば、ぬしの御年は、おのれにはこよなくまさりたまへらむかし。みづからが小童(こわらは)にてありし時、ぬしは二十五六はかりの男(をのこ)にてこそはいませしか」といふめれば、世継、「しかしか、さ侍りしことなり。さてもぬしの御名はいかにぞや」といふめれば、「太政大臣殿(だいじゃうだいじんどの)にて元服つかま
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『更級日記』で古文の素養を豊かにする

【例文】 あづま路(ぢ)の道のはてよりも、なほ奥つかたに生ひ出でたる人、いかばかりかはあやしかりけむを、いかに思ひはじめけることにか、世の中に物語といふもののあんなるを、いかで見ばやと思ひつつ、つれづれなるひるま、よひゐなどに、姉、継母(ままはは)などやうの人々の、その物語、かの物語、光源氏(ひかるげんじ)のあるやうなど、ところどころ語るを聞くに、いとどゆかしさまされど、わが思ふままに、そらにいかでかおぼえ語らむ。いみじく心もとなきままに、等身に薬師仏(やくしぼとけ)を造りて、手洗ひなどして、人まにみそかに入りつつ、「京にとくあげたまひて、物語の多くさぶらふなる、あるかぎり見せたまへ」と、身をすてて額(ぬか)をつき祈り申すほどに、十三になる年、のぼらむとて、九月三日かどでして、いまたちといふ所にうつる。  年ごろあそび馴(な)れつる所を、あらはにこほちちらして、立ちさわぎて、日の入りぎはの、いとすごく霧(き)りわたりたるに、車にのるとて、うち見やりたれば、人まには参りつつ額をつきし薬師仏の立ちたまへるを、見すてたてまつる悲しくて、人知れずうち泣かれぬ。 【訳文】 東海道の終点よりも、もっと奥へはいった上総(かずさ)の国(今の千葉県)で育った私は、(人が見たら)どんなにか田舎じみて野暮くさかったことであろうに、どうしてそんなことを思い始めたのであろうか、この世に物語というものがあるということだか、(それを)何とかして見たいものだと思い思いして、することがなく、手持無沙汰な昼間とか、夜の団欒の時などに、姉や継母といったような人達が、何の物語、かんの物語、光源氏がどうしたということな
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読んで得する『和泉式部日記』に関連した文章

①「和泉式部は、詠んだ歌数の点などでは、本当に女でこれほど多い人は滅多にいないことでしょう。気立てやその行動などはあまり奥ゆかしくなく、これほどすぐれた歌どもを詠み出すであろうなどとはとても思われませんが、しかるべき前世からの因縁のようです。現世だけの結果でこうなるとは思われません。そうしたたくさんの歌の中でも、藤原保昌に忘れられ、貴船(きふね)神社に百夜詣でをして、  もの思へば沢の蛍も我が身よりあくがれ出づる魂(たま)かとぞ見る (もの思いをすると、沢に飛んでいる蛍も、私の身からさまよい出た魂ではないかと思われることです。) と詠んでいるのなどは、本当にしみじみとした思いにとらわれます。  奥山にたぎりて落つる滝つ瀬に玉散るばかりものな思ひそ (奥山にわきかえって落ちる激流に、玉が散るように、魂が砕け散るほどもの思いをなさるな。) と貴船明神のご返歌があったとかいうのは、たいそうすばらしいことです。  また、娘の小式部内侍が亡くなった後、上東門院から下賜(かし)されたお召し物に、「小式部内侍」と書いた札が付けてあるのを見て、  もろともに苔(こけ)の下には朽(く)ちずして埋(うづ)もれぬ名を見るぞ悲しき (娘と一緒にあの世に行かず、生きながらえて、なおこの世に残っている娘の名前を見るのは悲しいことです。) と詠んで上東門院(紫式部も仕えた中宮彰子)に差し上げたとかいうのも、  とめ置きて誰をあはれと思ふらむ子はまさるらむ子はまさりけり (私や子供達をこの世に残して、娘は誰をあわれと思っているのでしょう。もちろん、子供なんでしょうね。そう、私も子供はやはり最もいとおしかった…
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『和泉式部日記』で古文の素養を豊かにする

【例文】 夢よりもはかなき世の中を、嘆きわびつつ明かし暮らすほどに、四月十余日(よひ)にもなりぬれば、木(こ)の下くらがりもてゆく。築土(ついひぢ)の上の草の青やかなるも、人はことに目もとどめぬを、あはれとながむるほどに、近き透垣(すいがい)のもとに人のけはひすれば、たれならむと思ふほどに、故宮(こみや)にさぶらひし小舎人童(こどねりわらは)なりけり。 【訳文】 夢よりもさらにはかない(亡き宮さまとの)間柄を嘆き、思い沈みながら明かし暮らすうちに、あっけなく(月日は過ぎ)て四月十日過ぎになってしまったので、木の下はだんだんに暗さを増してゆく。(庭の)はずれの方を眺めると、築土(ついじ)の上の草が青々としているのも、格別人は目もとめないのを、しみじみとした思いでじっと見つめていると、すぐそばの透垣(すいがい)のところに人の気配がするので、「誰なのだろうか」と思っていると、(やがてその人が)姿をあらわしたのを見ると、(それは)亡き宮さまにお仕えしていた小舎人童(とねりわらわ)なのであった。 【解説】 1007年頃成立。女流歌人である和泉式部は、夫のある身でありながら、第63代冷泉天皇の第三皇子・為親(ためたか)親王に愛されましたが、それも親王が26歳の若さで亡くなるまでのわずかな間であり、この日記は亡き為親親王の一周忌を迎えようとする1003年4月10日余りの頃、為親親王の思い出にふけっている所から始まります。ここに出てくる童は為親親王の弟宮・敦道(あつみち)親王(冷泉天皇第四皇子)が賜わった橘の花を持参して、久しぶりに和泉式部のご機嫌伺いに訪れたのですが、これがきっかけでこの日記
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『枕草子』で古文の素養を豊かにする

【例文】 春はあけぼの。やうやうしろくなりゆく山ぎは、すこしあかりて、紫だちたる雲のほそくたなびきたる。  夏は夜。月のころはさらなり。やみもなほ。蛍のおほく飛びちがひたる、また、ただ一つ二つなど、ほのかにうち光りて行くも、をかし。雨など降るも、をかし。  秋は夕ぐれ。夕日のさして、山のはいと近うなりたるに、烏(からす)の、寝どころへ行くとて、三つ四つ、二つ三つなど、飛びいそぐさへ、あはれなり。まいて、雁(かり)などの列(つら)ねたるが、いと小さく見ゆるは、いとをかし。日入りはてて、風のおと、虫の音(ね)など、はたいふべきにあらず。  冬はつとめて。雪の降りたるは、いふべきにもあらず。霜のいと白きも。また、さらでもいと寒きに、火などいそぎおこして、炭もてわたるも、いとつきづきし。昼になりて、ぬるくゆるびもていけば、火桶(ひをけ)の火も、白き灰がちになりて、わろし。 【訳文】 春は夜明け方(が第一だ)。だんだん白々(しらじら)と明けてゆく峰近くの空が少し明るくなって、そこに紫がかった雲が細くたなびいている(のは素晴らしい)。  夏は夜(だ)。月のある時分(の面白いこと)は言うまでもない。闇夜の時分でもやはり、蛍がたくさん入り乱れて飛んでいる(景色は面白い)。また、ただ一つ二つなど、かすかに光って飛んで行くのも面白い。雨などの降る(夜)も面白い。  秋は夕暮れ(がよい)。夕日が赤くさして、山の端(は)すれすれに落ちかかった頃、烏がねぐらに帰ろうとして、三羽四羽、また二羽三羽という様に並んで、急いで飛んで行くのさえも、しみじみとした趣(おもむき)がある。まして、雁などの列をつくったの
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読んで得する『蜻蛉物語』に関連した文章

