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今、私はそんなところにいます

ココナラで、ここまでやってきました。正直、簡単な道ではなかったけれど、それでも続けてこられた自分のことは、少し褒めてもいいかなと思っています。今は、立ち止まって振り返る時間にしています。これまでやってきたこと。大切にしてきたこと。そして、これから何ができるのか。サービスを見直したり、サムネイルの言葉を直したり、「私らしさって何だろう」と考え直したり。派手な変化ではありませんが、私にとっては、とても大事な時間です。ここならは、これからも私の中心に置いていきたい場所です。だからこそ、焦らず、誤魔化さず、今の自分の足元をちゃんと見ながら、進んでいこうと思っています。今、私はそんなところにいます。
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[内側で何かが組み替わるとき」

妊娠がわかる前、あの不快感はただの不調だった.身体が重い。眠いのに眠りが浅い。胃の奥に、理由のわからないざらつき。自分の身体なのに、微妙に噛み合っていない感じ。どこかが、ずれている。でも、何がずれているのかはわからない。生理が来ない。もしかして、と思う。検査で「やっぱりそうだ」とわかった瞬間、不快感の意味が変わる。さっきまで「邪魔」だった下腹部の重さが、「中で何かが始まっている合図」になる。同じだるさなのに、その受け取り方がまるで違う。体調が悪い、ではなく、身体が組み替わっている途中、という感覚。腹の奥に、わずかな密度が生まれる。まだ形もわからないのに、重心だけが少し下がる。立っているとき、無意識に下腹部をかばっている。座るとき、脚の開き方が変わる。人混みでは腹を守るように身体を置く。考える前に、身体がそう動く。時期によって食べたいものが変わる。昨日まで平気だった匂いが刺さる。空腹でも満腹でもないのに、食べられたり、食べられなかったり、止まらなくなったり。内側が、むずむずする。身体の中で、しだいに増えていく自分とは違う重さ。やがて、動く。最初は、泡がはじけるような小さな感触。腸の動きとは違う、規則性のない揺れ。「あ、今のは違う」そう、はっきりとわかる。一度その動きを感じてしまうと、無意識に常に探してしまう自分。内側から、指で押されるような感覚。肋骨の内側を、硬いものがゆっくりなぞる。私の身体の中に、私ではない意思がある。じっとしていても、動きたいみたいに。私が動けば、向こうも揺れる。二つのリズムが同時に存在する。常に神経は下腹部に集まる。ほんの少しの張り、ほんの少しの違和感。ふ
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無縄自縛──自分で自分を縛ってしまう私たちへ

流し読みされる言葉ではなく、 できれば、少し立ち止まって 自分の中に落とし込んでもらえたらと思って 書きました。 もしかしたら今日は、 急いで読む日ではないかもしれません。 少しだけ立ち止まって、 自分の心の状態を確かめながら 読んでみてほしい言葉があります。 ある日、ふと目に入った言葉に、 思いがけず立ち止まることがあります。 今日の私にとって、 それが「無縄自縛」でした。 「無縄自縛」とは、 縄で縛られているわけでもないのに、 自分で自分を縛ってしまうこと。 ちゃんとしなきゃ。 迷惑をかけちゃいけない。 弱音を吐くのは、甘えだから。 誰かに言われたわけでもないのに、 いつの間にか、 それが「当たり前」になっていきます。 苦しいのに、やめられない。 逃げ場がないように感じるのは、 縛っている手が、 自分自身だからかもしれません。 でも、あるとき、ふと気づきます。 「あれ、今の私は、 自分で自分を締めつけていないだろうか」と。 その気づきがあれば、 無理に何かを変えなくても大丈夫です。 たとえば―― 少しだけ、いつもと違う道を歩いてみる。 思いきって、ちょっと遠出してみる。 理由も目的もなく、 ただ散歩をして、風に当たってみる。 「やるべきこと」から離れる時間を、 ほんの少しつくるだけで、 心が緩むことがあります。 大きな決断じゃなくていい。 生活が劇的に変わらなくていい。 日常の中の、さもない行動が、 自分を縛っていた力を、 少しずつ弱めてくれます。 無縄自縛は、 一気にほどくものではなくて、 暮らしの中で、 少しずつ緩めていくもの。 今日は、結び目に気づいただけでいい。 明
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無縄自縛──自分で自分を縛ってしまう私たち

流し読みされる言葉ではなく、 できれば、少し立ち止まって 自分の中に落とし込んでもらえたら・・・ 少しだけ立ち止まって、 自分の心の状態を確かめながら 読んでみてほしい言葉があります。 ある日、ふと目に入った言葉に、 思いがけず立ち止まることがあります。 今日の私にとって、 それが「無縄自縛」でした。 「無縄自縛」とは、 縄で縛られているわけでもないのに、 自分で自分を縛ってしまうこと。 ちゃんとしなきゃ。 迷惑をかけちゃいけない。 弱音を吐くのは、甘えだから。 誰かに言われたわけでもないのに、 いつの間にか、 それが「当たり前」になっていきます。 苦しいのに、やめられない。 逃げ場がないように感じるのは、 縛っている手が、 自分自身だからかもしれません。 でも、あるとき、ふと気づきます。 「あれ、今の私は、 自分で自分を締めつけていないだろうか」と。 その気づきがあれば、 無理に何かを変えなくても大丈夫です。 たとえば―― 少しだけ、いつもと違う道を歩いてみる。 思いきって、ちょっと遠出してみる。 理由も目的もなく、 ただ散歩をして、風に当たってみる。 「やるべきこと」から離れる時間を、 ほんの少しつくるだけで、 心が緩むことがあります。 大きな決断じゃなくていい。 生活が劇的に変わらなくていい。 日常の中の、さもない行動が、 自分を縛っていた力を、 少しずつ弱めてくれます。 無縄自縛は、 一気にほどくものではなくて、 暮らしの中で、 少しずつ緩めていくもの。 今日は、結び目に気づいただけでいい。 明日は、指をかけてみるだけでもいい。 「そんなに縛らなくても、大丈夫だよ」 そ
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「景色の見える会話」

背景が見えないと、理解は止まる。 例えば、冷蔵庫の中身。「飲んでいい?」『ダメ』「......はい」理由はわからないけれど、とりあえず従う。日常の中で、結論だけが渡されることがある。 「それはダメ」 「そういうものだから」 「前に言ったよね」 言っている側には理由がある。 でも、その理由が共有されていないと、受け取る側は“従う”ことはできても、“納得する”ことはできない。 従うことと、理解することは違う。 背景がわかれば、 ・なぜそうするのか ・どこに配慮しているのか ・何を大事にしているのか が見えてくる。 すると人は、自分の意思で協力できる。 点で見ていた出来事が、面として見えてくる。逆に、理由が見えないままだと、 「なんとなく言われたから」 「そう言われたから従う」 という形になる。 そこに小さな摩擦が生まれる。 すべてを細かく説明する必要はない。けれど、共同で動く場面では、最低限の前提共有があるだけで空気は変わる。背景は、相手を説得するためのものではない。場を整えるためのもの。もちろん、すべてを伝える必要があるわけではありません。あえて伝えないという場面もあるでしょう。理解とは、結論に同意することではなく、そこに至る道筋を知ること。 ほんの一言の背景が、すれ違いを減らしてくれることもあるのかもしれません。その会話で、あなたは“何を理解してほしい”と思っていますか?
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居場所を探す時間

朝4時。今日は早くから予定があり、家を出た。朝食だけ確保しようと、近所のコンビニに寄ることにした。駐車場はがらんとしていた。店の前の暗闇では、若い男女が二人、柵に腰をかけて煙草を吸っている。私が車を停めると、ふとこちらに視線を流し、少し気にするような様子を見せた。けれどすぐに、二人の時間へ戻っていく。高校生の娘と同じくらいかな、と思いながら、私はそっとその姿を視界に入れた。気づいていながら、知らないふりをして店内へ入る。中には客の姿はなく、おにぎりとコーヒーを手にして、さっと出るつもりだった。コーヒーマシンに向かうと、同じスペースのイートインコーナーにも若い男女の背中があった。私が近づくと、後ろをちらちらと気にする気配がする。でもその気配も一瞬で、またすぐに二人の世界へ戻っていく。猫みたいだな、と思う。逃げはしないけれど、一瞬身を固めて、全身で何かを探るような、あの感じ。昼間なら、わざわざ入ってきた人をあんなふうに気にすることはないのかもしれない。でもこの時間は、誰かが来るだけで少し空気が揺れる。寝ているはずの時間。私にとっては早起きでも、そこにいる人たちにとっては、まだ終わらない一日の途中なのかもしれない。寝静まった闇で過ごす時間。完全に自由なように見えて、案外まわりを気にしてしまう。ただ、自分たちの時間を邪魔されたくないだけなのに。そういえば私も、同じような時間にこっそり家を出て、あてもなく散歩したことがあった。何かをしたかったわけではない。ただ少しだけ、いつもと違う場所に立ってみたかったのだと思う。なんとなく悪いことをしているような気持ちを楽しみながら、私はただ、それだけ
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やってあげたのに、という言葉

