江戸時代(17~19世紀)の日本と世界の交流①

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①「(日本における)この偶像崇拝主義は、ローマ、トレド、セビリアにおける私達のキリスト教のように、非情に深く根を張っています。それで野蛮人(家康)及びその他の者は私達の布教活動を見て嘲笑し、私達を狂人と考えています。私達を指して、次のように言っているそうです。『もしそちらの宗教(キリスト教)が浸透しているローマやスペインへ行って、12人から24人くらいの日本人が日本の宗教を紹介しようとしたら、我々を判断力の足りない者として嘲笑しないだろうか。我々が彼らをこういう風に(愚かな者と)考えるのは当然のことである。』」(1604年12月23日付、フランシスコ会ディエゴ・ベルメーオが京都からフィリピン諸島総督に宛てた書簡)

②「ポルトガルのイエズス会士はこの都市(京都)に壮大なアカデミーを持っている。ここには数人の日本人のイエズス会員がいる。日本語で印刷した新約聖書(恐らく『ドチリイナ・キリシタン』のようなキリスト教の教義を記した何らかの図書と考えられる)を持っている。このアカデミーでは多数の児童を教育し、これにローマ・カトリック教の初歩を教えている。この都市にはキリスト教徒の日本人が5、6千人いるという。」(1613年にイギリス王ジェームズ一世の国書を持って来日したジョン・セーリスの日記)

 信長の比叡山焼き討ち(1571年)、石山本願寺との全面対決(1570~1580年)、秀吉のキリシタン禁止令(1587年)、家康の禁教令(1612年~)に至るまで、これをヨーロッパ的な「宗教戦争」と見る限り、「何を禁止したのか、いつ禁止したのか、よく分からない」とよく指摘されます。それも道理で、あの信長でさえ、天台宗や一向宗(浄土真宗)の信仰を禁止していませんし、キリスト教禁止令が出た後でも宣教師達はバンバン伝道して、成果が上がっているからです(キリシタン大名もいましたよ)。実は彼らが最も課題としたのは、室町時代から戦国時代を特色付けるとも言える「一揆」を克服することで、百年にわたる「自治」(中央からすれば無政府状態)を実現した「一向一揆」の苦い経験から、家康も「キリシタン一揆」を勃発することを極度に警戒していたとされます。
 これは現代中国が「共産主義」であるにも関わらず、「社会主義初級段階論」を打ち出して「資本主義」を導入する一方で、「国家の分裂」につながるような動きを極度に警戒し、民主化運動が天安門事件を引き起こすと、直ちに戦車を繰り出してデモを踏み潰すことも辞さなかったことと軌を一にすると言ってよいでしょう。中国の場合、植民地時代に分割され、国土をズタズタにされた苦い経験があるため、「統一」を損なうような動きには特に過敏に反応するのです。

③「日本人は生来、高慢な性格で、自分達は世界で最も優れていると思い込んでおり、この上さらに領土拡大への関心は無いと言っている。確かに日本は周辺諸国の暹羅(シャム)、柬埔塞(カンボジア)、ボルネオ、琉球、台湾その他と通商しており、日本の船はこれらの国々に航海しているが、今日まで戦争をしてこれらの国々を占領しようとしたことは無かった。」(1613年に伊達政宗が派遣した支倉常長ら慶長遣欧使節に同行したフランシスコ会宣教師ソテロの報告)

