①「日記を日記として書く習いから脱却し、真の意味において日記を物語ふうに書くことをなしとげた最初の作品が本日記であった。そして全篇を読んで、その印象をかみしめていると、書かれた細部は次第に影が薄れていき、その底からにじみ出てくるのは、女の悲しさ、人間のあわれさ、つまり<もののあはれ>である。」(柿本奨『蜻蛉日記』)
②「この大臣(おとど)兼家公のご長男は、女院詮子(せんし)様と同じ母君から生まれた道隆公で、内大臣で関白をなさいました。また、ご次男は陸奥守(むつのかみ)倫寧(ともやす)殿の息女を母としてお生まれになった方です。これは道綱卿と申し上げました。大納言までなさって、右近衛大将を兼ねていらっしゃいました。この大将の母君(倫寧の娘)は、この上もない和歌の名人でいらっしゃったので、この兼家公がお通いになっていらっしゃった頃のことやその歌などを書き集めて、『かげろふの日記』と名づけて世にお広めになりました。その中にこんなことが書いてあります。兼家公がお訪ねになった時に門をなかなか開けなかったので、早く開けてくれるよう従者に催促を申し入れなさったところ、女君がこういう歌をお送りになりました。
なげきつつひとりぬる夜のあくる間はいかに久しきものとかは知る
(あなたは戸を開けるのが遅いといって度々のご催促ですが、あなたのお出でを待ち焦がれ、嘆き続けて空しく一人寝をする、その夜の明けるまでの間がどんなに長いものかご存知でしょうか、いいえ、ご存知ありますまい。この歌は「百人一首」にも入っています)
兼家公はこれは大変おもしろいとお思いになって、返歌にこう詠まれました。
げにやげに冬の夜ならぬまきの戸もおそくあくるは苦しかりけり
(本当にあなたの言う通り、冬の長い夜を待ち明かすつらさはもっともですが、待っている身には槇〔まき〕の戸が開くのが遅いのもつらいものですよ。)
こうしたわけで、この女君の御腹にできた君がこの道綱卿です。この方は晩年には皇太子の傅(ふ、補導役)になられたので、傅殿(ふのとの)と人々がお呼び申し上げました。大変重くお患いになって、大将をも辞任なさっておしまいでした。この殿が今の入道殿道長公の夫人倫子(りんし)様の御妹君のもとにお通い申し上げなさって、お生まれになった方が参議の中将兼経(かねつね)の君ですよ。(もうお一人は道命阿闍梨〔どうみょうあじゃり〕です。この方はこの上もない和歌の名人でいらっしゃいました。)」(『大鏡』)