⑤「平家が全盛であったとき、源氏で朝廷に仕えていたのは頼政(よりまさ)一人であり、老年になっても四位以上にならなかった。そこで、
登るべき 道しなければ 木の下に しいを拾いて 世をわたるかな
と詠んだら、さすがの清盛も憐れに思って、三位(さんみ)にしてくれたという。頼政のことを源三位(げんさんみ)というのはそのためであるが、和歌の徳によって出世した武士としては彼が最初であろう。
次は頼朝である。奥州征伐で白河の関を越えたとき、頼朝は諸将に向かって、能因(のういん)法師の歌はどうだ、と声をかけた。
能因の歌は、誰でも知っている例の「都をば 霞とともに いでしかど 秋風ぞ吹く 白河の関」である。
そこで梶原景季(かじわらかげすえ)が進み出て、
秋風に 草木の露を 払はせて 君が越ゆれば 関守もなし
という歌を詠じた。
すると頼朝がおおいに喜んで、即座に五〇〇町歩の土地を与えたという。なにしろ頼朝は、後世の武士から見れば武士のカミサマか、ご本尊様みたいな人であるから、その人が家来の歌一つに五〇〇町歩を与えたという効果は大きい。
頼朝のあとを継いだ泰時もまた文武の人であったので、文武両道ということが武家の理想として明らかに根づいたのである。
時代が下って足利時代のことであるが、将軍義満が伏見の桜を見に出かけたときの話である。
ちょうどあいにく雨が降ってきたので、将軍は、
「雨乞いの歌というのがあるが、誰か雨を止めさせる歌でも作らないか」
と言った。
そこで大内義弘が、
雨しばし 雲に休(やす)らへ 小幡山(こはたやま) 伏見の花を 見て帰る程(ほど)
と詠んだ。
すると、ちょうど雨が止んだので、義満は大いに喜んで、
「恩賞は望みしだいぞ」
と言ったので、義弘は、
「私の領地である周防(すおう)・長門(ながと)の隣に、安芸(あき)の東西条という地方がありますので、あそこを拝領したい」
と答えた。すると義満は、
「それはいとも易(やす)いことである」
と言って、東西条全部を褒美としてくれたという。
一所懸命の時代に、和歌一つで新領土をもらうというのだから、日本の武士の歌心というのは、たいしたものである。
その最もドラマチックな例が細川幽斎(ゆうさい)の場合である。
幽斎こと細川藤孝(ふじたか)は、足利義晴(よしはる)・義輝(よしてる)・義昭(よしあき)に仕え、戦国末期のどさくさに将軍家の家臣として活躍したが、足利幕府の滅亡ののちは織田信長に仕え、信長のあとは秀吉に仕え、ともに重んじられた。豊臣滅亡ののちは徳川家康に重んじられ、細川家は肥後熊本城主の大名として明治に至って、その子孫には、今日なお著名の人が少なくない。足利幕府以来の大名で残っているのは、おそらく細川家のみであるから、これを幽斎の天才的世渡り術と見る人もいるであろうが、その本当の秘密は、和歌にある。
たとえば関ヶ原の戦いのとき、彼のいた田辺城は石田光成の軍によって包囲された。ところが幽斎は、当時、「古今伝授」を受けた唯一の人であった。彼が殺されれば、藤原基俊(もととし)・俊成(しゅんぜい)・定家(ていか)以来の『古今和歌集』についてのオーソドックスな解釈の伝統が断絶してしまう。
これを心配された後陽成(ごようぜい)天皇は、勅命を下されて、包囲を解かせてもらったのである。これは家康側にとっては予期せぬモラル・サポートであった。
家康は「第二の頼朝たらん」と努めた人である。頼朝の和歌尊重のことは十分に知っている。細川家が徳川家に優遇されたのは当然のことであった。こういうのを「和歌の徳」と言うのである。」(渡部昇一『日本史から見た日本人・古代編 「日本らしさの源流」』)
⑥「三日の夕方、いくらか空模様も落ち着いてきたので、幼子を抱いて、灰にいけた炭火のそばに座って外を眺めていると、垣根の群竹の上に、愛宕山や嵐山の連山が夕日に美しく照り映えて横たわっている。見る見るうちにその山々に夕雲がたなびいて、日が暮れてしまった。その雲の色は黒く、薄い所は紫色もあるらしいのが、南に向かって大小の旗のように流れ去って行くようである。あるものは獣の吠える形、あるものは鳥が飛んでいる姿に見えるなど、様々である。あるものはたちまち人の顔になり、あるものは鬼の姿になって消え失せ、見ているうちに激しく変化していく様子は、幻のような感じがする。
一つ一つの雲の形に名前をつける間もないうちに消え去ってしまうのを、「ああだこうだ」と言っていると、幼子が気づいて、「菫の花に似ているね」と言った。それを聞いて、私はすぐさま「菫の雲は消えにけるかな」と口ずさみ、続いて「こういう風に詠むのが、いつもお前に教えているあの歌なんだよ」と言うと、幼子は驚いて、そういう風に詠めば歌になるのかという顔つきをするのだが、それが何かを分かっているような様子なので、私は続けてこう言った。「お前が近頃読んでいる古今集の序に『見るもの聞くものにつけて言ひ出だせるなり(=見るもの聞くことに託して、言葉で表現したものである)』とあるのは、こういう歌を詠むことを言うのだよ。もっと試しに言ってごらん」と言うと、「雲が見ゆれば鐘も鳴るなり」と詠んだ。これはちょうど黒谷の日暮れの鐘が後方に聞こえたからである。私は彼をほめて、「そうそう、歌とはそういうものなんだよ」と言っているうちに、隣の垣根から薄い煙がこちらに向かって流れているのを見て、私は「雲と煙と見えにけるかな」と言って、「やはり、このように物に託して詠めないものはないのだよ」と言うと、幼子はそれを聞きつけて、「『立ちにけるかな』としたらどうかしら」と言った。これはまさにあの「あめ牛に突かれた」ということであった。「立ちにける」と言ったら理解できないだろうと思って平易な表現をしたために、かえって愚行を演じてしまったのである。
