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占ってみました 米中関係は今後更に悪化するか

こんにちはhrperficioです。先週占いを全てスキップしましたので、今週から再開しました。今回は米国のベロシ下院議長の台湾訪問で緊張が高まっている米中関係について占っています。激しい抵抗を示した後で台湾に対する軍事圧力を強める中国の姿勢は米だけでなく日本にも大きな影響を与えます。そんな中で今後の米中関係の行方は世界の大きな関心事となります。ウクライナ情勢も膠着する中で中国、米国の出方はどうなるのかを占っています。写真は占いの結果となります。今回もアストロダイスを使った占いで行いました。左から米国・中国の各々の環境、真ん中が双方が置かれた状況、右側が結果を表しています。まず米国・中国の環境についてですが、ダイスは土星を示しています。土星は努力や出世、遺産や忍耐、規律や自制、思慮といった意味があります。これは両国の状況を本当に正しく示した内容です。米国は秋に中間選挙を控えており、バイデン政権はどちらかというと劣勢の状況に置かれていいます。そのため、政権後半期を盤石にするためには中間選挙の勝利が絶対条件となります。既にトランプ前大統領が大統領選出馬の意向を示す中で、中間選挙への影響も出てくることから何らかの形で国民が納得する外交政策を進める必要があります。また、中国も秋の党大会を控えており、その前に行われる長老を交えた政策決定プロセスで、新型コロナウイルスでの失策や経済低迷、更に強硬な外交姿勢とロシアへの過剰な肩入れに反対する反習派の抑え込みと国家主席再選、その先にある党主席就任は習近平国家主席の重要な課題となっています。ここに来て李国務院総理などの反習派による経済政策の揺さぶり
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☆世界で通用する日本人☆~中南米編~

「日本人はもてる?」「日本はどう思われているか?」「住んでいる国は親日?」「日本の事を知っているか?」「日本人への差別などは?」 日本へ一時帰国する度に受ける頻度の高い質問を書き出してみました。 各質問に共通するのは何か。我々はその現地(外国)の情報よりはまず、 日本及び日本人が他国で“どう思われているのか”気になるという事です。 アスリートや超一流の強靭なメンタルの持ち主や、リーダーなどに多い一部のサイ○パスを除き、 私も含め他人の視線は気になるものです。村社会の日本では同調圧力が強く作用し、集団から逸脱する“個”を嫌う傾向がありますから、 他人の評価を“ことさら”気にしてしまうのは我々の嫌な特権かもしれません。 一方では他人の心情を慮る優しい国民性の表れとも言えます。 さて、一般に日本はどう思われているか。結論から言うと、日本に対しては概ねどの国も好印象を抱いています。 これは、北中南米ほぼ全ての国へビジネス/プライベートでも訪問し、 数十年暮らしている経験から偽りなく断言できる事実です。 日本人への差別などはあるか?アジア以外どの国でも残念な事に、中長期留学・駐在していれば多少はあるのはないでしょうか。中南米でも全く無いとは言いません。 しかしその多くは“中国”と混同したものばかりです。 初対面で日本人と認識可能なラテン人は稀ですから、 CHINO(中国人)と色々な場面でアジア人を揶揄する表現は、 アジア = 中国と一括りの誤解に基づくものがほとんど。 見方を変えれば中国に対するimageは概ね良くないとも言えます。 しかし“親日”というのを額面通りに受け取って良いのでし
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戦後時代(20世紀後半~)の日本と世界の交流②

④「個人的に言えば、私は今の日本人を好きだし、平均的な日本人も好きである。・・・特に若い人達は、世界で最も好感の持てる人達だと思う。欠点と言えば、彼らが戦争中の犯罪行為に対して見事なくらい無知で、日本がアジアの隣人達に恐ろしい苦痛を負わせてから三十年しか経っていないのに、過去を気にかけている様子がないことである。・・・日本の文部省は、それら一連の歴史上の事実を若者達に教えようとしない――何たることだ?・・・そんな連中が日本の行政内で高い地位を占めている現状では、世界の国々、とりわけ東南アジア諸国が、戦後三十年の日本を経済的には大人(たいじん)とは見なしても、人道的には小人(しょうじん)であると考えていることに、何ら不思議はないのである。」(B・レンガー『不思議な不思議なニッポン人』)  レンガーとは「日本外国特派員協会」に加盟する複数の外国人記者の複合名です。知日派であることは言うまでもなく、妻帯者は全員日本人女性と結婚しており、その日本理解は相当なものであると言えますが、その彼らがこうした苦言を呈していることは心して聞くべきでしょう。 ⑤「その文化、伝統、必要からして、日本の農民、職人は、西欧に資本主義制度と工業社会をもたらした、あのプロテスタントの倫理を想起させるような資質を持っている。勤勉で、消費を繰り延べても、まず貯蓄や投資を喜んでする能力である。」(米商務省報告『揺らぐ日本株式会社』)  カリフォルニア州ほどの広さしかない国土で、天然資源はほとんどないといった地理的条件にもかかわらず、敗戦後の焼け野原からあっという間に西欧諸国を追い抜き、アメリカに次ぐ資本主義圏ナンバ
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戦後時代(20世紀後半~)の日本と世界の交流①

