明治時代(19~20世紀初頭)の日本と世界の交流②

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⑤「薩摩の乱(西南戦争)の政治的結果として、さらにもう1つ大事なことがある。戦勝後、政治指導者達は乱を起こした地方に対して何の報復措置も取らなかった。政治指導者達は物分りのいい鷹揚な方針を取り、元来は有能で進歩的な人間の多い薩摩人を大勢政治に参加させたのである。」(ジョージ・サンソム『西欧世界と日本』)

 サンソム(1883~1965年)はイギリスの日本研究家として著名な人物ですが、「日本の柔構造」に対してこのように実に鋭い指摘を行なっています。西南戦争の流血は戊辰戦争を上回り、近代日本建設途上での最大の内乱でしたが、いったん内乱が鎮定されると、死刑に処せられたのはわずか22人に過ぎず、懲役刑に処せられた者は2500人近くいましたが、そのうち90%以上は3年以下の刑であり、4万人以上が免罪となっているのです。これに対して、その6年前(1871年)に起きたパリ・コミューン事件では、フランス政府軍に捕らえられたコミューン派市民はほとんどその場で銃殺され、10日余りで約3万人が殺されたのみならす、戦後は約4万人が軍事裁判にかけられて370人余りが死刑、8000人近くが流刑・要塞禁固・強制労働の刑を受け、多数の獄死者を出しているのです(その80年前のフランス革命でのジャコバン政権による恐怖政治はそれ以上でした)。
 これだけでも日本とフランスの「逆賊」に対する取り扱いが対照的であることが分かりますが、さらに1898年には何と上野公園に西郷隆盛の銅像が完成し(今もありますね)、800余人のそうそうたる政治家・軍人・外国公使らが集い、時の政府を代表する内閣総理大臣山県有朋が祝詞を述べているのです。山県は陸軍卿として西南戦争で西郷軍討伐の指揮を取った人物であり、その西郷が打倒しようとした政府によって、首都東京の玄関口に「逆賊の首魁」の銅像が建てられたわけですから、これはソ連時代のモスクワ中心部にトロツキーの銅像が建設され、その宿敵スターリンが除幕式で祝詞を読んだようなものです。これに当時日本にいた外国人も驚きを隠せず、東大で教えていたウィリアム・グリフィスなども次のような感想をもらしています。
「欧州諸国では主権者に叛いた者は斬首した上、四肢を切断するのが習慣であった。日本では、明治大帝が西南の役における多数の謀叛人を赦された上に、その首領たる西郷の銅像を上野に建てることを許された。それには我々外国人驚いた。」
 実際、「逆賊」「謀叛人」すら後に赦して政府高官に取り立て、「野に遺賢なからしむ」方策を取るケースは近代日本では枚挙にいとまがなく、榎本武揚、勝海舟、陸奥宗光も皆そうであり、会津藩白虎隊の生き残りである山川健次郎が東京帝国大学総長となったのもその一例です。旧幕臣も自由民権派も民党勢力もどしどし政府に人材登用されており、あの悪名高き治安維持法ですら、死刑の規定があるにもかかわらず、実際には決して適用されず、その話を聞いたナチス・ドイツのゲシュタポ長官であったヒムラーには信じられなかったようです。日本で初めて本格的な化学テロが行なわれた「サリン事件」でも、結局、破防法適用が見送られたのは、こうした「日本の柔構造」の感覚から来たのかもしれません(これほどの事件に適用されないなら、一体どんなケースを想定しているんでしょうね?)。

⑥「精神面においては、我々とは全く対蹠的であるように見える。…彼らの世界は我々の世界を壮大に、喜劇的に引っくり返したものだからである。…逆さに話し、逆さに書き、逆さに読むのは序の口である。転倒は単なる表現形式はおろか、思想の内容にまで及ぶ。…濡れた傘を乾かすのに先ではなく柄を下にして立てることから、マッチをつけるのに手前にではなく外向きに擦る点に到るまで、…我々と同じ事をしながら動きは正反対なのである。」
「まず第一に、日本語は好ましくも代名詞を欠いている。あの厭わしい「私(I)」は、その不在こそ目立つという次第であり、あの不愉快、反感をそそる「あなた(you)」もまた、全く押さえ込まれている。また、差し出がましい「彼(he)」の方も、こんなよそ者、第三者なんてお呼びではないといった具合なのだ。」(パーシヴァル・ローエル『極東の魂』)

