①「後鳥羽院の御時(1183~1221年)のことである。信濃前司行長(しなののぜんじゆきなが)は博学の評判が高かったが、楽府(がふ、漢詩の一形式ですが、特に『白氏文集』三・四所収の「新楽府」五十首を指します)の御論議の人数に召されて、その席で「七徳(しちとく)の舞」(『白氏文集』三の「新楽府」冒頭の詩で、唐の宮廷で行われた舞楽の「七徳の舞」に触れ、武の徳目を七種列挙しています)のうちの二つを忘れたので、「五徳(ごとく)の冠者(かじゃ)」というあだ名が付いたのを情けないことに思って、学問を捨てて遁世(とんせい)してしまった。慈鎮(じちん)和尚(慈円、彼の書いた『愚管抄』は北畠親房の『神皇正統記』、新井白石の『読史余論』と共に、「日本の三大史論書」と言われています)が一芸ある者を下僕に至るまで召し抱えて、可愛がっておいでだったので、この信濃入道となった行長も保護しておやりになったのである。
この行長入道は、『平家物語』を作って、生仏(しょうぶつ)という目が見えない人にそれを教えて語らせた。その場所が比叡山だったので、延暦寺のことを特別に書いたのである。九郎判官(くろうほうがん、源義経)のことは詳しく知っていたので、物語に書き込んでいる。しかし、蒲冠者(かばのかんじゃ、源範頼)のことはよく知らなかったのか、多くの事実を書き洩らした。武士のことや武芸のことは、生仏が東国の者だったので、彼が武士に尋ね、聞き得たことを行長入道に書かせた。その生仏の生まれつきの発音を、今の琵琶法師は真似て語っているのである。」(『徒然草』第226段「後鳥羽院の御時」)
②「「平家」は、曖昧(あいまい)な感慨を知らぬとは言うまい。だが、どんな種類の述懐も、行きついて、空しくなる所は一つだ。無常な人間と常住の自然とのはっきりした出会いに行きつく。これを「平家」ほど、大きな、鋭い形で現わした文学は後にも先にもあるまい。これは「平家」によって守られた整然たる秩序だったとさえ言えよう。また其処(そこ)に、日本人なら誰でも身体で知っていた、深い安堵(あんど)があると言えよう。それこそまさしく聞くものを、新しい生活に誘う「平家」の力だったのではあるまいか。「平家」の命の長さの秘密は、その辺りにあるのではあるまいか。」(小林秀雄『考へるヒント』)
③「もちろん『平家物語』は、平家一族が興隆し、やがて西海(さいかい)に沈むまでの平家史である。どこを採っても美しいのだが、特に没落にさしかかってからの美しさは、文字通り落日の美である。一ノ谷、屋島、壇の浦の緒合戦は、義経の登場もあって、ひとしお華麗であって、絵巻物になる。ところで勝ったほうの源氏には、これに匹敵する物語があるであろうか。
源氏は源氏でも『源氏物語』は、紫式部が書いた平安貴族の生活を種にしたロマンであって、源氏と平家にはまったく関係がない。
『源平盛衰記(げんぺいせいすいき)』もあるが、これは『平家物語』をさまざまな資料や記録で増補したものであって、『平家物語』の異本の一つと言っても差支えないのである。したがって、内容も『平家物語』とほぼ同じであり、『源平盛衰記』とは言うけれども、源氏の興隆は書いてあっても、源氏の衰亡については触れるところがない。内容に即していえば、これは『平家盛衰記』なのである。
平家があれほど美しく亡びたのに、源氏の亡び方には、まったく絵巻物的な美しさがない。そこには陰惨な権力闘争と粛清があるのみである。
建武の中興(一三三四年)まで鎌倉幕府の将軍は九代あるのだが、たいていの人は、将軍は三代の実朝(さねとも)で終わったぐらいに思っている。まことに将軍の影が薄いのである。私はここに、清盛と頼朝の性格の差を見るような気がするのだ。」(渡部昇一『日本史から見た日本人・鎌倉編 「日本型」行動原理の確立』)