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巨大災害の記憶の風化について思うこと

 今日(2024年3月11日)は、東日本大震災が発生してから13年となります。 当時、社会人2年目(26歳)だった私は、佐倉市にある株式会社Hで資材管理の仕事をしていました。 その日は金曜日で、部品などの入庫の締め前でもあったせいか、部署全体が暇を持て余していました。 地震が発生したのは午後の休憩時間が近づいた、午後2時46分のことです。 幸い、株式会社Hには建物の損壊や、死傷者などの被害が全くありませんでしたが、地震の影響で大規模な停電が発生したことを、現在でもはっきりと思えています。 また、地震に伴う液状化現象によって、県道12号(鎌ケ谷本埜線)の一部区間が約4か月間、通行止めになったこともはっきりと覚えています。 信じられないほどの正答率の低さ NHKでは毎年、東日本大震災に関連するNHKスペシャルなどを放送していますが、現在では小学生以下の子供のほぼ全員が、東日本大震災を直接経験していない世代となっています。 ここで皆さんに問題ですが、歴史(日本史)の教科書に載るような、①から⑥の出来事は何年の何月何日に発生したか、ご存じでしょうか?(答えは下) ①:関東大震災の発生年月日 ②:阪神・淡路大震災の発生年月日 ③:広島に原爆が投下された年月日 ④:長崎に原爆が投下された年月日 ⑤:雲仙で43人の死者を出す、大火砕流が発生した年月日 ⑥:飛行機の単独事故としては世界最悪の520人が犠牲となった、日航ジャンボ機墜落事故の発生した年月日 正解は、 ①:1923年(大正12年)9月1日の午前11時58分 ②:1995年(平成7年)1月17日の午前5時46分 ③:1945年(昭和2
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【日本史への問題提起】 『王政復古の大号令』で「将軍」とともに廃止された「見逃されがち」な制度

こんにちは。 私のプログのテーマが、かなりブレてしまい恐縮ですが、今回は「日本史」です。 それも、明治維新期における「王政復古」に焦点を当てます。 私は最近、津田左右吉が著した「明治維新の研究」を読み、その中で「『王政復古』とは何だったのか」について考えさせられました。 一般的な「王政復古」の認識 「王政復古」とは、明治維新の一連の中で行われたもので、「『政治の実権』を幕府から、天皇を中心とした朝廷に戻す」ことと認識されているかと思います。別の言い方をすれば、源頼朝を征夷大将軍に任じて以来(後醍醐天皇の「建武の新政」や、戦国時代等を除いて)続いてきた「武家政権」から、「天皇中心の政治」に『戻す』、とも言えましょう。 しかし、「王政復古の大号令(以下、大号令と記す)」を改めて読んでみると、上記のように素直に解釈してよいのか、という疑問が湧くのです。 「大号令」の中の一文を掲げます。 「王政復古国威挽回ノ御基被為立候間自今摂関幕府等廃絶即今先仮ニ総裁議定参与之三職被置万機可被為」つまり、「王政を復古させて、国威を挽回させるために、摂政、関白、将軍を廃止し、これからは仮に総裁、議定、参与の三職を置いて決定する」となっているのです。 実は『武家政権』以前の制度の否定でもあった? 「大号令」では、将軍とともに摂政、関白をも廃止されているのです。 摂政、関白といえば、藤原氏による「摂関政治」、より遡れば聖徳太子(厩戸皇子)が摂政の任にあたっていました。 決して摂政、関白は連綿と続いてきたわけではありませんが、「武家政権」が続いている中でも、藤原氏の血を引く「五摂家」を中心に摂政、関白に就任
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12星座別歴史占い

牡羊座さんは足利義政について勉強してみると何かヒントややる気など良いことがあるかも牡牛座さんは徳川家光について勉強することで何かヒントややる気になって良いことがあるかも双子座さんは新渡戸稲造について勉強することで何かヒントややる気になって良いことがあるかも蟹座さんは卑弥呼について勉強することで何かヒントややる気になって良いことがあるかも獅子座さんは吉田茂について勉強することで何かヒントややる気になって良いことがあるかも乙女座さんは歌川広重について勉強することで何かヒントややる気になって良いことがあるかも天秤座さんは徳川慶喜について勉強することで何かヒントややる気になって良いことがあるかも蠍座さんは福沢諭吉について勉強することで何かヒントややる気になって良いことがあるかも射手座さんは宮本武蔵について勉強することで何かヒントややる気になって良いことがあるかも山羊座さんは明治天皇について勉強することで何かヒントややる気になって良いことがあるかも水瓶座さんは板垣退助について勉強することで何かヒントややる気になって良いことがあるかも魚座さんは与謝野晶子について勉強することで何かヒントややる気になって良いことがあるかも12月にブログで紹介したかったけど、コロナに感染してやっとお披露目出来ました。ぜひお伝えした人物の歴史漫画や自叙伝など読んでみて下さい。きっとあなたの悩みのヒントややる気につながるでしょう!!!!★新月と満月の日程★私の占いを購入した人を対象にアフターフォローの意味で毎月新月と満月に千円にて1か月の運勢や開運アドバイスを占っております。ぜひご参加下さい♪♪次回は2月20日の魚
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時代に耳をかたむけて

つれづれなるままにひぐらし 硯にむかひて心にうつりゆく よしなしごとをそこはかとなく かきつくればあやしうこそ ものぐるほしけれ~現代訳~孤独に身をまかせ一日中、硯と向かい合って心に浮かんでは消える他愛のない事柄もとりとめもなく 書きつけてみると妙におかしな気分になってくるかの有名な「徒然草」の冒頭です。鎌倉時代から、南北朝時代を生きた吉田兼好が40代のころに執筆した作品と言われております。1283年ころに生を受けた吉田兼好が40代に執筆したということは計算してみると1323年ころに書いたということになりますね。ちょうど、今(2022年12月現在)大河ドラマで放送されている「鎌倉殿の13人」の主人公は北条義時ですが、その子孫の北条氏の権威が少しづつ失墜し、鎌倉幕府が滅亡へと向かっている時代であり世の中の体制も安定しておらず貧困にあえぐ人々が多かった時代ともいえます。もともと、吉田兼好という名は兼好の死後、同族が改姓したもので正式な名字ではなく正式には、卜部兼好(うらべかねよし)と、呼ばれておりそして、30代前後で出家して兼好法師と名乗るようになりました卜部氏は神道界の名門であり吉田神社を預かる家の支流に生まれ、兼好は幼少期から恵まれた環境で育ったのです10代から、内大臣や当時の天皇、後二条天皇に仕え左兵衛佐(サヒョウノスケ)に昇進しますが後二条天皇が崩御した数年後に出家したという経緯です。いずれにしても、当時の社会構造では一般の方々の中には文字さえ書けなかった人も多かったと思うし上流社会の人たちも文字は書けても、文才のある人もほんの一握りであったと思うのでこのような作品が生まれ
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日本史 筆者が好きな恋の話

難い話は避けて、興味を惹きそうな話を書こうと考えたら、恋の話を思いつきました。私が聞いて気に入った話をここで記しましょう。歴史を好きになるきっかけの1つになれば。時は西暦1600年 関ヶ原の戦いが起こった年です。場所は、出羽国山形。山形の大名 最上義光の重臣で鮭延秀綱という武将がいました。この秀綱の許に、鳥海勘兵衛という若い家臣がいました。この勘兵衛、ある日、義光の正室・北の方に仕える侍女と恋仲になり、密かに文のやりとりをするようになりました。ところがある日、このことが発覚します。義光は激怒し、二人に死罪を言い渡そうとしました。侍女というのは、殿の奥方に仕える女性ですが、場合によっては、殿の養女となって他国との婚姻をする役割や殿が気に入れば側室になることもあり得る存在でした。その女性と仲良くなるということは、「親分の女に手を出した」ということにもなるわけです。これをとりなしたのが、官兵衛が仕える主君の秀綱でした。若い勘兵衛が過去の戦で武功を立て、将来有望な武士であることを義光に説明します。結果、義光を二人を許すだけでなく、二人が結婚することを認めました。勘兵衛と侍女の幸せな時が続くかと思われました。しかし、その半年後、関ヶ原の戦いが起こります。当初、徳川家康は会津の上杉景勝を征伐すると言って、関東に向かいましたが、上方で石田三成が挙兵すると軍を反転させて西へ向かいました。家康を待ち構えていた景勝は、家康との戦いのために用意した兵力を東北攻略に使います。その最初の相手が、徳川家康と親しかった最上義光になりました。上杉軍3万VS最上軍8千上杉軍の前に、山形の諸城は続々と陥落。ついに
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歴史の「流れ」6

