戦国時代(15~16世紀)の日本と世界の交流②

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④「賊兵が退いた。その時、賊は三道を蹂躙した。その通過する所では、皆、家屋を焼き払い、人民を殺戮し、およそ我が国の人を捕えれば、ことごとくその鼻をそいで威を示した。
 …倭は最も奸悪巧猾で、戦いに際しても、どれ一つとして詐りの手段に出ないということがなかった。壬辰年のことを考えてみると、都城(ソウル)攻撃では巧みであったが、平壌の戦いは拙(つたな)かったと言えよう。我が国は泰平(二)百年、民衆が戦争を知らなかったところに、突然、賊兵の侵入を聞いて慌てふためいて動転し、遠くのものも近くのものも、風に靡(なび)くが如く等しく魂を奪われてしまった。倭は破竹の勢いに乗って、十日ばかりの間に素早く都城に至った。…これは兵家に言う善謀であって、賊の巧みな計略であった。…こうして賊は自ら常勝の威力を恃(たの)んで後事を顧みず、諸道に散開して狂暴の限りを尽くした。…
 倭奴は攻戦に習熟し、武器が鋭利である。昔は鳥銃が無かったが、今はこれを持ち、…(その効果は)弓矢に数倍する。我々がもし、平原広野で遭遇して、両陣相対して兵法通りに交戦したならば、これに敵対するのは極めて困難であろう。」(柳成竜『懲毖録』)

 外交の基本は「隣国関係」にありますが、日本の隣国である韓国・北朝鮮には根強い「反日感情」があり、その原点とも言えるのが「秀吉による朝鮮半島侵略」です。すでに1590年に来日し、約7ヵ月間滞在した通信使一行が秀吉の「アジア侵略」の意図(その最終目的は「征明」にあり、李氏朝鮮に対してその先導を要求しています)に触れていますが、正使黄允吉(こういんきち)は「必ず兵禍あらん」と報告し、副使金誠一は「臣は即ちかくの如き情形を見ず」と報告しており、秀吉についても黄允吉が「その目光、爍々(しゃくしゃく)、これ胆智の人に似たり」と述べたのに対し、金誠一は「その目、鼠の如く畏るるに足らざるなり」と答え、評価が真っ二つに分かれたため、防衛力整備が遅れるという事態を招きました。
 かくして秀吉は1592年に15万余人の大軍を派遣して、ソウルを陥落させ、平壌も占領しています(朝鮮半島側ではこれを「壬辰倭乱」と呼びます)。このため、日本滞在時に「功業の盛んなるを目覩し、実に欣賀の情あり」(『海槎録』「玄蘇に答える書」)と述べ、日本に対して好意的であった金誠一ですら義兵闘争へと向かわせ、「誓死報国」の道に至らせるのです。やがて、李舜臣(りしゅんしん)将軍率いる朝鮮水軍の活躍や義兵の抵抗、明の援軍により、戦局が不利となったため、休戦となります。このため、通信使として黄慎が派遣され、その往来、各地での応接、交渉経緯などが『日本往還記』などによって知られますが、それによると、日本側通辞(通訳)が関白(秀吉)が人心を失ったこと、「日本大小の人、皆、怨み骨髄に入る」ほど彼を怨んでいること、全羅道再侵の企てがあることなどの情報を得ており、彼が朝鮮国王の元へ送った部下の軍官趙徳秀も、その報告の中で日本人の厭戦気分に触れ、「凡そ日本の人、児童、走卒と雖ども、皆、兵革に困しみ、関白を怨まざるはなく、而して(加藤)清正を咎(とが)む」と答えています。
 やがて、1597年に秀吉は2度目の朝鮮侵略を敢行し、14万余人の兵を送り込みますが、最初から苦戦を強いられ、翌年に秀吉が病死すると撤兵しました。こうした一連の秀吉の侵略によって朝鮮半島に与えた被害は絶大(江戸時代に朝鮮通信使として来日した申維翰〔しんいかん〕は「秀吉は我が国の通天の讐〔かたき〕であり」「我が国の臣民たる者、誰が、その肉を切り刻みて食わんと思わぬ者がいようか」とまで述べています)で、その反省から当時政府の要職にあってこの問題に対処した柳成竜が、体験した事実を冷静に記録したものが『懲毖録』です。この傷跡の今なお深いことを知る日本人が少ないことは、両国関係においてマイナス以外の何物でもありません。