①「日本とイギリスとの違いは、日本では社会構造の違いから「義理関係」がイギリスよりも一層しばしば現われ、個人の物質的福祉にとってもより大きいな重要性を持っていること、かかる関係の中で要求される行為も一層はっきりと形式化させられていること、そして「汝の隣人を愛せよ」とか「本心を語れ」とか「真理や正義を追求せよ」といった「普遍主義的な」責務よりも、かような「義理行為」を行う責務の方に、日本人の価値尺度ではより高い位置が与えられていることにある。」(ロナルド・P・ドーア『都市の日本人』)  いわゆる「日本論」「日本社会分析」ではルース・ベネディクトの『菊と刀―日本文化の型』が有名ですが(同様にドイツを分析してみせたのがエーリッヒ・フロムの『自由からの逃走』であり、アメリカ自体を分析してみせたのがリースマンの『孤独な群集』です)、1度も日本の地に足を踏み入れることもなく、まことしやかに「日本文化の型」(例えば、日本人は「恥を基調とする文化」に属しており、西洋の「罪の文化」と対照的で、「彼はただ他人がどういう判断を下すか、その他人の判断を基準にして自己の方針を定める」といった考察を展開しています)を論じたことに対して批判的であったのがイギリス人社会学者ドーアです。ドーアは「時代を超えて存続し、あらゆる地域、あらゆる階級にしみわたっている、同質的な日本文化ないしは日本文化の型」などといったものは存在しない、とベネディクトを批判し、彼女がこれこそすぐれて日本的なものだと『菊と刀』で主張した「義理」の観念についても、分析的にみれば外国人であるイギリス人にとって不思議な要素は何もないと反論してい
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戦前時代(20世紀前半)の日本と世界の交流

①「堤岩里の惨殺 どんなに叫んで見ても、 かれらの放った火は 今になっても消せやしない。 教会に集まった、 二十八名の兄弟を、 生き返らせやしない。 倭軍中尉が指揮する、 悪魔のごり押しが、子羊のような民を 教会堂に追い込み、 乱射し、殺害した。 理由も簡単であった。 われらの国をわれらが愛するからと、 自分の国を愛するからと。 殺された兄弟が、 堤岩里のあの方たちだけならば。 私は死んでも、この幼子だけでも生かしてと、 死の窓の隙間から差し出す、 天真らんまんな幼な子の、 無心の目をねらい、引き金を引く 奴等の手。 母性愛の最後の哀願するら聞こえぬ、 聞く耳を持たぬ 狂った悪魔、聞く耳を持たぬ悪魔。 どんな声で叫んで見ても、 罪過は、罪過、 傷は、傷、 洗い落とせやしない。 倭族がどういうものかを、 かれらの血でそまった額と、 突き出た顴骨(かんこつ)と、 眉間についている真黒い、ぬけめない目が どういうものかを、 われらは知っている。 堤岩里を燃やした火が、 堤岩里を燃やしただけではないので。 おそらく 今、 われらは気位の高い、 独立の国の民として、 明るい笑顔で、かれらに 対することができるのは、 狭量をたしなめる、 寛大と誇りと、 明日の燦然(さんぜん)と輝く未来が われらを照らしているからだ。 どんなに叫んで見ても、 かれらの放った、堤岩里の火は、 今になっても、かれらは 消せやしない。 殺されたわれらの兄弟が 生き返りはしない。 (悔い改めることは、かれらの徳、 われらの問題ではない。) そうは言うものの、 自主の国の民として、 明るい笑顔で、かれらに 対すること
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明治時代(19~20世紀初頭)の日本と世界の交流③

⑧「ある朝、全世界は日本が一夜のうちに旧弊の壁を突き破り、勝ち名乗りを上げて現われた時に、驚きの目を向けたのである。それは信じられないほど短い間に行なわれたことなので、新しい建物が立てられたのではなく、着物を着替えたかのように思えた。…これによって、残りのアジアは勇気づけられた。生命と力が私達の中にあるということが我々には分かった。後はただ死んだ殻だけを取り除けばいいのである。」(ラビンドラナート・タゴール『ナショナリズム』)  タゴールはアジアで最初にノーベル文学賞を受賞した人物で、これは日露戦争後の日本について述べた部分です。やはり、日清・日露戦争が世界に与えた衝撃は並々ならぬものがあったようです。ちなみにベルツも、坂本竜馬が皇后の夢に出て来て、「私は坂本竜馬と申す者でございます。今度の戦(日露戦争)は勝利でございますから、ご安心遊ばされますよう、お知らせも申しあげるため参上いたしました。この坂本竜馬めの申し上げることに嘘、偽りはございません」と述べ、この話が国民を元気付けたことを妻ハナから聞いたこととして伝えており、さらに次のように感慨を述べています。 「かくてまたもや世界歴史の1ページが――それも、現在ではほとんど見透しのつかない広大な影響を有する1ページが――完結されたのである。今や日本は陸に、海に、一等国として認められた。我々が東アジアにおいて、徐々にではあるが、間断なく発展するのを見たその現象が、今や近世史の完全な新作として、世界の注視の的となっている。――アジアは世界の舞台に登場した。そして、このアジアはヨーロッパ諸国の政策に、従って我々の祖国(ドイツ)にもまた
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明治時代(19~20世紀初頭)の日本と世界の交流②