「やってあげたのに」なんだか引っ掛かる言葉だと思う。さらにそこに「せっかく」がつくと、なんとも言えない気分になる。「せっかく、やってあげたのに」あなたのために、自分の時間を犠牲にしてまで行動したのに。なぜ、その行為を無駄にするの。なぜわかってくれないの。受け取る側としては、そんな重たすぎる怨念に近いものがくっついてくる感覚がある。何か言わずにいられないのなら、「やってあげた」ではなくせめて「できてるよ」くらいのほうが、受け取る側としては気が楽だ。でも本当は、見返りを求めるでもなく、その時に必要なこととして、もしくは自分がやりたいこととして静かに渡す。そんな行動のほうが、受け取る側をはっとさせる。言葉で伝えられたことは頭で処理される。でも言葉なしに伝わってきたものは、胸に届く。そこに相手の思いを感じて、自然と言葉として現れる。言葉で回収しようとすると、相手の「ありがとう」が遠ざかる。黙って行動すると、相手のほうから「ありがとう」が生まれてくる。ただ、親子のような近い関係では、その無言の行動が日常に溶け込んで、「やってもらうこと」が当たり前になっていく。それが日常というものかもしれない。でも、当たり前のようにやってもらっていることにこそ、相手の時間と意図がある。それを一度でも想像してみると、無意識に口にしていた「ありがとう」の温度が、少し変わってくるかもしれない。同じ四文字なのに。言葉で与えると言葉は遠ざかり、行動で示すと言葉が返ってくる。そういうこともある。
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「さて、やるか」で始まる感じ

中々片付かないキッチンを横目に、日常を過ごしていた。でも、気にはなっている。なんとかしなきゃと思いながら、目の前の忙しさを理由に、見えないふりを続ける。なぜだかふとした時に、やるか、という気分になる。何がきっかけだったのかと問われても、はっきりとしたものはないのかもしれない。ただ、誰かに言われたからではなく、自分の中で「今だ」と思ったタイミングで動く。あんなにやりたくないと思っていた片付けが、そんな時は不思議なくらいスイスイ進む。そして、すっきりとしたキッチンを見ると、気持ちまで少し軽くなる。開かなかった瓶のふたが、やっと開いた時のような軽やかさ。固まっていた眉間がゆるみ、口角が少し上がる。そんなわかりやすい自分に気づく。目の前のほんの小さな出来事が、ちょっとだけ自分をウキウキさせてくれる。身体の中に響いた小さな合図「さて、やるか」
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「新しい場所へ行く前の、あの感じ」

新しいコミュニティに参加する。自分から参加を希望して、少し高揚した気持ちで迎える朝。今日はどんな一日になるんだろう。そんなことを考えながら、服を選び、メイクをして、髪を整える。その場に合わせて「自分はこういう人です」という輪郭をつくっていく時間。それは、いつも通りの自分かもしれないし、少し大人びた自分、あるいは何も飾らない自分かもしれない。場面に合わせて自然に自分を演出することは、きっと誰もが日常の中で無意識にやっていることなのだと思う。一方で、新しい場所へ行くときには、楽しさと同時に、少しの怖さも顔を出す。どんな人がいるんだろう。自分はどう見られるんだろう。話が合わなかったら。嫌なことを言われたら。そんなネガティブな想像が浮かぶことも、正直ある。それでも行こうと思えるのは、その不安を上回る理由が、今の自分の中にあるからなのだと思う。前向きさと怖さ。そのどちらも抱えたまま、今日も私は新しい場所へ向かう。さて、今日のあなたは、どんな演出で過ごしていますか。
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立ち止まって見えても、ちゃんと進んでる

立ち止まっているように感じても、 それでも前を向こうとしている―― そんなあなたへ、そっと灯りをともします。 「誰かにとっては君が立ち止まって見えても 君の中ではきっと高い壁を登ってる」 wacciのこの歌詞を聴くたびに、ふと思うんです。 もしかしたら、 逆の気持ちでいる人もあるんじゃないかなって 人から見れば 「前に進んでいるよう」に見えても、 自分の中では 「何も変わっていない」 「同じ場所で足踏みしているだけ」と感じること。 努力しても手応えがなくて、 焦りや不安が押し寄せてくる。 自分を信じきれない時、 「私はいったい、どこに向かっているんだろう」と、 暗闇の中に ぽつんと取り残されたような気持ちになるし、 高い壁を登っているどころか、 地面を這いつくばっているような気持ちになる こともある。 どうにもならない現実に心が沈んで、 「このまま終わってしまうのかな」なんて、 未来がぼやけて見える夜もあるでしょう。 でもね―― そんなふうに悩みながらも、 「なんとかしたい」って思えている時点で、 あなたの中では、 ちゃんと前を向こうとしている証なんです。 光が見えない時こそ、人は心の力を試される。 見えない未来を、 それでも信じようとすること自体が、 もうすでに「生きる力」なんだと思います。 誰だって、不安を抱えたまま進んでる。 自信がなくても、迷いながらでも、 小さな明かりを探して、今日を生きてる。 止まって見える時間もね、 ほんとうは、 心の奥では少しずつ動いている時間なんです。 見えないところで、きっと何かが育っている。 だから、大丈夫。 地面を這っているように感じる日
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「何かに重ねながら」

私の犬の誕生も、七月の終わりだった。 ふわふわした頭の毛並みも、妙に私になついてくるところも、じっと見つめてくる目も、 抱き上げた時に、ほんのり体重を預けてきたり、ぺろりと耳を一舐めしてくるあの感じも。 どこか重なって見えてしまう。 きっと代わりに私のところへ来てくれたのだと、勝手に思って、勝手に可愛がっている。 そんなこと、 犬の散歩をしながら歩いていた時に、ふと浮かんだ。 ああ、私はこんなふうに何かに重ねてまで、誰かのことを思うのかもしれない、と。 ただ、自分がそこまで誰かを思うことができているということに、驚いている。その素直な感覚を、素直なままに受け取っていることに少し意外だった。 ふと感じる温かさや、心の引っかかりみたいなもの。 そういうことに、少しずつ正直になれるようになってきたからこそ、触れられた感覚なのだと思う。 そんなふうに、誰かを深く思って、何かを重ねて、切なくなる。 そんな自分に戸惑いながらも、こっちを見つめるけなげな犬の顔を眺め、今は面白がっているのかもしれない。自分の中にある感情に、ちゃんと気づいていくこと。それだけで、少し楽になることがある。
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「何でもない時間のすぐ隣で」

複合施設のスーパーで買い物をしたあと、エレベーターの前で少し時間をつぶしていた。すると、すぐ後ろのエレベーターが開いた。その瞬間、聞き慣れた音が耳に入る。モニターの波形を表す、あの電子音だった。数名の人に囲まれたストレッチャーが出てくる。「出口どこ?」「あっち?」「いいよ、続けて」「はい、行くよ」静かで、穏やかな声だった。けれど、そのひとりは心臓マッサージを続けている。いつのまにか医療者として見ていた自分が、静かに見ていた。ストレッチャーの上で、心臓マッサージのリズムと一緒に動く身体。反応のない表情。その上で飛び交う、穏やかで冷静な会話。確かな処置が、淡々と進んでいく。何があったのかはわからない。この先どうなるのかもわからない。けれどそこには、ひとつの命に向き合う人たちの姿があった。その後ろから、家族なのか数名の大人が降りてきた。不安そうな表情で、ただ後を追っていく。穏やかな声。不安を隠せない表情。同じ場にいながら、そこに流れている時間はきっと違う。でも、私にとっては、これは日常の延長にある一場面だった。命の切迫も、処置の確かさも、不安を抱えた家族の表情も、どれも医療の現場では確かにあるもの。何でもない時間のすぐ隣で、そういう時間が動いている。それを見ながら、これもまた日常の一コマなのだと思った。だけど誰かにとっては、それは非日常の光景なのかもしれない。
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「継続の中に見える、生き方」

久しぶりに着付け教室で会った方が、きれいに着られるようになっていた。3か月前、初めて会った時は、着物に触ることも着ることも、全部が初めてだと言っていた。見よう見まねで紐を結び、何とか形にしている。そんな始まりだったと思う。でも今日は違った。手つきが自然で、着終わった姿もすっきり整っていた。きっと、ただ回数を重ねただけではない。着付けの手順にある意味や、形になる理由が、少しずつ身体に入ってきたのだと思う。最初はわからなくていい。できなくていい。続けるうちに、意味が身体に馴染んでいくことがある。継続って、同じことを繰り返すだけではないのかもしれない。理想との差を感じながら、今の自分に何が必要かを見ていくこと。少しずつでも、そこに近づこうとすること。途中で、向いていないのかもしれない、無理かもしれない、そう思うこともある。やめてしまいたくなることも。でも、自分がやりたいことって「どうしたら、もっとできるようになるかな」そんな風に、その先を知りたくなってくる。ただ、そこに誰かの期待が乗りすぎると、少し苦しくなることも。「頑張れ」は、ときどきこわい。励ましのようでいて、他人の都合まで乗ってしまうことがあるから。私は、頑張れを正義にはしたくない。頑張る、という形で、信念を曲げずにまっすぐ進んでいく人もいるのだと思う。それも、ひとつの継続のかたちなのだろう。でも私は、そんなに力を入れすぎなくても、楽しいから続いている、そのくらいの気持ちでいたい。継続の意味は、人それぞれ。どんなふうに続けていくのかにも、その人の生き方が少しずつ出るのかもしれない。継続は、できるなら自分のためのものであってほし
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「足の裏の米粒?」

何かのきっかけで、昔言われた嫌な言葉をふと思い出すことがある。もう終わったことのはずなのに、なぜか少しだけ胸に引っかかる。そんなときの感覚は、足の裏に米粒がついたみたいな感じ。硬くても、つぶれていても、歩くたびに、なんとなく気になる。痛いわけじゃない。歩けないほどでもない。でも、確かにそこにある。なんか、気になる…うれしくない思い出って、そんなふうに残るのかもしれない。消えるわけでもなく、強く刺さるわけでもなく、ただ、違和感としてそこにある。つい踏んでしまった足の裏の米粒。本物の米粒みたいに、そこから取り除けたらもう少し気持ちは楽になるのに。そんなことを思いながら、今日も歩いている。何かを踏んだような違和感を、感じたことはありますか?
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「手をつなぐ」