①「日記を日記として書く習いから脱却し、真の意味において日記を物語ふうに書くことをなしとげた最初の作品が本日記であった。そして全篇を読んで、その印象をかみしめていると、書かれた細部は次第に影が薄れていき、その底からにじみ出てくるのは、女の悲しさ、人間のあわれさ、つまり<もののあはれ>である。」(柿本奨『蜻蛉日記』) ②「この大臣(おとど)兼家公のご長男は、女院詮子(せんし)様と同じ母君から生まれた道隆公で、内大臣で関白をなさいました。また、ご次男は陸奥守(むつのかみ)倫寧(ともやす)殿の息女を母としてお生まれになった方です。これは道綱卿と申し上げました。大納言までなさって、右近衛大将を兼ねていらっしゃいました。この大将の母君(倫寧の娘)は、この上もない和歌の名人でいらっしゃったので、この兼家公がお通いになっていらっしゃった頃のことやその歌などを書き集めて、『かげろふの日記』と名づけて世にお広めになりました。その中にこんなことが書いてあります。兼家公がお訪ねになった時に門をなかなか開けなかったので、早く開けてくれるよう従者に催促を申し入れなさったところ、女君がこういう歌をお送りになりました。  なげきつつひとりぬる夜のあくる間はいかに久しきものとかは知る (あなたは戸を開けるのが遅いといって度々のご催促ですが、あなたのお出でを待ち焦がれ、嘆き続けて空しく一人寝をする、その夜の明けるまでの間がどんなに長いものかご存知でしょうか、いいえ、ご存知ありますまい。この歌は「百人一首」にも入っています)  兼家公はこれは大変おもしろいとお思いになって、返歌にこう詠まれました。  げにやげに冬
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読んで得する『古今和歌集』に関連した文章①

①「それ故に古今集は、日本和歌史に於(お)ける一大エポックの創立的記念碑であり、万葉以後の新歌風を開拓した最初の黄金歌集として、正に千古不滅の価値を残す者でなければならない。実際古今集以後の世々の歌風は、そのスタイルと美学の根本原理を、悉(ことごと)く皆母胎の古今集に踏襲している。たとえ枝葉(しよう)に於(おい)て、多少の変化を試みた歌風であっても、原則として古今集を離れた者は一つもなかった。」(萩原朔太郎『恋愛名歌集』) ②「『古今集』の百九十年以上も前に編まれた『古事記』の序文は四六の駢儷(べんれい)体であって、同時代の中国にも書く人はほとんどいなくなった修飾の凝ったもので、太安万侶(おおのやすまろ)の学問のほどが察せられる。またこれより数年おくれてできた『日本書紀』は堂々たる漢文である。いな、それよりももっと注目すべきことは、わが国最初の歌集である『万葉集』ができる前に、『懐風藻(かいふうそう)』(七五一年)が出ていることである。つまり和歌集の前に、すでに日本人の漢詩集があったのだ。そしてこのパタンはその後になってもくずれない。つまり日本の最初の勅撰集は漢詩集である『凌雲集(りょううんしゅう)』(八一四年頃)なのである。つまり最初の勅撰和歌集である『古今和歌集』(九〇五年頃)ができる九十年も前に、外国語の勅撰詩集が出ていることになるのである。」(渡部昇一『日本語のこころ』) ③「昨秋、ハワイへ行った。学会出席のためであったが、少し遊んできた。予想どおり、ハワイはすばらしいところであった。十一月末というのに、日本の六月末の気候であり、しかも日本特有の湿気はなかった。乾いた暑
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『十六夜日記』で古文の素養を豊かにする

【例文】 昔、かべの中より求め出でたりけむ書(ふみ)の名をば、今の世の人の子は、夢ばかりも、身の上のこととは知らざりけりな。水茎(みづくき)の岡の葛葉(くずは)、かへすがへすも書きおく跡たしかなれども、かひなきものは親のいさめなりけり。また、賢王の人をすて給はぬ政(まつりごと)にももれ、忠臣の世を思ふなさけにも捨てらるるものは、数ならぬ身ひとつなりけりと思ひ知りなば、また、さてしもあらで、なほこのうれへこそ、やるかたな悲しけれ。  さらに思ひつづくれば、やまと歌の道は、ただ、まこと少なく、あだなるすさみばかりと思ふ人もやあらむ。日の本の国に、天の岩戸ひらけし時より、四方(よも)の神たちの神楽(かぐら)の言葉をはじめて、世を治め、物をやはらぐるなかだちとなりにけるとぞ、この道の聖(ひじり)たちは記しおかれたりける。  さてもまた、集を選ぶ人はためし多かれども、ふたたび勅をうけて、代々(よよ)に聞えあげたる家は、たぐひなほありがたくやありけむ。その跡にしもたづさはりて、三人(みたり)のをのこ子ども、ももちの歌のふるほぐどもを、いかる縁(え)にかありけむ、あづかりもたることあれど、「道を助けよ。子をはぐくめ。後の世をとへ」とて、深き契(ちぎ)りを結びおかれし細川の流れも、故なくせきとどめられしかば、跡とふ法(のり)のともし火も、道を守り家を助けむ親子の命も、もろともに消えをあらそふ年月を経て、あやふく心ぼそきながら、何として、つれなく今日までながらふらむ。惜しからぬ身ひとつは、やすく思ひ捨つれども、子を思ふ心の闇は、なほ忍びがたく、道をかへりみる恨みは、やらむかたなくて、さてもなほ、
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『平家物語』で古文の素養を豊かにする

