①「『徒然草』の内容は複雑多面で、『方丈記』のように一本道ではない。複雑な人生そのもののように、多角多面である。しかもそこにじっとりとたたえた内省的な深みが懐かしい。論理的には矛盾があり、撞着(どうちゃく)があるが、それを何とかしてりくつでわり切ろうとするのは『徒然草』を真に観賞する所以(ゆえん)ではない。感覚が鋭く感情がゆたかならば、人生に対する理解も自然ふかく、かたよらない洞察を示すのである。・・・そうしたきめのこまかい人生観照こそ・・・モンテーニュの『エッセイ』に比せられるような、厚味と幅をもった人生批評家たらしめたのである。」(吉田精一『随筆入門』)
②「ある人が弓を射ることを習う場合に、二本の矢を手に持って的に向かった。すると、その師匠が「初歩の人は二本の矢を持ってはいけない。後の矢を頼みにして、初めの矢をおろそかにする心が起こる。射る度にただもう、この矢で失敗してもまだ次の矢で当てることができようなどという心を持たないで、この一本の矢で成否を決めようと思え」と言う。(このことを考えてみるに)たった二本の矢で、しかも師匠の前で射るのに、その一本をおろそかにしようなどと誰が思おうか(誰もそんなことを思いはしない)。しかし、緩んだ心は自分ではそれを意識しなくても(ふと起こるものであって)、師匠はそれを見抜いているのである。この弓についての戒めは(弓の場合だけにとどまらず)全ての場合に当てはまるだろう。様々な道を学ぶ人は、夕方にはまた明朝があることを思い、朝になればまた、その日の夕方があることを思って、(今はいい加減にしておいても)後でもう一度丁寧に学ぼうと次回を当てにする。(このように一朝とか一晩とかいうかなり長い時間でさえ、自分の緩んだ心に気がつかないものであるから、)ましてわずか一瞬間の中に緩んだ心の起こっていることに気がつく者がいるだろうか(誰も気がつかないであろう)。(一体、人間というものは、物事をしようとするに当って)たった今の一瞬間から始めて実行するということが、何とまあ難しいことよ。」(『徒然草』第92段)
③「木登りの名人と評判されていた男が、人を指図して高い木に登らせて枝を切らせた時に、(高い所にいて)たいそう危なっかしく見えていた時には何も言わないで、下りる時に軒の高さぐらいの所になってから、「やり損なうな。用心して下りろよ」と言葉をかけましたので、(私がそばから)「もうこれぐらいの高さになったからには、飛び降りたって下りることは出来るだろう。どうして(今頃になって)そんなことを言うのか」と申しました。すると、その男は「さあ、そこでございます。高くて目がくらくらし、枝が折れそうで危ない間は、本人自身が恐れて用心していますから、(私からは)注意をしてやりません。過失というものは必ず、もう安心だと思う所になってからしでかすものです」と答えた。(木登りなんかという)賎しい、身分の低い者ではあるが、(この言葉は)聖人の教訓に一致している。蹴鞠(けまり)の場合も同様で、蹴りにくいところをうまく蹴った後、もう安心だと思うと、必ず蹴り損なって鞠が落ちるものだと(その道の人々が)言っているとか言います。」(『徒然草』第109段)
④「双六(すごろく)の名人と(世間の人が)言った人に、その(勝つ)方法を尋ねましたところ、「勝とうと思って打たないのがよい。負けまいと思って打つのがよいのだ。どの手が早く負けてしまうだろうかと考えて、その手を使わないで、たとえ一目(いちもく)でも遅く負けるだろうと思われる手に従うのがよい」と言う。(これは)その芸道(の道理)をよく知っている教訓であって、一身の行いを正しくし、一国を治め、保っていく方法もまたこの通りである。」(『徒然草』第110段)