自然に見える仕草ほど、見えないところで誰かが少し寄っている。手をつなぐ、というのもたぶんそういうことなのだと思う。親と子の手には、命をつなぐような強さがある。そこにいることを確かめるような、まっすぐなぬくもりがある。思い合う二人の手には、つながりを確かめるような儚さがある。近づきたい気持ちと、壊したくない気持ちが、そっと重なっている。同じように触れているように見えても、そこに流れているものは少し違う。けれど、そこにあるのはただ触れるだけではない相手を求めた時に自然と生まれる静かなぬくもりなのだと思う。何でもないふうに見えるその一瞬に、言葉にしない歩み寄りがある。人はきっと、そういうものに触れた時、少し遅れて胸の奥が熱くなる。距離が隙間になる時、あなたは何を思うのでしょうか。
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「既読と返信のあいだにあるもの」

LINEの返信について、時々考えることがある。私は、LINEは基本的に急がない連絡手段だと思っている。だから連絡が来ても、急ぎでなければすぐには返信しない。何なら忘れてしまうこともある。本当に急ぎなら電話をすればいい。すぐに連絡が欲しいなら、そう書けばいい。私はそういう温度感で使っている。もちろん、それがすべてではないことは、わかっている。すぐに既読がつかない。返信がない。それだけで「なぜ気がつかないのか」「なぜ返事がないのか」と思う人もいる。もしかして避けられているのではないか。軽く扱われているのではないか。そんな気持ちからの思いなのかもしれない。同じツールでも、使い方や意味づけは人それぞれ違う。でも、だからこそ必要なのは想像力だと思う。相手は今、何をしているのか。すぐに返せない状況かもしれない。とか。伝えたいことははっきりと書けばいい。何を求めているのかを分かりやすく。しかし、長文で書き連ねればいいとは言えない。結局、何が言いたいのかわからなくなることも。それは読む側の時間を奪い、負担になっているかもしれないと、考えたことはないだろうか。私はすべてに目を通し、いつ反応するかは自分で決めている。すぐ返すこともあれば、あえて時間をあけることもある。スルーすることもある。それも私の選択。こじらせるのが面倒な時は、あえて即レスすることもある。どう思われるかも含めて計算のうち。それで関係が揺らぐなら、それまでの関係だと思っている。便利なものは、便利に使えばいい。ツールに振り回され、軸がぶれた時、自分がぐらついていませんか?私は自分のスタンスを守る。理解されないこともある、それも織り込
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「同じ話なのに、 なぜか聞ける人と聞けない人がいる」

先日、子どもが入学する学校の保護者会があった。先生たちの説明を聞きながら、ふと思ったことがある。なぜか人によって、話が聞こえる時と聞こえない時がある。1人目の先生の話も、資料通りに始まる。また、つまらない話を聞かなくてはいけないのかもしれない。そんなことを思いながら資料を見ていた。文字ばかりの資料。読めば内容はわかる。きっとまた、眠くなる時間だ。その時、ふと疑問が浮かんだ。どんな条件なら、眠くならないのだろう。きっちりとした資料に沿って、ほぼ同じ内容の説明が続く。手元にも資料、スクリーンにも同じ資料。基本的には、その内容を読み上げていく形だ。同じトーンで、テンポも一定。息継ぎや間も短く、少しまくし立てられるような印象。熱量だけが多く、頭の中では飽和状態。気づくと、何も入ってきていない。そんな説明が二人続いた。そして三人目で、空気が変わる。資料は同じ。スクリーンも同じ。違うのは、話し方だった。目線は会場を見ている。資料ではなく、本人の言葉から話が始まる。間がある。呼吸を感じる。テンポやトーンにも強弱がある。そのリズムに合わせて、話が頭の中に入ってくる。単にその人のキャラクターということではなく、きっと「聞かせる技術」なのだと思う。表情が見える。言葉に温度がある。話の上手な人は、自分がどんな喋り方をしているのかをきっとわかっているのだろう。でも、もう一つ思ったことがある。ただ聞こえてくるのではなく、聞こうと思って聞く時には、聞く側にも何かしらの目的がある。同じ場所で同じ話を聞いていても、人によって反応が違うのは、その目的の違いなのかもしれない。さて、私はどうだろう。話の内容が見えた
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「歌に映る、秘めた思い」

その時に、なぜか聞きたくなる歌はありませんか。気がつけば、同じような曲ばかりを繰り返し聴いている。そして後になって歌詞を眺めてみると、今の自分の状況や感情と、どこか重なっていることに気づく。自分ではうまく言葉にできない気持ちを、音楽が代わりに語ってくれているような感覚。無理に整理しなくても、それだけで少し心が整うことがあります。以前、忙しさで余裕をなくしていた時期がありました。一人で残業をしていた夜、ラジオから流れてきた一曲。誰かがリクエストしたもので、もちろん私に向けられたものではありません。それでも、その瞬間、「私は一人じゃない」と思えました。状況が変わったわけではありません。けれど、張りつめていた心がほんの少しだけ、緩んだのです。自分で選んだ音楽でなくても、受け取れるものはあります。誰に向けられたわけでもないからこそ、自分の心に沿う形で受け取れる。今はいつでも音楽がそばにある時代です。無意識のうちに、私たちはその時の自分に必要な音を選んでいて、何かを受け取っているのかもしれません。最近よく聴いている曲は、どんな歌ですか。そこに、今のあなたの思いが映っているかもしれません。
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「ー食べないーの裏側にあった、言葉たち」

最近、娘の「食べない」が、 ただの体調や気分の問題ではないことを知った。 きっかけは、彼女の部屋にあった、開かれたままの一冊のノートだった。 そこには、誰にも見せないつもりで書かれたであろう言葉たちが、 静かに並んでいた。 食べることの拒否 食べることへの渇望 見られたくない彼女 見てほしい彼女 痩せたままの彼女 太ることへの恐怖 眠れない彼女 寝ることが怖い彼女 その狭間が心地よい彼女 そこにいる彼女 行動の裏には、きっと何かがある。 それは、本人にさえうまく説明できない形で、 心の奥に沈んでいることもある。 見えているのは行動だけで、 本当の理由は、ずっと内側に隠れている。 あのノートは、 抱えきれなくなった感覚たちが、 行き場を探して辿り着いた場所なのかもしれない。 墓場のようでもあり。避難所のようでもあり。 秘密基地のようでもあり…言葉にすることで、輪郭を持ってしまう感情。 そうすることで、 向き合うこともできる。 吐き捨てることもできる。そしてふと、気づいた。 私もまた、言葉をつかい、違和感の輪郭をなぞっていく。形は違っても、似ているのかもしれない。 そう思うと、 娘との距離が、ほんの少しだけ縮まった気がした。 そんなことを考えながら、 ごみの日だったことを思い出し、そっと部屋を出る。
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「矢印を自分に戻すということ」

自分と相手の方向が合わない時。止められたり、違う意見を向けられたりすると、心の中で一度「どうしようかな…」と立ち止まる瞬間があります。少しだけ相手に寄せるのか。そのまま受け入れるのか。それとも、自分の思いを大切に進むのか。どの道を選んでも、あとに残る感覚は「何を選んだか」よりも“自分がどう受け取ったか”で変わる気がします。同じ行動でも、「受け入れた」と思うと少し前向きで、「妥協した」と思うと、どこか苦さが残る。出来事は同じなのに、自分の中に残る温度の違いを、感じたことはありませんか?きっと大事なのは、正解を探すことよりも、最後に自分へ矢印を向けられるかどうか。「私はこれを選んだ」そう思えると、少しだけ景色が明るくなる感じがします。相手に合わせたとしても、自分の気持ちを通したとしても、そこに自分の意思が重なると、不思議と残る温度もやわらかくなります。どんな道でも、最終的にハンドルを握っているのは自分。その感覚をそっと思い出せるだけで、どんな答えの後にも、前を向いている自分がそこにいるかもしれません。正解は、きっと誰にもわからない。だからこそ「自分はこう感じた」という、心の奥の小さな声に耳を傾けながら、相手には内緒で、そっと自分の温度を整える。
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「違和感の中に見つけることのできる、癖の種」

人と話していて、同じ出来事なのに受け取り方がこんなに違うのか、と気づくことがあります。ある人は「自分の言葉が届かなかった」と悲しくなり、私は「この人はこう受け取ったんだな」と少し引いて見ている。どちらが正しいわけでもなく、そこにあるのは性格というより“受け取りの癖”なのだと思いました。言葉への反応や感じ方は、これまでの経験の積み重ねで形作られていく。だから簡単には変わらない。でも、自分がどんな反応をしやすいのかを、知ることはできます。そのヒントになるのが、日常会話の中でふと生まれる違和感。なぜ今、少し引っかかったのかな。なんでモヤッとしたんだろう。大きな出来事ではなくても、会話の中の小さなズレを感じることありませんか?その違和感を無視せずに、自分に戻してみる。そこに目を向けると、自分の癖の輪郭が少しずつ見えてくる感じがします。そこにある違和感は、不快なものではなく、自分を知るための、小さなサインなのかもしれません。自分の中に生まれるモヤッとしたもの、知らんぷりして過ごしていませんか?
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「ギフトのような、透明な時間」