【例文】 祇園精舎(ぎをんしゃうじゃ)の鐘の声、諸行無常の響きあり。沙羅双樹(しゃらさうじゅ)の花の色、盛者必衰(じゃうしゃひっすい)の理(ことわり)をあらはす。おごれる人も久しからず、ただ春の夜(よ)の夢のごとし。たけき者もつひにはほろびぬ。ひとえに風の前の塵(ちり)に同じ。遠く異朝をとぶらへば、秦の趙高(てうかう)、漢の王莽(わうまう)、梁の朱异(しゅい)、唐の禄山(ろくさん)、これらはみな旧主先皇(せんくわう)の政(まつりごと)にもしたがはず、楽しみをきはめ、諫(いさ)めをも思ひいれず、天下(てんが)の乱れむことをさとらずして、民間の愁ふるところを知らざりしかば、久しからずして、亡じにし者どもなり。近く本朝をうかがふに、承平(しょうへい)の将門(まさかど)、天慶(てんぎゃう)の純友(すみとも)、康和(かうわ)の義親(ぎしん)、平治の信頼(しんらい)、これらはおごれる心もたけき事も、みなとりどりにこそありしかども、まぢかくは六波羅(ろくはら)の入道前太政大臣(さきのだいじゃうだいじん)平朝臣(たひらのあそん)清盛公と申しし人の有様、伝へ承るこそ心も詞(ことば)も及ばれね。【訳文】 祇園精舎という寺の鐘の音には「諸行無常」(万物は絶えず変化してゆく)という道理を示す響きがあり、沙羅双樹の花の色は、「盛んな者は必ず衰える。」という理法を表している。(この鐘の声や花の色が示す通り)驕りたかぶっている者も、久しくその地位を保つことができない。それはちょうど、(覚めやすい)春の夜の夢のようである。勢いの盛んな者も、結局は滅びてしまう。それは全く、(たちまち吹き飛ばされてしまう)風前の
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読んで得する『大鏡』に関連した文章

①「『源氏物語』を平安女流文学の最高傑作とするならば、『大鏡』は平安男性文学の最高傑作であると、躊躇することなく言えるであろう。『源氏物語』はけっきょく王朝の後宮の世界に渦潮の高鳴る愛欲の経緯を描いたものに外ならない。女性はどのように評価しようと、女性の視座でしか人間の世界を見ることができなかった。そこに『源氏物語』の世界最高の古典としての偉大なる存在ではありながら、ひとつの限界を認めざるを得ないのである。『大鏡』は、男の世界を男が描いている。王朝を生きたトップクラスの政治家たちが政権の座をめざし、あるいは高位高官を狙って、いかに執念を燃やし、いかに手練手管(てれんてくだ)の限りを尽したかの軌跡を、血も滴(したた)るばかりの生鮮な筆で描いているのである。そういう意味で、『大鏡』は、王朝の最高の男性文学であると断言できるとともに、現代の政界・財界・学界を問わず、生きて戦う男性の、その生きざまを示唆するバイブルである、といっても、過言ではないと思う。…  文体的にみても『栄花物語』が平安女流文学の流れを汲むやまとことばの伝統に立つ優雅な女性の文学であるのに対して、『大鏡』は、やまとことばの文学の伝統を生かしつつも、そこに漢文調を加味して、簡潔雄勁(かんけつゆうけい)な表現による新しい男性的文体を創始したものといってよいであろう。」(保坂弘司『大鏡 全現代語訳』) ②「ある年、入道殿下藤原道長公が大井川で船遊びをなされた時に、舟を漢詩の舟、音楽の舟、和歌の舟にお分けになって、それぞれの道に優れている人々をお乗せなさいましたところ、この大納言殿(藤原公任〔きんとう〕、この公任の長男が和
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読んで得する『更科日記』に関連した文章

①「こんな風にふさぎ込んでばかりいるのを母は心配し、私を慰めようと物語などをさがして見せて下さるので、なるほど自然と慰められてゆく。紫のゆかりの物語を見て、その続きを読みたくて仕方がないのだが、人に頼み込むことなどもできず、身辺の者誰もがまだ都に住み慣れない頃のことで、見つけることができない。とても待ち遠しく読みたく思われるままに、「この源氏の物語を一の巻から始めて、皆お見せ下さい」と心の中で祈っていた。親が太秦(うづまさ)寺(広隆寺)に参籠なさる時にも(一緒に付いて行って)他の事とてはなく、ただこの事を仏に申し上げて、お寺を出たらすぐにこの物語を皆読んでしまおうと思ったけれでも、見ることができない。とても残念で嘆かずにはいられなかったが、伯母に当たる人が地方から上京している所に(親が)私を行かせたところ、 「たいそう可愛く成長したことねえ」などと感心し、珍しがって、帰りがけに、 「何を差し上げましょうか。実用的な物ではつまらないでしょう。欲しがっておられるという物をあげましょう」と言って、源氏の五十余巻、櫃(ひつ)に入ったままのを丸ごと、さらに在中将(在原業平のことで、『伊勢物語』を指すと思われる)、とほぎみ、せり河、しらら、あさうづ(いずれも現存しない散佚物語)などという物語の数々を袋いっぱいに入れて、それらをいただいて帰る時の気持ちのうれしさといったら何とも素晴らしかった。  今までは飛び飛びにわずかばかり読んでは、話の筋もよく飲み込めないでもどかしく思っていた源氏物語を、第一巻から始めて、誰にも邪魔されず、一人きりで、几帳(きちょう)の中で横になって、次々と取り出しては
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読んで得する『堤中納言物語』に関連した文章

①「藤原定家が編集したとすると、ここでも、いろいろとおもしろい空想を楽しむことができる。定家は初名を「光季」、後にこれを「季光」と改め、次いで定家とした。一方、定家と並ぶ『源氏物語』の代表的研究家に源光行・親行父子がいる。光行の父は「光遠」で、『尊卑文脈』によると「改、光季」とある。「花桜折る」の中に出てくる「季光」「光季」「光遠」が、ここにも変名・改名としてずらりと並んでいる。定家は名前に興味を引かれて「花桜折る」を取りあげたのか、それとも自分やまわりの名前をこれに書き加えてよろこんでいたのか。  定家は、こんなことを考えたのもかもしれない。――短編を積み重ねて「権中納言」を描いたこの物語は、兼輔に似た所もあるから、架空の兼輔一代記という意味で『堤中納言物語』という題にするのがおもしろうそうだ。業平の一代記は『伊勢物語』だが、あれにも業平とは縁のない「筒井筒」の話などが含まれている。こちらへも兼輔とはあまり縁のない「はいずみ」を加えておこう。これは「筒井筒」の話にもちょっと似ているし、「いづこまで送りはしつと」の歌は異本の『伊勢物語』に見える歌だ。『伊勢物語』とどこか似ていて、しかも違うというのがおもしろい。あちらは短い章段を集めた歌物語だが、『堤中納言物語』の方は短編を集めた一代記だ。一つ一つが短編だから、『源氏物語』五十四帖とも一味違う。しかし、一つ一つの短編は『源氏物語』の一巻一巻に相当するのだから、一冊にはまとめずにおこう。…  貞永元年(一二三二)一月に、私は七十一歳で前参議から権中納言にかえり咲いた。私の住んでいるのは兼輔と同じ加茂川のほとり、私も「堤中納言」と呼
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読んで得する『紫式部日記』に関連した文章

