戦前時代(20世紀前半)の日本と世界の交流

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①「堤岩里の惨殺
どんなに叫んで見ても、
かれらの放った火は
今になっても消せやしない。
教会に集まった、
二十八名の兄弟を、
生き返らせやしない。
倭軍中尉が指揮する、
悪魔のごり押しが、子羊のような民を
教会堂に追い込み、
乱射し、殺害した。
理由も簡単であった。
われらの国をわれらが愛するからと、
自分の国を愛するからと。
殺された兄弟が、
堤岩里のあの方たちだけならば。
私は死んでも、この幼子だけでも生かしてと、
死の窓の隙間から差し出す、
天真らんまんな幼な子の、
無心の目をねらい、引き金を引く
奴等の手。
母性愛の最後の哀願するら聞こえぬ、
聞く耳を持たぬ
狂った悪魔、聞く耳を持たぬ悪魔。
どんな声で叫んで見ても、
罪過は、罪過、
傷は、傷、
洗い落とせやしない。
倭族がどういうものかを、
かれらの血でそまった額と、
突き出た顴骨(かんこつ)と、
眉間についている真黒い、ぬけめない目が
どういうものかを、
われらは知っている。
堤岩里を燃やした火が、
堤岩里を燃やしただけではないので。
おそらく 今、
われらは気位の高い、
独立の国の民として、
明るい笑顔で、かれらに
対することができるのは、
狭量をたしなめる、
寛大と誇りと、
明日の燦然(さんぜん)と輝く未来が
われらを照らしているからだ。
どんなに叫んで見ても、
かれらの放った、堤岩里の火は、
今になっても、かれらは
消せやしない。
殺されたわれらの兄弟が
生き返りはしない。
(悔い改めることは、かれらの徳、
われらの問題ではない。)
そうは言うものの、
自主の国の民として、
明るい笑顔で、かれらに
対することができるのは、
過ぎにし日より 来るべき日が尊く、
昨日より明日が大切であるから、
過去を心に刻むより
明日の夢をふくらませ、
祖国の山河に、
あふれるように流れる、
今日の太陽の光が明るいからだ。」
(堤岩教会殉国者遺品展示館にある詩)

 1919年、日本が韓国を植民地支配してからちょうど十年後、全国的な「三・一独立運動」が起きました。これはやはり同年に起きたガンジー非暴力・不服従の独立運動にも通じるもので、当時、2000万人の人口の10分の1に当たる200万人が参加したと言われます。その直後に起きたのが「堤岩教会虐殺事件」で、独立運動の指導者が出たという理由で、わずか30戸の堤岩里(里は村のことです)に日本の警察と憲兵がやって来て、21人の村人を教会に押し込め、生きたまま焼き殺したのです。窓から救いを求めて差し出された幼児も、教会の庭で慟哭していた女性も虐殺され、堤岩里は「イエスを信じて滅びた村」(反日独立運動の指導者は多くキリスト教徒でした)と呼ばれました。やがて、戦後に当時の生き残りであった田同禮ハルモニ(おばあさん)を訪ねた日本の牧師が3日3晩に泣いて謝り続け、やっと教会再建の費用を出すことを受け入れてくれたと言います。観光地でもない堤岩里を訪れる日本人は限られていますが、韓国人で堤岩里の名前を知らない人はいません。その後、日本の植民地政策は創始改名、韓国語の禁止と日本語強制、神社参拝強といった「皇国臣民化政策」となり、さらに戦時下にあっては強制連行と強制労働、従軍慰安婦動員にまで至りますが、そうした植民地政策の原点にあるのが「堤岩教会虐殺事件」であると言えるでしょう。田ハルモニは亡くなるまで毎日2時になると教会で祈りを捧げたと言いますが、それはちょうど虐殺のあった時間だということです。

