鎌倉時代(12~14世紀)の日本と世界の交流

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①「語録を見て、何の用ぞ。」
「古人の行李(あんり、行い)を知らん。」
「何の用ぞ。」
「郷里に帰りて人を化せん。」
「何の用ぞ。」
「利生(りしょう、衆生を利益すること)のためなり。」
「畢竟(ひっきょう)して(とどのつまり)何の用ぞ。」(『正法眼蔵随聞記』)

 鎌倉時代は新仏教が一斉に花開き、一種の「宗教改革」が起きましたが、中でも最も中国的な「禅宗」は渡宋した栄西(えいさい)と道元によって広められました。栄西の臨済禅は「公案」を用いる「超論理」の禅ですが、道元の曹洞禅は「只管打坐(しかんたざ)」(ひたすら座禅する)に徹した「非論理」の禅だと言えます。上の会話は、天童山に入って一心に語録を読んでいた道元に対して、西川(せいせん)から来た禅僧が詰問した有名なやり取りです。道元はウンともスンと言えなくなって行き詰まり、ついに「只管打坐」から「身心脱落(しんじんだつらく)」に至る悟りを得たのでした。
 やがて、中国からも多くの禅僧がやって来て、日本の禅風を大いに盛り上げました。例えば、南宋から無学祖元(円覚寺開山)、蘭渓道隆(建長寺開山)が、元から一山一寧(元々フビライが日本の視察のために説得して送り込もうとした人物ですが、徳望高く、建長寺・円覚寺・浄智寺に歴住させられています)が、明からは隠元隆琦(萬福寺開山)らが来ています。

②「天の慈しみを受けている大蒙古国皇帝(フビライ)が、書を日本国王に奉ずる。朕(ちん)が惟(おも)うに、昔から小国の君主も国境を接していれば、音信を交し合って、友好関係を作るように務めてきた。・・・高麗は朕の東方の属国である。日本は高麗に近接し、開国以来、時には中国に使者を派遣しているのに、朕の時代になって一人の使者もよこしていない。・・・これからは互いに訪問し合って友好を結び、親睦を深めようではないか。・・・兵を用いようとは一体誰が望もうか。王はこのことをよく考えてほしい。
至元三年(1266年)八月 日」(「蒙古国牒状」~東大寺尊勝院文書、『元史』日本伝)

 イスラームも破り、ヨーロッパの心臓部に迫り、ロシアにも「タタールのくびき」を負わせて、史上空前の大帝国を築き上げたモンゴルも、どうしても征服し切れなかった国が3つあったとされます。高麗、日本、ベトナムです。この三国はモンゴルと国境を接していながら、ついにその支配も免れたわけです(高麗は朝廷が屈服しましたが、民間義兵である三別抄の抵抗により、ついに元軍は撤退しました)。

参考文献:『名僧列伝(一) 明恵・道元・夢窓・一休・沢庵』(紀野一義、講談社学術文庫)、『Books Esoterica3 禅の本 無と空の境地に遊ぶ悟りの世界』(学研)、『原本現代訳<62> 元亨釈書』(虎関師錬原著、今浜通隆訳、教育社)、『中国正史日本伝(2) 旧唐書倭国日本伝・宋史日本伝・元史日本伝』(石原道博編訳、岩波文庫)、『時代をとらえる 新日本史資料集』(瀬野精一郎・宮地正人監修、桐原書店)
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