⑤「薩摩の乱(西南戦争)の政治的結果として、さらにもう1つ大事なことがある。戦勝後、政治指導者達は乱を起こした地方に対して何の報復措置も取らなかった。政治指導者達は物分りのいい鷹揚な方針を取り、元来は有能で進歩的な人間の多い薩摩人を大勢政治に参加させたのである。」(ジョージ・サンソム『西欧世界と日本』)  サンソム(1883~1965年)はイギリスの日本研究家として著名な人物ですが、「日本の柔構造」に対してこのように実に鋭い指摘を行なっています。西南戦争の流血は戊辰戦争を上回り、近代日本建設途上での最大の内乱でしたが、いったん内乱が鎮定されると、死刑に処せられたのはわずか22人に過ぎず、懲役刑に処せられた者は2500人近くいましたが、そのうち90%以上は3年以下の刑であり、4万人以上が免罪となっているのです。これに対して、その6年前(1871年)に起きたパリ・コミューン事件では、フランス政府軍に捕らえられたコミューン派市民はほとんどその場で銃殺され、10日余りで約3万人が殺されたのみならす、戦後は約4万人が軍事裁判にかけられて370人余りが死刑、8000人近くが流刑・要塞禁固・強制労働の刑を受け、多数の獄死者を出しているのです(その80年前のフランス革命でのジャコバン政権による恐怖政治はそれ以上でした)。  これだけでも日本とフランスの「逆賊」に対する取り扱いが対照的であることが分かりますが、さらに1898年には何と上野公園に西郷隆盛の銅像が完成し(今もありますね)、800余人のそうそうたる政治家・軍人・外国公使らが集い、時の政府を代表する内閣総理大臣山県有朋が祝詞を述べている
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明治時代(19~20世紀初頭)の日本と世界の交流①

①「ヨーロッパの君主が、その国家と国民に対して占める地位に比べて、恐らく日本の天皇の地位を簡単に定義すれば、次のように言えるかもしれない。すなわち、天皇は単なる人格を表わすというよりも、むしろある観念の人格化されたものを表わすと。したがって、日本の天皇はドイツの「ヴィルヘルム」とかイギリスの「エドワード」とかいうよりも、むしろ「ゲルマニア」とか「ブリタニア」というのに近い。」(エルウィン・ベルツ『日記』)  1871年に行なわれた廃藩置県を見て、イギリスの駐日公使パークスは「日本の天皇は神である」と歎じて言いました。ヨーロッパにおいてこんなことを行なうとすれば、何十年、あるいは100年以上の血なまぐさい戦争の後に初めて可能であろうものを、一片の勅令によって一気に断行してしまうとは、ということです。この摩訶不思議な、700年ぶりに政治の表舞台に出て来た「天皇」と、その側近たる元老を中心に進められてきた日本の近代化について、宮内省侍医を務めたドイツ人医師ベルツ(1849~1913年)が貴重な報告をしています。それによれば、「天皇睦仁は、その長期にわたる治世中、絶えず有能な相談相手を側近に持つという、まれな幸運に恵まれた」としていますが、そうした元老(彼らは明治維新以来、国家体制を自らの手で作り上げてきたという歴史的現実に基づいて政治的影響力を行使する、「超法規的存在」でありました)の1人として、ベルツも親しくしていた伊藤博文を挙げることができるでしょう。  伊藤はプロシア流の強大な君主大権を中心に明治憲法を構築しましたが、その草案審議の冒頭で「日本には人心を統一すべき宗教が無く、こ
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江戸時代(17~19世紀)の日本と世界の交流②

⑦「俘虜中の姜沆は姿勢を崩さず、朝鮮の衣冠を変えず、静かに一室に処して、ただ書物を読み、字を綴るを事として、未だかつて倭人と相対して自分から口を開くことがない。また、東萊城を守って小西行長軍に殺された宋象賢の妾は、節を守って屈せず、死を以て自ら誓う。倭人、貴(とうと)んでこれに敬意を払い、為に一室を築き、我国の捕虜となった女人をして護衛をさせた。また、惟政(四溟堂大師、朝鮮半島に進軍した加藤清正を陣中に四回も訪ねて談判し、日本軍の動静を探ったことで知られています。戦後は対馬に派遣され、さらに家康の接見を受けて国交回復の意志を聞き、講和条件をまとめて、その後の善隣外交の道を開きました)が使者としてやって来て、節を全うして帰るに及ぶや、遠近、宣伝して美事をなすと称した。これによって見ると、日本の国は専ら勇武を尚び、人倫は知らないが、節義の事を見るに至っては、すなわち感嘆してこれを称せざるはなし。また、天理本然の性を見るべきのみ。」(慶暹〔けいせん〕『慶七松槎録』)  第1次朝鮮使節団の副使として来日した慶暹の日本紀行日記です。彼は日本の切腹や武闘風習に驚き(李氏朝鮮は宋と同じく文官優先主義でした)、日本人が姓を簡単に変えること(李氏朝鮮では中国と同じく、女性が結婚しても姓を変えず、それぞれの宗族における秩序は絶対的で、「族譜」と呼ばれる何十代にもさかのぼる家系図帳を作って、歴史的アイデンティティを強固に培っていました)、天皇の血族結婚(李氏朝鮮や中国では「同姓不婚の原則」があります)は奇異なものとして感じたようです。  そもそも江戸時代は「鎖国時代」と言われますが、完全鎖国ではなく
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江戸時代(17~19世紀)の日本と世界の交流①

