①「藤原定家が編集したとすると、ここでも、いろいろとおもしろい空想を楽しむことができる。定家は初名を「光季」、後にこれを「季光」と改め、次いで定家とした。一方、定家と並ぶ『源氏物語』の代表的研究家に源光行・親行父子がいる。光行の父は「光遠」で、『尊卑文脈』によると「改、光季」とある。「花桜折る」の中に出てくる「季光」「光季」「光遠」が、ここにも変名・改名としてずらりと並んでいる。定家は名前に興味を引かれて「花桜折る」を取りあげたのか、それとも自分やまわりの名前をこれに書き加えてよろこんでいたのか。
定家は、こんなことを考えたのもかもしれない。――短編を積み重ねて「権中納言」を描いたこの物語は、兼輔に似た所もあるから、架空の兼輔一代記という意味で『堤中納言物語』という題にするのがおもしろうそうだ。業平の一代記は『伊勢物語』だが、あれにも業平とは縁のない「筒井筒」の話などが含まれている。こちらへも兼輔とはあまり縁のない「はいずみ」を加えておこう。これは「筒井筒」の話にもちょっと似ているし、「いづこまで送りはしつと」の歌は異本の『伊勢物語』に見える歌だ。『伊勢物語』とどこか似ていて、しかも違うというのがおもしろい。あちらは短い章段を集めた歌物語だが、『堤中納言物語』の方は短編を集めた一代記だ。一つ一つが短編だから、『源氏物語』五十四帖とも一味違う。しかし、一つ一つの短編は『源氏物語』の一巻一巻に相当するのだから、一冊にはまとめずにおこう。…
貞永元年(一二三二)一月に、私は七十一歳で前参議から権中納言にかえり咲いた。私の住んでいるのは兼輔と同じ加茂川のほとり、私も「堤中納言」と呼ばれてよい立場だな。その意味でも、この物語を『堤中納言物語』と名づけるのはおもしろい着想だ。そういえば、「花桜折る」には、私の若いころの名前、光季・季光も入っている。〝一体、この『堤中納言物語』は、兼輔のことなのか、定家のことなのか〟と、後の人は首をひねったりするかもしれぬ――」(稲賀敬二『完訳日本の古典27 堤中納言物語 無名草子』)
②「近年和歌の道は特にもてはやされているので、内裏・院の御所・摂関家など、いずれの場でもそれぞれに詠歌の奥底まで極めていらっしゃった。臣下が大勢いらっしゃる中に、治部卿(じぶきょう)(藤原)定家、宮内卿(くないきょう)(藤原)家隆という人がいて、彼らは和歌の伝統が続く家で、和歌の道に名声を得ている人々であるから、この二人に誰も及ばなかった。ある時、摂政殿が、宮内卿家隆を呼び寄せて、「現在、正統的な歌人が多く知られている中で、誰が優れているのか。心に思っていることをありのままに(申せ)」と御下問(ごかもん)になったが、(家隆は)「どなたとも判別し難く存じます」とだけ申し上げて、心に思う所がある様子であるのを、(摂政殿は)「どうなのだ、(申せ)」と強いてお聞きになったところ、(家隆は)懐から畳紙(たとうがみ)を落として、そのまま退出した。(摂政殿がその畳紙を)御覧になったところ、
明けば又秋のなかばも過ぎぬべしかたぶく月の惜しきのみかは
(八月十五日の今宵が明けたら、秋も半ばが過ぎたことになるだろう。今傾く名月だけが惜しいのではない。この秋という時間が過ぎ去るのが惜しいのだ。)
と書いてあった。この歌は治部卿(定家)の歌である。このような御下問があるだろうとはどうして知ろうか、いや知るはずがない。ただ、元々興趣を感じて書き付け、持っていたものであろう。
その後、(摂政殿は)今度は治部卿(定家)を呼び寄せて、先(家隆に聞いた時)のように御下問になったが、これ(定家)も申し上げようがなくて、
かささぎのわたすやいづこ夕霜(ゆふしも)の雲井に白きみねのかけはし
(あの鵲が渡すという橋はどこにあるのか。この黄昏に、山の峰一面に降った雪が、天空に白くかかる橋のように輝くよ。)
と高らかに詠唱して退出した。これは宮内卿(家隆)の歌であった。まことに名手の心とは、このように一致するものなのであろうか。」(『今物語』)
③「西行、俊成、慈円は「うるはしき歌詠み」であり、自分は「智恵の力もて作る歌作り」だというように、定家はいったという。中世の多くの歌論書が伝えているとおり、定家はたしかに、こうした意味のことをいったのであろう。
一般に、叙情性がゆたかで、心に感じ思うことがそのままことばとなって流露することを本体としている作家態度と、心を研ぎ澄まし、知性の力をより多く借りることによって、美の世界を造型しようとする作家態度と、ふたつの異なる作家態度がありうる。前者は、日本の詩歌の正統的な作家態度と考えられてきたものでもある。そして、そういう正統的な作家態度が崩れっかり、それによってはすぐれた作品が詠みにくくなっていった時期が平安時代末期におとずれている。それは、和歌史における古代の終焉を意味し、中世の胎動を告げるものであった。
その中世において、独自の生活に徹することによって、正統的な作歌態度を護持し深めたのが西行という歌人であり、異端的な新しい作家態度をきりひらき確立したのが定家であった。
「歌詠み」と「歌作り」という語には、このことに関する、定家の自覚があらわれている。また、この語から、定家自身、異端の世界に道を求めねばならなかったことに、自負の念をいだきながらも、正統的な作家態度に深い敬意を払っていたことが、うかがわれる。さて、この、「歌詠み」と「歌作り」というふたつの作歌態度は、西行、定家以後、日本の抒情詩の二大潮流を形成することとなる。
「歌詠み」的態度は、悪くすると平板な作品を生む結果となるが、西行は、内なる精神をつねに掘り下げていきつつ、心深い作品を詠んだのであった。この態度においては、おおよそつねに、対象への随順があり、作者の心底には、自らを超えるものへの敬虔な思いが存在しているといえよう。
それに対し、「歌作り」的態度においては、作者が頼みとするものはただ自らの「知恵の力」なのであり、何者にも仕えることのないその心は、孤独なはずである。じつは、定家の詩人としての最大の悲劇は、このような、孤独の境涯と、彼の作品が、ほとんどつねに冷たい感触を持ち、拒絶の表情をみせていることとは、無関係ではあるまい。
若き日の定家は、この孤独に堪え、刻苦して美を作り出したのであったが、前にも触れたように、やがて暗い時代環境のなかで年老いるとともに、刻苦を支える情熱を失い、その孤独に堪えられなくなっていった。そして、そのとき、歌作は、彼の人生を支えるものとしての力を失っていった。このことは、定家が、その中年以後に作家から離れていった根本的な原因であると思われる。また、それは、彼の詩人としての悲劇でもあった。
こういう定家は、その心の深奥において孤独であったばかりでなくk、その歌壇的地位の高さにもかかわらず、周囲から真に共感されることも理解されることも乏しかったのであった。」(安田章生『西行と定家』)