そろそろ流れ編も終了しようかな、と思っています。もし希望者がいるようならば、この流れを指導する講座を開こうかなと思ってます。さて、前回記載したようにキーマンを織り込んでいくとこのようになりますという例を書きます。即興ですので、多少文章が拙いことはご愛敬で。大河ドラマでイメージしやすいと思いますので、鎌倉時代を例にして言語化して記します。「日本史上初の武士による政権を興した平清盛が死んだ後、源氏と平家は再び騒乱状態となった。この戦いは、今度は源氏が勝利し、源頼朝が政権の座につくことになる。頼朝は、自身と対立した弟の源義経捕縛の名目で全国に守護・地頭を設置して、全国に影響力をもつ存在になった。頼朝はその後、征夷大将軍に就任し、鎌倉に幕府を開く。しかし、頼朝死後、鎌倉幕府には動乱の日々が続く。有力御家人同士の権力争いに加えて三代将軍 源実朝が暗殺される事件まで起こった。この混乱を収拾して、幕府の権力を握ったのが、北条氏であった。北条義時以後、北条氏が執権として政治をリードしていく。しかし、この幕府内の混乱に乗じて、後鳥羽上皇が政権奪取を図った。承久の乱である。この乱にも勝った北条氏が権力を盤石にしていく。北条泰時の代には、日本初の武家法である御成敗式目を制定した。以後、江戸時代までこの御成敗式目が武家の守る基本的な法令になる。この北条家の権力を揺るがす力は、外国からやってきた。元寇である。時の執権は北条宗時であった。元・高麗連合軍の襲撃を二度に渡って防いだものの、外敵からの防戦であったため、奮戦した御家人に与える所領がなく、戦費が持ち出しになった御家人は窮乏していった。窮乏する御家人
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歴史の「流れ」5

前回は歴史の流れを掴むために言語化をすることそれに有効なのは、「漫画」を活用することをお伝えしました。今回は、言語化がある程度できたら、取り組んでほしいことをお伝えします。それは、各時代のキーマンを決めて、その人の行った事象をまとめてください。もちろん、言語化をする中で、人物と事象を文章に取り入れましょう。こうなると文章長くなってしまうので、時代ごとに区切ってください。例えば、飛鳥時代なら天智天皇 奈良時代なら聖武天皇 平安時代なら藤原道長などです。人物漫画でその人の名前で一冊本が出てること教科書で太字になってるこの2点を参考に選択してください。まずは、その人の行ったことを箇条書きであげるその実績が、言語化した中でどのような意味を持つのか考えて、言語化した内容に組み込んでいくこの2点を意識しましょう。それは、どのような感じになるのか。ここで書きたいのですが、仕事の合間でこのブログ書いてたので、時間がなくなってきました。次回は、例文を作成していきますね。
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歴史の「流れ」3

前回は、過去から今までの歴史をおおまかに言語化するとお伝えしました。時代の一定の流れ=どのような方向に社会が動いていたのかを自分なりに理解することが目的です。現代でもそうですが、一定の事件が起こる→社会が是正に動く→時代が動くという流れが存在します。例えば、安倍元総理の暗殺事件が起こる→犯人の動機の1つが旧統一教会への恨みだった→統一教会への批判が起こるというように社会が動いていきます。これが、例えばクニの成りたちだったら農耕が始まる→集団生活が便利だから人が集まりムラができる→富の蓄積が可能になる→集まった人々に貧富の差が生まれる→富む者が力をもち、リーダーとなる→ムラ同士の力の上下が生まれる→強いムラに弱いムラが従属する→クニができるというような因果関係があります。これを理解することで、その時代のトピックを整理できるんです。この整理が大事です。多くの事件・人物・事象が歴史の中では多数出てきます。苦手な人は、この整理ができず、膨大な情報がフラットになっています。まあ、弥生時代と江戸時代を間違えるような極端な例はないでしょうが、例えば「応天門の変」って、平安時代?鎌倉時代?奈良時代?ということはあり得るでしょう。言語化して、流れを作れば、どの事件がどの流れの中で発生したのか整理をつけやすいんですね。いわば、散らかった衣類を区分して収納するタンスを作る作業です。一番上は長袖衣類二番目はパンツ・ズボン三番目は下着四番目は靴下とかね。そうすると、新たな用語や人物がどの時代に収納されるのかが、徐々に理解できます。時間がかかるかも知れませんが、これはやってみる価値はありますよ。テストを例
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歴史の「流れ」2

歴史学習の鍵になるのは「流れ」の把握です。そのために必要なのは、過去から現在までの経緯を「言語化」することだと前回書きました。「言語化」ですが、どのようなものか。具体的に書くと、こんなようなものです。狩猟採集が中心だった縄文時代から弥生時代には水稲栽培を中心にする生活に変わっていった。水稲などを中心に作物を生産することで、計画的な生産や備蓄が可能となり、貧富の差が発生する。また、集団生活を営むようになり、ムラが生まれ、ムラが集まって、クニが生まれた。そして、クニ同士の間で争いも起こる。クニ同士の争いは、クニの統合を進め、やがて大きな政権ができる。ヤマト政権である。天皇を中心とするヤマト政権は、豪族連合であったが、飛鳥時代には蘇我氏の力が天皇を上回りかねない力関係ができた。そこで、乙巳の変で蘇我氏を滅ぼし、天皇中心の国家に再編した。しかし、政治の運営は徐々に天皇からその側近の公家が担当するようになり、平安時代には藤原氏の栄華が最盛期を迎えた。藤原氏は天皇の権威を使えるように天皇家とを婚姻を通じて親戚になり、摂政や関白などの要職を独占し、天皇に代わって政治を行っていく。しかし、藤原氏の権力独占を愉快に思わない天皇家側も、天皇退位後のフリーの存在である上皇の座について、政治を行う人物も現れた。こうした権力争いの際に、実際の武力を担ったものが登場する。武士である。上皇と藤原氏の権力争いが武力衝突に発展する中で、軍事を担う武士がやがて力をつけていく。その武士をまとめる勢力が生まれる。それが源氏と平氏だ。源氏と平氏の戦いも生じ、やがて平氏が勝利した。平氏の力は、やがて、天皇や藤原氏を上回り
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歴史の「流れ」

歴史学習で重要なのは「流れ」を掴むこと得意な人はそのように言います。そのためには、「学研とか集英社などからでている歴史学習漫画を読むことをお勧めします」このようによく言いますよね。でも、苦手な人にとっては、そもそも「流れ」ってなんだよと感じるようです。で、その結果、教科書の丸暗記でテストに臨みます。そして、ある程度は通用するんですよね、頑張れば。そこそこの結果が出るので、次回にも同じ暗記で臨みますよね。これ、中学レベルなら通用するんです。でも、高校レベルだと扱う内容が中学レベルと比較して格段に情報量が多くなってきて、暗記では通用しなくなります。好きな人、得意な人は、情報量の増大が楽しくなりますが、嫌いな人、苦手な人にとっては、苦痛以外の何物でもなくなってしまいます。私は嫌いな人や苦手な人の感覚がわからないので、歴史が苦手な何人かに話を聞いて感じたところですが、「答えになる絵がわからない中でパズルをやっているよう」という感覚なのかなあと感じました。例えば、保元の乱と平治の乱同じ時期に同じような合戦があるのでわかりにくいこれはわかるのですが、保元の乱と応仁の乱違う時期の合戦すら違いがわからなくなる上記は極端な例ですが、用語を覚えるだけであればそうだろうなあと感じます。この原因はなんだろうなあ、と考えました。そこで考え付いたのは、ありきたりなのですが、歴史の「流れ」が掴めていないということでした。この「流れ」が掴めてないので、目の前のパズルのピースがどこにおくべきものか見当がつかない。目の前に出てきた事件や人物が、どこの時代に出てくるものなのかわからない。そういう感覚なんだろうなあと
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歴史の効能3