①「(日本における)この偶像崇拝主義は、ローマ、トレド、セビリアにおける私達のキリスト教のように、非情に深く根を張っています。それで野蛮人(家康)及びその他の者は私達の布教活動を見て嘲笑し、私達を狂人と考えています。私達を指して、次のように言っているそうです。『もしそちらの宗教(キリスト教)が浸透しているローマやスペインへ行って、12人から24人くらいの日本人が日本の宗教を紹介しようとしたら、我々を判断力の足りない者として嘲笑しないだろうか。我々が彼らをこういう風に(愚かな者と)考えるのは当然のことである。』」(1604年12月23日付、フランシスコ会ディエゴ・ベルメーオが京都からフィリピン諸島総督に宛てた書簡) ②「ポルトガルのイエズス会士はこの都市(京都)に壮大なアカデミーを持っている。ここには数人の日本人のイエズス会員がいる。日本語で印刷した新約聖書(恐らく『ドチリイナ・キリシタン』のようなキリスト教の教義を記した何らかの図書と考えられる)を持っている。このアカデミーでは多数の児童を教育し、これにローマ・カトリック教の初歩を教えている。この都市にはキリスト教徒の日本人が5、6千人いるという。」(1613年にイギリス王ジェームズ一世の国書を持って来日したジョン・セーリスの日記)  信長の比叡山焼き討ち(1571年)、石山本願寺との全面対決(1570~1580年)、秀吉のキリシタン禁止令(1587年)、家康の禁教令(1612年~)に至るまで、これをヨーロッパ的な「宗教戦争」と見る限り、「何を禁止したのか、いつ禁止したのか、よく分からない」とよく指摘されます。それも道理で、あの
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戦国時代(15~16世紀)の日本と世界の交流②

④「賊兵が退いた。その時、賊は三道を蹂躙した。その通過する所では、皆、家屋を焼き払い、人民を殺戮し、およそ我が国の人を捕えれば、ことごとくその鼻をそいで威を示した。  …倭は最も奸悪巧猾で、戦いに際しても、どれ一つとして詐りの手段に出ないということがなかった。壬辰年のことを考えてみると、都城(ソウル)攻撃では巧みであったが、平壌の戦いは拙(つたな)かったと言えよう。我が国は泰平(二)百年、民衆が戦争を知らなかったところに、突然、賊兵の侵入を聞いて慌てふためいて動転し、遠くのものも近くのものも、風に靡(なび)くが如く等しく魂を奪われてしまった。倭は破竹の勢いに乗って、十日ばかりの間に素早く都城に至った。…これは兵家に言う善謀であって、賊の巧みな計略であった。…こうして賊は自ら常勝の威力を恃(たの)んで後事を顧みず、諸道に散開して狂暴の限りを尽くした。…  倭奴は攻戦に習熟し、武器が鋭利である。昔は鳥銃が無かったが、今はこれを持ち、…(その効果は)弓矢に数倍する。我々がもし、平原広野で遭遇して、両陣相対して兵法通りに交戦したならば、これに敵対するのは極めて困難であろう。」(柳成竜『懲毖録』)  外交の基本は「隣国関係」にありますが、日本の隣国である韓国・北朝鮮には根強い「反日感情」があり、その原点とも言えるのが「秀吉による朝鮮半島侵略」です。すでに1590年に来日し、約7ヵ月間滞在した通信使一行が秀吉の「アジア侵略」の意図(その最終目的は「征明」にあり、李氏朝鮮に対してその先導を要求しています)に触れていますが、正使黄允吉(こういんきち)は「必ず兵禍あらん」と報告し、副使金誠一は「
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戦国時代(15~16世紀)の日本と世界の交流①

①「私達が今までの接触によって知り得た限りでは、この国民は私が接した民族の中では一番傑出している。」(フランシスコ・ザビエル~一五四九年に鹿児島に入り、そこからゴアのイエズス会士へ送った書簡)  16世紀中頃以後に来日したイエズス会宣教師達の日本人評としては、「我らが今まで交わった人々の中で最も優れた民族」といったものが一般的で、否定的な見方も当然ありましたが、それについてはイエズス会は「キリストの祝福を受けたことのなかった民族に完全を求めるのは、まず無理である」と結論を下したようです。彼らの伝道は功を奏し、イエズス会の報告によれば、「1605年にキリスト教徒の数が175万人に達し、日本全人口の十分の一を占めた。」という大盛況ぶりです。ちなみにザビエル(1506~1552年、スペインのイエズス会士)が特に高く評価したのは次の3点でした。 (1)日本には政治的・社会的に高度な制度を持っていること。彼は何度もその手紙の中で政治的秩序、社会の各階級の制度について述べています。 (2)すぐれた学問があること。彼は足利学校、比叡山・高野山などの「大学」はパリ大学をはじめヨーロッパの一流大学にも匹敵すると書いています。 (3)日本人は男女を問わず、ほとんど皆読み書きができること。これは当時のヨーロッパ諸国では庶民階級のほとんどが読み書きできない状態であったことを考えると、驚異的だったようです。  ザビエルはこうした認識に基づいて、次のような三つのプランを立てたとされます。 (1)まず京都へ行って全国の支配者である「王」と宮廷の人々に会って伝道し、「上から下へ」の浸透を図ること。これは戦国時
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室町時代(14~15世紀)の日本と世界の交流