寝静まる深夜。 カタン。 バタン。 ガサガサ。 微かに、けれど確かに聞こえてくる音がある。 その音は、私には  「ここにいるよ」という声のように聞こえる。 私はいつも、眠っているはずなのに、眠れてはいない。 神経だけが、ずっと起きている。眠い目のまま、ベッドから起き上がり、 私は音のする方へ向かうどうか、そこにいてほしい。 どうか、生きていてほしい。 そんな祈りを、無意識に抱えながら。 今日は珍しく、友達の家に泊まりに行っている。彼女のいない夜。心のどこかで、ほっとしている自分がいる。いつも、あそこにいてほしいと願っているはずなのに。家の中は静かで、私はいつもより早く、ベッドに入っていた。かすかな物音に、耳を澄ますこともなく、何も考えずに、深い眠りに落ちることが許される日。そのとき、ようやく気づく。自分が、ずっと疲れていたことに。明日はどんな日になるのかを想像しながら、眠りに落ちたこの瞬間、私の一日は、ようやく終わる。母親という役を脱ぎ、透明になれる時間。そんな夜もある。そして、日々は続いていく。あなたには、ふと力を抜いていい時間はありますか?
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立ち止まった時間が、あとで自分を助けてくれることもある

何も進んでいない気がする時期って、ありますよね周りは前に進んでいるように見えるのに自分だけが足踏みしているように感じてしまう時間です「こんなことしていていいのかな」「早く動かないと置いていかれるかも」そんな焦りが、胸の奥で静かに広がっていきますでも、あとから振り返って思うのですあのとき立ち止まった時間が、実は自分を守ってくれていたのだともし無理に進んでいたらきっと心が折れていたもし勢いだけで選んでいたらもっと苦しい場所に行っていた立ち止まる時間は何もしていない時間ではありません自分の内側で、ちゃんと調整が起きている時間です人は、ずっと走り続けることはできません立ち止まることでしか見えないものもあります疲れていること違和感を抱えていること本当は望んでいない方向に進もうとしていたこと立ち止まったからこそそうしたサインに気づけたのだと思いますその時は、意味が分からなくても大丈夫です「何もしていない自分」に見えてもその時間はちゃんと積み重なっていますあとになって「だから今、この選択ができたんだ」「だから無理をしなくなったんだ」そう思える瞬間が、必ず訪れます。立ち止まった時間は、遠回りではありません。むしろ、自分を壊さずに生きるための必要な時間です。前に進めない時期があるからこそ、次に動くときは、以前よりも少し楽に少し自分らしく進めるようになります今、もし立ち止まっているなら自分を責めなくていいですその時間は未来のあなたを助けるためにちゃんと意味のある時間になっています焦らなくて大丈夫です立ち止まったあなたもちゃんと人生の途中にいます
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「例えば、ある犬の話」

散歩をしていると、「お利口だなあ」と思う犬に出会うことがある。反対に、ちょっと大変そうだな、と思う犬を見ることもある。でも、その違いって、本当に犬だけのものなんだろうか。その子がそこにたどり着くまでに、どんな時間があったのか。どんな関わり方をされてきたのか。うまくいったことも、うまくいかなかったことも、きっと全部、今の姿に滲んでいる。と、私は犬を見ながら、その背景を想像してみる。目に見えている姿だけで判断してしまうと、いちばん大事なところを、なんだか見落としてしまう気がするから。目の前に見えているものは、ほんの一部。その奥に、どんな積み重ねがあったのか。そう考えてみると、視野が広がるような気がする。目の前にある姿には、そこに至るまでの時間が、きっとある。見えているものだけで、決めてしまっていないかな。目の前に見えることがすべてではなく、そこに、ドラマが見えてくるかもしれない。
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「こころの処方箋」

「頑張って」と「応援してるよ」贈る側にとっては、どちらも同じような気持ちで使っている言葉かもしれない。でも、受け取る側に立ったとき、その言葉の温度感は、少し違って感じられることがある。「頑張って」は、どこか行動を求められるような感じ。前に進んでほしい、乗り越えてほしい、そんな期待が、無意識に含まれている。一方で「応援してるよ」は、相手の“今”に添える言葉だと思う。何かを成し遂げるかどうかよりも、あなたの存在そのものを思っている、というメッセージ。無意識に相手を変えようとする言葉は、時に厳しく、残酷になることがある。そこに、本人の意思やタイミングが置き去りにされてしまうから。でも、贈る側を主語にした言葉は、静かで、温かい、そんな風にも感じられる。「私は、あなたを気にかけている」その思いだけが、そっと添えられていく。そういう言葉は、その場ですぐに力にならなくてもいい。後になって、ふと思い出されたとき、じわじわと、その人の支えになることも。言葉にも、即効性のものと、時間差で効いてくるものがあるのだと思う。あなたは今、どんな風に言葉を選んでいますか。
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「何もできない日の私」

何もしない日があってもいい。そう思いたいのに、「何かをしなければ」という感覚が、どこかでずっと離れない。やるべきことも、やったほうがいいことも、頭ではわかっている。でも、体が動かない。気持ちが動かない。起きて、食べて、飲んで、テレビを見て、スマホを見て。着替えもせず、ただ時間が過ぎていく。…それを、誰がダメだと言えるのだろう。誰もが、いつも他人に評価されるために生きているわけじゃない。それでも、何もできなかった日には、理由のない罪悪感が残る。誰かに言われる前に、自分で自分を責めているのかもしれない。でも、その日そのときの体と心が、ただ存在することを、選んだ。ただ、それだけだったのだと思う。何もしていないように見えても、日々は少しずつ進んでいる。生きている限り、時間も感覚も、進んでいく。必要なタイミングで、 見えてくるのだと思う。それは「できなかった自分」なのか 「しないことを選んだ自分」なのか、 あなたには、どんな風に見えているのでしょうか?
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「その日の私を、着る」

変わらない日々の中で、服を選ぶことは、ただの作業になる日もある。何を着るか考えるのがめんどうで、毎日同じものでいいと思うこともある。そんな気分の日が続くことだって、よくあること。それが今の自分であり、それでいいのだと思う。気づけばそのときの自分が、いちばん過ごしやすい服を、自然と選んでいる。着飾ることだけが、服じゃない。日常の自分を、静かに、やさしく包んでくれる服。それもまた、その日の私が選んだ一枚だ。流行に合っているかどうかより、誰かにどう見られるかより、その服で一日を過ごしやすいかどうか。さらに、自信を持って着ている服は、不思議とその人の立ち姿に表れる。無理に背筋を伸ばさなくても、そのままで、ちゃんと立っているように見える。服を選ぶことは、その日の私を、着るということ。あなたは今日、どんな自分を選びましたか?
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「そして、1日が始まる」

彼女の部屋に入るとき、私はいつも耳を澄ませる。 かすかに聞こえる呼吸の音。 ベッドの中に人の形を見つけて、つぎに視線を机に移す。 散らかった机。 彼女の心の中みたいだと思う。 そこには、見たくないものがあった。 茶色く汚れた、無造作に丸められたティッシュ。 同じ色のついた、鈍く光る「ソレ」。 一瞬、時間が止まる。 怒りでも、悲しみでもなく。 胸の奥に広がる、冷たいもの。 すぐそこで眠る彼女の背中。 生きている。 今は、ここにいる。 机の上を片付け、 もう一度、寝顔を確かめて部屋を出る。 また今日も、一日が始まる。 この子の「生き方」は、 こんなふうに、ぎりぎりの場所にあるのかもしれない。 見失わないように、私は今日も、彼女の温かさを探す
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短期と長期、どっちを見る占いが今の自分に合う?

最近、「今すぐどうしたらいいか知りたい気持ち」と「この先、大丈夫なのかを、少し落ち着いて見たい気持ち」その両方を抱えている方が、とても増えているように感じます。早く答えが欲しい。でも、先のことも不安。どちらか一方ではなく、両方が同時に心の中にある。そんな状態の方が、多い印象です。これは、迷っているからでも、決断力がないからでもありません。それだけ、今をちゃんと生きている、ということなのだと思います。「短期」で見る占いがしっくりくる時期というのは、多くの場合、心や生活にあまり余白がないときです。考えることが多くて、まずは目の前の足元を整えたい。大きな意味や理由よりも、「今の自分は、どう動くと楽か」そこを知りたいとき。短期で見る鑑定は、未来を決めるためというより、今の自分の扱い方を知るためのものだと感じています。一方で、「長期」で見てみたいと思う時期もあります。それは、何かに追われているというより、一度、立ち止まりたいとき。このまま進んでいっていいのか。今までの流れは、どんな意味を持っていたのか。先を決めたいというより、全体を俯瞰して、安心したいそんな気持ちが強いときです。長期で見る鑑定は、未来を固定するためのものではなく、人生の地図を一度、広げて眺めるようなもの。前世やカルマといったテーマも、今を縛るものとしてではなく、背景として、そっと読み解いていきます。短期と長期、どちらが正解、ということはありません。今すぐ答えが欲しい時期もあれば、少し先までを見ても大丈夫な時期もある。その時々で、行ったり来たりしていいのだと思います。どのスパンを見るかを選ぶこと自体が、今の自分の心の状態を
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女神の1枚ーチャリオット(逆位置)

思うように進めないとき、それは止められているのではなく自分の内側で足並みを揃える時間なのかもしれません。チャリオット(逆位置)は🃏「外へ向かう前に、内側の調和を取り戻す」ことを教えてくれます🌌✨補足に現れたのはカップのキング(正位置)と、カップのクイーン(逆位置)🃏同じスートで並んだこの2枚は自分の中にある“感情を支える力” と “揺れ動く繊細さ” を映しているようです💓落ち着いて全体を見ようとする自分と感情に波が立ち、疲れやすくなっている自分。どちらかを抑え込む必要はなく今日はこの2つが手を取り合うことが大切な日💫無理に前へ進もうとすると、内側の足並みが乱れてしまう。だからこそ今日は「感じる自分」と「整える自分」を同じ船に乗せてあげて⛵️✨止まることは、弱さではありません🌙自分の中のパートナーシップが整ったとき自然と進む方向は見えてきます。今日は、心の舵をやさしく持ち直す一日☺️「女神の1枚」では毎日カードをお届けしています🃏個別のリーディングは、こちらからどうぞ👉 サービスページはこちら👉初めての方は、こちらのお試し1枚引きからどうぞ🃏お試し価格で体験してみてください! 👉2026年の女神からの月別メッセージ PDFもご用意しました🌙✨💫 https://coconala.com/contents_market/pictures/cmiv8fzme001j970ghdzudkvj
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誰かみたいになろうとして、疲れてしまったあなたへ