さて、歴史の効能について 第3弾です。歴史は国際交流にとって重要な役割を果たします。これは、外国で活躍したいと思っている方外国人と交流したい、特に知的レベルの高い人と交流したいと思っている方にこそ知ってほしいと思っています。国際交流や仕事では、英語が重視されます。手段として。でも、いくら話せても、その質が低いと相手からの興味関心は得られないでしょう。だからこそ、歴史です。それも、日本史です。なぜ?例えば、フランス人相手ならフランスの歴史を知っていた方がよいのではないかと思う人もいるでしょう。でも、本当にそうでしょうか。例えば、日本人がナポレオンについて知ってる話をしたとしても、よほどの専門家でない限り、フランス人の方がその日本人よりもナポレオンのことを知っているのが普通です。相手は「お詳しいですね」と言ってくれるかも知れませんが、内心は「そんなことは知ってるよ」と笑われてしまうだけです。でも、「フランスではナポレオンが有名ですが、日本のナポレオンと言われた軍事の天才がいました。でも、彼は日本の戦争が終わった後、今度は教育が大事だと考えて、学校を作ったんですよ。ナポレオンが作った大学ってありますか」とか話をすれば、相手も喜んでより突っ込んだ話をしてくれるはずです。私の経験上、外国人は日本人の自国の歴史知識の薄さを感じているように思うんです。そして、少し知っている人も、先のフランスの例のように、相手国に関してかじっただけの話しかしない。立場を逆にして考えれば、日本にやってきた外国人が少しかじっただけの知識で「織田信長って本能寺で家臣に殺されたました」と言われても「そんなの知ってるわ
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歴史の効能1

よく聞く言葉があります。「歴史なんて知っていても何の役にも立たない」これはある面、私も部分的に肯定します。ただ、それは文化全てに言えることだと思っています。衣食住を満たすことが優先される時代だったなら、歴史知識は基本的に要りません。けれど、今の世、少なくとも日本はそうではないです。むしろ無駄な知識を持っている人の方がより楽しい時間を過ごせることが多いと思うのです。これは私の経験から感じたことですが、今から10年ほど前になるでしょうか。映画で、『連合艦隊司令長官 山本五十六』という役所広司さん主演の映画を見ました。その映画で私がグッときて泣けた台詞がありました。配下の若き航空兵・牧野が出撃して死んだ時の台詞です。牧野の死の報告を受けた山本五十六は「そうか、牧野も死んだか」と言って、正面に背を向けました。私は、これに涙を誘われたんです。ここまで聞いて、分かった人は相当な歴史好きです。山本五十六は、長岡藩の高野貞吉の息子として生まれました。そして、山本家に養子に入っています。この山本家は、代々長岡藩の家老の家で、戊辰戦争の時、当主だった山本帯刀は、河井継之助の片腕として活躍し、戦死しています。そして、長岡藩の殿様は牧野氏でした。武士としての教育を施され、長岡藩の旧家老の名門を継いだ山本五十六は、世が世なら自分が命を賭して守らねばならない主君を死に追いやってしまったという無念が表現されていました。「そんな知らないよ」という人もいるでしょう。でも私からすると「知っていればもっと作品の良さ 魅力を感じて楽しむことができるよ」と言いたいです。大河ドラマでもそうです。台詞には裏打ちされた何かが
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甲冑武者 黒武者因幡の歴史って楽しいよ!

ココナラデビューしました。歴史ライターの黒武者因幡です。歴史を楽しむ歴史がためになるこれを目指してココナラで活動していきます。さて、歴史ってとても面白いと思っています。でも、「暗記ばかりで苦手だった」「面白く感じたことはない」という意見も多く聞きます。きっと、最初の出会いが学校の授業で、覚え込みが中心になってしまったからだと思うんですよね。確かに、最初は教科書に載っている貝塚とか遺跡とかの暗記から始まってしまいますよね。場合によっては、人類の歴史で、やれアウストラロピテクスだとか、クロマニヨン人だとかの順番を覚えさせられたりしたかと思います。最初の出会いって大切なので、この時に「うわ、きついな」と思ってしまうと、その後、終生そのイメージがついて回りますよね。だから苦手って人が多いのも納得する部分もあります。でも、そのまま歴史が嫌いで終わってしまうのはあまりにも勿体ない!もし歴史が本当につまらないなら、なぜ毎年大河ドラマがあれほど話題になるのか。邦画で様々な歴史物が作られるのか。時代小説や歴史小説が出版されるのか。それは歴史に魅力があるからです。そして、知識があれば、その作品を何倍も楽しめたりもします。次回は、歴史を学ぶ楽しさについてお伝えします。
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心機一転トプ画変えてみました!

仮歌を提供させていただいているAme(あめ)と申します。昨日今日と考えさせられることが色々ありました。今後の活動方法をもっと真剣に考えていかないとなぁなんて考えています。元々Webライターをしたりサイト運営をしていたので、自分を売り込むためのブログを別でも作ろうかとも思案中。ワードプレスの使い方忘れちゃったんですけどね(^_^;)今日は低迷していた気持ちを変えるためにトプ画を変更してみました!前のトプ画は文字がうるさくて安っぽいのかもしれない…と大人しめPopにしてみました。着ているお気に入り服にカラーを合わせたのでデザインは気に入っています。ちなみに名前のあめは、あめちゃんのあめではなく天照大神(アマテラス)様から付けました。元々、神社や日本史が大好き(運営サイトも日本史)なので、歌を聴く人たちにパァっと明るい晴れ空のような気持ちになっていただきたくて自分で付けました。まだ名は体を表していないかもしれませんが、そう感じていただけるように頑張っていきます!今、こちらのサービスのみですが今後はこのような展開を考えています。★本歌サービス★キャラボイスやナレーション私の近々の目標は『仮歌で採用曲を出し、作曲者様に貢献すること』昔からの夢は『CMソングを歌うこと』です。ココナラの仮歌さんたちの中には、両方叶えている方々も多く個人的にお話ししたいくらいに憧れちゃいます。本当は仮歌先輩と交流してみたいんですけどね。迷惑かもしれないので、そこはまだ踏み込めていません(´・ω・`)私にできることはツイッターをこっそり覗いて仮歌先輩のマインドを真似できるように勉強すること。あとは仮歌先輩の歌を
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日本の歴史から辿る現代へ

こんばんわ!気温の変動が激しいので体調等は十分気を付けて下さいねぇ👍ご覧頂き有難う御座います!只今、バーミヤンでブログを書いている瑠佳です。現代社会には、日常生活の中に沢山の選択肢が存在します。その選択肢を自分で思考して選択して行った結果今の自分がいる事でしょう。そんな恵まれた時代を生きている僕ですがまずは、この時代に産んでくれた母親に感謝ですねぇ😁親はいつまで経っても偉大で唯一越えれない存在です!そんな大切な人達を守るのは、自分自身の知識です。信憑性が無い情報が飛び交っている現代社会ですが大切な人達を守る為にも知識を蓄えて行こうと僕は日々成長をモットーに毎日楽しく生きています✌️歴史があって現在が存在し現在=歴史更新中なんですよねぇ!現在進行形!歴史を辿ればその時代の流れや現状が明確に見えて来ると僕は思うので読書して行きます!
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新しい勉強内容♪

こんばんは♪オンライン家庭教師のKawase Shinoです!私がオンライン家庭教師を初めてから、一週間が経とうとしています。ですが、なかなか生徒さんを受け持つことが出来ていないので、大変残念に思います(泣)さて、話は変わりますが、今日は新しく私が学んでいる分野を紹介しようと思います♪それはズバリ!!「日本史」です!前からずっと受け持っている生徒さんが、大学受験で日本史Bが必要になったと聞きました。私はいつも英語だけを教えているのですが、日本史でも力になることは出来ないだろうか、と考えて始めました。久しぶりの日本史は、「こんなのあった!?」と思うようなことばかり(汗)やはり、人間の記憶力ってあてにならないんだなぁって実感しました(笑)そんな中で勉強していると、自分の国の歴史を知るのは大切ですし、必要だよなぁって思います。教養としても必要ですし、海外の人と話す時に自分の国のことを知らなかったら恥ずかしいですよね(汗)私も何度かそのような目に遭っているので、ますます勉強しないといけないな、と感じる今日この頃でした♪今日のブログはここまで!ここまで読んで頂き、ありがとうございました!少しでもオンライン家庭教師に興味ある方はメッセージを送ってください♪今ならほとんどの時間が空いていますよ♪(笑)それでは、また次のブログで会いましょう✨
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戦後時代(20世紀後半~)の日本と世界の交流②