おととし頃から、「月や花を素材にして歌を詠め」と私が言うと、「どの歌を詠みましょうか」と彼は言う。これは百人一首や三十六歌仙の古歌などを詠みあげることだと思っていたのである。「自分が心に思うことを詠むのだよ」と教えるのだが、ややもすれば理解しかねて、他人が詠んだ歌などを脇で聞き覚えて、口ずさんだりしていたのである。だが、今日という今日は彼自身が言っていた言葉で教えたので、理解したのである。振り返ってみると、「歌」という名にこだわり、「詠む」という言葉に悩まされていたのである。ただ、「月を言い表せ、花を言い表せ」などと言っていたら、おそらくはすぐに理解したであろうよ。その後で次々に言い出した歌を聞いていると、未熟なのは言うまでもないが、素直な気持ちが込められているので、十分に歌と呼べるものである。
以上のことは、この幼子だけの問題ではない。歌の道に入る人は誰一人として、「歌」とか「詠む」とかいう言葉に思い悩まない人はいないと思う。この夕方の雲をめぐってのたわいない考えを幼子に教えるその間に、相変わらず思い悩んでいる世間の人々の誤りを正そうと、少々心に決めたこともあるので、また、それを読む人のためにもなればと、くどいけれども書きつけるだけのことである。」(香川景樹『桂園遺文』)
⑦「ある年、天下は大ひでりして、三か月に及んで雨の潤いが無かったので、民の種も実らず、君も臣も嘆きに思って、様々の御祈禱があったけれども、その効験もない。恐れ多くも天皇の叡慮が止むことはおありにならず、「鬼神・龍神をなだめるには、和歌を手向けるのが一番だろう」と御詮議があって、その当時、和歌の誉れがあるとして、小野小町を選び出された。小町は、心では遠慮し、恐れ多いと思ったけれども、勅を承って辞退申し上げるのは叶い難く、昔から霊地と聞こえた神泉苑(京都市、天皇や貴族達の遊覧の地であり、善女龍王が住むとも言われた霊地)の池の水際に至って、しばらく礼拝をして、「このことを叶えさせ給え」と心に深く誓いをなして詠んだ歌に、
ことわりや日の本なれば照りもせめさりとてはまたあめが下とは
(我が国は日の本と言いますから、陽が照るのも道理でしょう。そうは言っても天(雨)が下とも言いますから、(雨が降ってもよいでしょうに))
と詠じたところ、この歌の徳によって、天神地祇(ちぎ)の御心を和らげ、龍神も感応なさったのだろうか、大いに雨を降らし、三日三夜に及んだので、久しく照り乾いた国土はたちまち潤いわたって、草木はことごとく青い色を表し、茂り栄えているうちに、民の嘆きは止まり、五穀豊穣になったということである。」(『七小町物語』)
「陽成院の帝(第五十七代天皇、八七六~八八四在位)の御時、ことさらに敷島の道(和歌の道)をお好みになられて、その当時、和歌に堪能であった人々にたくさんの歌をお詠ませになるけれども、いまだ御心に叶うほどの秀歌がなかった。ここで(天皇が)、小野小町は百年のうばとなって、関寺(近江国逢坂関の東にあったとされる寺院)の辺りに住んでいるということをお聞きになって、「あれは並びなき歌の上手であるので、素晴らしいことなどがあるだろう」と叡慮をめぐらされ、まず御あわれみの歌を下され、その返歌によって重ねて題を下されるのが良いとの宣旨によって、勅使が小町の庵に至って、その趣旨を述べられ、御あわれみの御製の歌を示されたが、その御歌に、
雲のうへはありし昔にかはらねど見し玉だれのうちやゆかしき
(宮中は昔と変わらないけれど、かつてあなたが見た御簾の中が見たいですか)
小町はありがたく頂戴して、「帝の御歌を詠み返しましたならば差し障りが多い。一字の返歌をお詠み申し上げよう」と言って、
雲のうへはありし昔にかはらねど見し玉だれのうちぞゆかしき
(宮中は昔と変わらないけれど、かつて私が見たい御簾の中が見たいです)
と詠んだので、勅使も大いに感じなさり、「だいたい三十一字を連ねてさえ心が足りない歌もあるのに、一字の返歌ということは、誠に霊妙な歌詠みである。しかし、歌の体にこのようなことがあるのだろうか」と尋ねなさったので、小町は答えて、「それですよ、この体をおうむがえしと申すのです。そもそもおうむという鳥は中国の有名な鳥で、人の言葉をさえずり、「何ぞ」と問えば、「何ぞ」と答える。それゆえ、この返歌をおうむがえしと名付けるのです」と申されたのであった。」(『七小町物語』)