②「ヨーロッパ人はアメリカ大陸に渡って、数十万の土人を惨殺した。私はいつも思うのだが、あのような残酷な行為は純粋な戦士にできることではない。彼らが武器を持った商人や徒刑者の類だったからこそできたことなのだ。日本封建時代のいわゆる「町人根性」にしても、陰柔の裏側に残酷の一面も持っている。…現代の日本の実業家で、明治の新教育以前に育った80歳クラスの老人連から、試みに、武士階級の渋沢(栄一)と町人出身の大倉(喜八郎)を選んで比較してみよう。前者は誠実な君子、後者は狡猾なブローカー。前者は高尚、後者は卑俗。一方は修養を口にし、他方は利益一点張りである。この両極端の性格が、武士と町人の差異をくっきりと浮かび出させている。」(戴季陶『日本論』)

 戴季陶(たいきとう、1890~1949年)は若干15歳にしての日本留学以来、総計8年以上の日本滞在の経験を持ち、日本語で演説をさせれば日本人よりうまいと言われた人物で、孫文の秘書・通訳として多くの要人に接し、『日本論』を1928年に発表しています。彼によれば、「現代日本の上流階級、中流階級の気質は、「町人根性」の骨格に「武士道」の衣を着せた以外の何物でもない」とし、「生死を軽んじ、信義を重んずるのが武士の性格であり、信義を軽んじ、金銭を重んずるのが商人の性格であった。前者は回教的神秘道徳、後者はユダヤ的現金主義である」と大胆に規定しています。あるいは、「日本民族は一般に、中国人に比べて美的情緒が優美かつ豊富である」とし、「日本人の尚武は天下周知」だが、それは日本社会に行き渡る「平和と互助の習性」と補い合って初めて成立しているものであり、「弱者を愛護するという武士の道徳は、徳に男女間において顕著である」と日本の美点を指摘していますが、それらの美点が昭和初期の日本からすでに姿を消そうとしていることを強調したりしているのです。
 同じように周作人(1885~1967年、魯迅の弟)なども次のように述べています。
「日本人がすぐれて美を愛することは、文学芸術からも衣食住の形式からも等しく見てとれる。しかるに中国に対する行動に於ては、彼らは何故あれほどの醜悪さを示すことができるのか。」(「日本管窺」)

③「日本は矛盾と極端、英知と愚鈍の国であり、その適例は海軍会議に窺える。海軍問題の権威や新聞が、日本は比率以下の海軍では自国の海岸線を適切に防衛できぬと声高に言い張っている一方、新聞や一般市民は時同じくして記事や演説や会談で、帝国海軍は今や米国海軍より強大にして、一旦戦争となればいとも簡単に米国を打破できる、と勇ましく誇っている。…
 日本人の心理過程と結論に達する方法は、我々とは本質的に違う。日本人と付き合えば付き合うほど、一層、それを痛感する。…日本人は西洋の服・言語・習慣を採り入れたのだから、自分達と同じように考えるに違いない、と西洋人は信じるが、これ以上重大な誤りはあり得ない。東西間の条約の公約が常に誤って解釈され、論争を引き起こす原因の1つがここにある。」(ジョゼフ・C・グルー『日記』)

 これは『滞日十年』として知られるグルー(1880~1965年)の日記ですが、「1932~42年駐日アメリカ大使であったジョゼフ・C・グルーの日記・私文書・公文書に基づく当時の記録」という副題に見られるように、米国民及び連合国により正確で焦点のあった日本観を提示するためにまとめられたもので、豊富な外交経験と日本に関する知識を買われたグルーは後に国務長官代理として対日占領計画決定の上で大きな働きをしています。

参考文献:『三・一独立運動と堤岩里事件』(小笠原亮一・姜信範・飯沼二郎・李仁夏・池明観・土肥昭夫・澤正彦・飯島信、日本基督教団出版局)、『外国人による日本論の名著 ゴンチャロフからパンゲまで』(佐伯彰一・芳賀徹編、中公新書)
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