④「個人的に言えば、私は今の日本人を好きだし、平均的な日本人も好きである。・・・特に若い人達は、世界で最も好感の持てる人達だと思う。欠点と言えば、彼らが戦争中の犯罪行為に対して見事なくらい無知で、日本がアジアの隣人達に恐ろしい苦痛を負わせてから三十年しか経っていないのに、過去を気にかけている様子がないことである。・・・日本の文部省は、それら一連の歴史上の事実を若者達に教えようとしない――何たることだ?・・・そんな連中が日本の行政内で高い地位を占めている現状では、世界の国々、とりわけ東南アジア諸国が、戦後三十年の日本を経済的には大人(たいじん)とは見なしても、人道的には小人(しょうじん)であると考えていることに、何ら不思議はないのである。」(B・レンガー『不思議な不思議なニッポン人』)  レンガーとは「日本外国特派員協会」に加盟する複数の外国人記者の複合名です。知日派であることは言うまでもなく、妻帯者は全員日本人女性と結婚しており、その日本理解は相当なものであると言えますが、その彼らがこうした苦言を呈していることは心して聞くべきでしょう。 ⑤「その文化、伝統、必要からして、日本の農民、職人は、西欧に資本主義制度と工業社会をもたらした、あのプロテスタントの倫理を想起させるような資質を持っている。勤勉で、消費を繰り延べても、まず貯蓄や投資を喜んでする能力である。」(米商務省報告『揺らぐ日本株式会社』)  カリフォルニア州ほどの広さしかない国土で、天然資源はほとんどないといった地理的条件にもかかわらず、敗戦後の焼け野原からあっという間に西欧諸国を追い抜き、アメリカに次ぐ資本主義圏ナンバ
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戦後時代(20世紀後半~)の日本と世界の交流①

①「日本とイギリスとの違いは、日本では社会構造の違いから「義理関係」がイギリスよりも一層しばしば現われ、個人の物質的福祉にとってもより大きいな重要性を持っていること、かかる関係の中で要求される行為も一層はっきりと形式化させられていること、そして「汝の隣人を愛せよ」とか「本心を語れ」とか「真理や正義を追求せよ」といった「普遍主義的な」責務よりも、かような「義理行為」を行う責務の方に、日本人の価値尺度ではより高い位置が与えられていることにある。」(ロナルド・P・ドーア『都市の日本人』)  いわゆる「日本論」「日本社会分析」ではルース・ベネディクトの『菊と刀―日本文化の型』が有名ですが(同様にドイツを分析してみせたのがエーリッヒ・フロムの『自由からの逃走』であり、アメリカ自体を分析してみせたのがリースマンの『孤独な群集』です)、1度も日本の地に足を踏み入れることもなく、まことしやかに「日本文化の型」(例えば、日本人は「恥を基調とする文化」に属しており、西洋の「罪の文化」と対照的で、「彼はただ他人がどういう判断を下すか、その他人の判断を基準にして自己の方針を定める」といった考察を展開しています)を論じたことに対して批判的であったのがイギリス人社会学者ドーアです。ドーアは「時代を超えて存続し、あらゆる地域、あらゆる階級にしみわたっている、同質的な日本文化ないしは日本文化の型」などといったものは存在しない、とベネディクトを批判し、彼女がこれこそすぐれて日本的なものだと『菊と刀』で主張した「義理」の観念についても、分析的にみれば外国人であるイギリス人にとって不思議な要素は何もないと反論してい
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戦前時代(20世紀前半)の日本と世界の交流

①「堤岩里の惨殺 どんなに叫んで見ても、 かれらの放った火は 今になっても消せやしない。 教会に集まった、 二十八名の兄弟を、 生き返らせやしない。 倭軍中尉が指揮する、 悪魔のごり押しが、子羊のような民を 教会堂に追い込み、 乱射し、殺害した。 理由も簡単であった。 われらの国をわれらが愛するからと、 自分の国を愛するからと。 殺された兄弟が、 堤岩里のあの方たちだけならば。 私は死んでも、この幼子だけでも生かしてと、 死の窓の隙間から差し出す、 天真らんまんな幼な子の、 無心の目をねらい、引き金を引く 奴等の手。 母性愛の最後の哀願するら聞こえぬ、 聞く耳を持たぬ 狂った悪魔、聞く耳を持たぬ悪魔。 どんな声で叫んで見ても、 罪過は、罪過、 傷は、傷、 洗い落とせやしない。 倭族がどういうものかを、 かれらの血でそまった額と、 突き出た顴骨(かんこつ)と、 眉間についている真黒い、ぬけめない目が どういうものかを、 われらは知っている。 堤岩里を燃やした火が、 堤岩里を燃やしただけではないので。 おそらく 今、 われらは気位の高い、 独立の国の民として、 明るい笑顔で、かれらに 対することができるのは、 狭量をたしなめる、 寛大と誇りと、 明日の燦然(さんぜん)と輝く未来が われらを照らしているからだ。 どんなに叫んで見ても、 かれらの放った、堤岩里の火は、 今になっても、かれらは 消せやしない。 殺されたわれらの兄弟が 生き返りはしない。 (悔い改めることは、かれらの徳、 われらの問題ではない。) そうは言うものの、 自主の国の民として、 明るい笑顔で、かれらに 対すること
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明治時代(19~20世紀初頭)の日本と世界の交流③

⑧「ある朝、全世界は日本が一夜のうちに旧弊の壁を突き破り、勝ち名乗りを上げて現われた時に、驚きの目を向けたのである。それは信じられないほど短い間に行なわれたことなので、新しい建物が立てられたのではなく、着物を着替えたかのように思えた。…これによって、残りのアジアは勇気づけられた。生命と力が私達の中にあるということが我々には分かった。後はただ死んだ殻だけを取り除けばいいのである。」(ラビンドラナート・タゴール『ナショナリズム』)  タゴールはアジアで最初にノーベル文学賞を受賞した人物で、これは日露戦争後の日本について述べた部分です。やはり、日清・日露戦争が世界に与えた衝撃は並々ならぬものがあったようです。ちなみにベルツも、坂本竜馬が皇后の夢に出て来て、「私は坂本竜馬と申す者でございます。今度の戦(日露戦争)は勝利でございますから、ご安心遊ばされますよう、お知らせも申しあげるため参上いたしました。この坂本竜馬めの申し上げることに嘘、偽りはございません」と述べ、この話が国民を元気付けたことを妻ハナから聞いたこととして伝えており、さらに次のように感慨を述べています。 「かくてまたもや世界歴史の1ページが――それも、現在ではほとんど見透しのつかない広大な影響を有する1ページが――完結されたのである。今や日本は陸に、海に、一等国として認められた。我々が東アジアにおいて、徐々にではあるが、間断なく発展するのを見たその現象が、今や近世史の完全な新作として、世界の注視の的となっている。――アジアは世界の舞台に登場した。そして、このアジアはヨーロッパ諸国の政策に、従って我々の祖国(ドイツ)にもまた
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明治時代(19~20世紀初頭)の日本と世界の交流②

⑤「薩摩の乱(西南戦争)の政治的結果として、さらにもう1つ大事なことがある。戦勝後、政治指導者達は乱を起こした地方に対して何の報復措置も取らなかった。政治指導者達は物分りのいい鷹揚な方針を取り、元来は有能で進歩的な人間の多い薩摩人を大勢政治に参加させたのである。」(ジョージ・サンソム『西欧世界と日本』)  サンソム(1883~1965年)はイギリスの日本研究家として著名な人物ですが、「日本の柔構造」に対してこのように実に鋭い指摘を行なっています。西南戦争の流血は戊辰戦争を上回り、近代日本建設途上での最大の内乱でしたが、いったん内乱が鎮定されると、死刑に処せられたのはわずか22人に過ぎず、懲役刑に処せられた者は2500人近くいましたが、そのうち90%以上は3年以下の刑であり、4万人以上が免罪となっているのです。これに対して、その6年前(1871年)に起きたパリ・コミューン事件では、フランス政府軍に捕らえられたコミューン派市民はほとんどその場で銃殺され、10日余りで約3万人が殺されたのみならす、戦後は約4万人が軍事裁判にかけられて370人余りが死刑、8000人近くが流刑・要塞禁固・強制労働の刑を受け、多数の獄死者を出しているのです(その80年前のフランス革命でのジャコバン政権による恐怖政治はそれ以上でした)。  これだけでも日本とフランスの「逆賊」に対する取り扱いが対照的であることが分かりますが、さらに1898年には何と上野公園に西郷隆盛の銅像が完成し(今もありますね)、800余人のそうそうたる政治家・軍人・外国公使らが集い、時の政府を代表する内閣総理大臣山県有朋が祝詞を述べている
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明治時代(19~20世紀初頭)の日本と世界の交流①

