【例文】
泉の大将、故左大殿(ひだりのおほいどの)にまうでたまへりけり。ほかにて酒などまゐり酔(ゑ)ひて、夜いたくふけてゆくりもなくものしたまへり。大臣(おとど)驚きたまひて、「いづくにものしたまへるたよりにかあらむ」など聞こえたまひて、御格子(みかうし)上げ騒ぐに、壬生忠岑(みぶのただみね)御供にあり。御階(みはし)のもとに、まつともしながらひざまづきて、御消息(せうそこ)申す。
「かささぎの渡せる橋の霜の上を夜半(よは)に踏み分けことさらにこそ
となむのたまふ。」
と申す。あるじの大臣、いとあはれにをかしとおぼして、その夜一夜(ひとよ)大御酒(おほみき)まゐりあそびたまひて、大将も物かづき、忠岑も禄(ろく)賜はりなどしけり。
この忠岑がむすめありと聞きて、ある人なむ「得(え)む」と言ひけるを、「いとよきことなり」と言ひけり。男のもとより、「かの頼めたまひしこと、このごろのほどにとなむ思ふ」
と言へりける返りごとに、
わが宿にひとむらすすきうら若み結びどきにはまだしかりけり
となむよみたりける。まことにまだいと小さきむすめになむありける。
【訳文】
泉の大将(右近衛大将藤原定国、八六七~九〇六年)が故左大臣(藤原時平、八七一~九〇九年)のお屋敷に参られた。よそで酒など召し上がって酔い、夜がひどく更けてから突然おいでになった。大臣は驚きなさって、「どこにおいでになったついででしょう」などと申されて、(邸では)大騒ぎして御格子を上げると、壬生忠岑がお供していた。御殿の階段の下で松明(たいまつ)をともしながらひざまづき、ご挨拶を申し上げる。
「御殿の階段の霜をこの夜更けに踏み分けて、わざわざお伺いしたわけで、よそへ行ったついでではございません。
と大将が仰せでございます。」
と申し上げる。主人の大臣はたいそう心にしみておもしろいとお思いになり、その夜一晩中お酒を召し上がり、管弦の遊びをなさって、大将も引き出物を賜わり、忠岑もご褒美をいただきました。
この忠岑に娘がいると聞いて、ある人が「もらいたい」と言ったところ、忠岑は「大変結構なことです」と言った。(その後、)その男の所から「例のお約束して下さったこと、近いうちにと思うのです」と言ってきたので、返事に、
私の家の一叢(ひとむら)のすすきはまだいかにも若く、みずみずしいので、結ぶにしてはまだ早すぎます(私の一人娘は幼いので、結婚にはまだ早いのです)。
と忠岑は詠んだのだった。まことにまだたいそう小さい娘であった。
【解説】
951年頃成立。『伊勢物語』に続く歌物語で、『伊勢物語』が雅(みやび)と哀感を描いた物語であるのに対して、『大和物語』前半は当時の天皇・皇族・貴族・僧といった実在の人物の歌語りの集成で、世俗的な話題を集めています。後半では民間伝承を基にした伝説的人物が中心で、哀感の漂う物語も多く出てきます。例えば、「をばすて山」(信濃の国の更級〔さらしな、長野県更級郡〕の話で、親に早く死に別れておばに養育された男が妻をめとったところ、おばに邪険な妻にせがまれて、とうとうおばを高い山の峰に捨てて来るも、おばのことを思って一晩中寝られず、また連れ戻してきたという話)などがそれです(後の『更級日記』の題名の由来ともなっています)。これは各地に残る「姥捨(うばすて、おばすて)山の棄老伝説」につながるものでしょう。有名な深沢七郎の『楢山節考(ならやまぶしこう)』も信州が舞台となっています。
ちなみにこの泉の大将訪問時の壬生忠岑に関するエピソードは有名で、この時に詠んだ「かささぎの渡せる橋の霜の上を夜半(よは)に踏み分けことさらにこそ」の歌は、大伴家持の「かささぎの渡せる橋に置く霜の白きを見れば夜ぞふけにける」(これは百人一首にも入っています)を本歌として作り変えたものです。壬生忠岑は『古今和歌集』の撰者の一人ですが、彼の詠んだ歌が『古今和歌集』中の第一の歌として、藤原定家と藤原家隆(共に『新古今和歌集』の撰者)から推薦されたというエピソードも残っています。