①「大明書・・・朕、大位を嗣(つ)ぎてより、四夷(しい)の君長(くんちょう)朝献する者十百を以て計(かぞ)う。苟(いやしく)も大義に戻(もと)るに非ざれば、皆礼を以てこれを撫(な)で柔(やすん)ぜんことを思う。ここに汝、日本国王源道義(室町幕府第3代将軍足利義満)、心、王室に存(あ)り。君を愛するの誠を懐(いだ)き、波濤(はとう)を踰越(ゆえつ)し、使を遣わして来朝す。逋流(ほりゅう)の人を帰し、…朕、甚(はなは)だ嘉(よみ)す。…今、使者道彝(どうい)・一如(いちにょ)を遣わし、大統暦を班示し、正朔(せいさく)を奉ぜしめ、錦綺(きんき)二十匹を賜ふ。至らば領すべきなり。」(明国書~『善隣国宝記』)  「武家の棟梁」というカリスマ性から見れば、平清盛よりも源頼朝が、足利義満よりも足利尊氏の方がはるかに上だったでしょう。しかし、貨幣・貿易に目を配ったマクロ的な経済センスでは、後者より前者の方がはるかに優れていたことは否定できない事実です。平清盛は貨幣経済が進行しているのに日本の貨幣がなかなか流通しないと見るや、それなら貨幣そのものを輸入すればいいと大胆に考え、宋銭を輸入して日宋貿易を開始しました。これは鎌倉時代には建長寺船(建長寺修造の資金を得るため、鎌倉幕府が1325年に元に派遣)、南北朝時代に天竜寺船(足利尊氏が夢窓疎石の勧めで後醍醐天皇の冥福を祈るために天竜寺を創建しようとし、その造営費調達のために1342年に元に派遣)を派遣したのがせいぜいで、正式な外交関係も無く、私的な商船の往来があるにすぎなかったのと対照的であると言えます。  同様に足利義満も明が倭寇に悩んでいるのに
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鎌倉時代(12~14世紀)の日本と世界の交流

①「語録を見て、何の用ぞ。」 「古人の行李(あんり、行い)を知らん。」 「何の用ぞ。」 「郷里に帰りて人を化せん。」 「何の用ぞ。」 「利生(りしょう、衆生を利益すること)のためなり。」 「畢竟(ひっきょう)して(とどのつまり)何の用ぞ。」(『正法眼蔵随聞記』)  鎌倉時代は新仏教が一斉に花開き、一種の「宗教改革」が起きましたが、中でも最も中国的な「禅宗」は渡宋した栄西(えいさい)と道元によって広められました。栄西の臨済禅は「公案」を用いる「超論理」の禅ですが、道元の曹洞禅は「只管打坐(しかんたざ)」(ひたすら座禅する)に徹した「非論理」の禅だと言えます。上の会話は、天童山に入って一心に語録を読んでいた道元に対して、西川(せいせん)から来た禅僧が詰問した有名なやり取りです。道元はウンともスンと言えなくなって行き詰まり、ついに「只管打坐」から「身心脱落(しんじんだつらく)」に至る悟りを得たのでした。  やがて、中国からも多くの禅僧がやって来て、日本の禅風を大いに盛り上げました。例えば、南宋から無学祖元(円覚寺開山)、蘭渓道隆(建長寺開山)が、元から一山一寧(元々フビライが日本の視察のために説得して送り込もうとした人物ですが、徳望高く、建長寺・円覚寺・浄智寺に歴住させられています)が、明からは隠元隆琦(萬福寺開山)らが来ています。 ②「天の慈しみを受けている大蒙古国皇帝(フビライ)が、書を日本国王に奉ずる。朕(ちん)が惟(おも)うに、昔から小国の君主も国境を接していれば、音信を交し合って、友好関係を作るように務めてきた。・・・高麗は朕の東方の属国である。日本は高麗に近接し、開国以来
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平安時代(8~12世紀)の日本と世界の交流②

⑧「日本は古の倭奴(国)である。唐の京師(都長安)からは一万四千里、ちょうど新羅の東南(に位置している)。海中に島があって、そこで生活している。・・・その王、姓は阿毎(あま)氏、自ら言う。初めの主を天御中主(あめのみなかぬし)と言い、彦瀲(ひこなぎさ)に至るまで大体三十二世である。皆、『尊(みこと)』を号とし、筑紫城に居住していた。彦瀲の子である神武が立ち、そうして『天皇』を号とし、遷(うつ)って大和州を治めるようになった。・・・  (子天智立つ。)明年、使者が蝦夷(えみし)人と共に(唐へ)入朝した。蝦夷人もまた、海中の島に居住している。(蝦夷の)使者の鬚(ひげ)は四尺ほどもあった。箭(や)を首にさしはさんでいる。人をして瓠(ひさご)を載せて数十歩離れて立たせ、(瓠を)射て当たらないということがなかった。」(『新唐書』日本伝) ⑨「(雍煕元年、北宋第二代皇帝太宗、984年)日本国の僧奝然(ちょうねん、東大寺僧、藤原氏)がその徒五、六人と海上より来て、銅器十余事と本国の『職員令』『王年代紀』を各々一巻献じた。・・・その風土を問うと、ただ書いて対(こた)えて言うには、「国中に五経の書及び仏教経典、『白居易集』七十巻があり、皆中国から得たものである。…国の東境は海島に接し、(そこは)夷人の居る所で、身面に皆毛がある。東の奥洲は黄金を産し、西の別島は白銀を出だし、以て貢賦としている。・・・」と。」(『宋史』日本伝)  平安時代の日本にとって「蝦夷」の存在は悩みのタネだったようですが、この「蝦夷」が東アジアの国際的認識の視野に入ってきたのが、これらの史書に出てくる記録です。もうここには、
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平安時代(8~12世紀)の日本と世界の交流①