①「ヨーロッパの君主が、その国家と国民に対して占める地位に比べて、恐らく日本の天皇の地位を簡単に定義すれば、次のように言えるかもしれない。すなわち、天皇は単なる人格を表わすというよりも、むしろある観念の人格化されたものを表わすと。したがって、日本の天皇はドイツの「ヴィルヘルム」とかイギリスの「エドワード」とかいうよりも、むしろ「ゲルマニア」とか「ブリタニア」というのに近い。」(エルウィン・ベルツ『日記』)  1871年に行なわれた廃藩置県を見て、イギリスの駐日公使パークスは「日本の天皇は神である」と歎じて言いました。ヨーロッパにおいてこんなことを行なうとすれば、何十年、あるいは100年以上の血なまぐさい戦争の後に初めて可能であろうものを、一片の勅令によって一気に断行してしまうとは、ということです。この摩訶不思議な、700年ぶりに政治の表舞台に出て来た「天皇」と、その側近たる元老を中心に進められてきた日本の近代化について、宮内省侍医を務めたドイツ人医師ベルツ(1849~1913年)が貴重な報告をしています。それによれば、「天皇睦仁は、その長期にわたる治世中、絶えず有能な相談相手を側近に持つという、まれな幸運に恵まれた」としていますが、そうした元老(彼らは明治維新以来、国家体制を自らの手で作り上げてきたという歴史的現実に基づいて政治的影響力を行使する、「超法規的存在」でありました)の1人として、ベルツも親しくしていた伊藤博文を挙げることができるでしょう。  伊藤はプロシア流の強大な君主大権を中心に明治憲法を構築しましたが、その草案審議の冒頭で「日本には人心を統一すべき宗教が無く、こ
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江戸時代(17~19世紀)の日本と世界の交流②

⑦「俘虜中の姜沆は姿勢を崩さず、朝鮮の衣冠を変えず、静かに一室に処して、ただ書物を読み、字を綴るを事として、未だかつて倭人と相対して自分から口を開くことがない。また、東萊城を守って小西行長軍に殺された宋象賢の妾は、節を守って屈せず、死を以て自ら誓う。倭人、貴(とうと)んでこれに敬意を払い、為に一室を築き、我国の捕虜となった女人をして護衛をさせた。また、惟政(四溟堂大師、朝鮮半島に進軍した加藤清正を陣中に四回も訪ねて談判し、日本軍の動静を探ったことで知られています。戦後は対馬に派遣され、さらに家康の接見を受けて国交回復の意志を聞き、講和条件をまとめて、その後の善隣外交の道を開きました)が使者としてやって来て、節を全うして帰るに及ぶや、遠近、宣伝して美事をなすと称した。これによって見ると、日本の国は専ら勇武を尚び、人倫は知らないが、節義の事を見るに至っては、すなわち感嘆してこれを称せざるはなし。また、天理本然の性を見るべきのみ。」(慶暹〔けいせん〕『慶七松槎録』)  第1次朝鮮使節団の副使として来日した慶暹の日本紀行日記です。彼は日本の切腹や武闘風習に驚き(李氏朝鮮は宋と同じく文官優先主義でした)、日本人が姓を簡単に変えること(李氏朝鮮では中国と同じく、女性が結婚しても姓を変えず、それぞれの宗族における秩序は絶対的で、「族譜」と呼ばれる何十代にもさかのぼる家系図帳を作って、歴史的アイデンティティを強固に培っていました)、天皇の血族結婚(李氏朝鮮や中国では「同姓不婚の原則」があります)は奇異なものとして感じたようです。  そもそも江戸時代は「鎖国時代」と言われますが、完全鎖国ではなく
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江戸時代(17~19世紀)の日本と世界の交流①

①「(日本における)この偶像崇拝主義は、ローマ、トレド、セビリアにおける私達のキリスト教のように、非情に深く根を張っています。それで野蛮人(家康)及びその他の者は私達の布教活動を見て嘲笑し、私達を狂人と考えています。私達を指して、次のように言っているそうです。『もしそちらの宗教(キリスト教)が浸透しているローマやスペインへ行って、12人から24人くらいの日本人が日本の宗教を紹介しようとしたら、我々を判断力の足りない者として嘲笑しないだろうか。我々が彼らをこういう風に(愚かな者と)考えるのは当然のことである。』」(1604年12月23日付、フランシスコ会ディエゴ・ベルメーオが京都からフィリピン諸島総督に宛てた書簡) ②「ポルトガルのイエズス会士はこの都市(京都)に壮大なアカデミーを持っている。ここには数人の日本人のイエズス会員がいる。日本語で印刷した新約聖書(恐らく『ドチリイナ・キリシタン』のようなキリスト教の教義を記した何らかの図書と考えられる)を持っている。このアカデミーでは多数の児童を教育し、これにローマ・カトリック教の初歩を教えている。この都市にはキリスト教徒の日本人が5、6千人いるという。」(1613年にイギリス王ジェームズ一世の国書を持って来日したジョン・セーリスの日記)  信長の比叡山焼き討ち(1571年)、石山本願寺との全面対決(1570~1580年)、秀吉のキリシタン禁止令(1587年)、家康の禁教令(1612年~)に至るまで、これをヨーロッパ的な「宗教戦争」と見る限り、「何を禁止したのか、いつ禁止したのか、よく分からない」とよく指摘されます。それも道理で、あの
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戦国時代(15~16世紀)の日本と世界の交流②

④「賊兵が退いた。その時、賊は三道を蹂躙した。その通過する所では、皆、家屋を焼き払い、人民を殺戮し、およそ我が国の人を捕えれば、ことごとくその鼻をそいで威を示した。  …倭は最も奸悪巧猾で、戦いに際しても、どれ一つとして詐りの手段に出ないということがなかった。壬辰年のことを考えてみると、都城(ソウル)攻撃では巧みであったが、平壌の戦いは拙(つたな)かったと言えよう。我が国は泰平(二)百年、民衆が戦争を知らなかったところに、突然、賊兵の侵入を聞いて慌てふためいて動転し、遠くのものも近くのものも、風に靡(なび)くが如く等しく魂を奪われてしまった。倭は破竹の勢いに乗って、十日ばかりの間に素早く都城に至った。…これは兵家に言う善謀であって、賊の巧みな計略であった。…こうして賊は自ら常勝の威力を恃(たの)んで後事を顧みず、諸道に散開して狂暴の限りを尽くした。…  倭奴は攻戦に習熟し、武器が鋭利である。昔は鳥銃が無かったが、今はこれを持ち、…(その効果は)弓矢に数倍する。我々がもし、平原広野で遭遇して、両陣相対して兵法通りに交戦したならば、これに敵対するのは極めて困難であろう。」(柳成竜『懲毖録』)  外交の基本は「隣国関係」にありますが、日本の隣国である韓国・北朝鮮には根強い「反日感情」があり、その原点とも言えるのが「秀吉による朝鮮半島侵略」です。すでに1590年に来日し、約7ヵ月間滞在した通信使一行が秀吉の「アジア侵略」の意図(その最終目的は「征明」にあり、李氏朝鮮に対してその先導を要求しています)に触れていますが、正使黄允吉(こういんきち)は「必ず兵禍あらん」と報告し、副使金誠一は「
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戦国時代(15~16世紀)の日本と世界の交流①

①「私達が今までの接触によって知り得た限りでは、この国民は私が接した民族の中では一番傑出している。」(フランシスコ・ザビエル~一五四九年に鹿児島に入り、そこからゴアのイエズス会士へ送った書簡)  16世紀中頃以後に来日したイエズス会宣教師達の日本人評としては、「我らが今まで交わった人々の中で最も優れた民族」といったものが一般的で、否定的な見方も当然ありましたが、それについてはイエズス会は「キリストの祝福を受けたことのなかった民族に完全を求めるのは、まず無理である」と結論を下したようです。彼らの伝道は功を奏し、イエズス会の報告によれば、「1605年にキリスト教徒の数が175万人に達し、日本全人口の十分の一を占めた。」という大盛況ぶりです。ちなみにザビエル(1506~1552年、スペインのイエズス会士)が特に高く評価したのは次の3点でした。 (1)日本には政治的・社会的に高度な制度を持っていること。彼は何度もその手紙の中で政治的秩序、社会の各階級の制度について述べています。 (2)すぐれた学問があること。彼は足利学校、比叡山・高野山などの「大学」はパリ大学をはじめヨーロッパの一流大学にも匹敵すると書いています。 (3)日本人は男女を問わず、ほとんど皆読み書きができること。これは当時のヨーロッパ諸国では庶民階級のほとんどが読み書きできない状態であったことを考えると、驚異的だったようです。  ザビエルはこうした認識に基づいて、次のような三つのプランを立てたとされます。 (1)まず京都へ行って全国の支配者である「王」と宮廷の人々に会って伝道し、「上から下へ」の浸透を図ること。これは戦国時
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室町時代(14~15世紀)の日本と世界の交流