①「ある人の夢に、これといった実体がないものであって、薄くぼんやりとした影のようなものが見えたのを、「あなたはどなたですか」と尋ねると、「紫式部です。偽りごとばかり多く作りなして、人の心を惑わせたがために、地獄に堕ちて責め苦を受けることはまことに耐え難いものです。源氏物語の(巻々の)名を詠み込んで、なむあみだ仏ととなえる歌を、巻ごとに人々に詠ませて、私の苦しみを慰め、安楽を願って下さい」と言ったので、「どのように詠んだらいいでしょう」と尋ねたところ、  きりつぼに迷はん闇も晴るばかりなもあみだ仏と常にいはなん (桐壺の巻を著したために地獄で迷う無明長夜〔むみょうちょうや〕の闇も晴れるように、南無阿弥陀仏と唱えてほしい) と言ったのだった。」(藤原信実『今物語』~三十六歌仙絵を描いたとも言われる中世説話文学です) ②「羅子(らし、羅貫中〔らかんちゅう〕)は『水滸伝』(中国「四大奇書」の一つ、他に『三国志演義』『西遊記』『金瓶梅』があります)を撰述し、それによって子孫三代にわたって、言葉がしゃべれない子が生まれ、紫媛(しえん、紫式部)は『源氏物語』を著したためにひとたびは地獄に堕ちたが、思うにそれは彼らがありもせぬ空想を書いて世人を惑わせた報いを身に蒙(こうむ)ったにすぎない。そういう見方でその文章を見てみると、それぞれ共に不思議な情景が躍動し、言われざる所やよく言い得た所が絶妙の域に達していて、文勢があるいは低く這うように、あるいは高々と上りつめながら、流れゆく滑らかなこと、読む者の内心を琴の胴に開けられた穴のように共鳴させずにはおかないのだ。そこに描かれた事実を千年も後の我々に
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『蜻蛉日記』で古文の素養を豊かにする

【例文】 かくありし時過ぎて、世の中にいとものはかなく、とにもかくにもつかで、世に経る人ありけり。かたちとても人にも似ず、心魂(こころだましひ)もあるにもあらで、かうものの要にもあらであるも、ことわりと思ひつつ、ただ臥(ふ)し起き明かし暮らすままに、世の中におほかる古(ふる)物語のはしなどを見れば、世におほかるそらごとだにあり、人にもあらぬ身の上まで書き日記(にき)して、めづらしきさまにもありなむ、天下(てんげ)の人の品高きやと問はむためしにもせよかし、とおぼゆるも、過ぎにし年月ごろのこともおぼつかなかりければ、さてもありぬべきことなむおほかりける。 【訳文】 このようにはかなく生きてきた過去半生も過ぎてしまって、まことに頼りなく、中途半端な状態で暮らしている女(ひと)があった。容貌といっても十人並みにもいかず、思慮分別もあるわけでもなく、こんな役立たずな有様でいるもの、もっともなことだと思いながら、ただ無意味に日々を過ごすつれづれのままに、世間に流布している古物語の一端などをのぞいてみると、どれもこの世に実在しないような作り事ばかり、それでさえも、もてはやされているので、つまらない自分の身の上でも日記としてありのままに書いてみるなら、なおのこと、珍しく思われるであろう。この上なく高い身分の人に嫁(か)した女の生活はどんなものなのかと問われたら、その答えの実例にでもしてほしいと思われるのだが、なにぶん過ぎ去った長年来のことは、記憶も薄れてはっきりしないので、なんとかまあ我慢ができるという程度の記述が多くなってしまった。 【解説】 974年以後成立。作者は藤原道綱母(みちつなのは
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読んで得する『大和物語』に関連した文章

①「(後鳥羽)上皇があるとき、「古今集の中の秀歌といったらまずどれであろうか」と近臣の者に尋ねたのである。すると藤原定家と藤原家隆の二人は、奇(く)しくも同じ答えを出した。いうまでもなく定家も家隆も『新古今集』の撰者として当代の代表的歌人である。その二人が二人とも、「古今集の中の第一の秀歌」といって推したのは、壬生忠岑の、 有明の つれなく見えし 別れより 暁(あかつき)ばかり 憂きものはなし であったという。特に定家は「これほどの歌を一つ詠むことができましたら、この世の思い出ともなるでしょう」とまで激賞した。・・・  まず彼の出世の糸口は、いまあげた和歌によるものであった。「有明の」という例の歌は、延喜(えんぎ)年間、宮廷における歌合(うたあわせ)で詠んだものである。この歌を聞かれたとき、醍醐天皇はひじょうに喜んで忠岑に昇殿を許し、御書所に出勤するようにした。かくして忠岑は紀貫之、紀友則、凡河内躬恒(おおしこうちのみつね)とともに『古今集』の撰者となったのである。」(渡部昇一『日本語のこころ』) ②「信濃の国の更級(さらしな)という所に、ある男が住んでいた。若い時に親が死んだので、おばが親のように、若い時からつきそって暮らしていたが、この男の妻の心がひどくよくないことが多くて、この姑が年老いて腰が曲がっているのを常に憎み憎みして、男にもこのおばの心が意地が悪くてよくないことを言って聞かせたので、男は昔のようでなく、このおばに対しておろそかに扱うことが多くなっていった。このおばはたいそうひどく年を取っていて、腰が曲がって二重になっていた。これをやはりこの嫁が厄介がって、(よくも
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『大和日記』で古文の素養を豊かにする

【例文】 泉の大将、故左大殿(ひだりのおほいどの)にまうでたまへりけり。ほかにて酒などまゐり酔(ゑ)ひて、夜いたくふけてゆくりもなくものしたまへり。大臣(おとど)驚きたまひて、「いづくにものしたまへるたよりにかあらむ」など聞こえたまひて、御格子(みかうし)上げ騒ぐに、壬生忠岑(みぶのただみね)御供にあり。御階(みはし)のもとに、まつともしながらひざまづきて、御消息(せうそこ)申す。 「かささぎの渡せる橋の霜の上を夜半(よは)に踏み分けことさらにこそ となむのたまふ。」 と申す。あるじの大臣、いとあはれにをかしとおぼして、その夜一夜(ひとよ)大御酒(おほみき)まゐりあそびたまひて、大将も物かづき、忠岑も禄(ろく)賜はりなどしけり。  この忠岑がむすめありと聞きて、ある人なむ「得(え)む」と言ひけるを、「いとよきことなり」と言ひけり。男のもとより、「かの頼めたまひしこと、このごろのほどにとなむ思ふ」 と言へりける返りごとに、  わが宿にひとむらすすきうら若み結びどきにはまだしかりけり となむよみたりける。まことにまだいと小さきむすめになむありける。 【訳文】 泉の大将(右近衛大将藤原定国、八六七~九〇六年)が故左大臣(藤原時平、八七一~九〇九年)のお屋敷に参られた。よそで酒など召し上がって酔い、夜がひどく更けてから突然おいでになった。大臣は驚きなさって、「どこにおいでになったついででしょう」などと申されて、(邸では)大騒ぎして御格子を上げると、壬生忠岑がお供していた。御殿の階段の下で松明(たいまつ)をともしながらひざまづき、ご挨拶を申し上げる。 「御殿の階段の霜をこの夜更けに踏み分
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読んで得する『土佐日記』に関連した文章

