室町時代(14~15世紀)の日本と世界の交流

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①「大明書・・・朕、大位を嗣(つ)ぎてより、四夷(しい)の君長(くんちょう)朝献する者十百を以て計(かぞ)う。苟(いやしく)も大義に戻(もと)るに非ざれば、皆礼を以てこれを撫(な)で柔(やすん)ぜんことを思う。ここに汝、日本国王源道義(室町幕府第3代将軍足利義満)、心、王室に存(あ)り。君を愛するの誠を懐(いだ)き、波濤(はとう)を踰越(ゆえつ)し、使を遣わして来朝す。逋流(ほりゅう)の人を帰し、…朕、甚(はなは)だ嘉(よみ)す。…今、使者道彝(どうい)・一如(いちにょ)を遣わし、大統暦を班示し、正朔(せいさく)を奉ぜしめ、錦綺(きんき)二十匹を賜ふ。至らば領すべきなり。」(明国書~『善隣国宝記』)

 「武家の棟梁」というカリスマ性から見れば、平清盛よりも源頼朝が、足利義満よりも足利尊氏の方がはるかに上だったでしょう。しかし、貨幣・貿易に目を配ったマクロ的な経済センスでは、後者より前者の方がはるかに優れていたことは否定できない事実です。平清盛は貨幣経済が進行しているのに日本の貨幣がなかなか流通しないと見るや、それなら貨幣そのものを輸入すればいいと大胆に考え、宋銭を輸入して日宋貿易を開始しました。これは鎌倉時代には建長寺船(建長寺修造の資金を得るため、鎌倉幕府が1325年に元に派遣)、南北朝時代に天竜寺船(足利尊氏が夢窓疎石の勧めで後醍醐天皇の冥福を祈るために天竜寺を創建しようとし、その造営費調達のために1342年に元に派遣)を派遣したのがせいぜいで、正式な外交関係も無く、私的な商船の往来があるにすぎなかったのと対照的であると言えます。
 同様に足利義満も明が倭寇に悩んでいるのにつけ込み、丁重な姿勢で国交再開を申し出、自ら朝貢外交を展開しましたが、「名」はともかく、「実」は莫大なものがありました。中国皇帝は朝貢国のわずかな貢物に対して莫大な賜物と明銭を与え、貿易商品に対しても貢物に付帯した貨物という扱いで関税は課せられず、運搬費、滞在費、帰国費用などは全て明側の負担となるのです。その上、中国の生糸は日本で20倍、日本の銅は中国で4~5倍で取引された(『大乗院寺社雑事記』)と言いますから、日本はこの輸出入で大体80~100倍の利益を得たと考えられています。これはちょっとおいしすぎてやめられませんね。「士」の精神の持ち主なら「名」を取る所でしょうが、当時の日本のトップ自身が「実」を取る「商」の精神の持ち主だったということです。

②「日本の俗、女は男に倍す。故に路店に至り淫風大いに行わる。遊女、路に行く人を見れば、則ち路を遮って宿を請い、以て衣を牽くに至る。店に入らばその銭を受け、則ち白昼といえどもまた従う。」(宋希璟『老松堂日本行録』「日本奇事」)

 宋希璟(そうきけい、1376~1446年)は李氏朝鮮の答礼使として1420年に来日した人物です。当時、高麗朝も李氏朝鮮朝も倭寇に悩み抜いており、倭寇禁圧依頼使節が日本にたびたび派遣されています。宋希璟はそうしたやり取りの中で、日本から派遣された国王使が帰国する際に同行して日本へ渡ったわけですが、当時の日本の政治、外交事情、宗教、風俗などをかなり正確に書き留めており、その優れた日本観察記である『老松堂日本行録』がその後の李朝政府の対日外交政策を方向づけたとも言われています。
 それによれば、街道に遊女がおり、男色が流行していることを報告しています。ある意味では中国以上に儒教を徹底化させた「東方礼儀の国」李氏朝鮮ですから、眉をひそめる光景であったに違いありません。しかしながらその一方で、日本の二毛作・三毛作に驚き、乞食が米ではなくて銭を欲しがることに驚いています。これは日本において貨幣経済が乞食にまで浸透していたことをしめしており、王朝創建後、250年は貨幣経済が定着しなかった李氏朝鮮と対照的な状況を的確に把握しています(貨幣経済の浸透は社会を根本から変えるので、歴史の重要なテーマとなっています)。
 その後、1429年に使節として来日した朴瑞生も、日本人の「風呂好き」に注目したりしていますが、やはり金さえあれば何も持たずに旅行ができることに驚いています。つまり、金を払えば泊まれる宿屋、金を払えば乗せてくれる馬、金を払えば渡れる橋や渡し舟などが整備されていたということであり、日本の「銭」の効用は衝撃的だったようです(こうしてみると日本で為替や手形などの金融技術が発達し、江戸時代には世界で始めて米の「先物取引」が行われたというのも、それまでに伝統的蓄積があったからだということがよく分かります)。

③「人は喜びて茶をすする。路傍に茶店を置きて茶を売る。行人(こうじん)、銭一文を投じて一椀を飲む。…男女と無く皆其の国字を習う。(国字はかたかんなと号す。凡そ四十七字なり。)唯僧徒は経書を読み、漢字を知る。」(申叔舟『海東諸国紀』)

 申叔舟(1417~1475年)は足利将軍職継承に対する慶弔の通信使として、1443年に来日しています。彼の記した『海東諸国紀』によれば、栄西以来、中国からもたらされた「飲茶」の風習が広まっていること、国字教育が普及していることなどが窺えます。彼は「不読の書なし」と言われ、帰国後に世宗大王の「訓民正音」(ハングル、朝鮮の国字)制定に参加し、多大な業績を上げて「保社功臣」という称号を受けたほどの人物ですが、日本での見聞がその後の足跡に大きく影響したように思われます。

参考文献:『時代をとらえる 新日本史資料集』(瀬野精一郎・宮地正人監修、桐原書店)、『誰でも知りたい 朝鮮人の日本人観 総解説』(琴秉洞・高柳俊男監修、自由国民社)、『日本人とは何か(上)』(山本七平、PHP文庫)、『海東諸国紀』(申叔舟著、田中健夫訳注、岩波文庫)
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