①「大明書・・・朕、大位を嗣(つ)ぎてより、四夷(しい)の君長(くんちょう)朝献する者十百を以て計(かぞ)う。苟(いやしく)も大義に戻(もと)るに非ざれば、皆礼を以てこれを撫(な)で柔(やすん)ぜんことを思う。ここに汝、日本国王源道義(室町幕府第3代将軍足利義満)、心、王室に存(あ)り。君を愛するの誠を懐(いだ)き、波濤(はとう)を踰越(ゆえつ)し、使を遣わして来朝す。逋流(ほりゅう)の人を帰し、…朕、甚(はなは)だ嘉(よみ)す。…今、使者道彝(どうい)・一如(いちにょ)を遣わし、大統暦を班示し、正朔(せいさく)を奉ぜしめ、錦綺(きんき)二十匹を賜ふ。至らば領すべきなり。」(明国書~『善隣国宝記』)  「武家の棟梁」というカリスマ性から見れば、平清盛よりも源頼朝が、足利義満よりも足利尊氏の方がはるかに上だったでしょう。しかし、貨幣・貿易に目を配ったマクロ的な経済センスでは、後者より前者の方がはるかに優れていたことは否定できない事実です。平清盛は貨幣経済が進行しているのに日本の貨幣がなかなか流通しないと見るや、それなら貨幣そのものを輸入すればいいと大胆に考え、宋銭を輸入して日宋貿易を開始しました。これは鎌倉時代には建長寺船(建長寺修造の資金を得るため、鎌倉幕府が1325年に元に派遣)、南北朝時代に天竜寺船(足利尊氏が夢窓疎石の勧めで後醍醐天皇の冥福を祈るために天竜寺を創建しようとし、その造営費調達のために1342年に元に派遣)を派遣したのがせいぜいで、正式な外交関係も無く、私的な商船の往来があるにすぎなかったのと対照的であると言えます。  同様に足利義満も明が倭寇に悩んでいるのに
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鎌倉時代(12~14世紀)の日本と世界の交流

①「語録を見て、何の用ぞ。」 「古人の行李(あんり、行い)を知らん。」 「何の用ぞ。」 「郷里に帰りて人を化せん。」 「何の用ぞ。」 「利生(りしょう、衆生を利益すること)のためなり。」 「畢竟(ひっきょう)して(とどのつまり)何の用ぞ。」(『正法眼蔵随聞記』)  鎌倉時代は新仏教が一斉に花開き、一種の「宗教改革」が起きましたが、中でも最も中国的な「禅宗」は渡宋した栄西(えいさい)と道元によって広められました。栄西の臨済禅は「公案」を用いる「超論理」の禅ですが、道元の曹洞禅は「只管打坐(しかんたざ)」(ひたすら座禅する)に徹した「非論理」の禅だと言えます。上の会話は、天童山に入って一心に語録を読んでいた道元に対して、西川(せいせん)から来た禅僧が詰問した有名なやり取りです。道元はウンともスンと言えなくなって行き詰まり、ついに「只管打坐」から「身心脱落(しんじんだつらく)」に至る悟りを得たのでした。  やがて、中国からも多くの禅僧がやって来て、日本の禅風を大いに盛り上げました。例えば、南宋から無学祖元(円覚寺開山)、蘭渓道隆(建長寺開山)が、元から一山一寧(元々フビライが日本の視察のために説得して送り込もうとした人物ですが、徳望高く、建長寺・円覚寺・浄智寺に歴住させられています)が、明からは隠元隆琦(萬福寺開山)らが来ています。 ②「天の慈しみを受けている大蒙古国皇帝(フビライ)が、書を日本国王に奉ずる。朕(ちん)が惟(おも)うに、昔から小国の君主も国境を接していれば、音信を交し合って、友好関係を作るように務めてきた。・・・高麗は朕の東方の属国である。日本は高麗に近接し、開国以来
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平安時代(8~12世紀)の日本と世界の交流②

⑧「日本は古の倭奴(国)である。唐の京師(都長安)からは一万四千里、ちょうど新羅の東南(に位置している)。海中に島があって、そこで生活している。・・・その王、姓は阿毎(あま)氏、自ら言う。初めの主を天御中主(あめのみなかぬし)と言い、彦瀲(ひこなぎさ)に至るまで大体三十二世である。皆、『尊(みこと)』を号とし、筑紫城に居住していた。彦瀲の子である神武が立ち、そうして『天皇』を号とし、遷(うつ)って大和州を治めるようになった。・・・  (子天智立つ。)明年、使者が蝦夷(えみし)人と共に(唐へ)入朝した。蝦夷人もまた、海中の島に居住している。(蝦夷の)使者の鬚(ひげ)は四尺ほどもあった。箭(や)を首にさしはさんでいる。人をして瓠(ひさご)を載せて数十歩離れて立たせ、(瓠を)射て当たらないということがなかった。」(『新唐書』日本伝) ⑨「(雍煕元年、北宋第二代皇帝太宗、984年)日本国の僧奝然(ちょうねん、東大寺僧、藤原氏)がその徒五、六人と海上より来て、銅器十余事と本国の『職員令』『王年代紀』を各々一巻献じた。・・・その風土を問うと、ただ書いて対(こた)えて言うには、「国中に五経の書及び仏教経典、『白居易集』七十巻があり、皆中国から得たものである。…国の東境は海島に接し、(そこは)夷人の居る所で、身面に皆毛がある。東の奥洲は黄金を産し、西の別島は白銀を出だし、以て貢賦としている。・・・」と。」(『宋史』日本伝)  平安時代の日本にとって「蝦夷」の存在は悩みのタネだったようですが、この「蝦夷」が東アジアの国際的認識の視野に入ってきたのが、これらの史書に出てくる記録です。もうここには、
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平安時代(8~12世紀)の日本と世界の交流①

①「日本の使の還るを送る ・・・絶国 将(まさ)に外無からんとするに 扶桑 更に東有り・・・」(徐凝:元和年中〔806~820年〕には活躍していたようです) (果ての国で、そこより東はもうないかと思っていたが、 扶桑にはまだ東の地があって、あなたはそこへ帰るのだ。) ②「日本国の僧敬龍の帰るを送る 扶桑は已(すで)に渺茫(べうぼう)の中に在るに 家は扶桑の東の更に東に在り 此(ここ)より去って師と誰か共に到らん 一船の明月 一帆の風」(韋荘:836~910年) (扶桑はすでに果てしない水の、おぼろな遠方にあるのに、 あなたが帰る家はその扶桑の東のさらに東にある。・・・)  これらを見ると、日本列島に対して、「扶桑」(九州)→「扶桑の東」(大和・日本国)→「扶桑の東のさらに東」(東国)といった存在認識が中国側に出てきたようです。 ③「王尊師に贈る 先生自ら説く 瀛洲(えいしゅう)の路(みち) 多くは清松白石の間に在り 海岸 夜中 常に日を見る 仙宮深き処(ところ) 卻(かへ)って山無し・・・」(姚合:775~855年) (中国の東方の海の沖はるかに、中国よりも六時間早く太陽が昇り、また沈む場所があるとして、中国で真夜中の時にそこでは日影が見えると詠んでいます。) ④「僧の日本に帰るを送る 四極 二儀を共にすと云ふと雖(いへど)も 晦明(くわいめい) 前後 即ち知ること難(かた)し 西方は尚(な)ほ星辰の下(もと)に在るに 東域は已(すで)に寅卯の時を過ぐ 大海の浪中に国界を分かち 扶桑の樹底は是(こ)れ天涯(がい) 満帆 若(も)し帰風の便有りとも 岸に到るは猶(な)ほ須(すべか
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奈良時代(8世紀)の日本と世界の交流②