①「紀貫之は男である。婦女子のために女手(おんなで)を使って日記を書くことは、とても一人前の男のすべきこととは思われなかった。そこで紀貫之は冒頭にこの一句を置いて、自己を韜晦(とうかい)させなければならなかった。しかし、『土佐日記』の内容は決して女の立場で一貫して書かれているものではない。たちまち筆者が男だという本性が明らかになるのだが、最初にこの一句を置いたところに、当時の漢字の文章と女手の文章との社会的位置の相違がのぞいている。―『土佐日記』という絵入りの女手の作品は、絵を見る楽しみと、読みあげる文章を聴く楽しみという二重の効果をもたらす新しい領域を女性のために開拓した。」(大野晋『日本語の世界』) ②「「土佐日記」の価値は、第一にかな文学の先駆として文学史上不滅の意義を有していることである。平安時代の初期、平易な草(そう)がな(ひらがな)が考案され、中国伝来のむずかしい漢字にたよらなくてもよくなった便利さは認められたものの、依然として当時の人たちは、長年の習慣と中国文化を崇拝する気持ちとから、漢字を尊重し、かなはわずかに一部の女性たちの間で用いられるに過ぎなかった。ところが、わが国の伝統を尊重する大歌人紀貫之が現われて、まず延喜五年(九〇五)古今和歌集を撰するにあたって和文の序を書き、更に承平五年(九三五)和文の日記「土佐日記」を書いたのである。これは我が国新文学の進路を開拓したものであって、貫之は一世の尊敬を受けた大歌人であったから、その影響も大きく、しだいにかな文学が盛んになっていったのである。  第二には、「日記文学」という新しい文学形態をうちたてたことである。これ
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『土佐日記』で古文の素養を豊かにする

【例文】 男もすなる日記といふものを、女もしてみむとてするなり。それの年の十二月(しはす)の二十日(はつか)あまり一日(ひとひ)の日の、戌(いぬ)の時に門出す。そのよし、いささかに物に書きつく。 【訳文】 男も書くという日記というものを女(である私)も書いてみようと思って書くのである。ある年の十二月二十一日の午後八時頃、家を出る。その有様を少しばかりものに書きつける。   【解説】 935年頃成立。「日記」や「旅行記」はすでに奈良時代から存在しており、平安時代の貴族達も「備忘録(びぼうろく)」として「日記」を書いていますが、これらはいずれも公的立場にある男性が、政務や行事の記録を漢文で記したものであり、類型的な表現に制約されがちでした。これに対して、紀貫之は個人的な心情を何の制約もなく日本語で表現できる「ひらがな」を使用し、「日記文学」という新しい文学領域を創造したわけです。しかも、「ひらがな」の女性的、私的な特性を生かして、自分を女性に仮託するという虚構性を持たせ、土佐国で亡くした娘をしのぶ心情をせつせつとたたえた作品を生み出したため、これが後の女流文学を切り開いたとされます。娘への哀歌をいくつか見てみましょう。 「都へと思ふものの悲しきは帰らぬ人のあればなりけり」 「あるもののと忘れつつなほなき人をいづらととふぞ悲しかりける」 「世の中に思ひやれども子を恋ふる思ひにまさる思ひなきかな」 「生まれしも帰らぬものをわが宿に小松のあるを見るが悲しき」  また、「かな文学」は「漢字かな混じり文」という驚くべき混交文を定着させました。思えば、日本文化においては「本地垂迹(ほんちすいじ
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読んで得する『竹取物語』に関連した文章

①「幻想的物語が、写実主義の小説以上に、しばしば人間的真実を語るものであることを、現代のぼくらはもう一度、知り直さなければいけない。空想とユーモアとが、いかにぼくらを笑わせ、決して通俗的義理人情からでない、純粋に人間的な涙を―いかに芸術的に甘美な涙を誘うものであるかをぼくらは『竹取物語』によって、思いだす必要がある。」(中村真一郎『王朝文学』) ②「月の明るい季節がきた。朱(あか)い夏は逝(ゆ)き、白い秋がきたのだ。ほそい三日月も好きだ。縄を投げて三日月にひっかけ、夜空を壮大なブランコで揺れたいと、何度も想ったことがある。双眼鏡で、輝く満月を、肩がこるほど見飽かないこともある。そして、「かぐやひめ」の昇っていった、帰っていったのは、あそこなんだと思う。  「竹取物語」はおとぎばなしではない。みごとに構築された物語、知性豊かな大人が、思わず呻(うめ)いて書きあげた哀しい物語だ。  それは物語の祖(おや)だと紫式部は源氏物語に書いている。場面は、絵合わせ。左右に分かれて絵や絵巻を出しあい、議論して勝ちを競っている。双方のうしろ立てにはライバルの光源氏と頭(とう)の中将とが力を貸している。 勝負の第一番に、竹取物語と宇津保物語の絵と絵詞(えことば)とが競いあわれた。物語絵は当代の大家が描いていて甲乙なかった。絵詞は、竹取の方を紀貫之が、宇津保の方を小野道風が書いていた。ともに名うての能書で、かすかに道風のほうが「今めかし」い、つまり新味があるとして優勢になった。 だが、勝ち負けに私の関心はない。初めてこれを読んだ頃から、なぜ、紀貫之が竹取物語の詞を書くのだろうと、それにこだわった。字
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『竹取物語』で古文の素養を豊かにする

【例文】 今は昔、竹取の翁といふものありけり。野山にまじりて竹を取りつつ、万(よろづ)の事に使ひけり。名をば讃岐の造麻呂(さぬきのみやっこまろ)となむいひける。その竹の中に、もと光る竹なむ一筋ありける。あやしがりて寄りて見るに、筒の中光たり。それを見れば、三寸ばかりなる人、いとうつくしうてゐたり。 【訳文】 今ではもう昔のことであるが、竹取の翁という者が住んでいた。(その竹取の翁は)野や山に分け入っては、竹を取ったりして、いろいろな道具を作るのに使って(暮らして)いた。その名を、讃岐の造麻呂(さぬきのみやつこまろ)といった。(ある日のこと、いつも取る)その竹の中に、根もとの方が光る竹が一本あった。(翁が)不思議に思って(そばに)近寄って見ると、竹の筒の中が光っている。それをよく見ると、(中に、身の丈)三寸ほどの(小さい)人が、たいへんかわいらしい姿で入っていた。 【解説】 910年頃成立。『源氏物語』に「物語の出(い)で来(き)はじめの祖(おや)」と記されていて、「作り物語」(伝説などを元に創作された長編の物語)の最初に位置づけられます。「作り物語」の系譜はさらに『宇津保(うつほ)物語』『落窪(おちくぼ)物語』と引き継がれていき、もう一つの伝統たる「歌物語」(和歌が詠まれた場面を紹介する短編集)の系譜(『伊勢物語』に始まり、『大和物語』『平中[へいちゅう]物語』を経て、『源氏物語』に流れ込む)と共に『源氏物語』に大きく結実します。  また、こうした「物語文学」は宮廷社会を中心としたもの(ひらがなの普及が散文文学にも大きな影響を及ぼし、物語・日記・随筆など多様なジャンルの作品を生
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読んで得する『奥の細道』に関連した文章

