明治時代(19~20世紀初頭)の日本と世界の交流③

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⑧「ある朝、全世界は日本が一夜のうちに旧弊の壁を突き破り、勝ち名乗りを上げて現われた時に、驚きの目を向けたのである。それは信じられないほど短い間に行なわれたことなので、新しい建物が立てられたのではなく、着物を着替えたかのように思えた。…これによって、残りのアジアは勇気づけられた。生命と力が私達の中にあるということが我々には分かった。後はただ死んだ殻だけを取り除けばいいのである。」(ラビンドラナート・タゴール『ナショナリズム』)

 タゴールはアジアで最初にノーベル文学賞を受賞した人物で、これは日露戦争後の日本について述べた部分です。やはり、日清・日露戦争が世界に与えた衝撃は並々ならぬものがあったようです。ちなみにベルツも、坂本竜馬が皇后の夢に出て来て、「私は坂本竜馬と申す者でございます。今度の戦(日露戦争)は勝利でございますから、ご安心遊ばされますよう、お知らせも申しあげるため参上いたしました。この坂本竜馬めの申し上げることに嘘、偽りはございません」と述べ、この話が国民を元気付けたことを妻ハナから聞いたこととして伝えており、さらに次のように感慨を述べています。
「かくてまたもや世界歴史の1ページが――それも、現在ではほとんど見透しのつかない広大な影響を有する1ページが――完結されたのである。今や日本は陸に、海に、一等国として認められた。我々が東アジアにおいて、徐々にではあるが、間断なく発展するのを見たその現象が、今や近世史の完全な新作として、世界の注視の的となっている。――アジアは世界の舞台に登場した。そして、このアジアはヨーロッパ諸国の政策に、従って我々の祖国(ドイツ)にもまた共通の重大な影響を及ぼし得るのであり、また及ぼすはずだ。ヨーロッパだけの政策は、もはや存在しない。世界政策があるのみだ。東アジアの出来事はもはや局部的な意義を持つものではなく、今日では我々にとって極度に重要な関心事である。」
 しかしまた、タゴールは日本に対して次のような警告を発することも忘れていません。
「日本にとって危険なことは、西洋の外面的な特徴を模倣することではなくて、西洋のナショナリズムの原動力を自らのものと受け入れてしまうことである。日本社会の理想はすでに政治の手にかかって打ち負かされている徴候を示している。日本の現代史の入り口には、科学からとられた「適者生存」という標語が大きな字で書かれているのを見ることができる。その標語の意味は、言い換えれば「自らを助けよ、そしてそれが他人に如何なる代償を払わせるかは気にするな」ということである。」

⑨「日本が露国と開戦した時、その宣戦布告書に東洋平和の維持、韓国の独立を謳いながら、今日に至るもそのような信義は守られず、かえって韓国を侵略し、5ヵ条の条約、7ヵ条の条約を結んだ後、政権を掌握し、皇帝を廃位し、軍隊を解散し、鉄道、鉱山、森林、河川など皆収奪してしまった。さらにまた官衙の各庁や、民間の邸宅を兵站の必要と称して奪居し、肥沃な田や昔からの墳墓を軍用地と称してこれを抜掘している。その禍いは生きている者だけでなく、先祖にまで及んでいる。その国民たる者、子孫たる者で、誰がその怒りを忍び、辱めに耐え得る者があるだろうか。しがたって、2千万の民族が一斉に憤起し、国内全体で義兵が各地で蜂起している。ところが彼の強賊どもは、かえってこれを暴徒と見なして兵を出動させて討伐し、極めて悲惨な殺戮をしている。ここ一両年の間、韓国人の被害者は10万余に及んでいる。国土を掠奪し、生霊を辱める者が暴徒なのか、自ら自国を守り、外敵から防禦する者が暴徒なのか。…日本の対韓国の政略がこのように残虐である根本をなすものは、全ていわゆる日本の大政治家、老賊である伊藤博文の暴行であって、韓民族2000万が日本の保護を受け、現在、太平無事で日増しに進むことを願うと偽り、上は天皇を欺き、外は列強を欺き、その耳目を掩(おお)て、みだりに自ら奸策を弄して非道の限りを尽くしている。…
 わが韓民族がもしこの賊(伊藤)を処罰しなければ、韓国は必ず滅亡し、東洋はまさに滅びるであろう。」(安重根『獄中記』)

 日本は「文明開化」による「近代化」に成功し、外交では不平等条約を改正して西欧列強と対等の立場に立つことを望み、さらに「富国強兵」「殖産興業」を図り、産業革命を推進しましたが、それらは基本的に日清戦争、日露戦争という2つの戦争を契機に実現されました。しかし、「東洋の中での西洋化」と共に「東洋に対しての西洋化」も進み、日本が「琉球(1872年琉球藩設置、1879年沖縄県設置~琉球処分)→台湾(1871年日清修好条規、1874年台湾出兵、1894年日清戦争~下関条約で台湾割譲)→朝鮮半島(1875年江華島事件、1876年日朝修好条規、1895年閔妃虐殺、1905年日露戦争~ポーツマス条約で韓国に対する日本の指導・監督権承認、同年の桂・タフト協定及び第2次日英同盟でもアメリカ・イギリスに日本の韓国保護国化を承認させ、第2次日韓協約で韓国の外交権を奪うと共に、ソウルに統監府を置いて伊藤博文が初代統監となっています、1907年第3次日韓協約~韓国の内政権も収め、韓国の軍隊を解散させています、1909年愛国義士安重根によってハルビン駅で伊藤博文が暗殺、1910年日韓併合)→満州(1931年柳条湖事件→満州事変、1932年満州国建国)→中国大陸(1915年対華二十一ヵ条要求、1937年盧溝橋事件→日中戦争)」という進出・侵略・植民地化を推進していったことも紛れも無い事実です。
 こうした日本の残した傷跡が最も深かったのが、歴史上初めてその国名が地図上から消えた韓国でした。韓国の2大愛国者と言えば李舜臣将軍と安重根義士ですが、いずれも反日闘争を行なった人物であることはその反日感情の根深さを物語ると言ってもよいでしょう。ちなみに獄中の安重根の立派な態度に打たれた日本人も少なからずおり、彼に揮毫を頼んだり、師と仰ぐ人も出るほどでした。
 ベルツもまた、次のように述べています。
「日本人の決して忘れてならないのは、日本人がその黄色人種の指導者たらんと願っていることであり、東アジアにおけるその盟主たるの地位が、多数日本人の念頭を離れぬことである。」
「日本は不可解な失策をやった。真実、東アジアの民族の盟主たるの地位を目指していたのであれば、まず温情により、清・韓両国を自己の味方につけ、その信頼を固めなければならなかった。支配するのではなく、「指導」すべきだった。」

参考文献:『ベルツの日記(上・下)』(トク・ベルツ編、岩波文庫)、『天皇恐るべし 誰も考えなかった日本の不思議』(小室直樹、ネスコ)、『外国人による日本論の名著 ゴンチャロフからパンゲまで』(佐伯彰一・芳賀徹編、中公新書)、『「明治」をつくった男たち 歴史が明かした指導者の条件』(鳥海靖、PHP文庫)、『誰でも知りたい 朝鮮人の日本人観 総解説』(琴秉洞・高柳俊男監修、自由国民社)、『世界の日本人観総解説 各国の“好意と憎悪”の眼が日本を見ている!』(自由国民社)
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