①「和泉式部は、詠んだ歌数の点などでは、本当に女でこれほど多い人は滅多にいないことでしょう。気立てやその行動などはあまり奥ゆかしくなく、これほどすぐれた歌どもを詠み出すであろうなどとはとても思われませんが、しかるべき前世からの因縁のようです。現世だけの結果でこうなるとは思われません。そうしたたくさんの歌の中でも、藤原保昌に忘れられ、貴船(きふね)神社に百夜詣でをして、
もの思へば沢の蛍も我が身よりあくがれ出づる魂(たま)かとぞ見る
(もの思いをすると、沢に飛んでいる蛍も、私の身からさまよい出た魂ではないかと思われることです。)
と詠んでいるのなどは、本当にしみじみとした思いにとらわれます。
奥山にたぎりて落つる滝つ瀬に玉散るばかりものな思ひそ
(奥山にわきかえって落ちる激流に、玉が散るように、魂が砕け散るほどもの思いをなさるな。)
と貴船明神のご返歌があったとかいうのは、たいそうすばらしいことです。
また、娘の小式部内侍が亡くなった後、上東門院から下賜(かし)されたお召し物に、「小式部内侍」と書いた札が付けてあるのを見て、
もろともに苔(こけ)の下には朽(く)ちずして埋(うづ)もれぬ名を見るぞ悲しき
(娘と一緒にあの世に行かず、生きながらえて、なおこの世に残っている娘の名前を見るのは悲しいことです。)
と詠んで上東門院(紫式部も仕えた中宮彰子)に差し上げたとかいうのも、
とめ置きて誰をあはれと思ふらむ子はまさるらむ子はまさりけり
(私や子供達をこの世に残して、娘は誰をあわれと思っているのでしょう。もちろん、子供なんでしょうね。そう、私も子供はやはり最もいとおしかった…。)
と詠んだのも、たいそうしみじみと思われます。
また、孫の何とかという僧都(そうづ)のもとへ、
親の親と思はましかば訪(と)ひてまし我が子の子にはあらぬなりけり
(もしもお前が私のことを親の親だと思っているのだったら、きっと訪ねてくれたことでしょう。訪ねてくれないところを見ると、私の子供の子供ではなかったのでしょう。)
と詠んで差し上げたのも、しみじみと思われます。
書写(しょしゃ)山の性空上人(しょうくうしょうにん)のもとへ、
暗きより暗き道にぞ入りぬべき遥かに照らせ山の端(は)の月
(暗い闇の世界から闇の世界へ、私はさまよったまま入り込んでしまいそうです。上人様、仏の教えで私の行く道をお導き下さい。)
と詠んでやったところ、上人は返歌はしないで、袈裟(けさ)を贈られたのでした。そして、和泉式部はそれを着て亡くなったのだそうです。そのせいでしょうか、和泉式部は本来なら罪深いはずの人、それがあの世で助かったなどと聞きますのは、どんなことよりもうらやましいことです。」(『無名草子』)
②「小式部内侍こそ、誰よりもたいそう結構な人です。こうした清少納言のような例(晩年が悲惨だったこと)を聞くにつけても、短命だったことまですばらしく思われます。上東門院のようなあれほどすぐれた主君に特別に思われてご寵愛いただき、死後までも主君がお召し物などを下さったとかいうことは、宮仕えをした元々の気持ちとしてはこれ以上のものはないだろうと思うのです。幸せまで本当に理想的だったということです。多くの男達が彼女に夢中になったとか、それに対して妬ましいほど見事に身を処して大二条殿教通に深く愛され、尊い僧や子供を生み残して亡くなったとかいうことが、すばらしく結構なことです。
歌詠みとしての評判は母の和泉式部には劣っているようですが、病重く危篤状態になって死にそうに思われた時に、
いかにせむいくべき方(かた)も思ほえず親に先立つ道を知らねば
(どうしたらいいのでしょう。死に臨んでどう行ったらいいのか、行くべき方向も分かりません。親に先立つ道なんて、私は知りませんので。)
と詠んだところ、その時の病気はたちまちにして治ってしまったとか。そういうことで、この和歌の道がどれほどすぐれているかは分かってしまいます。また、定頼(さだより)中納言に
大江山いく野の道の遠ければまだふみも見ず天(あま)の橋立(はしだて)
(大江山を越え、生野を通って行く道が遠いので、母の住む丹後の国のあの天の橋立はまだ踏んでみたこともありません。もちろん、文〔ふみ〕もまだ見ておりません。)
と詠みかけたということなども、その場に応じての歌としてはたいそう見事なものだと推量されます。」(『無名草子』)