④「イエズス会の宣教師及びポルトガル人が日本に入国してから80年を経た。その間、キリスト教はしばしば迫害を受けたが、日本の大名は貿易の魅力に惹かれて、宣教師を完全に放逐することが遂にできなかった。この貿易に対する魅力が無かったら、キリスト教は全て日本から追放されていたであろう。イエズス会以外の私達フランシスコ会宣教師が日本にいられるのは、マニラと日本との貿易があったためである。皇帝(家康)がフランシスコ会の宣教師などに特権を与えるのは、その仲介によってメキシコと通商を開きたいためなのだ。
皇帝(家康)は、その部下でキリシタン大名の有馬の王(有馬晴信)と皇帝側近(本多上野介正純)の下役(岡本大八)の重大な犯罪(1612年、肥前のキリシタン大名有馬晴信が、鍋島領南部にあった諫早と藤津の旧領地を取り戻す計画を実現するため、本多上野介正純の家臣でキリシタンの岡本大八に賄賂を贈ったことが発覚し、晴信は流刑に、大八は生きながら火刑に処せられた事件)が明るみになった時、一時、キリスト教を禁止しようとしたが、私(ソテロ)が覚書を提出し、スペイン国王との通商条約のことを想い起こさせたために、これを思い止まったのである。
 また、今回、使節を派遣した奥州の王(伊達政宗)は、日本の王達の中で最も強力な力を持っている1人であり、その子女は皇帝の子と結婚し、皇帝の信頼が最も厚く、その領土は日本国中最大にして、600年以来これを所有している。彼(政宗)の希望は、メキシコまでフランシスコ会の宣教師を派遣することである。そうしてもらえばメキシコまで使者を遣わし、彼らを奥州に迎えて布教の便宜を図ると言っている。また、スペインの航海士及び水夫を雇って、日本とメキシコ間を日本の商品を積んで運航し、これをメキシコで売って航海の費用に代え、余裕があればメキシコの産物を購入するということである。
 彼(政宗)は日本国内で勢力を持っており、また、勇武で知られ、多くの人々は彼が将来の皇帝になることを認めている。彼がもし皇帝になれば、数年以内に全国でキリスト教の信仰が復帰することは明らかである。」(ソテロの報告~スペインのインディアス顧問会議が支倉常長一行の目的に対して疑惑を抱いていたため、ソテロは野心満々に説得をしていますが、勇み足になってしまっていることは否めません。これにはソテロのホラ吹きな性格も影響しているでしょう。)

⑤「日本の一地方の王が、信仰の道にはまだ日が浅いのに布教に熱心で、使節を送ってきたのは結構なことである。この上は神の御慈悲にすがり、伊達政宗が一日も早く洗礼を受けるように望む。」(伊達政宗の書状に対するローマ教皇パウロ5世の返事)

⑥「当地(メキシコ)で得た最近の報告によると、皇帝(家康)はキリシタンを迫害するが、奥州国王伊達政宗は依然、これを保護している。
 政宗は我らを出迎えるため、1隻の船を当地に派遣した。大使(支倉常長)はフィリピン総督に、その赴任のためにこの船の使用を承諾する旨を申し出た。私はスペイン本国から宣教師を連れて来ることができなかったが、当地の管区長からとりあえず政宗の希望を満足させるため、2人の宣教師を伴う許可を得た。
 ただ今、日本において、皇帝が服従させることができない王は、政宗と薩摩の島津である。右両人のうち、政宗は最も優勢である。政宗は日本のキリスト教徒が30万を越え、彼らがその君に忠実なことを知っているが故に、自分の家臣をキリシタンにして、自分も信者となる。帝国内のキリスト教徒が彼を旗頭とすれば、これを率いて皇帝を攻め、長く帝国を自分の領土にすることができると思っている。政宗はこのことを自分の利益のためにしようとしていることは勿論であるが、これはまた日本におけるキリスト教の利益であることは言うまでもない。
 彼はスペイン国王陛下と交易を結ぼうと希望しており、そのためにオランダ人やその他の異教徒は敵であると公言した。それ故に陛下が聖教のために彼を援助することは、どの観点から見ても適当と思われると信じる…」(1618年2月3日付、ソテロがメキシコ市からマドリードにあるインディアス顧問会議議長に宛てた書簡。ソテロの強気のホラはまだまだ続いています。)

 ソテロは西日本中心に教線を張ったイエズス会に対抗して、東日本を中心にフランシスコ会の基盤を作り、自分がその頂点に立とうとしていたとされます。一方、「生まれてくるのが20年遅かった」と言われる「奥州王」伊達政宗はスペインの無敵艦隊(アルマダ)を江戸湾に入港させるべく交渉して、最後の天下取りの可能性を探ったわけですが、情報戦では「天下人」徳川家康の方が一枚上手でした。彼はイギリス人ウィリアム・アダムス(三浦按針)を外交・貿易の顧問とし、すでにアルマダ戦争(1588年)でスペインの無敵艦隊はイギリス艦隊に破れ、海上権はイギリスに移ったことを知っていていたのです。ちなみにアダムスは次のような書簡を送っています。
「大君(徳川家康)は私を非常に厚遇し、イギリスの貴族にも比すべき地位を賜り、8、90名の農民を従僕として給せられた。大君がこのような貴い地位を外国人に与えたのは、私が最初である。
 私がこのように大君の信用を得たので、前に私を敵視していたポルトガル人・スペイン人らの驚きは大変なもので、いずれも媚(こび)を呈(てい)し、友として交わろうと望んでいる。私は怨みを棄て、彼らのために尽力している。」

参考文献:『支倉常長 慶長遣欧使節の悲劇』(大泉光一、中公新書)、『日本人とは何か(下)』(山本七平、PHP文庫)
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