― がんばれない日も、ちゃんと意味がある ―🕊こんばんは美結(Miyu)です。ひとりでサロンを経営していたり、ビジネス起業塾で学んでいると、いつの間にか「他の人の進み具合」が目に入ってくることがあります。同期の人がもう結果を出していたり、SNSで「うまくいっています」という投稿を見たり。本当は、自分のペースで進みたくて始めたはずなのに、気づくと「私は遅れているんじゃないか」「このままで大丈夫なんだろうか」そんな焦りが、胸の奥にじわっと広がっていく。そしていつの間にか、“自分らしさ”ではなく“誰かみたいになること”を目指してしまうことがあります。本当は、比べたくて比べているわけじゃない。でも、・成果の出るスピード・話し方・発信の雰囲気・「自信がありそう」に見える姿そういうものに触れるたび、自分の中の何かが、静かにざわついてしまう。「私も、ああならなきゃ」「今のままの私は、足りないんじゃないか」そうして、いつの間にか“自分の感覚”よりも“正解っぽい誰か”を追いかけて、心が少しずつ置き去りになっていく。そんなふうに疲れてしまった時ほど、無理に答えを出そうとしなくていいのだと思います。焦りの中で出した答えは、たいてい「自分の本音」ではなく、不安が作った答えだから。がんばれない日。立ち止まってしまう日。何も進んでいないように感じる時間。それは、前に進めていない時間ではなく、まずは自分の気持ちを整理するための、とても大切な時間なのかもしれません。むしろそれは、「これ以上、無理をしないで」という心からのサイン。だからまずは、答えを出そうとする前に、今の気持ちをそのまま置いてあげてください。整
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心|答えが出る前に、大切にしてほしいこと

迷っているとき、人はつい「答え」を出そうとします。どちらが正しいか。どちらを選ぶべきか。後悔しないのは、どっちか。でも、答えを急げば急ぐほど、心はかえって遠くなることがあります。迷いを消そうとしなくていい迷いがあると、それを「なくさなきゃいけないもの」だと思ってしまいがちです。でも本当は、迷いは消すものではないのかもしれません。迷いは、まだ言葉にならない感情が、そこに留まっている状態。大切なものがあるから、簡単に決められないだけなのだと思います。答えより、あとに残るもの答えが出たかどうかよりも、心は、もっと別のところを見ています。ちゃんと立ち止まれたか。自分の気持ちを無視しなかったか。急がせずに、向き合えていたか。そうした時間があったかどうかで、結果がどうであれ、心の納まり方は変わってきます。答えは、考え抜いた先ではなく多くの人が、「もっと考えれば答えが出る」と思っています。でも実際は、感情を置き去りにしたまま頭だけで整理しようとしても、答えは、なかなか形になりません。答えが現れるのは、気持ちがきちんと扱われたあと。無理に引き出すものではなく、自然に輪郭を持ちはじめるものです。見つめている途中で答えが出ない時間は不安になりやすく、ひとりで抱え込みやすい時間でもあります。でも、そばに、小さな灯りがあるだけで、見つめ方が少し変わることもあります。違った角度から覗いてみると、腑に落ちそうな感覚がふと、よぎることもあります。自分の歩く速さを、思い出すような瞬間が訪れることもあります。一人で、全部を背負わなくてもいい。最後にすぐに答えが出ていなくても、あなたは立ち止まれています。今の心の
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「正しい言葉が出なかった夜」

その日は、娘と話をしていました。何か大きな出来事があったわけではなくてでも、言葉を選ばないとすれ違ってしまいそうな空気がありました。励ましたほうがいいのか。整理して伝えたほうがいいのか。何か言わなければ、と思えば思うほど正しい言葉が出てこなくなりました。沈黙が、少し長くなって。その時間が、うまくできていない証拠のように感じた瞬間もありました。結局、その夜私は多くを語れませんでした。そのあと、もっといい言い方があったのではないか。あのとき、何か伝えられたのではないか。そんな考えが、頭の中を巡りました。でも、しばらくしてからふと思ったことがあります。あの夜には、沈黙が必要だったのかもしれない、ということ。正解を出せなくても、整った言葉がなくても、何かを言おうとしなかったこと自体があの時間を守っていたのかもしれません。ただ、そこにいる。同じ時間を、共に過ごす。それもまた、関わり方のひとつなのだと思います。正しい言葉が出なかった夜。それは、何もできなかった夜ではなくてそのままでいてよかった夜だった。そう思えるようになったのは少し時間が経ってからでした。。。もし、 一人で考えるのが少しつらいときは話すことで呼吸が楽になることもあります。 必要なときに、思い出してもらえたら。
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混み合うレジで、妙に目を引いた子

夕方18時ごろ。スーパーの店内はかなり混んでいて、レジには長い列ができていた。並んでいる人たちも、前の進み具合を気にしながら、ちらちらとレジの様子を見ている。少しでも早く進んでほしい。そんな空気が、じんわり漂っていた。私が並んだレジに立っていたのは、「初心者マーク」をつけた高校生のバイトのような女の子だった。初心者とはいえ、手つきは思いのほか慣れている。商品をかごからかごへ移しながら、次々にバーコードを読み取っていく。たどたどしさはなく、むしろ落ち着いて見えた。私の番がきて、その子はそれまでと同じようにてきぱきと会計を進めていった。かごの中に、4割引のシールが貼られた肉があった。レジを通すと、アラームが鳴る。もう一度通してみても、やはり同じだった。すると彼女は表情を変えず、すぐ近くにいたフォロー係に向かって、手を挙げながら大きな声で言った。「すみません、お願いします!」その声が、妙に清々しかった。混雑した店内の、少し苛立ちのにじむレジまわりの空気の中で、そのハキハキとした様子がとても新鮮に見えた。割引商品の打ち方を教えてもらっているあいだも、彼女は相槌を打ちながらしっかり聞いていた。そして終わると、「ありがとうございました」と、これまたはっきりした声で答え、そのままスムーズに会計を終わらせていった。ただそれだけの出来事だった。でも、ああいう場面では、焦ったり、申し訳なさそうに小さくなったり、助けを呼ぶこと自体が遅れる人もいる。初心者マークをつけていれば、なおさらそういう空気に飲まれやすい気がする。けれど彼女は、困ったことを困ったままにせず、自然に助けを求めていた。教わることにも
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今いる場所で、ひと呼吸

こんにちは。今週も、もう金曜日がやってきました。1週間を過ごして、少しだけ肩の力が抜けるような時間でもあり気づかないうちに、心や体に疲れが溜まっている頃かもしれません。今日は、そんな時ほんの少し立ち止まって、ひと呼吸できる時間になればと思いこの文章を書いています。• • • ✴︎ • • •今いる場所でゆっくり遠くを見てみましょう。もしくは布団に仰向けになって天井をぼーっとみながらまたは温かい飲み物を用意してソファにゆったりと腰掛けてひと呼吸ー。いまというここにしかない時間がゆっくりとまるで大きなブランケットで包まれるようにあなたを包み込んでいるのをイメージして感じてみよう。• • • ✴︎ • • •このひと時が、忙しい日常やマインドからなかなか離れられないあなたを守ってくれるひと時になりますように... 🌿
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お土産に乗っているもの

お土産とともに、父親が出張から帰ってきた。そのたくさんのお土産には、ご当地お菓子だけではなく、選んだ人の気持ちも乗っているのだと思う。これ好きそうかな。喜ぶかな、喜んでくれるといいな。そんなふうに相手の顔を浮かべながら選んだ時間も、きっと一緒に持ち帰ってくるのだろう。早く見てほしい。食べてほしい。感想を聞きたい。と思うのも、自然なこと。でも、受け取る方にもタイミングがある。その場ですぐに箱を開けられるとは限らない。平日の朝には、いつもあわただしい。テーブルの上だけ、ちらっと見ていく。たぶん、そこで小さなすれ違いが起きる。気持ちを渡した側は、その反応まで、できればすぐにでも受け取りたい。でも受け取る側は、いつもの流れの中で受け取ることになる。それは、テーブルに置いてあるのを横目に見る程度かもしれない。どちらが悪いわけでもない。ただ、気持ちを返す速さは人それぞれなのだと思う。お土産に乗っているのは、お菓子だけではなく、渡した人の期待や嬉しさや、少しの寂しさ。そして受け取る側は帰ってからのお楽しみ、として。日常のすれ違いもまた、家族の時間なのかもしれない。時間差で伝えられた気持ちの分だけ、旅の余韻として味わってみるのも悪くない。
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「同じ言葉なのに、 どうしてこんなに違うのだろう。」

