【例文】
男もすなる日記といふものを、女もしてみむとてするなり。それの年の十二月(しはす)の二十日(はつか)あまり一日(ひとひ)の日の、戌(いぬ)の時に門出す。そのよし、いささかに物に書きつく。
【訳文】
男も書くという日記というものを女(である私)も書いてみようと思って書くのである。ある年の十二月二十一日の午後八時頃、家を出る。その有様を少しばかりものに書きつける。
【解説】
935年頃成立。「日記」や「旅行記」はすでに奈良時代から存在しており、平安時代の貴族達も「備忘録(びぼうろく)」として「日記」を書いていますが、これらはいずれも公的立場にある男性が、政務や行事の記録を漢文で記したものであり、類型的な表現に制約されがちでした。これに対して、紀貫之は個人的な心情を何の制約もなく日本語で表現できる「ひらがな」を使用し、「日記文学」という新しい文学領域を創造したわけです。しかも、「ひらがな」の女性的、私的な特性を生かして、自分を女性に仮託するという虚構性を持たせ、土佐国で亡くした娘をしのぶ心情をせつせつとたたえた作品を生み出したため、これが後の女流文学を切り開いたとされます。娘への哀歌をいくつか見てみましょう。
「都へと思ふものの悲しきは帰らぬ人のあればなりけり」
「あるもののと忘れつつなほなき人をいづらととふぞ悲しかりける」
「世の中に思ひやれども子を恋ふる思ひにまさる思ひなきかな」
「生まれしも帰らぬものをわが宿に小松のあるを見るが悲しき」
また、「かな文学」は「漢字かな混じり文」という驚くべき混交文を定着させました。思えば、日本文化においては「本地垂迹(ほんちすいじゃく)説」を駆使して「神仏習合」を実現させ、儒仏道は「三教一致」の観点で融合させており、南蛮文化渡来時代には10人に1人がカトリックを受け入れ、明治以降にはキリスト教諸派がどんどん入ってきていますから、1億人の人口に対して宗教人口は2億人に達するという世にも不思議な混交性・融合性を見せています。同様に文字も漢字・カタカナ・ひらがなの3種類をベースにアルファベットも普通に氾濫しているわけですから、これはもう文化的特性と言うしかないでしょう。参考までに「かな」によって開かれた日本語的心情表現(つまり、漢字では表現できない)の極致とされる、種田山頭火の非定型俳句「自由律」を見てみましょう。
「分け入っても分け入っても青い山」
「まったく雲がない笠をぬぎ」
「まっすぐな道でさみしい」
「分け入れば水音」
「すべってころんで山がひっそり」
「また見ることもない山が遠ざかる」
「どうしようもないわたしが歩いている」
「うしろすがたのしぐれていくか」
「ゆっくり歩かう萩がこぼれる」
これ以上やさしい日本語で書くことは不可能に近いですね。