織田信長は本当に本能寺の変で亡くなったのか(「織田信長生存説」を占う)
先日、歴史系のYou Tubeを見ていたところ、
「織田信長は本能寺の変で明智光秀に討たれたのではなく、実は生きていたのだ」
という織田信長の生存説が紹介されていました。
説明を加えるまでもありませんが、本能寺の変は1582年(天正10)6月2日、明智光秀が京都本能寺に主君織田信長を襲って自殺させた事件ですが、織田信長の遺体は発見されませんでした。
このため現在に至るまで様々な織田信長生存説が唱えられています。
たとえば、
・当時の本能寺は火薬などを貯蔵しており、地下通路があった。信長はその地下通路から寺院外へ脱出したという説
・イエズス会の手引で海外に逃亡した
・薩摩に逃げ落ちたが大怪我をしており、すぐに亡くなった
・本能寺から脱出した信長は秀吉と合流したが存在を邪魔に思った秀吉に大阪城に幽閉された
・加賀藩で生存していた
など。それぞれ非常に歴史のロマンを感じさせます。
そこで実際のところどうなのだろうかと思い、「織田信長は通説通り本能寺で亡くなったのか」ということで易をたてることにしました。
出た卦は
艮為山(ごんいざん)之雷水解(らいすいかい)
です。
「艮為山」は「象伝」に「兼山あるは艮なり。」とあるように山が2つ重なった卦です。
「雑卦伝」に「艮は止るなり」ともあり、象でみますと上卦の艮(本能寺、大門)の中に信長(下卦の艮)が留まっています。彖辞に「その背に艮まり、その身を獲ず。その庭に行きてその人を見ず。」とあるのも結局信長の遺体を確認出来なかったという事実を重ね合わせてみると面白いです。
之卦の「雷水解」は文字通り「解ける」という意味です。彖伝には「動きて険より免るるは解なり。」とあり、この危険から逃れたと見ることも出来そうですが、この場合は「肉体(艮)と霊魂の解」=死と見た方が良いと思います。
之卦の爻位は3爻であり、(私は本筮法においても爻位を取り、参照しています)その爻辞には「負い且つ乗る。寇(あだ)の至るを致す。貞吝。」
象曰く、「負い且つ乗るとは、また醜(は)ずべきなり。我より戎(じゅう)を致す。また誰をか咎めん。」とあります。
巷間よく、信長が光秀に厳しく、また理不尽に接していたなどと言われている関係が連想されます。
あるいは、この部分を織田信長か足利将軍家の権威を背負い、またこれに乗り(利用し、追放し)・・・と考えても良いかと思います。
(※また通常の解釈のように、出自が高くない身にして高い官職につき、そのために凶禍を招いたと見ても悪くはありません。)
以上、「織田信長は残念ながら本能寺において亡くなっていた」という結論となりました。
【執筆者】
天元春日(あまもとはるひ)
易占研究家。神道家。
【Twitter 】「天元春日」で検索してください。
【著書】
○『年卦八索法 平田篤胤の易学研究』1250円(Kindle)
《内容》
平田篤胤の易学占法「年卦八索法」を見直し、解釈しました。
本書では、平田篤胤が『太昊古易伝』に述べている年卦八索占法を整理し、不備と思われるところを生田萬、新田目道茂等の著書から補い、さらには同法の理論を展開して、より詳細な占断法について考察。
また別途筮法や思想的な背景についても本文を要約して紹介し、それによって年卦八索法の体系化を試みました。
○『考古易説ー日本神話・古典による易教解釈ー 附・平田易納甲表』300円(Kindle)
《内容》
江戸時代末期〜明治初期に、国学者によって書かれた書籍を翻刻・編集。
易の64卦を神話や古典の事象を当てはめて解説しています。
平田易による独自の納甲表も収録。
【出版物】
○『大島中堂選集』1250円(Kindle)
《内容》
大正〜昭和初期に活躍した易占の大家、大島中堂氏の著書を選集という形でまとめました。
周易愛好者必携の書です。
収録書籍
1、 『周易埋物霊祟秘伝 全』
2、 『易学千里眼』
3、 『真易中州の易学』
4、 『五段論式必中占法』
5、 『易学速成講義録』(全六巻)