「なんで、あんなこと言われなきゃならないんだ!」憤慨している人の反応を見て、不思議に思うことがある。道を歩いていて通れない場所に入ろうとしてしまい、警備員に「そこは通れませんよ」と声をかけられた。ただ、それだけのこと。そこは通れない。知らなかった。だから教えてもらった。私なら、たぶんそれで終わる。でも、その一言を余計なことを言われたとか、今そんなことを言われたくないとか、そういうふうに受け取る人もいる。同じ言葉なのに、どうしてそんなに、受け取り方が違うのだろうと思う。教えてもらった、と受け取るのか。指示された、と感じるのか。ただの案内として入ってくるのか。自分を邪魔するものとして引っかかるのか。言葉そのものが違うというより、その言葉に何を乗せて受け取るかの違いなのかもしれない。人の話をそのまま聞ける時もあれば、そこに余計な感情を足してしまう時もある。自分にとって都合の悪いことを、ただの情報として受け取れるのか。それとも、責められたように感じてしまうのか。その違いひとつで、出来事のあとの気分は、ずいぶん変わる。同じ日常の中にいても、穏やかに過ごせる人と、何かに引っかかる人がいるのは、こんなことなのかもしれない。
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「眠くなる時間の正体」

式典って、どうしてあんなに眠くなるんだろう。最初は単純に退屈だからだと思っていた。だから、少し周りを観察してみた。吹奏楽の学生たちはきちんと起きている。この後も出番がある。タイミングがある。自分が動く瞬間を待っているから、適度な緊張があるのかもしれない。親たちはスマホを触ったり、本を読んだり、堂々と寝ている人もいる。先生の話を「聞いている風」に座っている人も多い。そこで、私も聞き方を変えてみた。この先生は、子どもたちに何を伝えたいのだろう。どんなふうに、伝えようとしているのだろう。そう考えながら聞くと、少しだけ眠気がひいた。同じ話でも、意識の置きどころが変わると、体の反応が変わる。思えば、これは式典だけの話ではない。家族の話でも、職場でも、友達でも。正直あまり興味のない話題をだらだら聞いているうちに、いつの間にか別のことを考えていたり、ふっと意識が遠のいていたりする。でも、相手の話そのものに強い興味が持てなくても、話し方や表情、言葉の癖、声のトーン。どこか一つに焦点を当てると、感覚が少し変わる。退屈だった時間が、観察の時間に変わる。受け身でいると、思考は止まりやすい。問いを一つ置くだけで、景色が少し動き出す。眠くなる時間は、つまらない時間というより、自分が何も置いていない時間、なのかもしれない。つまらない時間を、少しだけ遊んでみませんか?
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「揺れる」

揺れる。揺れる。揺れる。何もできない時間に、名前をつけなくていい、とか意味をつけなくていい、とか。それは自分が安定している人が、言える言葉だと思う。何もできないことに、名前を付ければ理由ができる。「今は不安定だから」と言えば、逃げられる。そうやって自分の心を守っているのかもしれない。揺れていることを、誰かに評価されてしまうかもしれない。そんな風に、勝手に気にしている自分もいる。ちゃんとしていないと思われるかもしれない。口だけだと思われるかもしれない。本当の私は、強くありたいと思っているだけで、強いわけじゃないことを知っている。自分は何者でもいいと思う。特定の何かになりたい自分もいる。何者でも無くてもいい自分で居れたら、とも思う。その矛盾になんなんだよ、となる。呼吸が浅くなる。人の言葉がいつもより突き刺さる。どんな顔をしているか、怖くて見れなくなる。そこから消えてしまえたらいいのに。不安定な自分。そのままでよしと言えたらいいのに。揺れている自分を、そのまま置いておけたらいいのに。本当に揺れているのか沈んでいくのか感覚が分からなくなって、それが少し怖い。強い人は、堂々と生きているように見える。そして、自分以外はみんな強く見える。揺れ方すらも、しなやかな枝のように揺れているのだろうか。揺れながら、怖がりながら、自分を知り、そして受け止めて。勝手な想像を膨らませ、また不安になる。揺れていることを、ただ感じて。どんな感情がわいたとしても、それが今の自分。安定しない自分を怖がってもいい。人と比べてもいい。何かに理由をつけて逃げてもいい。自分の心の癒し方。その時の自分に必要なことは、頭で考え
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あの時に戻る瞬間

久しぶりに、早朝に家を出た。出た時はまだ暗かったのに、気づけば空は朝の色に変わっている。その瞬間、ふと懐かしい感覚がよみがえった。以前、珍しく早朝からの仕事で、彼と車で移動したことがある。夜から朝へと変わっていく時間帯。仕事とはいえ、二人きりの車内。移り行く色を眺めながら、取りとめのない会話をしていた。「今日も始まるね」そう言って、二人で同じ空を見ていた。ただ、それだけのこと。色や音、匂い。ほんの小さなきっかけで、私はあの頃に引き戻される。思い出すのは、良いことばかりではないかもしれない。でも時間が経つと、その頃の自分を、少し距離を置いて見ている自分がいる。あの時の私は、あの時なりに必死で、ちゃんとその時間を生きていたのだと思う。いつもの生活の中、あちこちにちりばめられている過去への扉。それは「あの時に戻れる瞬間」の入り口なのかもしれない。今日もどこかで、静かに開いた扉があったかもしれません。
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「その一言に引っ掛かった時、交通整理してみませんか?」

日常の会話の中で、ふと引っかかる一言はありませんか?悪気がないのは分かっているのに、少しだけ心がざわつく瞬間。たとえば、子どもの「なんで駅の近くに住まなかったの?近かったら便利なのに」という何気ない言葉。わかる。その通りだと思う。そう、子供にしたら単純なこと。でも、家を建てるまでの自分の時間や労力を、一瞬で飛び越えられたように感じて、少しだけイラっとする。そんな時、私ならどうするか。まず「いま引っかかったな」と自分の感覚に気づき、一呼吸置いてから言葉を返す。「そうだよね、便利だよね」答えを求める会話ではなく、ただの気分の共有だとわかっているからこそ、受け止め方を選ぶ。そこに必要なのは、正論なのか、自分の思いなのか、相手への共感なのか。もしくは、単純にテンポだけなのか。イラっとしない人になるのではなく、イラっとした自分に気づいて整える。その小さな間が、その後の空気をやわらかくしてくれることが、あるかもしれません。
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「反応の癖を見てみる、ということ」

料理が運ばれてきて、手を伸ばしかけた時に気づく。あ、カトラリーがない。ほんの一瞬の引っかかり。大したことじゃないのに、身体が止まる。身体の奥にひっかかる、言葉にするほどでもない小さな違和感。その違和感に、どう反応するのか。多分それは無意識で起きている反応だと思います。スタッフを呼んで「これ、どうやって食べるの?」と出るのか、「カトラリーをいただけますか」と出るのか、それとも黙って周りを見渡すのか。どれも正解でも不正解でもない。ただ、その瞬間の“癖”がにじむだけ。準備不足は、忘れているだけかもしれない。もしかすると、忙しかったのかもしれない。そんなこと、頭ではわかっているのに、違和感は先に身体に来る。だけど、その違和感に乗せる言葉で、その場の空気の温度が少し変わる。相手に向く矢印なのか、自分の必要を伝えるのか。ほんの数秒のやりとりなのに、そこに自分の反応の輪郭が見えるように思います。言ってやった、でもなく、遠慮した、でもなく、ただ「自分はこう反応するんだ」と気づく瞬間。日常の小さな場面は、感情が大きく揺れるわけでもないのに、自分の初期設定がそのまま出るのではないでしょうか。大きな決断よりも、こういう些細な違和感のほうが、よほど素の反応が見える気がします。カトラリーが置かれるまでの、ほんの数秒。その短い時間に、自分の中の癖や温度や向きが、静かに表に出ている。こんな風に夫との外食時、ふとした場面の反応の違いをこっそり楽しんでみました。よくある日常の中で、なんとなく違和感を感じることありませんか?
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「優しさと、優しいふりの違い」

仕事でミスをしたとき、「大丈夫」「次はきっとできる」そう言われて、なぜか苦しくなることがある。怒られたいわけじゃない。責められたいわけでもない。ただ、起きたことを、起きたこととして扱ってほしい。なぜそうなったのか。何を確認すればよかったのか。次にどうすればいいのか。それを飛ばして無かったことにされるような対応は、優しいように見えて、実は関わりを放棄されている、ように感じることがある。言いにくいから言わない。空気が悪くなるから触れない。それは、相手のためというより、自分を守るための選択かもしれない。優しさと、優しいふりは違う。本当の優しさには、少しの重さと、覚悟がある。起きたことを曖昧にしない。相手を当事者として信じる。それが、誠実さなのだと思う。仕事だけじゃなく、日常の中にも。ふとした場面で、「まあいいか。そのくらい」そうやって、本当は指摘したいけど飲み込んでしまうようなこと。それは、優しさなのか、それとも…その思いの方向は、どちらに向いているのでしょうね。
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一言で片付くシステム求む

散らかったテーブルの前で、私は今日も文章を書いている。 開きっぱなしのノート。 飲みかけのペットボトル。 どこから来たのかわからない紙切れ。 決して整っているとは言えない光景だ。 そもそも、家の中に「私の場所」という特定のスペースはない。 子どもには子ども部屋があり、 夫には書斎がある。 私はいつも、食事を囲むためのテーブル。 このテーブルは、みんなの場所だ。 だからここには、 誰かの忘れ物が少しずつ残っていく。 子どものプリント。 夫のペン。 私のメモ。 少しずつ、少しずつ重なって、 なんとなく散らかったままの状態が続く。 本当は、 「一言で片付くシステム」 みたいなものがあったらいいのにと思う。 「はい、リセット」 「はい、最適化完了」 ワンクリックで、机も人生も整うようなやつ。 でも現実は、 散らかったまま、今日も私はここに座っている。 そしてふと思う。 散らかりは、 片付かない結果ではなく、 何かをしている途中なんだと思う。 今まさに、考えて、動いて、生み出している途中。だから、散らかっている。 止まっていない証拠だ。 そう考えると、 この光景は失敗ではなく、経過なのだと思えてくる。 だから、悲観する必要はない。 もちろん、片付ける必要はあるけれど。 ふと気がづく。 これは机だけの話じゃない。体も同じなんだと。。 疲れが抜けきらず、あちこちが重たくて、調子がいいのか悪いのかもよくわからない。 思考も、感情も、身体も、全部がきれいに整列しているわけじゃない。 でもそれは、 人生が停止していないということでもある。 整ってはいないけれど、稼働している。 きれいに片付いた人生
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「雪と共に降り積もる温度」