⑥「釈道昭(どうしょう)は俗姓船(ふな)氏、河内国丹北郡の人である。元興寺(がんごうじ)に住み、戒行の誉れがあった。白雉(はくち)四年(653年)五月勅命を受け、遣唐使小山長丹(おやまのながに)に従って海を渡った。時に志を同じくする僧侶は道厳(どうごん)他十三名、長安に至り、三蔵玄奘(げんじょう)にまみえた。この年は唐の高宗(第3代皇帝李治)の永徽(えいき)四年(653年)に当たる。三蔵法師が門弟達に言った。 「この道昭は衆人を済度(さいど)すべき器量を備えている。諸君は外域(日本)の僧侶だからといって、彼を侮ってはいかん。」  三蔵法師は熱心に道昭を教導し、さらに彼に告げて言った。 「わしが印度に旅した時、途中で食物が尽きてしまったことがあった。どこにも人家は見当たらず、今にも死にそうになった時、ふと一人の沙門(僧侶)が立ち現われ、梨をわしにくれた。わしはこれを喰らい、気力回復して、ようやく天竺(てんじく)にたどり着くことができたのだ。あの時の沙門こそ、君の前世の姿なのです。だから、わしは君を大切に思っているのだ。」  ある日、三蔵法師が語って言った。 「経論は巻数多く、たとえ読了したとしても、労のみ多くして、功は少ない。わしは禅宗を体得したが、その旨意(おもむき)は微妙である。君はこの法理を会得(えとく)し、東の方、日本に伝えなさい。」 道昭は師の言に従い、欣然(きんぜん)としてこれを習い修め、すみやかに会得した。」(『元亨釈書』一巻「元興寺道昭」) ⑦「日本国の天平五年(733年)、沙門栄叡(ようえい)や普照(ふしょう)らは遣唐大使丹墀真人広成(たじひのまひとひろなり)に
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奈良時代(8世紀)の日本と世界の交流①

①「倭国は古の倭奴国(志賀島の金印を授けられた委奴国)である。京師(長安)を去ること一万四千里、新羅東南大海の中にある。山の多い島に生活し、領域は歩いて東西五ヵ月、南北三ヵ月行という。歴代、中国と通交してきた。…四面に小島五十余国があり、全て倭国に従属している。王の姓は阿毎(あま)氏で、一大率を置いて諸国を検察したので、皆怖れ従ってきた。官位を設けて十二等がある。…この地には女が多く、男が少ない。文字は十分に使われ、風俗は仏教を信じている。…二十二年(六四八年)になって、また新羅に附託して上表文を奉り、唐と通交するようになった。」(『旧唐書』百九十九巻上「倭国伝」) ②「日本国は倭国の別種である。その国が日の昇る所にあるので日本と名づけた。あるいは、倭国は自らその名の美しくないことを嫌い、日本と改めたという。あるいは、日本はもと小国で、倭国の地を併せたという。…  長安三年(703年)、その国の大臣朝臣(あそん)真人(まひと、粟田真人のこと)が来て、貢物を献上した。朝臣麻痺とは中国の戸部尚書(民部省長官)に当たり、…好んで経書や史書を読み、文をつづることを理解し、容姿は温雅だった。則天武后は真人を麟徳殿(りんとくでん)でもてなし、司膳卿(しぜんきょう、膳を司る官)を授け、本国に帰した。  開元(713~741年)の初め、また遣使来朝した。…使者の一人、朝臣仲満(なかまろ、阿倍仲麻呂)は中国の風を慕って滞在し、帰国しなかった。姓名を改めて朝衡(ちょうこう)とし、左補闕(さほけつ)、儀王友(ぎおうゆう)などを歴任した。朝衡は長安に五十年も留まり、故国に帰らせようとしたが、留まって帰
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古墳時代(3世紀後半~7世紀)の日本と世界の交流②

④「梁が興り、また情報が増えた国があった。扶桑国はこれまで聞いたことがなかった。普通年間(520~527年)、ある僧がその国が来たと称し、中国に着いたが、その言うことはその地を十分に知り尽くしたものだったので、ここに記録する。・・・  倭は自ら呉の太伯の後裔と称している。風俗には入墨がある。帯方郡を去ること一万二千余里で、およそ会稽の東にあり、はるか遠くに離れている。・・・ 文身国は倭国の東北七千余里の所にある。・・・土地の風俗は歓楽的で、物は豊かで安い。旅をする者も食糧を持って行くことはない。・・・ 大漢国は文身国の東五千余里にある。武器がなく、戦争をしない。風俗は皆文身国と同じだが、言語は違っている。・・・  扶桑国とは、南斉の永元元年(499年)、その国の僧慧深(えしん)が荊州(けいしゅう)に来て話して言った。 「扶桑国は大漢国(これはせりふ中の言葉なので、先述の地の文に出てきた大漢国と同じとは限りません)の東二万余里の所にある。土地は中国の東にあり、扶桑の木が多いので、国名にしている。・・・その習俗に元々仏教はなかったが、宋の大明二年(458年)、罽賓(けいひん)国(西域のカシミール、またはその西のガンダーラに当たるとされます)の僧五人が来て、経典、仏像を伝え、教えを広めて出家させたので、やがてその習俗も変わった。」 慧深はまた言った。 「扶桑の東、千余里に女国がある。容貌は端正で、色は非常に白く、身体に毛が生えていて、髪は地に届く。・・・」」(『梁書』五十四巻 列伝第四十八)    「謎の史書」とされる『梁書』の記述です。里数を比定しづらいところですが、日本列島におい
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古墳時代(3世紀後半~7世紀)の日本と世界の交流①

①「泰和四年(369年)五月十六日の丙午正陽に、百たび鍛えた鉄の七支刀を造った。進んでは百たびの戦いを避け、恭しい侯王(が帯びるの)にふさわしい。先の世からこのかた、まだこのような刀はない。百済王の世子貴須は特別に倭王旨のために造って、後の世に伝え示すものである。」(石上〔いそのかみ〕神宮所蔵の七支刀銘文)  「侯王」とは中国の天子の下にある諸王に対して用いられる用語で、百済王も倭王もどちらも東晋の天子の下にあって対等な「侯王」なのですが、その百済王が倭王と好(よしみ)と通じようとして、この独特な七支刀を贈与したということです。後に白村江(はくすきのえ)の戦(663年)で、百済の残党を助けるために倭国がわざわざ援軍を派遣し、悲惨な敗北を喫していますが、こうした百済と倭国の蜜月関係には実に長い伝統があったわけです。 ②「百済と新羅とは、もとこれは(高句麗の)属民であって、もとから朝貢していたのである。しかるに倭は、辛卯の年(391年)にやって来た(そのため、百済、新羅は高句麗側から見て属民らしい態度を取らなくなった)。これに対して、好太王は海を渡って(渡海作戦による奇襲攻撃~この先例として3世紀、魏の明帝による遼東半島の公孫氏征討作戦があり、『三国志』公孫伝に出て来ます)、百済、・・・新羅を破り、臣民とした。・・・  九年(399年)己亥、百済は(高句麗との)誓いに背き、倭と和を通じた。・・・  (広開土)王は平壌に巡下した。そこで新羅は使者を遣わし、王に申し上げて、「倭人は新羅の国境に充ちあふれ、城や池を打ち破り、(百済の)奴客を民としてしまいました。王に帰属し、仰せを承りたい
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弥生時代(紀元前3世紀~紀元3世紀)の日本と世界の交流③

⑩「倭人は帯方(たいほう)郡(現ソウル付近)の東南、大海の中に住み、国や邑(むら)をつくっている。もと百余国から成り、漢の時代に朝貢してくる者がいたが、今、通訳を連れた使者がやって来る国は三十国である。 郡から倭に至るには海岸に沿って海上を行き、韓国(朝鮮半島南半部、ここは元々馬韓・弁韓・辰韓の「三韓」の地でした。やがて馬韓から「百済」が、弁韓から「伽耶」が、辰韓から「新羅」が誕生していきます。北半部は元々「朝鮮」の地です)を通るのに、あるいは南にあるいは東に行き、倭の北岸狗邪(こや)韓国(朝鮮半島南岸部、いわゆる「伽耶」の地です。後に日本側地名として「任那〔みまな〕」の名で呼ばれる所です)に到る。七千余里(約500キロメートル)ほどである。はじめて海を渡ること千余里(約70キロメートル)で対海国(対馬)に至る。・・・また南へ海を渡ること千余里、瀚海(かんかい)と名づけている。一大国(壱岐)に至る。・・・また海を渡ること千余里で末盧(まつろ)国(唐津近辺)に至る。・・・東南陸行五百里(30数キロメートル)で伊都国(福岡県旧糸島郡)に到る。東南、奴国に至るのに百里(約7キロメートル)、・・・東行不弥(ふみ)国に至ること百里。・・・南、投馬国に至こと、水行二十日。・・・南、邪馬壹国に至る、女王の都する所、水行十日、陸行一月。・・・郡より女王国に至る、万二千余里(800数十キロメートル)。・・・倭への道里を図ると、まさに会稽東治(とうち)の東に在る。」(『三国志』魏志倭人伝)   有名な「魏志倭人伝」の記事ですが、この原文にある通り、「邪馬台国」という表記は出て来ません。実はこの表記
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弥生時代(紀元前3世紀~紀元3世紀)の日本と世界の交流②