⑤「二十四日、務安県の一海島――落島という――に着いた。(そこには)賊船が数千艘も海港に充満し、紅白の旗が日に照り輝いていた。(賊船には)我が国の男女が大半相雑(あいまじ)り、(船の)両側には屍(しかばね)が乱暴にも山のように積まれていた。哭声は天に徹り、海潮も嗚咽(おえつ)するかのようであった。…
 稚(おさな)い竜と妾の娘愛生は水際(みぎわ)に打ち捨てられた。(やがて)満潮につれて浮き上がり、泣き叫ぶ声が耳に痛々しかったが、それもしばらくして途絶えてしまった。…
 仲兄(姜濬)の子可憐は年八歳になるが、飢え渇いて塩水を飲み、嘔(は)いたり下したりして病気になってしまった。賊が(その子を)抱えて水中に投げ込んだ。(可憐の)父を呼ぶ声がいつまでも絶えなかった。(ああ!)子供よ、父すらも頼りにはできないのだ。…
 秀吉がわが国を再侵した時、諸将に命令を下し、「人はそれぞれ両耳があるが、鼻は一つである」と言って、兵士に命じて、我が国の全ての人の鼻をそがせて首級に代え、倭京に送り届けさせた。(それが)積もって一つの丘陵ほどになった。これを大仏寺(京都市法広寺)の前に埋めたところ、ほとんど愛宕山の中腹の高さに及んだ。」(姜沆『看羊録』)

 姜沆(きょうこう)は朝鮮朱子学の大家李退渓(りたいけい、「小朱子」と呼ばれ、李氏朝鮮が中国以上の儒教国家となる理論的背景となりました)の流れを汲む学者で、彼から朝鮮朱子学を学んだ藤原惺窩(せいか)の弟子林羅山が家康に用いられるに及んで、朱子学が江戸幕府の官学となるわけです(つまり、日本朱子学は朝鮮朱子学の直系なのです)。いわば姜沆は日本の「国師」と言ってもいい存在なのですが、その彼が来日したのは秀吉の侵略時に捕虜になったからでした(1597年)。やがて、1600年に帰国し、日本の国情を報告していますが、それらが『看羊録』にまとめられたのです。そこには次のような記録も出て来ます。
「その風俗はひどく鬼神を信じ、神に事(つか)えることは父母に事えるようであります。生前、人の尊信を受けていた者は、死ねば必ず人々に祀られます。」
「(四国の長浜から大洲への連行途中)余りにも飢え疲れていたので、…六歳の娘は自分で歩くことができず、妻と妻の母が代わる代わる負(おぶ)って行った。負ってある川を渡る時など、水中に倒れてしまったまま、力がないものだから、起き上がることもできなかった。岸にいた一倭人が(この有様を見て)涙をこぼしながら助け出してくれ、…稷糠(しょくこう)とお茶で我が一家をもてなしてくれた。倭奴の中にも、その心ばえがこのような人もいる。彼らが死を好(よ)しとし、殺すを喜ぶというのも、特に法令が彼らを駆り立て(てそうさせ)るのである。」

参考文献:『日本人とは何か(下)』(山本七平、PHP文庫)、『支倉常長 慶長遣欧使節の悲劇』(大泉光一、中公新書)、『誰でも知りたい 朝鮮人の日本人観 総解説』(琴秉洞・高柳俊男監修、自由国民社)、『江戸時代の朝鮮通信使』(李進煕、講談社学術文庫)
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