朝起きて外を見ると、深々と降っていた雪が積もっていた。早朝の雪は、夜と朝の間でわずかに青を帯び、時間とともに静かな白へと変わっていく。降り積もる雪は、そこに残っていた足跡を消し、一面の光る白へ。雪が降ると、いつも思い出す。切なさや、恋しさのような感情。それは説明できるものではなく、ただ、ふと胸に戻ってくる感覚だ。思い出には、温度があると思う。冷たいはずなのに、どこか温かく感じる、その不思議な感覚。印象に残った時間ほど、色や匂い、音まで一緒によみがえる。それだけ、心に深く刻まれていたのだと思う。雪と共に降り積もるのは、忘れたつもりでいた感情と、今の私を形づくってきた、記憶の温度。あなたの中に、懐かしい温度はありますか。
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気づきの種

認識のズレ、感覚のズレ。よくある話だと思う。ある時、デスクを作ってもらった。私の専用の場所がない、という話から、寝室の一角に用意してくれたものだった。私の中では、そこは「私の場所」だった。どう使ってもいいし、何を置いてもいい。そう受け取っていた。でも、夫にとっては違ったようだ。あくまで自宅の一部で、必要なときには誰もが使える場所。共有される空間、という認識だったのだと思う。あの日、机の上には、すぐ使うわけではないけれど、置き場に困るものをいくつか置いていた。それを見て、夫に言われた。「邪魔くさいから、早く片付けてね」その一言で、私たちの間にある認識の違いに気づいた。自分の場所を守るため、私は夫に伝えてみた。そこは私の場所として作ってくれたものだと思っていたこと。だから、好きなように使っていいと受け取っていたこと。でも、明確な答えは返ってこなかった。たったそれだけの出来事。大きな喧嘩になるわけでもない。でも、確かにそこには、ズレがあった。伝え方と、受け取り方。違いに気づいたとき、言葉にするのか。それとも、飲み込むのか。そんな小さな選択の積み重ねで、日常はできているのだと思う。何かが壊れたわけじゃない。でも、気づいてしまった感覚は、なかったことにはできない。その違和感は、責めるためのものでも、白黒をつけるためのものでもなくて、ただ、そこにある「気づきの種」なのかもしれない。あなたは、そんな小さな違和感とどう向き合っていますか。
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「揺らぎの中で見えてくるもの」

私は夫に愛されている。それなのに、その中にいる自分が、どこか落ち着かない。幸せなはずなのに、胸の奥に小さな引っかかりが残る。私は長い間、その感覚を見ないようにしてきたのかもしれない。「こんなに愛されているのに」そう思うたびに、違和感を覚える自分のほうが間違っている気がしていた。私は、自分の感覚を大切に生きている。そう言いながらも、ふと自分の中を見せたときに返ってくる、視線や言葉を、無意識に気にする自分がいた。意図せず評価されること。方向づけられること。やんわりとでも否定されること。だから、自分を守るために、少しずつ、出す量を減らしていったのだと思う。愛されている。でも、そのままの私ではない。その矛盾を、ずっと自分の中で処理しようとしていた。最近、自分のとらえ方が変わってきた。違和感を、消そうとするのをやめた。苛立つ自分がいる。未熟だと感じる瞬間もある。それを、良いとも悪いとも決めずに、ただ、そう感じている、とそのまま受け取る。それだけで、少し気持ちが楽になる。心の余裕は、前向きになることで生まれるのではなく、抱え込まなくなったときに、静かにできるものなのかもしれない。今も揺れている。でも、その揺れをなかったことにしなくなった。この揺らぎの中で、自分をどう感じるのか。そこからまた、見えてくるものがある。
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何もしたくない日が続くのは、心が悪いわけじゃない

朝起きても、やる気が出ない日があります。理由は分からないけれど、体が重くて、気持ちだけが置いていかれるような感覚。「ちゃんとしなきゃ」「怠けてるだけかも」そう思うほど、心はさらに静かになっていきます。🌿 心が止まるとき、魂は動いている占い師として鑑定をしていると、何も進んでいないように見える時期ほど、内側では大きな調整が起きていることがあります。これまで無理をしてきた流れを止めるために、心が「一度、休もう」と強制的にブレーキをかけている。それは失敗でも後退でもなく、次の人生に進む前の静かな準備期間です。🕯️ うまくいかない時期にこそ、共通点がある運命が停滞しているとき、多くの人に共通しているのは、・本音を我慢している・「こうあるべき」に縛られている・自分の感情を後回しにしている外の世界に合わせすぎて、自分の声が聞こえなくなっている状態です。心が動かないのは、「今の生き方、少しズレてるよ」というサインなのかもしれません。🌙 占いが教えてくれるのは、答えではなく視点占いは、「いつ元気になりますか?」「この状態はいつ終わりますか?」そう聞かれることも多いですが、本当に大切なのは今の意味を知ることです。意味が分かると、焦りは少しずつ和らぎます。「この時間も、ちゃんと必要だったんだ」そう思えた瞬間から、運命の流れは静かに動き出します。🌸 最後に何もしたくない自分を、無理に変えなくていい。今は、立ち止まる役目の時期かもしれません。占いは、未来を急がせるものではなく、今のあなたに理由を与えるもの。もし、自分の流れを静かに確かめたくなったら、ココナラでそっと鑑定しています🕊️🔽  ココナラで出
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「ある夫婦の形」

穏やかに眠ったような彼の頬に妻はそっと「愛しています」とキスをする。自宅のベッドには、もう、目を覚ますことのない伴侶。身体には数本の医療機器の管がつながれている。 それでも妻は、最期の最期まで同じベッドで眠ることを選んだ。 細心の注意を払いながら、添い寝を貫いた。 夫婦であることを、特別に守ろうとしたのではなく、 ただ「いつも通りに一緒に過ごしていただけ」と妻は笑う。見た目はとても派手で活動的な妻。 一方で、夫は物静かで硬派な雰囲気。 アンバランスな夫婦だな、という印象だった。いつもそこにあったのは、静かで、深い愛。 最期は、こうでありたい。 心から「愛しています」と言える自分でいたい。 胸の奥の、もっとも深いところを貫かれたような感覚とともに、 私の理想とする関係が、はっきりと輪郭を持った瞬間だったように思う。
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「寄せ鍋のように」

カフェの真ん中のテーブル。 楽しそうに響く笑い声。 隣のおばちゃん達の会話が、やけに賑やかだ。 話のテーマは、コロコロ変わる。 テンポよく、結論なんて出ないまま。 ただ、それぞれが話したいことを放り投げて、 周りがそれに少しずつ肉付けしていく。 誰かの一言がきっかけになって、 別の誰かの記憶が重なり、 思いもよらない方向へ転がっていく。 時に笑い、時にけなし、 とりあえず頷きながら、また次の話題へ。 次は何がくるのか。 自分はどこで味付けするのか。 辛くする? 甘くする? そこに正解はない。 それぞれの感覚で、 それぞれの立場で、 その場にいる全員が、少しずつ鍋に手を伸ばす。 そうしていつの間にか、 ひとつの「楽しい時間」ができあがっている。 特別なことは何もない。 ただの、いつもの日常。 いつもの会話。 いつもの仲間。 でも、その軽さの奥には、 ふだんは隠している本音も、 スパイスとして、少しだけ滲んでいる。 そうやって毎日が積み重なり、 気づかないうちに、人生の地層になっていく。
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「吐き出していい言葉たちの話」

あの人は本当に存在していたのだろうか。今となっては、幻のように何の連絡も取れない。気配すら感じられない。それでも、確かにそこにいた。近づくと、ふっと力が抜けるような感覚があって言葉を交わさなくても、視線だけで通じている気がした。不思議と不快じゃなかった。ただ、見ていてほしかった。私は家庭を持っている。だから、最初から「そういうつもり」ではなかった。でも気づけば、過酷な日々の中でその人の存在が心の支えになっていた。夫には話さないことを、彼には話せた。答えを出されることもなく、評価されることもなく、ただ、受け止められていた。無責任な優しさだと、わかっていた。それでも、人はそこに安らぎを見つけてしまう。そして、知らないうちに自分の輪郭が、少しずつ曖昧になっていく。彼が残した言葉がある。「あなたは人のことばかり心配している。あなたの尊厳はどこにあるの?」痛かった。でも、その言葉は、私の足元を照らした。恋だったのかどうかは、今でもわからない。ただ確かなのはこの曖昧な関係がきっかけで私は自分の生き方を見直し始めたということ。今、私は人の話を聴いている。答えを出すためではなく、その人の言葉が、ちゃんとそこに在るために。吐き出していい言葉たち。置いていっていい言葉たち。それらすべてが自分の言葉だったと感じられるように。言葉にならない気持ちを、無理に整えなくていい場所として。もし、どこにも置けない想いを抱えていたらここにいます。。。
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「できない私を、ちゃんと見てみたら」

