①「(後鳥羽)上皇があるとき、「古今集の中の秀歌といったらまずどれであろうか」と近臣の者に尋ねたのである。すると藤原定家と藤原家隆の二人は、奇(く)しくも同じ答えを出した。いうまでもなく定家も家隆も『新古今集』の撰者として当代の代表的歌人である。その二人が二人とも、「古今集の中の第一の秀歌」といって推したのは、壬生忠岑の、
有明の つれなく見えし 別れより 暁(あかつき)ばかり 憂きものはなし
であったという。特に定家は「これほどの歌を一つ詠むことができましたら、この世の思い出ともなるでしょう」とまで激賞した。・・・
まず彼の出世の糸口は、いまあげた和歌によるものであった。「有明の」という例の歌は、延喜(えんぎ)年間、宮廷における歌合(うたあわせ)で詠んだものである。この歌を聞かれたとき、醍醐天皇はひじょうに喜んで忠岑に昇殿を許し、御書所に出勤するようにした。かくして忠岑は紀貫之、紀友則、凡河内躬恒(おおしこうちのみつね)とともに『古今集』の撰者となったのである。」(渡部昇一『日本語のこころ』)
②「信濃の国の更級(さらしな)という所に、ある男が住んでいた。若い時に親が死んだので、おばが親のように、若い時からつきそって暮らしていたが、この男の妻の心がひどくよくないことが多くて、この姑が年老いて腰が曲がっているのを常に憎み憎みして、男にもこのおばの心が意地が悪くてよくないことを言って聞かせたので、男は昔のようでなく、このおばに対しておろそかに扱うことが多くなっていった。このおばはたいそうひどく年を取っていて、腰が曲がって二重になっていた。これをやはりこの嫁が厄介がって、(よくも)今まで死なないことだと思って、悪口を言い言いして、「つれていらっしゃって、深い山に捨ててしまって下さい」と女が責めてばかりいたので、男は責められて困り、そうしようと決心するに至った。月のたいそう明るい夜、「おばあさん、さあいらっしゃい。寺で法会(ほうえ)がありますから、それをお見せいたしましょう」と男が言ったので、おばはこの上なく喜んで背負われた。男は高い山のふもとに住んでいたので、その山の奥にはるばると入り、高い山の頂上の下りて来られそうもない所におばを置いて逃げてきた。「おーい、おーい」とおばが言ったが、男は答えもしないで逃げ、家に帰って来て考えていると、妻が告げ口して腹を立てた折は、腹が立ってこのようにしてしまったが、長年、親のように自分を養育して共に暮らしてきたのだから、たいそう悲しく思われた。この山の上から月が実にこの上なく明るく出たのをもの思いに沈んで眺めて、男は一晩中寝られず、悲しく思われたので、こう詠んだのだった。
わが心なぐさめかねつ更級やをばすて山に照る月を見て
(更級の、おばを捨てて来た山の上に照る月を見て、私の心はどうしても慰められない)
と詠んで、また山に行って、おばを連れ帰って来た。それから後、この山をおばすて山と言った。おばすて山を慰め難いことの縁語に用いるのは、こういう訳からであった。」(『大和物語』156段)