①「芭蕉はもっぱら「わび」「さび」の詩境を求めたが、それはただ「かれ枝に烏(からす)とまりたるや秋の暮」といった情景に尽きるのではなかった。彼が探求した「寂(さ)び」とは、弟子の去来が語っているように、その背後に華やかなイメージをひそかに暗示する、そのような情感だった。  『去来抄』にいう。 ――野明(やめい)曰(いはく)、句のさびはいかなるものにや。去来曰(いはく)、さびは句の色也。閑寂なる句をいふにあらず。たとへば老人の甲冑(かっちう)を帯し、戦場にはたらき、錦繡(きんしう)をかざり御宴に侍(はべ)りても老の姿有るがごとし。賑(にぎ)やかなる句にも、静(しづか)なる句にもあるもの也。今一句をあぐ。  花守(はなもり)や白き頭(かしら)をつき合(あは)せ 先師(芭蕉)曰く、寂色(さびいろ)よく顕(あら)はれ、悦び候と也。  ここで説かれているのは、派手な錦繡(きんしゅう)で身を飾って宴席に侍っても、いや、そうであればあるほど、老いの姿のわびしさは、いっそう滲(にじ)み出てくる、ということである。だから、爛漫(らんまん)たる花の下で、花守の老人が白髪の頭を寄せ合っている情景こそ「寂色がまことによくあらわれている」と芭蕉は言ったのだ。」(森本哲郎『月は東に 蕪村の夢 漱石の幻』) ②「私が『奥の細道』の芭蕉の足跡を尋ねて歩いたのは、まだ敗戦の余燼(よじん)がくすぶっている昭和二十年代の中ごろから後半にかけてである。芭蕉の供をした曽良(そら)の旅日記が戦争中に世に出たが、これを元にして旅の事実を確かめることはまだ十分なされていなかったので、旅日記を頼りにして芭蕉の足跡を実地に見たい
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『奥の細道』で古文の素養を豊かにする

【例文】 月日は百代(はくたい)の過客にして、行きかふ年もまた旅人なり。舟の上に生涯を浮かべ、馬の口とらへて老いを迎ふる者は、日々旅にして旅をすみかとす。古人も多く旅に死せるあり。予もいづれの年よりか、片雲の風に誘はれて、漂泊の思ひやまず、海浜にさすらへ、去年(こぞ)の秋、江上の破屋に蜘蛛(くも)の古巣を払ひて、やや年も暮れ、春立てる霞(かすみ)の空に、白河(しらかは)の関越えんと、そぞろ神の物につきて心を狂はせ、道祖神の招きにあひて、取るもの手につかず、ももひきの破れをつづり、笠の緒つけ替へて、三里に炙(きう)すうるより、松島の月まづ心にかかりて、住める方は人に譲り、杉風(さんぷう)が別墅(べっしょ)に移るに、  草の戸も住み替はる代ぞ雛(ひな)の家 表八句を庵(いほり)の柱に掛け置く。  弥生(やよひ)も末の七日、あけぼのの空朧々(ろうろう)として、月は有明にて光をさまれるものから、富士の峰かすかに見えて、上野・谷中(やなか)の花の梢(こずゑ)、またいつかはと心細し。むつまじきかぎりは宵より集ひて、舟に乗りて送る。千住(せんぢゅ)といふ所にて舟をあがれば、前途三千里の思ひ胸にふさがりて、幻のちまたに離別の涙をそそぐ。  行く春や鳥啼(な)き魚の目は涙 これを矢立てのはじめとして、行く道なほ進まず。人々は途中に立ち並びて、うしろ影の見ゆるまではと見送るなるべし。 【訳文】 月日は永遠に旅を続けて行く旅人であり、毎年来ては去り、去っては来る年も同じく旅人である。舟の上で波に浮かんで一生を送る船頭や、馬の轡(くつわ)を取って街道で老年を迎える馬子(まご)などは、毎日旅に身を置いて
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読んで得する『徒然草』に関連した文章

①「『徒然草』の内容は複雑多面で、『方丈記』のように一本道ではない。複雑な人生そのもののように、多角多面である。しかもそこにじっとりとたたえた内省的な深みが懐かしい。論理的には矛盾があり、撞着(どうちゃく)があるが、それを何とかしてりくつでわり切ろうとするのは『徒然草』を真に観賞する所以(ゆえん)ではない。感覚が鋭く感情がゆたかならば、人生に対する理解も自然ふかく、かたよらない洞察を示すのである。・・・そうしたきめのこまかい人生観照こそ・・・モンテーニュの『エッセイ』に比せられるような、厚味と幅をもった人生批評家たらしめたのである。」(吉田精一『随筆入門』) ②「ある人が弓を射ることを習う場合に、二本の矢を手に持って的に向かった。すると、その師匠が「初歩の人は二本の矢を持ってはいけない。後の矢を頼みにして、初めの矢をおろそかにする心が起こる。射る度にただもう、この矢で失敗してもまだ次の矢で当てることができようなどという心を持たないで、この一本の矢で成否を決めようと思え」と言う。(このことを考えてみるに)たった二本の矢で、しかも師匠の前で射るのに、その一本をおろそかにしようなどと誰が思おうか(誰もそんなことを思いはしない)。しかし、緩んだ心は自分ではそれを意識しなくても(ふと起こるものであって)、師匠はそれを見抜いているのである。この弓についての戒めは(弓の場合だけにとどまらず)全ての場合に当てはまるだろう。様々な道を学ぶ人は、夕方にはまた明朝があることを思い、朝になればまた、その日の夕方があることを思って、(今はいい加減にしておいても)後でもう一度丁寧に学ぼうと次回を当てにする
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『徒然草』で古文の素養を豊かにする

【例文】 つれづれなるままに、日ぐらし硯(すずり)にむかひて、心にうつりゆくよしなしごとを、そこはかとなく書きつくれば、あやしうこそものぐるほしけれ。 【訳文】 することもなく退屈で心寂しいのにまかせて、一日中、硯に向かって、次から次へと心に浮かんでは消えて行くくだらないことを、とりとめもなく書きつけてみると、(自分ながら)実に変で、気ちがいじみている様な気がする。 【解説】 1331年成立。作者は吉田兼好(和歌を藤原為氏の長子・二条為世に学び、「和歌四天王」の一人と称されました。天皇側近に奉仕して「有職故実〔ゆうそくこじつ〕」の知識も得ています)。儒教、仏教、道教のいずれにも通じた知識人・教養人が、人生体験や学問から得たものをベースに、無常観を根底に置きつつ処世訓、人生論、美意識など、多方面にわたるテーマを論じていて、含蓄ある随筆となっています。例えば、「一芸を極めた者は諸芸に通じる」といった観点などは、有名な能の書『花伝書(風姿花伝)』(観阿弥口述、世阿弥筆記・編集。芸術論としてだけでなく、教育論・人生論としても高く評価されています)にも通じるものでしょう。
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読んで得する『十六夜日記』に関連した文章

