①「それ故に古今集は、日本和歌史に於(お)ける一大エポックの創立的記念碑であり、万葉以後の新歌風を開拓した最初の黄金歌集として、正に千古不滅の価値を残す者でなければならない。実際古今集以後の世々の歌風は、そのスタイルと美学の根本原理を、悉(ことごと)く皆母胎の古今集に踏襲している。たとえ枝葉(しよう)に於(おい)て、多少の変化を試みた歌風であっても、原則として古今集を離れた者は一つもなかった。」(萩原朔太郎『恋愛名歌集』)
②「『古今集』の百九十年以上も前に編まれた『古事記』の序文は四六の駢儷(べんれい)体であって、同時代の中国にも書く人はほとんどいなくなった修飾の凝ったもので、太安万侶(おおのやすまろ)の学問のほどが察せられる。またこれより数年おくれてできた『日本書紀』は堂々たる漢文である。いな、それよりももっと注目すべきことは、わが国最初の歌集である『万葉集』ができる前に、『懐風藻(かいふうそう)』(七五一年)が出ていることである。つまり和歌集の前に、すでに日本人の漢詩集があったのだ。そしてこのパタンはその後になってもくずれない。つまり日本の最初の勅撰集は漢詩集である『凌雲集(りょううんしゅう)』(八一四年頃)なのである。つまり最初の勅撰和歌集である『古今和歌集』(九〇五年頃)ができる九十年も前に、外国語の勅撰詩集が出ていることになるのである。」(渡部昇一『日本語のこころ』)
③「昨秋、ハワイへ行った。学会出席のためであったが、少し遊んできた。予想どおり、ハワイはすばらしいところであった。十一月末というのに、日本の六月末の気候であり、しかも日本特有の湿気はなかった。乾いた暑さなので人はほとんど暑さを感じない。そして、花がすばらしく美しかった。熱帯独特の香りの強い花が咲き乱れ、果物はひどくうまかった。ここはたしかに極楽である。
しかし正直いうと、私はハワイの花を見ても、花を感じなかったのである。それはたしかに花であるが、われわれの想像する花ではない。日本人の理解する花とちがった花がそこにある。それは、なにゆえであろうか。ひとくちにいえば、われわれの理解している花は、咲き、そして散る花である。つまり季節によって、咲き散る花、それがわれわれの知る花である。しかしハワイの花は、そういう花ではない。もちろん、季節によって咲く花もあるが、しかし多くの花は一年中咲いている。ここには咲く花の美しさはあっても、散る花の美しさはない。
われわれの祖先の愛好した花は、そういう花ではない。それは、咲く花であるより、むしろ散る花である。私は日本人の美意識を決定したものは、『古今集』であると思うが、この『古今集』という歌集は、ほぼ自然の歌と恋の歌で出来上がっている。そして自然の歌の多くは、花の歌である。しかも花の歌といっても、主として散る花の美をうたう歌である。
桜と紅葉が、『古今集』でもっとも多く歌われる花であるが、桜も紅葉も、その美しさは、盛りになるところにあるというより、散るところにあるといえる。「久方の光のどけき春の日にしづ心なく花の散るらむ」(紀友則)という歌と、「ちはやぶる神代もきかず龍田川から紅に水くくるとは」(在原業平)という歌は、この日本人好みの二つの花の散る美しさをうたった代表的な歌である。
このことは、日本人の生と死の見方とも深く関係しているように思われる。日本人にとって好ましい人物は、散りぎわの美しい人物であった。あくまで生きぬき、ねばりぬくというような人物は、日本人好みではない。源義経、豊臣秀頼、大石良雄など、どこか日本人好みの人物には散る花の美しさがある。」(梅原猛『哲学の小径』)
④「地方赴任者は、栄転・昇格など都からの吉報を今か今かと待つ。反乱を起こした藤原純友(すみとも)を討つ将として西海に下った小野好古(よしふる、八八四~九六八)も、その一人である。
好古はいらいらしていた。討伐が思うようにいかないからではない。翌年正月の定例人事で、自分が四位に昇格するかどうかが心配なのである。好古はどうしたことか、もう二十年間も五位に据えおかれたままなのだから、苛立(いらだ)ちも当然である。万年五位、そんな言葉が好古の頭をよぎるのも一、二回ではなかった。
年は代わった。都離れた西国では、定例人事の情報もなかなか伝わってこない。都から下ってくる人に聞くと、昇格したといってくれる人もあり、また、しなかったのではという人もいる。
ようやく都の友人源公忠(きんただ、八八九~九四八)から手紙が来た。不安で高鳴る胸を押さえつつ封を解くと、一別以来の消息がこまごまと書かれているだけで、昇格には何も触れていない。発信の月日は人事発表以後であるのに触れていない友の手紙に、憎しみの念さえ抱いたのである。が、追伸が奥にあった。
玉くしげふたとせ会はぬ君が身を 朱(あけ)ながらやはあらむと思ひし
「二年会わぬ貴方(あなた)が、年が明けても朱の衣のままでいるとは思ってもいませんでした」と言う。五位の衣の色は朱色、四位は紫に近い深緋(しんぴ)。今度も昇格できなかったのである。好古は声をあげて泣いた。それは昇格できなかった悲しみばかりではない。ショックを和らげるため追伸で、しかも、枕詞(まくらことば)・掛詞(かけことば)・縁語などのレトリック交じりの歌で非情を和らげ、婉曲(えんきょく)に伝えてくれた公忠の友情に感激してであった。
好古は公忠に西海の状況を書き、追伸として一首添えたのである。
朱ながら年経ることは玉くしげ 身のいたづらになればなりけり
「年が明けながらも朱衣であるのは、私が役立たずだからでしょう」と。
今度こそ本社へと、異動発表を待っている地方の支店勤務の友人に、駄目だったということを知らせる難しさ。さらりと何気なく伝えることに公忠は苦労している。人は落ち目になればなるほど、友人の優しい心遣いには嬉(うれ)しさを感じるものである。
好古は四ケ月後に四位になった。臨時人事なのだが、両人の歌と友情が評判になっての特別昇格だろうか。」(山口博『王朝貴族物語』~源公忠は「三十六歌仙」の一人で、紀貫之とも度々歌の贈答をしています。)