①「日本の使の還るを送る ・・・絶国 将(まさ)に外無からんとするに 扶桑 更に東有り・・・」(徐凝:元和年中〔806~820年〕には活躍していたようです) (果ての国で、そこより東はもうないかと思っていたが、 扶桑にはまだ東の地があって、あなたはそこへ帰るのだ。) ②「日本国の僧敬龍の帰るを送る 扶桑は已(すで)に渺茫(べうぼう)の中に在るに 家は扶桑の東の更に東に在り 此(ここ)より去って師と誰か共に到らん 一船の明月 一帆の風」(韋荘:836~910年) (扶桑はすでに果てしない水の、おぼろな遠方にあるのに、 あなたが帰る家はその扶桑の東のさらに東にある。・・・)  これらを見ると、日本列島に対して、「扶桑」(九州)→「扶桑の東」(大和・日本国)→「扶桑の東のさらに東」(東国)といった存在認識が中国側に出てきたようです。 ③「王尊師に贈る 先生自ら説く 瀛洲(えいしゅう)の路(みち) 多くは清松白石の間に在り 海岸 夜中 常に日を見る 仙宮深き処(ところ) 卻(かへ)って山無し・・・」(姚合:775~855年) (中国の東方の海の沖はるかに、中国よりも六時間早く太陽が昇り、また沈む場所があるとして、中国で真夜中の時にそこでは日影が見えると詠んでいます。) ④「僧の日本に帰るを送る 四極 二儀を共にすと云ふと雖(いへど)も 晦明(くわいめい) 前後 即ち知ること難(かた)し 西方は尚(な)ほ星辰の下(もと)に在るに 東域は已(すで)に寅卯の時を過ぐ 大海の浪中に国界を分かち 扶桑の樹底は是(こ)れ天涯(がい) 満帆 若(も)し帰風の便有りとも 岸に到るは猶(な)ほ須(すべか
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奈良時代(8世紀)の日本と世界の交流②

⑥「釈道昭(どうしょう)は俗姓船(ふな)氏、河内国丹北郡の人である。元興寺(がんごうじ)に住み、戒行の誉れがあった。白雉(はくち)四年(653年)五月勅命を受け、遣唐使小山長丹(おやまのながに)に従って海を渡った。時に志を同じくする僧侶は道厳(どうごん)他十三名、長安に至り、三蔵玄奘(げんじょう)にまみえた。この年は唐の高宗(第3代皇帝李治)の永徽(えいき)四年(653年)に当たる。三蔵法師が門弟達に言った。 「この道昭は衆人を済度(さいど)すべき器量を備えている。諸君は外域(日本)の僧侶だからといって、彼を侮ってはいかん。」  三蔵法師は熱心に道昭を教導し、さらに彼に告げて言った。 「わしが印度に旅した時、途中で食物が尽きてしまったことがあった。どこにも人家は見当たらず、今にも死にそうになった時、ふと一人の沙門(僧侶)が立ち現われ、梨をわしにくれた。わしはこれを喰らい、気力回復して、ようやく天竺(てんじく)にたどり着くことができたのだ。あの時の沙門こそ、君の前世の姿なのです。だから、わしは君を大切に思っているのだ。」  ある日、三蔵法師が語って言った。 「経論は巻数多く、たとえ読了したとしても、労のみ多くして、功は少ない。わしは禅宗を体得したが、その旨意(おもむき)は微妙である。君はこの法理を会得(えとく)し、東の方、日本に伝えなさい。」 道昭は師の言に従い、欣然(きんぜん)としてこれを習い修め、すみやかに会得した。」(『元亨釈書』一巻「元興寺道昭」) ⑦「日本国の天平五年(733年)、沙門栄叡(ようえい)や普照(ふしょう)らは遣唐大使丹墀真人広成(たじひのまひとひろなり)に
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奈良時代(8世紀)の日本と世界の交流①

①「倭国は古の倭奴国(志賀島の金印を授けられた委奴国)である。京師(長安)を去ること一万四千里、新羅東南大海の中にある。山の多い島に生活し、領域は歩いて東西五ヵ月、南北三ヵ月行という。歴代、中国と通交してきた。…四面に小島五十余国があり、全て倭国に従属している。王の姓は阿毎(あま)氏で、一大率を置いて諸国を検察したので、皆怖れ従ってきた。官位を設けて十二等がある。…この地には女が多く、男が少ない。文字は十分に使われ、風俗は仏教を信じている。…二十二年(六四八年)になって、また新羅に附託して上表文を奉り、唐と通交するようになった。」(『旧唐書』百九十九巻上「倭国伝」) ②「日本国は倭国の別種である。その国が日の昇る所にあるので日本と名づけた。あるいは、倭国は自らその名の美しくないことを嫌い、日本と改めたという。あるいは、日本はもと小国で、倭国の地を併せたという。…  長安三年(703年)、その国の大臣朝臣(あそん)真人(まひと、粟田真人のこと)が来て、貢物を献上した。朝臣麻痺とは中国の戸部尚書(民部省長官)に当たり、…好んで経書や史書を読み、文をつづることを理解し、容姿は温雅だった。則天武后は真人を麟徳殿(りんとくでん)でもてなし、司膳卿(しぜんきょう、膳を司る官)を授け、本国に帰した。  開元(713~741年)の初め、また遣使来朝した。…使者の一人、朝臣仲満(なかまろ、阿倍仲麻呂)は中国の風を慕って滞在し、帰国しなかった。姓名を改めて朝衡(ちょうこう)とし、左補闕(さほけつ)、儀王友(ぎおうゆう)などを歴任した。朝衡は長安に五十年も留まり、故国に帰らせようとしたが、留まって帰
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古墳時代(3世紀後半~7世紀)の日本と世界の交流②

