【例文】
かくありし時過ぎて、世の中にいとものはかなく、とにもかくにもつかで、世に経る人ありけり。かたちとても人にも似ず、心魂(こころだましひ)もあるにもあらで、かうものの要にもあらであるも、ことわりと思ひつつ、ただ臥(ふ)し起き明かし暮らすままに、世の中におほかる古(ふる)物語のはしなどを見れば、世におほかるそらごとだにあり、人にもあらぬ身の上まで書き日記(にき)して、めづらしきさまにもありなむ、天下(てんげ)の人の品高きやと問はむためしにもせよかし、とおぼゆるも、過ぎにし年月ごろのこともおぼつかなかりければ、さてもありぬべきことなむおほかりける。
【訳文】
このようにはかなく生きてきた過去半生も過ぎてしまって、まことに頼りなく、中途半端な状態で暮らしている女(ひと)があった。容貌といっても十人並みにもいかず、思慮分別もあるわけでもなく、こんな役立たずな有様でいるもの、もっともなことだと思いながら、ただ無意味に日々を過ごすつれづれのままに、世間に流布している古物語の一端などをのぞいてみると、どれもこの世に実在しないような作り事ばかり、それでさえも、もてはやされているので、つまらない自分の身の上でも日記としてありのままに書いてみるなら、なおのこと、珍しく思われるであろう。この上なく高い身分の人に嫁(か)した女の生活はどんなものなのかと問われたら、その答えの実例にでもしてほしいと思われるのだが、なにぶん過ぎ去った長年来のことは、記憶も薄れてはっきりしないので、なんとかまあ我慢ができるという程度の記述が多くなってしまった。
【解説】
974年以後成立。作者は藤原道綱母(みちつなのはは)で、藤原兼家(かねいえ)と結婚して、後に右大将となる道綱を生んだことからこう呼ばれます。父は藤原倫寧(ともやす)なので、藤原倫寧女(ともやすのむすめ)とも言います。『和歌色葉集』に「本朝古今美人三人之内也」、『尊卑文脈』に「本朝第一美人三人内也」とあるので、評判の美人だったようです。ちなみに「本朝三美人」とは、「光明皇后・後朱雀天皇の麗景殿女御(れいけいでんのにょうご)・道綱母」説と、「衣通姫(そとおりひめ)・染殿后(そめどののきさき、文徳天皇后)・道綱母」説がありますが、いずれにも道綱母は入っていますから、まず当時の評価としては動かないところだったのでしょう。さらに『大鏡』に「きはめたる和歌の上手におはしければ」とあり、勅撰集作歌者として『拾遺集』以下に三十七首入集しているほか、「中古歌仙三六人」「後六々撰」に加えられるなど、歌人としても名高かったので、平安朝を代表する「才色兼備」の女性であったと言えるでしょう。
本日記には兼家との愛と苦悩の結婚生活が回想的に書かれていますが、作者はこれまでの「作り物語」を「古物語」として批判・否定し、人生観照の態度、自然描写、季節的風物などを巧みに取り入れながら、時の経過に沿って身辺の起伏に富んだ出来事を主観を通して記述するという、従来の日記文学とは面目を変えた新しい日記文学を創始しています。この写実的手法は後の物語に影響を与え、特に『和泉式部日記』や『更級日記』はこの手法を学び取っているとされ、「自照文学」(日記や随筆などのように、自分自身を観察・反省する精神から生み出された文学)を確立した「最初の女流日記文学」として位置付けられます。
こうした文学史的位置付けもさることながら、『蜻蛉日記』のすごさは、作者をめぐる人脈ネットワークのすごさにあると言ってもよいでしょう。彼女の夫たる兼家は藤原摂関家の中心人物で、「そんなに最高の栄華を極めさなってもやっぱり、天皇にはお生まれになれないで、人臣にお生まれになっているところを見ますと、それだけまだ、前世のご果報がお足りにならなかったのでしょうか。そのような身のほど知らずなご行状によって、あまり長くは天下をお取りあそばされなかったのだなどと、世間で批判申し上げたようでした。」(『大鏡』)と評されるほど権勢を欲しいままにし、放埓をきわめた生涯を送ったとされています。兼家の妹は第62代村上天皇の后となって第63代冷泉天皇と第64代円融天皇を生んでおり、兼家の長女は冷泉天皇の女御として第66代一条天皇と第67代三条天皇を生んでいます。そして、兼家の五男が道長で、「此の世をば我が世とぞ思ふ望月(もちづき)のかけたることも無しと思へば」(『小右記〔しょうゆうき〕』)と豪語するほどに権勢の頂点を極めています。道長の娘彰子(しょうし)は一条天皇の中宮で、彰子に仕えていたのが『源氏物語』を書いた紫式部です。彰子の前に同じく一条天皇の中宮であった定子(ていし)は兼家の長男道隆の娘で、この定子に仕えていたのが『枕草子』を書いた清少納言です。さらに三条天皇の弟(したがって兼家の孫)である為尊(ためたか)親王(弾正宮〔だんじょうのみや〕)と敦道(あつみち)親王(帥宮〔そちのみや〕)らと派手な恋愛を繰り広げたのが『和泉式部日記』の和泉式部でした。そして、藤原倫寧(ともやす)の娘(道綱母の姉妹)が菅原孝標(すがわらのたかすえ)と結婚して生まれたのが、『更級日記』の菅原孝標女(すがわらのたかすえのむすめ)であり、道綱の曾孫(ひまご)に当たるのが『讃岐典侍日記(さぬきのすけにっき)』の藤原長子(ちょうし)です。何とまあ、当時の権力中枢と文学中枢のほとんど全部を網羅(芸術は権力の保護と経済基盤の上に花開くことがほとんどなので、この2つが同時に出てくるのは当然と言えば当然ですが)しているかのような人脈絵巻が、そこに浮かび上がってくるのです。