①「侍従為相(ためすけ)の君のもとから、今回五十首の歌を詠みましたといって、清書もろくろくしないまま送ってよこされたが、歌も大変うまくなったものだ。五十首のうち、十八首に点をつけたが、それもおかしなことで、親の欲目というものだろう。その中に、  心のみへだてずとても旅ごろも山路かさなるをちのしら雲 (旅に出た人と心だけは隔てないとしても、身は幾重の山のはるか彼方の白雲のように遠くなってしまった。) とある歌を見ると、旅先にある母の私を思って詠まれたに違いないと、つくづく思いやられてあわれなので、その歌のわきに小さい文字で返歌を書き添えてやる。  恋ひしのぶ心やたぐふ朝夕にゆきてはかへるをちのしら雲 (朝夕に行っては帰る遠い空の白雲は、あなたを恋い思う私の心にたとえられるかしら。) また、同じく旅の題で、  かりそめの草の枕の夜(よ)な夜なをおもひやるにも袖ぞ露けき (かりそめの旅に出た人の寂しい夜々を思いやるにつけても、私の袖は涙で濡れてしまう。) とある所にも、また返歌を書き加えた。  秋ふかき草の枕にわれぞなくふりすててこし鈴虫のねを (秋深い草むらに鈴虫が鳴いているが、子どもを振り捨てて旅に出た私こそ泣く外はない。) また、この五十首の歌の奥の余白に批評の言葉を書き添える。大体の歌の詠み方などを記し付けて、その奥に亡き人々の歌を掲げ、そして最後に、  これを見ばいかばかりかと思ひつる人にかはりてねこそなかるれ (亡き父上がこの五十首を見たら、どんなに喜ぶことかと思いましたが、その人に代わって私は声を立てて泣かずにいられません。)」(『十六夜日記』「をちのしら雲」) ②「ま
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読んで得する『平家物語』に関連した文章

①「後鳥羽院の御時(1183~1221年)のことである。信濃前司行長(しなののぜんじゆきなが)は博学の評判が高かったが、楽府(がふ、漢詩の一形式ですが、特に『白氏文集』三・四所収の「新楽府」五十首を指します)の御論議の人数に召されて、その席で「七徳(しちとく)の舞」(『白氏文集』三の「新楽府」冒頭の詩で、唐の宮廷で行われた舞楽の「七徳の舞」に触れ、武の徳目を七種列挙しています)のうちの二つを忘れたので、「五徳(ごとく)の冠者(かじゃ)」というあだ名が付いたのを情けないことに思って、学問を捨てて遁世(とんせい)してしまった。慈鎮(じちん)和尚(慈円、彼の書いた『愚管抄』は北畠親房の『神皇正統記』、新井白石の『読史余論』と共に、「日本の三大史論書」と言われています)が一芸ある者を下僕に至るまで召し抱えて、可愛がっておいでだったので、この信濃入道となった行長も保護しておやりになったのである。  この行長入道は、『平家物語』を作って、生仏(しょうぶつ)という目が見えない人にそれを教えて語らせた。その場所が比叡山だったので、延暦寺のことを特別に書いたのである。九郎判官(くろうほうがん、源義経)のことは詳しく知っていたので、物語に書き込んでいる。しかし、蒲冠者(かばのかんじゃ、源範頼)のことはよく知らなかったのか、多くの事実を書き洩らした。武士のことや武芸のことは、生仏が東国の者だったので、彼が武士に尋ね、聞き得たことを行長入道に書かせた。その生仏の生まれつきの発音を、今の琵琶法師は真似て語っているのである。」(『徒然草』第226段「後鳥羽院の御時」) ②「「平家」は、曖昧(あいまい)な感
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『堤中納言物語』で古文の素養を豊かにする

【例文】 蝶めづる姫君の住みたまふかたはらに、按察使(あぜち)の大納言の御むすめ、心にくくなべてならぬさまに、親たちかしづきたまふこと限りなし。  この姫君ののたまふこと、「人々の、花、蝶やとめづるこそ、はかなくあやしけれ。人は、まことあり、本地たづねたるこそ、心ばへをかしけれ」とて、よろづの虫の、恐ろしげなるを取り集めて、「これが、成らむさまを見む」とて、さまざまなる籠箱(こばこ)どもに入れさせたまふ。中にも「鳥毛虫(かはむし)の、心深きさましたるこそ心にくけれ」とて、明け暮れは、耳はさみをして、手のうらにそへふせて、まぼりたまふ。 【訳文】 蝶(ちょう)をかわいがる姫君が住んでいらっしゃる近所に、按察使(あぜち)の大納言の姫君がお住みになっていて、奥ゆかしく至(いた)れり尽(つく)せりに、親達が大切に育てていらっしゃった。この姫君がおっしゃるには、「世の人々が、花よ蝶よともてはやすのは、あさはかでおかしいわ。人というのは真面目な気持ちがあって、物の実体をつきとめることこそ、心ばえがあらわれてよいのです」とあらゆる虫の恐ろしそうなのを採集して、「これが成長するさまを観察しよう」と、さまざまな虫籠(かご)に虫を入れさせなさる。とりわけ、「毛虫が心深いさまをしているのは素晴らしい」と、朝晩額髪(ひたいがみ)を耳ばさみにして、手のひらにのせてじっと見守りなさる。 【解説】 1055年頃一部成立。世に「堤中納言」と言えば、藤原兼輔(かねすけ、紫式部の曽祖父。紀貫之とも親交があり、その歌は『古今和歌集』に収録されています)のことですが、この物語と直接の関係はありません。したがって、編者
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『紫式部日記』で古文の素養を豊かにする

【例文】 秋のけはひ入りたつままに、土御門殿(つちみかどどの)のありさま、いはむかたなくをかし。池のわたりのこずゑども、遣水(やりみづ)のほとりのくさむら、おのがじし色づきわたりつつ、おほかたの空も艶(えん)なるにもてはやされて、不断の御読経(みどきょう)の声々、あはれまさりけり。やうやう涼しき風のけしきにも、例の絶えせぬ水の音なむ、夜もすがら聞きまがはさる。 【訳文】 秋の気配がするにしたがって、藤原道長邸の土御門殿の様子は何とも口で言えないほど趣き深くなってくる。池の周辺の梢や庭への引き水の傍らの草むらなど、それぞれ紅葉し始めるものの、その一方で、空一帯もほのぼのと気持ちをそそるような風情であるのに引き立てられて、絶え間ない安産を祈る御読経の声々は一層情け深く聞こえる。次第に深くなっていく風の気配にも、いつも絶えることのない遣り水の音が、読経の声と入り混じって区別がつかないように聞こえる。 【解説】 1010年頃成立。前半は宮廷生活の記録で、後半は消息文(しょうそこぶみ)と呼ばれるもので、特に和泉式部、赤染衛門(あかぞめえもん、『栄花物語』正編の作者とされます。夫の大江匡衡〔まさひら〕は文章博士にして中古三十六歌仙にも選ばれるなど、才気あふれる学者として知られています)、清少納言といったライバルの女房達への人物批評には紫式部の観察眼と共に、その人間性が窺えるところでしょう。 ①和泉式部に対する紫式部の人物批評  趣深い手紙のやり取りをし、歌の詠みぶりも見事だが、歌の知識や人の歌に対する批評などを見ると、こちらが気後れするほどの素晴らしい歌人とは思われない。 ②赤染衛門に対す
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読んで得する『伊勢物語』に関連した文章