 1883年に外交官として来日し、10年間滞在したローエル(1855~1916年)による比較文化論、比較言語論です。1888年に発刊されました。ちなみにローエルはこの「違い」に対して好意的でしたが、同じ頃に発刊されたピエール・ロチ(1850~1923年)の『秋の日本』(1889年刊行)では、「あらゆるものが奇妙で対照的なこの日本は、何という国だろう」といった「違い」に対する疲れ、嘆息が漏れています。
 また、1890年に刊行された『日本事物誌』は日本に暮らすこと38年に及び、古語を交えて見事な日本語を話したバジル・H・チェンバレン(1850~1935年)の作品ですが、「西欧至上主義」の立場から日本の文学、美術、音楽、建築、どれを取ってもヨーロッパと比べて小さく、幅・深さ・大きさに欠けると結論づけています。チェンバレンは多くの日本人門下生を育て、学者としても尊敬されていて、温和な親日家というイメージが濃厚ですが、その彼が、当時、軍事的にも急速に国際社会に台頭してきた新興勢力日本に対して、「文化的にはほとんど見るべき所を持たない」とする判定を加えたことに西欧諸国は溜飲を下げたようです。『日本事物誌』がその後、版を重ね、独訳、仏訳も出されて、広く西欧で読まれていった背景には、日本の急激な近代化の成功が西欧列強の全く予期せぬものだったことが窺えます(近代日本は一八九四年に日清戦争に勝ってアジア・ナンバーワンとなり、1904年の日露戦争にも勝って列強の一角に食い込んでいます)。

⑦「墓場から甦って、大砲と爆弾の音を響かせ、陸に海に軍隊を動かし、政治上の要求を掲げ、自らも世界も不敗を信じていた国(中国)を打ち破り、人々の心を茫然自失させて、ほとんど信じ難いまでの勝利を収め、生きとし生けるものに衝撃を与えることとなった、この民族とは一体何者なのか。…如何にして世界は、かくも高揚した力を、つまり7つの海とあまたの国々とを震撼させずにはおかぬ一大勢力、全世界を照らし出す昇る太陽を、目の当たりにすることになったのか。今や誰もが驚きと讃嘆の念を持って、この民族についての問いかけを行なっているのである。」(ムスタファー・カーミル『昇る太陽』)

 カーミル(1874~1908年、フランス留学中にピエール・ロチと兄弟のように深い関わりを持っています)はエジプトの民族主義的政治指導者で、『昇る太陽』は1904年の刊です。日本の近代化の成功は今なおアラブ世界に好感を持って見られていますが(非キリスト教国でありながら、キリスト教国に匹敵ないしそれを上回る経済的成功を遂げた)、この『昇る太陽』が以後のアラブにおける日本認識を規定する基本的作品となったとされます。
 実に日露戦争後に日本は一躍アジア諸国から注目され、世界からも一目置かれるようになったのも事実です。ベルツもインドから来たカプルタラの大王(マハ・ラージャ)に「何が故にアジアにおいて唯一日本のみが、このように独立自主であるか」との質問を繰り返し受け、次のように答えています。
「日本人は(千年以上にわたり築き上げられた、栄誉ある武門の流れをくむ点は別としても)割拠主義のインド人とは大いに異なり、顕著な国民相互の連帯感を持つのであって、しかも国民全体がそうなのである。この国民には、国家の危急存亡の時をわきまえる顕著な天性がある。そしてそんな場合には、匹夫といえども、自己並びに一家のあらゆる欲望を我慢することができるのである。
 これに加えてはなはだ重要なのは、自覚を持って新日本を建設した、一部の有力な政治家の極めて達観的な政策である。彼らはひとたび旧日本の開化手段をもって西洋諸国と相競うことの不可能を悟るや、あらゆる西洋の成果を、理解が早くて吸収力のある国民に組織的かつ合理的に吹き込み始めた。もちろん、なお若干の他の原因が加わるのであるが、自分はこれらをついでに述べておいた。」

参考文献:『外国人による日本論の名著 ゴンチャロフからパンゲまで』(佐伯彰一・芳賀徹編、中公新書)、『「明治」をつくった男たち 歴史が明かした指導者の条件』(鳥海靖、PHP文庫)、『世界の日本人観総解説 各国の“好意と憎悪”の眼が日本を見ている!』(自由国民社)
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