④「梁が興り、また情報が増えた国があった。扶桑国はこれまで聞いたことがなかった。普通年間(520~527年)、ある僧がその国が来たと称し、中国に着いたが、その言うことはその地を十分に知り尽くしたものだったので、ここに記録する。・・・  倭は自ら呉の太伯の後裔と称している。風俗には入墨がある。帯方郡を去ること一万二千余里で、およそ会稽の東にあり、はるか遠くに離れている。・・・ 文身国は倭国の東北七千余里の所にある。・・・土地の風俗は歓楽的で、物は豊かで安い。旅をする者も食糧を持って行くことはない。・・・ 大漢国は文身国の東五千余里にある。武器がなく、戦争をしない。風俗は皆文身国と同じだが、言語は違っている。・・・  扶桑国とは、南斉の永元元年(499年)、その国の僧慧深(えしん)が荊州(けいしゅう)に来て話して言った。 「扶桑国は大漢国(これはせりふ中の言葉なので、先述の地の文に出てきた大漢国と同じとは限りません)の東二万余里の所にある。土地は中国の東にあり、扶桑の木が多いので、国名にしている。・・・その習俗に元々仏教はなかったが、宋の大明二年(458年)、罽賓(けいひん)国(西域のカシミール、またはその西のガンダーラに当たるとされます)の僧五人が来て、経典、仏像を伝え、教えを広めて出家させたので、やがてその習俗も変わった。」 慧深はまた言った。 「扶桑の東、千余里に女国がある。容貌は端正で、色は非常に白く、身体に毛が生えていて、髪は地に届く。・・・」」(『梁書』五十四巻 列伝第四十八)    「謎の史書」とされる『梁書』の記述です。里数を比定しづらいところですが、日本列島におい
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古墳時代(3世紀後半~7世紀)の日本と世界の交流①

①「泰和四年(369年)五月十六日の丙午正陽に、百たび鍛えた鉄の七支刀を造った。進んでは百たびの戦いを避け、恭しい侯王(が帯びるの)にふさわしい。先の世からこのかた、まだこのような刀はない。百済王の世子貴須は特別に倭王旨のために造って、後の世に伝え示すものである。」(石上〔いそのかみ〕神宮所蔵の七支刀銘文)  「侯王」とは中国の天子の下にある諸王に対して用いられる用語で、百済王も倭王もどちらも東晋の天子の下にあって対等な「侯王」なのですが、その百済王が倭王と好(よしみ)と通じようとして、この独特な七支刀を贈与したということです。後に白村江(はくすきのえ)の戦(663年)で、百済の残党を助けるために倭国がわざわざ援軍を派遣し、悲惨な敗北を喫していますが、こうした百済と倭国の蜜月関係には実に長い伝統があったわけです。 ②「百済と新羅とは、もとこれは(高句麗の)属民であって、もとから朝貢していたのである。しかるに倭は、辛卯の年(391年)にやって来た(そのため、百済、新羅は高句麗側から見て属民らしい態度を取らなくなった)。これに対して、好太王は海を渡って(渡海作戦による奇襲攻撃~この先例として3世紀、魏の明帝による遼東半島の公孫氏征討作戦があり、『三国志』公孫伝に出て来ます)、百済、・・・新羅を破り、臣民とした。・・・  九年(399年)己亥、百済は(高句麗との)誓いに背き、倭と和を通じた。・・・  (広開土)王は平壌に巡下した。そこで新羅は使者を遣わし、王に申し上げて、「倭人は新羅の国境に充ちあふれ、城や池を打ち破り、(百済の)奴客を民としてしまいました。王に帰属し、仰せを承りたい
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弥生時代(紀元前3世紀~紀元3世紀)の日本と世界の交流③

⑩「倭人は帯方(たいほう)郡(現ソウル付近)の東南、大海の中に住み、国や邑(むら)をつくっている。もと百余国から成り、漢の時代に朝貢してくる者がいたが、今、通訳を連れた使者がやって来る国は三十国である。 郡から倭に至るには海岸に沿って海上を行き、韓国(朝鮮半島南半部、ここは元々馬韓・弁韓・辰韓の「三韓」の地でした。やがて馬韓から「百済」が、弁韓から「伽耶」が、辰韓から「新羅」が誕生していきます。北半部は元々「朝鮮」の地です)を通るのに、あるいは南にあるいは東に行き、倭の北岸狗邪(こや)韓国(朝鮮半島南岸部、いわゆる「伽耶」の地です。後に日本側地名として「任那〔みまな〕」の名で呼ばれる所です)に到る。七千余里(約500キロメートル)ほどである。はじめて海を渡ること千余里(約70キロメートル)で対海国(対馬)に至る。・・・また南へ海を渡ること千余里、瀚海(かんかい)と名づけている。一大国(壱岐)に至る。・・・また海を渡ること千余里で末盧(まつろ)国(唐津近辺)に至る。・・・東南陸行五百里(30数キロメートル)で伊都国(福岡県旧糸島郡)に到る。東南、奴国に至るのに百里(約7キロメートル)、・・・東行不弥(ふみ)国に至ること百里。・・・南、投馬国に至こと、水行二十日。・・・南、邪馬壹国に至る、女王の都する所、水行十日、陸行一月。・・・郡より女王国に至る、万二千余里(800数十キロメートル)。・・・倭への道里を図ると、まさに会稽東治(とうち)の東に在る。」(『三国志』魏志倭人伝)   有名な「魏志倭人伝」の記事ですが、この原文にある通り、「邪馬台国」という表記は出て来ません。実はこの表記
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弥生時代(紀元前3世紀~紀元3世紀)の日本と世界の交流②