①「歌の因縁を説くという、抒情的であると同時に叙事的な動機のうちに成立した、教訓的な歌物語の集積のなかから、その教訓的な意図が、おのずから理想的人間像の形成への自覚を生み落とすのである。そして、そのような人間像は、「もののあはれ」を知る貴族ということに外ならなかった。光源氏が生み出される必然性は、『伊勢物語』のなかに胚胎(はいたい)している。」(山本健吉『古典と現代文学』) ②「「二条の后」と呼ばれた藤原高子(たかいこ)は、太政大臣・藤原長良(ながら)の娘である。第五六代の清和天皇との間に、第五七代の陽成天皇を生んだ。これが、系図上の事実である。…  伊勢物語は、男性である業平の視点から描かれている。「高嶺の花」である藤原高子が、いったんは自分の恋の相手となったのだけれども、それが永遠に自分の手もとから去ってしまったという「喪失感」が何度も何度も語られる。井戸のように、男の心にぽっかりと空虚な穴をあけた欠落感が、言ってしまえば伊勢物語の主題である。…  「二条の后」の生涯を簡潔に要約してみよう。清和天皇の后でありながら臣下の在原業平と密通し、罪の子をみごもり出産してしまう。あまつさえ、その罪の子を次の天皇の位に即(つ)けてしまう(陽成天皇)。これは、どこかで読んだ記憶のある人生である。そう、源氏物語の最初のヒロインである藤壺(ふじつぼ)の人生そのままではないか。…  九段で、業平は東下りの旅に出る。八橋(やつはし)でも、宇津(うつ)の山でも、富士の山でも、隅田川でも、彼は目に触れる植物・山川・動物によって都に残した二条の后をしのぶ。これは、光源氏の須磨・明石流離の原型である。天
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『伊勢物語』で古文の素養を豊かにする

【例文】 むかし、男、初冠(うひかうぶり)して、奈良の京春日(かすが)の里に、しるよしして、狩(かり)にいにけり。その里に、いとなまめいたる女はらからすみけり。この男かいまみてけり。思ほえず、ふる里にいとはしたなくてありければ、心地まどひにけり。男の、着たりける狩衣(かりぎぬ)の裾(すそ)をきりて、歌を書きてやる。その男、信夫摺(しのぶずり)の狩衣をなむ着たりける。  春日野の若むらさきのすりごろもしのぶの乱れかぎりしられず となむおひつきていひやりける。ついでおもしろきことともや思ひけむ。  みちのくのしのぶもぢずりたれゆゑに乱れそめにしわれならなくに といふ歌の心ばへなり。昔人(むかしびと)は、かくいちはやきみやびをなむしける。 【訳文】 昔、ある男が、元服したばかりの頃、奈良の都の春日の里に、領地があった関係で、狩に出掛けて行った。その里に、たいそう上品で美しい姉妹が住んでいた。(それを)この男はちらと見てしまった。意外にも(こんな寂しい)旧都には全く不似合いな様子であったので、(男は)が動揺してしまった。(そこで男は)自分の着ていた狩衣の裾(すそ)を切って、歌を書いて贈った。その男は、しのぶ摺(ず)りの狩衣を着ていたのであった。  春日野の若い紫草で染めたこの狩衣の忍草(しのぶぐさ)の模様が乱れている様に、(美しいあなた方をお見かけしてから)私の心は限りなく乱れていることです。 と、大人びた口調で詠んでやった。(男がこんなことをしたのは)その場にかなった面白さとでも思ったのであろうか。(一体、この歌は)  陸奥(みちのく)のしのぶもぢ摺(ず)り(の乱れ模様)の様に、私の
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読んで得する『古今和歌集』に関連した文章②

⑤「平家が全盛であったとき、源氏で朝廷に仕えていたのは頼政(よりまさ)一人であり、老年になっても四位以上にならなかった。そこで、 登るべき 道しなければ 木の下に しいを拾いて 世をわたるかな と詠んだら、さすがの清盛も憐れに思って、三位(さんみ)にしてくれたという。頼政のことを源三位(げんさんみ)というのはそのためであるが、和歌の徳によって出世した武士としては彼が最初であろう。  次は頼朝である。奥州征伐で白河の関を越えたとき、頼朝は諸将に向かって、能因(のういん)法師の歌はどうだ、と声をかけた。  能因の歌は、誰でも知っている例の「都をば 霞とともに いでしかど 秋風ぞ吹く 白河の関」である。  そこで梶原景季(かじわらかげすえ)が進み出て、 秋風に 草木の露を 払はせて 君が越ゆれば 関守もなし という歌を詠じた。  すると頼朝がおおいに喜んで、即座に五〇〇町歩の土地を与えたという。なにしろ頼朝は、後世の武士から見れば武士のカミサマか、ご本尊様みたいな人であるから、その人が家来の歌一つに五〇〇町歩を与えたという効果は大きい。  頼朝のあとを継いだ泰時もまた文武の人であったので、文武両道ということが武家の理想として明らかに根づいたのである。  時代が下って足利時代のことであるが、将軍義満が伏見の桜を見に出かけたときの話である。  ちょうどあいにく雨が降ってきたので、将軍は、 「雨乞いの歌というのがあるが、誰か雨を止めさせる歌でも作らないか」 と言った。  そこで大内義弘が、 雨しばし 雲に休(やす)らへ 小幡山(こはたやま) 伏見の花を 見て帰る程(ほど) と詠んだ。  す
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『古今和歌集』仮名序で古文の素養を豊かにする

【例文】 やまとうたは、人の心を種として、万(よろづ)の言の葉とぞなれりける。世の中にある人、ことわざ繁(しげ)きものなれば、心に思ふことを、見るもの聞くものにつけ、言ひ出(いだ)せるなり。花に鳴く鶯(うぐひす)、水に住む蛙(かはづ)の声を聞けば、生きとし生けるもの、いづれか歌をよまざりける。力をも入れずして天地(あめつち)を動かし、目に見えぬ鬼神(おにがみ)をもあはれと思はせ、男女(をとこをんな)の中をも和(やは)らげ、猛(たけ)き武士(もののふ)の心をも慰むるは歌なり。 【訳文】和歌というものは、人間の心情をもととして、(それが)様々の言葉となって、表れたものである。この世の中に生きている人は、(いろいろと)出あう事件やする仕事が多いものであるから、(それについて)心に感じたことを見たり聞いたりするものに託して、(言葉として)表現したものである。花の咲く木に来て鳴く鶯の声や、水に住む河鹿(かじか)の鳴く声を聞くにつけても、全てこの世に生きているものは、何一つとして歌を詠まないものがあろうか(、皆歌を詠むものだということが感じられる)。(別に)力をも入れないで天地(の神)を感動させ、目に見えない鬼神をもしみじみと感じさせ、(また)男女の仲をも和合させ、勇猛な武士の心をも慰めるものは、歌である。 【解説】 905年以後成立。最初の「勅撰和歌集」(天皇・上皇の命令によって編纂した和歌集。平安時代から室町時代にかけて21回行われ、これを「二十一代集」と言います)で、「古」は『万葉集』から後を、「今」は撰者(紀貫之<きのつらゆき>、紀友則<きのとものり>、凡河内躬恒<おおしこうちのみ
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