明治時代(19~20世紀初頭)の日本と世界の交流①

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①「ヨーロッパの君主が、その国家と国民に対して占める地位に比べて、恐らく日本の天皇の地位を簡単に定義すれば、次のように言えるかもしれない。すなわち、天皇は単なる人格を表わすというよりも、むしろある観念の人格化されたものを表わすと。したがって、日本の天皇はドイツの「ヴィルヘルム」とかイギリスの「エドワード」とかいうよりも、むしろ「ゲルマニア」とか「ブリタニア」というのに近い。」(エルウィン・ベルツ『日記』)

 1871年に行なわれた廃藩置県を見て、イギリスの駐日公使パークスは「日本の天皇は神である」と歎じて言いました。ヨーロッパにおいてこんなことを行なうとすれば、何十年、あるいは100年以上の血なまぐさい戦争の後に初めて可能であろうものを、一片の勅令によって一気に断行してしまうとは、ということです。この摩訶不思議な、700年ぶりに政治の表舞台に出て来た「天皇」と、その側近たる元老を中心に進められてきた日本の近代化について、宮内省侍医を務めたドイツ人医師ベルツ(1849~1913年)が貴重な報告をしています。それによれば、「天皇睦仁は、その長期にわたる治世中、絶えず有能な相談相手を側近に持つという、まれな幸運に恵まれた」としていますが、そうした元老(彼らは明治維新以来、国家体制を自らの手で作り上げてきたという歴史的現実に基づいて政治的影響力を行使する、「超法規的存在」でありました)の1人として、ベルツも親しくしていた伊藤博文を挙げることができるでしょう。
 伊藤はプロシア流の強大な君主大権を中心に明治憲法を構築しましたが、その草案審議の冒頭で「日本には人心を統一すべき宗教が無く、これに代わる存在は皇室あるのみであるから、天皇を国家の機軸として天皇大権をなるべく損ねないように憲法を起草した」(まさしく「天皇」に「キリスト教的神」の役割を負わせたということです)旨を述べていますが、逐条審議に入ると「天皇は国の元首であるからこそ統治権を総攬するのであり、しかもそれはあくまで憲法の範囲内で行なうものであって、決して濫用すべきではない」ことを力説しており、「立憲政治の本質は君主権の制限にある」という観点を強く主張しています。どう見ても、伊藤は「天皇機関説」の立場に立っており、憲法を作った彼が生きていれば、軍部が美濃部達吉を糾弾した「天皇機関説問題」は起きなかっただろうと言われています。
 ところで、ベルツは明治憲法発布直前の状況について、次のように記しています。
「(明治22年、1889年、2月9日、東京)東京全市は、11日の憲法発布を控えて、その準備のため、言語に絶した騒ぎを演じている。到るところ、奉祝門、照明(イルミネーション)、行列の計画。だが、滑稽なことには誰も憲法の内容をご存知ないのだ。」

②「他国が数世紀もかかって成し遂げたことを、日本は一世代の間に作り上げねばならなかったという事実は、日本が自由主義的な制度というような贅沢品に、時間をかける余裕を持たなかったことを意味する。・・・その速度の故に、これらの重大な変革は民主主義的代議制度を通じる人民大衆の手によってではなく、少数の専制官僚の手によって達成されたのである。・・・専制的・保護的方法は明治の指導者にとって、日本を植民地的国家の列に堕させないための唯一可能な方法であった。」(ハーバート・ノーマン『日本における近代国家の成立』)

 ノーマン(1909~1957年)はカナダ人で、本書の中で近代日本が他国に侵略されず、むしろ列強の仲間入りを急速に始めて、世界に例のない発展ぶりを示した秘密を、政治、経済、文化など各方面から分析しています。ルース・ベネディクトの『菊と刀』と並んで、「日本学の礎石」と位置づけられています。
 ちなみに元イギリス情報部員であるリチャード・ディーコンなどは1860年代末以後、日本が陸海軍、行政、教育、産業と日本人の生活のほぼ全ての面での情報収集活動に力を注いでいたことに注目し、「おそらく世界史上、国を挙げてこれほどまでに徹底した、広い基盤を持つ情報収集組織を作り上げた例は見当たらない」(『日本の情報機関』)として、ゼロから出発して海外情報組織を作り上げたその能力を重視しています。あるいはイエズス会に入り、上智大学理事長まで務めたヨゼフ・ピタウは、「日本のめざましい発展の秘訣は何か」と聞かれるたびに、ためらわずに「教育です」と答えています(『ニッポンと日本人』)。

③「日本は日本の風習を余り信用していない。日本は余りにも急いで、その力と幸を生み出してきたいろいろな風俗、習慣、制度、思想さえも一掃しようとしている。日本は恐らく自分達のものを見直す時が来るだろう。私は日本のためにそう願っている。」(エミール・E・ギメ『東京日光散策』)

④「日本にはそれら自然の美、芸術の美が豊富にある。そして、スイスのような国を見れば、容易に利益を得ることが想像できる。…優しさと美しさの帝国である日本は、地球上のあらゆる国の人々の平穏な出会いの地となり得るであろうし、世界の庭となるのに良い立場にあるのである。」(フェリックス・レガメ『日本素描紀行』)

 ギメ(1836~1918年)は1876年に画家レガメ(1844~1907年)と共に宗教事情視察の目的で来日したフランス人で、1880年に『東京日光散策』を刊行しています。また、同じフランス人であるレガメは、1899年に日本の美術教育視察のために再来日し、3ヵ月滞在した後に帰国して、1903年に『日本素描紀行』を刊行しています。芸術家の目から見た「伝統日本から近代日本への移行期」という観点から、貴重な証言になっています。こうした系譜は、例えばラフカディオ・ハーン(1850~1904年、日本名小泉八雲)などにも見ることができるでしょう。
 あるいはフェノロサ(1853~1908年)に到っては、正倉院の第一印象は「アジア大陸の規模で蘇った第2のローマ」であり、聖徳太子は「日本のコンスタンティノス大帝」、恵心僧都源信は「日本のフラ・アンジェリコ」、世阿弥は「日本のシェークスピア」、葛飾北斎は「日本のディケンズ」と激賞しており、運慶と湛慶はドナテルロとミケランジェロに、足利義満と義政はコシモ・ド・メディチとロレンツォ・ド・メディチに比しているのです。彼にとって日本は「東洋のギリシャ」として映ったようですね。
 ピーター・ミルワードなども東京の中にロンドンを見、ロンドンの中に東京を見つけています。
「皇居に当たるのはバッキンガム宮殿である。霞ヶ関はウェストミンスターで、国会議事堂は上下両院、多くの官庁がホワイト・ホールの代わりになっている。・・・日比谷公園はハイド・パークの小型版、数寄屋橋のあのネオンの輝きはピカデリー・サーカス、銀座は言うまでもなくオックスフォード街、そして、日本橋、あるいは広重時代の日本橋はロンドン・ブリッジということになろうか。」(『イギリス人と日本人』)

参考文献:『ベルツの日記(上・下)』(トク・ベルツ編、岩波文庫)、『天皇恐るべし 誰も考えなかった日本の不思議』(小室直樹、ネスコ)、『外国人による日本論の名著 ゴンチャロフからパンゲまで』(佐伯彰一・芳賀徹編、中公新書)、『「明治」をつくった男たち 歴史が明かした指導者の条件』(鳥海靖、PHP文庫)、『世界の日本人観総解説 各国の“好意と憎悪”の眼が日本を見ている!』(自由国民社)
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