⑥「(燕地、燕は戦国七雄の1つで、中国東北部から朝鮮半島北部を支配した国です)東夷、天性従順、西南北と異なる。孔子は中国で道が行われていないのを悼み、海に浮かんで九夷と共に住もうとした。もっともだ。 そう、楽浪(紀元前108年に漢の武帝が置いた「漢四郡」のうちの1つで、今の平壌付近を中心としていた)の海中に倭人が住み、分かれて百余国をつくり、定期的に朝貢してくるという。… (呉地、長江河口付近を占めた国です)会稽(かいけい)の海外に東鯷(とうてい)人が住み、分かれて二十余国をつくり、定期的に朝貢してくるという。」(『漢書』二十八巻下 地理志第八下)  『漢書』は1世紀の成立ですが、当時、日本列島から定期的に朝貢していた(つまり、それなりの政治システム、社会制度を有していた)のは「楽浪海中」(朝鮮半島の向こう、玄界灘を越えた海の中)の「倭人」と「会稽海外」(東海の向こう)の「東鯷人」のみだったとしています。さらに7世紀に成立した『隋書』では「俀国伝」と「琉球国伝」の2つのみ、わざわざ伝が立てられているので、この「倭人」は「九州島人」、「東鯷人」は「琉球諸島人」と見るのが妥当かもしれません。 ⑦「瓠公(ここう、新羅初代朴赫居世〔ぼくかくきょせい〕王の側近)はその族姓が詳(つまび)らかではない。元は倭人であって、はじめは瓠(ひさご)を腰に付けて海を渡ってきたのである。たから、瓠公と言った。」(『三国史記』新羅本紀第一巻 始祖赫居世居西干三十八年、紀元前二十年、二月条) ⑧「昔脱解(せきだっかい、新羅第4代王、在位57~80年)は元は多婆那(たばな)国(『三国遺事』では「竜城国」)の生
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弥生時代(紀元前3世紀~紀元3世紀)の日本と世界の交流①

①「(始皇帝28年、紀元前219年)既に斉(戦国七雄の1つ、斉国。現在の山東省)人、徐市(じょふつ、徐福)」らは上書して言うには、「海の上に三神山があり、名を蓬莱(ほうらい)、方丈、瀛州(えいしゅう)と言い、仙人が住んでいるという。心身を清めて、童男、童女と三神山へ行くことを請い願う」と。そこで徐市を遣わし、童男女数千人を発たせ、海に出て仙人を求めさせた。」(『史記』六巻 秦始皇帝本紀第六) ②「(始皇帝37年、紀元前210年)海に連なり、北、琅邪(ろうや、現青島〔チンタオ〕市の西南方)に至る。神仙の術を持つ徐市らはここから海を行き、神薬を求めたが、数年経っても得られず、出費を多かった。罰を怖れ、詐って報告した。「蓬莱の薬を手に入れることはできますが、大鮫がいて苦しめられています。だから行き着くことができません。どうか弓の名手を付け、鮫を見たら連発できる弓で射止めることをお認め下さい」と。」(『史記』六巻 秦始皇帝本紀第六) ③「(紀元前124年、漢の高祖の孫である淮南〔わいなん〕王劉安を臣の伍被〔ごひ〕が諌める)徐福は海に出て不老不死の薬を求めさせましたが、帰って偽りの報告をしました。 「私は海の上で大神に出会いました。神は言いました。『汝は西の皇帝の使者か』と。私は答えました。『そうです』と。『汝は何を求めるか』と訊ねたので、『お願いしたいのは延命長寿の薬です』と答えました。神は言いました。『汝の秦王の礼物は足らないので、薬を見ることはできても手に入れることはできない』と。ついで、東南の蓬莱山に私を連れて行きました。霊芝で造られた宮殿を見ました。使者がいて、銅色で竜の形をし
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縄文時代(紀元前1万年~紀元前3世紀)の日本と世界の交流

①「周の時、天下太平、越裳(えっしょう、現在のベトナム)白雉(はくち、食べると吉を招き、凶を除くことができる縁起物とされました)を献じ、倭人鬯草(ちょうそう、黒きびで造った神酒に浸す香草で、やはり縁起物とされました)を貢す。」(『論衡〔ろんこう〕』第八巻儒増篇) ②「成王(周王朝第2代天子、紀元前1115~1079年)の時、越常(えっしょう)、雉(きじ)を献じ、倭人、暢(ちょう)を貢す。」(『論衡』第十九巻恢国〔かいこく〕篇)  縄文倭人が周王朝に貢献したという驚くべき記事です。著者は後漢代の王充(27~永元年間〔89~104年〕)で、『漢書』を書いた班固(32~92年)の先輩に当たります。この記事は後漢代の「合理主義」に基づいて書かれており、「縁起物」である「ベトナムの白雉」も「倭人の鬯草」も「凶を除く能(あた)わず」、周王朝のシンボルであった「鼎(かなえ)」についても「福を致す能わず」として、効き目が無かった(実際には周王朝は滅んでしまった)としています。逆に言えば、「この本の読者(後漢の読書階級、インテリ層)の間では、倭人の鬯草貢献は周王朝の史実として疑われていない」ということを示しています。  ちなみにこの「縄文倭人の周王朝貢献」は箕氏朝鮮の箕氏(きし)を通じてなされたと見られています。殷王朝最後の天子紂王(ちゅうおう)は暴君で、王族の親戚にして宰相であった箕氏のいさめも聞かず、とうとう周王朝初代天子となる武王によって滅ぼされましたが、武王は箕氏を朝鮮に封じます(東夷の鎮撫が目的です)が、「臣」とはしなかったとされます。これは殷の名家にして民衆に人望の高かった箕氏に対し
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