できない自分を見るのは少し勇気がいります。理由が欲しくなったり早くできる側に戻りたくなったり。ときには、誰かのせいにしてしまえたら楽なのに、と思うこともありました。見ないで済むならそのほうが気楽な気もします。私も、できない自分を前にするとどこかで目を逸らしていました。気合が足りないのかもしれない。考えすぎなのかもしれない。そのうち動けるようになるはず。そうやって、「今の私」から少し距離を取っていたように思います。でもあるとき、できないままの自分をそのまま見てみようと思いました。責めるためでも、変えるためでもなく。ただ、「そうなんだね」と確かめるように。すると、不思議なことにできない理由を無理に探さなくなりました。代わりに見えてきたのは疲れていたこと。守ろうとしていたものがあったこと。これ以上、無理を重ねたくなかったこと。できない私は、何も怠けていなかったし、止まっていたわけでもなくて。ちゃんと、立ち止まる理由を持っていました。できない自分をどうにかしようとする前に、ちゃんと見てみる。それだけで、少し呼吸がしやすくなることがあります。何かができるようになる前にまず、ここにいる自分を置いていかない。それもまた、進み方のひとつなのだと思います。もし、 一人で見つめるが少しつらいときは話すことで呼吸が楽になることもあります。 必要なときに、思い出してもらえたら。
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「わからないまま、今日はここにいていい」

何をどうしたいのか自分でもよくわからない。進みたい気持ちはある。でも、どこに向かえばいいのかが見えてこない。そんな状態のまま、時間だけが過ぎていくと、つい焦りが出てくることがあります。「何か決めなきゃ」「ちゃんとしなきゃ」「このままでいいわけがない」以前の私は、わからない状態にいることをとても不安に感じていました。答えがない=ダメ立ち止まっている=遅れているそんなふうに思っていたからです。でもあるとき、わからないままでもちゃんと息はできていることに気づきました。何かを決めていなくても、前に進んでいなくても、今日一日はちゃんと過ぎていく。それなら、無理に答えを出さなくてもいい。焦って方向を決めなくてもいい。「今日は、ここにいる」それだけでいい日があってもいいのかもしれません。わからない状態は、何も起きていない時間ではなくて、内側で何かが静かに動いている途中のこともあります。今はまだ言葉にならないだけ。形が見えていないだけ。わからないまま今日はここにいていい。その許可を出せたとき、心の奥の緊張が少しだけゆるむことがあります。もし、ひとりで抱えるのが少しつらいときは、話すことで呼吸が楽になることもあります。必要なときに、思い出してもらえたら。
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「頑張れない日の自分を、置いていかない」

今日はどうしても、頑張れない日だった。やらなきゃいけないことはある。頭ではわかっている。でも体も心も、前に進まない。そんな日はつい、「こんなんじゃダメだな」「またできなかった」と、自分に厳しい言葉を向けてしまいがちです。以前の私は、頑張れない自分を置いて“ちゃんとできる自分”だけを連れて前に進もうとしていました。でもそれを繰り返すほど、心の中に置き去りにされた部分が増えていった気がします。ある日、何も立て直さないで、励ましもしないで、ただ「今日は無理なんだな」とそのままの自分と一緒にいることにしました。何かが解決したわけでも、元気が出たわけでもない。でも、不思議とそれ以上つらくはならなかった。頑張れない日の自分を置いていかないでいると、心はこれ以上傷つかなくて済むみたいです。元気な自分だけを大切にしなくていい。ちゃんとできる日だけを自分だと思わなくていい。今日は動けなくても、それも含めてちゃんと「私」。そう思えた日は、少しだけ呼吸が深くなりました。もし、 一人で整えるのが少しつらいときは、 話すことで呼吸が楽になることもあります。 必要なときに この場所を思い出してもらえたら。
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愚痴の裏に見えるもの

イライラした時、家族に話を聞いてもらうことで、少し落ち着くことがある。嫌だったこと。理不尽だったこと。言葉にして外に出すだけで、気持ちが軽くなることはたしかにあるのだと思う。でも、聞いてもらえたことと、わかってもらえたことは、たぶん同じではない。相手が穏やかに相槌を打ってくれた。「大変だったね」と返してくれた。だから、自分の気持ちは理解されたのだと思う。けれど実際には、相手はそこまで同調していないこともある。ただ、その場を荒立てないように聞いているだけ、ということもある。吐き出した側は少しすっきりする。でもその裏で、聞く側はなんとなく疲れていることがある。身近な相手ほど、愚痴は無遠慮になりやすいのかもしれない。この人なら聞いてくれるだろう。このくらいは大丈夫だろう。そんな安心感があるからこそ、言葉にブレーキがかからなくなる。でも、聞いてくれることと、疲れていないことは別だ。表面上は聞いている。その場では反論もしない。だからこそ、相手が消耗していることには気づかれにくい。悪気があるわけではない。ただ、近いから。安心しているから。その結果、無遠慮になる。それが、身近な関係の少し怖いところなのかもしれない。思わず負の感情を受け取ってしまった時、私は相手の顔を見ている。鼻が広がったな、とか。顔赤いな、とか。唾飛んだ、とか。眉毛にも白髪あるんだ、とか。聞かされている内容とは全然違うことを見ている。表向きは真剣に聞いている顔をしながら、少しだけ別のところに意識を置く。まともに受け取りすぎると、こちらまで疲れてしまうから。そんなふうに、自分なりの対処法があるだけで、同じ時間でも少し違ったもの
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「共鳴」

珍しいものを手に入れて、それをどうしても見せたかった。見たくなくても見せるよ、と半ば強引に差し出す。きっと私は、嬉しさを隠しきれない顔をしていた。それを見て、笑われた。「なにその嬉しそうな顔」その言い方が、優しくて、楽しそうで。私の嬉しさが、そのまま向こうに移ったみたいだった。何かを共有したというより、ただ感情が揃っただけ。ふわっと、温かくなる。でも、ああいう瞬間を共鳴と呼ぶのかもしれない。特別なことは起きていない。それでも、いい時間だったことだけは覚えている。そんなふうに、誰かと感覚が重なる瞬間。あなたにも、ありませんか。
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「陽に向かって伸びる枝のように ―優しさのかたち―」

私はよく、子どもに甘い母親だと夫に言われる。学校に行きたくない。習い事を辞めたい。塾をやめたい。そんな言葉を、私はすぐに否定しない。まずは「どうしてそう思ったの?」と聞く。夫は、できるだけ嫌な思いや遠回りをさせたくないと思っている。失敗しないように、回避できることは回避させたい。それが親の優しさだと。私は少し違う。遠回りに見えても、本人が選び、困ったら立ち止まり、また考えればいいと思っている。生きていく上での「失敗」とは何か。エジソンの言葉のように、それはただ「うまくいかない方法」を知っただけ。うまくいかなかった出来事を「なぜ?」と振り返れた時、それは失敗ではなく、枝分かれになる。枝が増えるほど、光を浴びる面積は広がる。真っ直ぐな一本道を守る優しさもある。枝を増やすことを信じる優しさもある。どちらが正しいかではなく、何を守りたいかの違い。自分が大切にしている基準に気づくこと。それが、自分とは違う優しさを知ることにつながるのだと思う。
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「制御不能に見えるイライラを、手のひらでそっと転がす感覚」

どうしようもなく、イライラする時がある。誰かに当たりたくなる衝動や、いつのまにか険しくなっている表情。そんな自分に、さらに嫌気がさしたりもする。そんな自分に気づいたとき、その感情に飲み込まれるのではなく、少しだけ距離を取って見てみる。例えるなら、荒波の中にもまれるのではなく、防波堤の上に立って荒れる海を眺めるように。急に方向転換はできなくても、一瞬だけ、立ち止まることができる。止まることで景色が見えて、また歩き出せるようになる。イライラを消すのは難しい。だから、手のひらの上で転がすみたいに、「今はこういう状態なんだな」と眺めてみる。そのまま、突き進むだけが前進じゃない。いったん止まったとしても、結果的に進んでいれば、それでいい。そんな風に、制御不能に見える自分を見てみたら少しだけ、穏やかになった顔が映るかもしれませんね。
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「記憶の置き場所」

思い出したいわけじゃないのに、景色や空気と一緒にふっと浮かんでくる記憶。楽しかったはずの思い出でさえ、何度も現れると少しうるさく感じてしまうこともある。「もう大丈夫」と思いながら揺れている自分に、また気づいてしまう瞬間もある。でも最近は、そんな思いを追い払う必要はないと気が付きました。意味をつけず、名前をつけず、「ああ、こんな時間もあった」と、ただ、そっと置いておく。記憶は消すものでも、抱え込むものでもなく、自分の中を通り過ぎていく、季節のようなもの。時間とともに移り行く景色のように。揺れている自分ごと、そのままでいいと感じること。それが、今の私の記憶の置き場所。邪魔になるなら、少し遠くへ。でも、手元で温めたいときもある。あなたが歩んできた記憶の景色を、今はどんなふうに過ごしていますか?
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「苛々・イライラ・いらいら…」

忙しいと、どうしてもイライラしてしまう時がある。周りが気を遣っているのもわかるのに、その気遣いさえうるさい。そんな時の私は、自分ばかりを見ている気がする。できていない自分、答えが出せない自分。矢印が自分に向くほど、感情は内に内に暴走する。けれど少しだけ視点を引くと、見え方が変わる。「どうしてできないか」ではなく、「今、何が詰まっているのか」と状況に向ける。心理学では、注意の向きで感情の質が変わるとも言われている。少し距離を取って自分を見ると、案外、落ち着いてきたと感じたことはないだろうか。イライラが消えるわけではない。でも、質は変わる。半歩だけ引くだけで、景色は少し整う。スマホの画面をスワイプするみたいに、自分の視点を変えてみれると、いいなと思います。
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