戦国時代(15~16世紀)の日本と世界の交流①

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①「私達が今までの接触によって知り得た限りでは、この国民は私が接した民族の中では一番傑出している。」(フランシスコ・ザビエル~一五四九年に鹿児島に入り、そこからゴアのイエズス会士へ送った書簡)

 16世紀中頃以後に来日したイエズス会宣教師達の日本人評としては、「我らが今まで交わった人々の中で最も優れた民族」といったものが一般的で、否定的な見方も当然ありましたが、それについてはイエズス会は「キリストの祝福を受けたことのなかった民族に完全を求めるのは、まず無理である」と結論を下したようです。彼らの伝道は功を奏し、イエズス会の報告によれば、「1605年にキリスト教徒の数が175万人に達し、日本全人口の十分の一を占めた。」という大盛況ぶりです。ちなみにザビエル(1506~1552年、スペインのイエズス会士)が特に高く評価したのは次の3点でした。
(1)日本には政治的・社会的に高度な制度を持っていること。彼は何度もその手紙の中で政治的秩序、社会の各階級の制度について述べています。
(2)すぐれた学問があること。彼は足利学校、比叡山・高野山などの「大学」はパリ大学をはじめヨーロッパの一流大学にも匹敵すると書いています。
(3)日本人は男女を問わず、ほとんど皆読み書きができること。これは当時のヨーロッパ諸国では庶民階級のほとんどが読み書きできない状態であったことを考えると、驚異的だったようです。
 ザビエルはこうした認識に基づいて、次のような三つのプランを立てたとされます。
(1)まず京都へ行って全国の支配者である「王」と宮廷の人々に会って伝道し、「上から下へ」の浸透を図ること。これは戦国時代という「王なき」空位時代にあって失敗し、方針を変えて有力な地方領主へ働きかけることとしています。
(2)日本の有名な「大学」へ行き、ヨーロッパの大学と連携させ、互いに学者を交換教授のような形で交流させること。
(3)宗教文学や教理の翻訳、紹介をすること。識字率が高い日本では、確かに文書伝道は有効であったと考えられます。

②「都(京都)こそは日本においてヨーロッパのローマに当たり、科学・見識・文明はさらに高尚である。…信仰のことはともかく、我らは明らかに彼らより劣っている。私は日本語を解し始めてから、かくも世界的に聡明で明敏な人々はいないと考えるに至った。」(1577年9月20日付、オルガンティノの手紙)

 オルガンティノ(1530~1609年)はポルトガルのイエズス会宣教師で、1570年に来日しています。織田信長の信任を得て、京都に教会を、安土にセミナリオ(神学校)を開設し、日本人からも「ウルガン伴天連(ばてれん)」と呼ばれて親しまれた人物です。実は欧米人の日本人に対する評価は両極端に分かれており、このオルガンティノと正反対なのが1570年に新布教長として来日したカブラルでした。彼の結論は「日本人は傲慢で貪欲で偽善的できわめて自尊心が高い」ので、「ヨーロッパ人に劣ると思わせるように高圧的態度で臨むべき」だと考え、教会内でも日本人を差別し、日本の風俗を嘲笑し、日本語は用いようとも覚えようともせず、自らは完全に洋式の生活を続け、日本人を司祭にすることにも絶対に反対であったと言います。彼は貿易や軍事的便宜を図ることでキリシタン大名を政治的に利用しようともしており、これに危機感を抱いたのがザビエルの後継者ヴァリニャーノ(1539~1606年)でした。
 ヴァリニャーノはカブラルをマカオに転出させ、各地にセミナリヨを設立し、日本人司祭を養成しようとしたのみならず、全日制の初等学校をも充実させようとしました。これはザビエルの遺志を継いだ初代布教長トーレス以来、着々と設立されており、ヴァリニャーノの手紙(1583年12月17日付)によれば、西日本だけで約200校あり、さらにキリシタンのための小学校から大学(今日のミッション・スクールの先駆ですね)まで作り上げる計画であったと言います。

③「日本人は如何に貧しくとも傲慢・尊大で怒りやすく勇敢である。彼らの激情は上から力で抑えると勢いが無くなってしまうが、相手が弱いとなるとむやみに強くなる。
 彼らははなはだ恩知らずで、恩を受けてもすぐにそれを忘れてしまい、さらに多くを期待する。残忍・非情かつ貪欲・吝嗇(りんしょく)な者が多い。その行動は全て陰険で、独断的で誠実さに欠け、極端に走りやすく、そして変わりやすい。この国では他のどの天体よりも月が最大の支配力を持っているに違いない(占星術では月が感情を支配すると考えられていました)。
 外出する時は大小の二刀を身に付け、あたかも世の中に他の人がいないものの如く、傲然たる態度で歩く。しかし、誰か自分より身分の高い者に出会うと、この威勢は全く一変してへりくだった態度になり、たとえそれがうわべだけの見せかけにせよ、実に鮮やかなる変化を見せる。」(ベルナルディーノ・デ・アビラ・ヒロン『日本王国記』~1594年にフィリピンから来日したスペイン人貿易商が、20年以上の滞日経験を通してまとめたものです)

 宣教師の視点と商人の視点の違い(当然、多く接した日本人の層も違っていたことでしょう)というのもまたおもしろいものですね。

参考文献:『日本人とは何か(下)』(山本七平、PHP文庫)、『支倉常長 慶長遣欧使節の悲劇』(大泉光一、中公新書)
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