⑥「(燕地、燕は戦国七雄の1つで、中国東北部から朝鮮半島北部を支配した国です)東夷、天性従順、西南北と異なる。孔子は中国で道が行われていないのを悼み、海に浮かんで九夷と共に住もうとした。もっともだ。 そう、楽浪(紀元前108年に漢の武帝が置いた「漢四郡」のうちの1つで、今の平壌付近を中心としていた)の海中に倭人が住み、分かれて百余国をつくり、定期的に朝貢してくるという。… (呉地、長江河口付近を占めた国です)会稽(かいけい)の海外に東鯷(とうてい)人が住み、分かれて二十余国をつくり、定期的に朝貢してくるという。」(『漢書』二十八巻下 地理志第八下)  『漢書』は1世紀の成立ですが、当時、日本列島から定期的に朝貢していた(つまり、それなりの政治システム、社会制度を有していた)のは「楽浪海中」(朝鮮半島の向こう、玄界灘を越えた海の中)の「倭人」と「会稽海外」(東海の向こう)の「東鯷人」のみだったとしています。さらに7世紀に成立した『隋書』では「俀国伝」と「琉球国伝」の2つのみ、わざわざ伝が立てられているので、この「倭人」は「九州島人」、「東鯷人」は「琉球諸島人」と見るのが妥当かもしれません。 ⑦「瓠公(ここう、新羅初代朴赫居世〔ぼくかくきょせい〕王の側近)はその族姓が詳(つまび)らかではない。元は倭人であって、はじめは瓠(ひさご)を腰に付けて海を渡ってきたのである。たから、瓠公と言った。」(『三国史記』新羅本紀第一巻 始祖赫居世居西干三十八年、紀元前二十年、二月条) ⑧「昔脱解(せきだっかい、新羅第4代王、在位57~80年)は元は多婆那(たばな)国(『三国遺事』では「竜城国」)の生
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弥生時代(紀元前3世紀~紀元3世紀)の日本と世界の交流①

①「(始皇帝28年、紀元前219年)既に斉(戦国七雄の1つ、斉国。現在の山東省)人、徐市(じょふつ、徐福)」らは上書して言うには、「海の上に三神山があり、名を蓬莱(ほうらい)、方丈、瀛州(えいしゅう)と言い、仙人が住んでいるという。心身を清めて、童男、童女と三神山へ行くことを請い願う」と。そこで徐市を遣わし、童男女数千人を発たせ、海に出て仙人を求めさせた。」(『史記』六巻 秦始皇帝本紀第六) ②「(始皇帝37年、紀元前210年)海に連なり、北、琅邪(ろうや、現青島〔チンタオ〕市の西南方)に至る。神仙の術を持つ徐市らはここから海を行き、神薬を求めたが、数年経っても得られず、出費を多かった。罰を怖れ、詐って報告した。「蓬莱の薬を手に入れることはできますが、大鮫がいて苦しめられています。だから行き着くことができません。どうか弓の名手を付け、鮫を見たら連発できる弓で射止めることをお認め下さい」と。」(『史記』六巻 秦始皇帝本紀第六) ③「(紀元前124年、漢の高祖の孫である淮南〔わいなん〕王劉安を臣の伍被〔ごひ〕が諌める)徐福は海に出て不老不死の薬を求めさせましたが、帰って偽りの報告をしました。 「私は海の上で大神に出会いました。神は言いました。『汝は西の皇帝の使者か』と。私は答えました。『そうです』と。『汝は何を求めるか』と訊ねたので、『お願いしたいのは延命長寿の薬です』と答えました。神は言いました。『汝の秦王の礼物は足らないので、薬を見ることはできても手に入れることはできない』と。ついで、東南の蓬莱山に私を連れて行きました。霊芝で造られた宮殿を見ました。使者がいて、銅色で竜の形をし
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縄文時代(紀元前1万年~紀元前3世紀)の日本と世界の交流

①「周の時、天下太平、越裳(えっしょう、現在のベトナム)白雉(はくち、食べると吉を招き、凶を除くことができる縁起物とされました)を献じ、倭人鬯草(ちょうそう、黒きびで造った神酒に浸す香草で、やはり縁起物とされました)を貢す。」(『論衡〔ろんこう〕』第八巻儒増篇) ②「成王(周王朝第2代天子、紀元前1115~1079年)の時、越常(えっしょう)、雉(きじ)を献じ、倭人、暢(ちょう)を貢す。」(『論衡』第十九巻恢国〔かいこく〕篇)  縄文倭人が周王朝に貢献したという驚くべき記事です。著者は後漢代の王充(27~永元年間〔89~104年〕)で、『漢書』を書いた班固(32~92年)の先輩に当たります。この記事は後漢代の「合理主義」に基づいて書かれており、「縁起物」である「ベトナムの白雉」も「倭人の鬯草」も「凶を除く能(あた)わず」、周王朝のシンボルであった「鼎(かなえ)」についても「福を致す能わず」として、効き目が無かった(実際には周王朝は滅んでしまった)としています。逆に言えば、「この本の読者(後漢の読書階級、インテリ層)の間では、倭人の鬯草貢献は周王朝の史実として疑われていない」ということを示しています。  ちなみにこの「縄文倭人の周王朝貢献」は箕氏朝鮮の箕氏(きし)を通じてなされたと見られています。殷王朝最後の天子紂王(ちゅうおう)は暴君で、王族の親戚にして宰相であった箕氏のいさめも聞かず、とうとう周王朝初代天子となる武王によって滅ぼされましたが、武王は箕氏を朝鮮に封じます(東夷の鎮撫が目的です)が、「臣」とはしなかったとされます。これは殷の名家にして民衆に人望の高かった箕氏に対し
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「織田信長は本当に本能寺の変で亡くなったのか」を占う

織田信長は本当に本能寺の変で亡くなったのか(「織田信長生存説」を占う)先日、歴史系のYou Tubeを見ていたところ、「織田信長は本能寺の変で明智光秀に討たれたのではなく、実は生きていたのだ」という織田信長の生存説が紹介されていました。説明を加えるまでもありませんが、本能寺の変は1582年(天正10)6月2日、明智光秀が京都本能寺に主君織田信長を襲って自殺させた事件ですが、織田信長の遺体は発見されませんでした。このため現在に至るまで様々な織田信長生存説が唱えられています。たとえば、・当時の本能寺は火薬などを貯蔵しており、地下通路があった。信長はその地下通路から寺院外へ脱出したという説・イエズス会の手引で海外に逃亡した・薩摩に逃げ落ちたが大怪我をしており、すぐに亡くなった・本能寺から脱出した信長は秀吉と合流したが存在を邪魔に思った秀吉に大阪城に幽閉された・加賀藩で生存していたなど。それぞれ非常に歴史のロマンを感じさせます。そこで実際のところどうなのだろうかと思い、「織田信長は通説通り本能寺で亡くなったのか」ということで易をたてることにしました。出た卦は艮為山(ごんいざん)之雷水解(らいすいかい)です。「艮為山」は「象伝」に「兼山あるは艮なり。」とあるように山が2つ重なった卦です。「雑卦伝」に「艮は止るなり」ともあり、象でみますと上卦の艮(本能寺、大門)の中に信長(下卦の艮)が留まっています。彖辞に「その背に艮まり、その身を獲ず。その庭に行きてその人を見ず。」とあるのも結局信長の遺体を確認出来なかったという事実を重ね合わせてみると面白いです。之卦の「雷水解」は文字通り「解ける」とい
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さあ!大河後半戦始まるよ☆

前半が終わり、7月から大河は後半戦。前半もなかなかの地獄でしたが、この地獄はより激しくなります(;'∀')そして、選挙の関係で7月10日の放送は休止。(・ω・)つまり、公式の動画や再放送を見て、後半を楽しむための時間はたっぷりあります。特に後半は、学校の授業で習った?覚えてる?の史実が多い。ぶっちゃけ頼朝死後一般の人がうっすら覚えてるのは、執権 六波羅探題 御成敗式目 承久の乱くらいでそこからは、八代執権北条時宗まで時間は飛び&元寇あってうんぬんで鎌倉幕府滅亡的な認識の人が多いと思います。この時代がしっかりドラマ化されるのは珍しいので、せっかくのこの機会見て楽しみましょう(/・ω・)/
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☆日本史の学習方法!☆

覚えることが多くて、生徒さんによっては辛ーい科目。まず、「1問1答」形式で出来事や定義を覚えること。次に、「歴史上の流れ」を覚えること。歴史上の人物の性格や政治に絡む人物たちの人間関係、主義主張によって左右されるので、そのあたりを押さえて、小説を読む感覚で教科書を読むと良いです!!!!!!
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