江戸時代(17~19世紀)の日本と世界の交流②

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⑦「俘虜中の姜沆は姿勢を崩さず、朝鮮の衣冠を変えず、静かに一室に処して、ただ書物を読み、字を綴るを事として、未だかつて倭人と相対して自分から口を開くことがない。また、東萊城を守って小西行長軍に殺された宋象賢の妾は、節を守って屈せず、死を以て自ら誓う。倭人、貴(とうと)んでこれに敬意を払い、為に一室を築き、我国の捕虜となった女人をして護衛をさせた。また、惟政(四溟堂大師、朝鮮半島に進軍した加藤清正を陣中に四回も訪ねて談判し、日本軍の動静を探ったことで知られています。戦後は対馬に派遣され、さらに家康の接見を受けて国交回復の意志を聞き、講和条件をまとめて、その後の善隣外交の道を開きました)が使者としてやって来て、節を全うして帰るに及ぶや、遠近、宣伝して美事をなすと称した。これによって見ると、日本の国は専ら勇武を尚び、人倫は知らないが、節義の事を見るに至っては、すなわち感嘆してこれを称せざるはなし。また、天理本然の性を見るべきのみ。」(慶暹〔けいせん〕『慶七松槎録』)

 第1次朝鮮使節団の副使として来日した慶暹の日本紀行日記です。彼は日本の切腹や武闘風習に驚き(李氏朝鮮は宋と同じく文官優先主義でした)、日本人が姓を簡単に変えること(李氏朝鮮では中国と同じく、女性が結婚しても姓を変えず、それぞれの宗族における秩序は絶対的で、「族譜」と呼ばれる何十代にもさかのぼる家系図帳を作って、歴史的アイデンティティを強固に培っていました)、天皇の血族結婚(李氏朝鮮や中国では「同姓不婚の原則」があります)は奇異なものとして感じたようです。
 そもそも江戸時代は「鎖国時代」と言われますが、完全鎖国ではなく、限定鎖国であり、オランダとの公貿易、明・清との私貿易関係があり、李氏朝鮮とは正式な国交関係を樹立して、使節往来を重ねていたのです。この朝鮮通信使(正確には第4次以降の使節を「通信使」と呼び、将軍の代替わりに来日する「慶賀使」でした)の日本紀行記は貴重な歴史の証言ともなっています。例えば、第2次使節団の正使呉楸灘(ごしゅうだん)は『東槎上日録』、従事官李石門は『扶桑録』を、第3次使節団の副使姜弘重(きょうこうじゅう)は『東槎録』を、第4次朝鮮通信使の正使任絖(じんこう)は『丙子日本日記』、副使金東溟は『海槎録』、従事官黄漫浪は『東槎録』を、第11次朝鮮通信使の正使趙済谷は『海槎日記』を著わしており、日本人の好戦性(わずか数歳の子供でも短剣を帯び、その残忍毒虐の性は豹狼、蛇蝮と異なる所が無いとしています)、男女の別が無く風俗が乱れていること(その禽性・獣行は醜にして聞くに忍びずとし、混浴して恥としないことに驚いています)、かな文字はハングルに似ていること(かなは弘法大師が発明したとしています)、朝鮮の書籍が多く印刷発行され、中国の書籍はきわめて値段が高いこと(日本人は昔から読書好きだったようですね)などを紹介しています。また、1682年の第7次あたりから詩文の応酬が盛時を迎えたようです。日本を代表する外交官で、「誠信外交」を展開した雨森芳洲(あめのもりほうしゅう、1668~1755年、木下順庵門下で対馬に派遣され、朝鮮の方言まで解し、その風俗、慣習、歴史にも精通していたとされます)は、第9次朝鮮通信使を迎えた際、製述官(詩文の応接者であり、使者一行の文人代表の立場)申惟翰(しんいかん、1681~?年)に対して、次のように述べています。
「日本人の学んで文をなす者は、貴国とは大いに異なって、力を用いてはなはだ勤むるが、その成就はきわめて困難である。公は今ここ(対馬)より江戸に行かれるが、沿路で引接する多くの詩文は、必ず皆朴拙にして笑うべき言であろう。しかし、彼らとしては千辛万苦、やっと得ることのでき詞である。どうか唾棄(だき)されることなく、優容としてこれを奨詡(しょうく)して下されば幸甚である。」(申惟翰『海游録』)
 実際、申惟翰は墨を磨るのも追いつかないほど、来訪する文人の応接(同行の役人が制止して入り得ない者もいたそうです)に追われ、食事もできず、明け方になっても寝られず、紙は雲の如く積まれ、筆は林の如く集まって、しばらくして無くなるとまた進めてきて、自分でもいくばくの詩篇を作ったか分からないほどであったと言います。

⑧「(8代将軍徳川吉宗は)人となりが精悍にして俊哲、今年三十五歳である。気性が買い魁傑にして、かつ局量あり、武を好んで文を喜ばず、倹を崇んで華美を斥ける。常に曰く、「日本人は必ず朝鮮の詩文を慕う。しかし、風気がそれぞれ異なり、学んでも能くし得ざるからには、自ら日本の文をなすに如かず」と。…
 国書を伝えて後、余は出て来てから雨森に言った。「貴国の大君は、倹素にして飾り気がなく、はなはだ君人としての度量がある。その治平が期して待たれる」と。」
「兵制は最も精強である。…こうして軍卒は、平素からの訓練によってそれが習性となり、事に遇えば蛟(みずち)の如く奔り、猪の如くに突っ込み、賊を見れば、燈火に飛び入る蛾の如く、轍(わだち)にぶつかる螗(なつぜみ)の如くになる。…これ野蛮の習性とはいえ、しかし養兵の術を得たものと言うべきであろう。」
「医学は日本で最も崇尚(すうしょう)するものである。天皇、関白をはじめ、各州太守(藩主)は皆医官数人を置いて、廩料(りんりょう)を与えること、はなはだ厚い。故に医者は皆富む。」
「大坂の書籍の盛んなること、実に天下の壮観である。我が国の諸賢の文集のうち、人の尊尚(そんしょう)する所は『退渓集』に如(し)くはない。すなわち家でこれを誦し、戸でこれを講ずる。諸生輩(せいはい)との筆談でも、その問う項目は、必ず『退渓集』中の語をもって第一義となす。質問も「陶山書院(李退渓の開いた学校)の地は何郡に属するか」、「先生の後孫は今幾人あり、何官をなすか」、「先生は生前、何を嗜好(しこう)されたか」などなど、その言う所ははなはだ多く、記し尽くすことはできない。」(申惟翰『海游録』)

 恐らく申惟翰は歴代朝鮮通信使中、最高の文人であったと言ってもよいかと思われますが、その分、彼の日本見聞の情報確度はきわめて高いものと言うことができるでしょう。彼によれば、一行に同行した小童が19名おり、彼らが「童子対舞」を披露したとのことですが、これが岡山県牛窓町に今日まで伝わっている「唐子(からこ)踊り」のルーツとなっているのです。

⑨「これこそ閉じたまま鍵を失くした玉手箱だ。これこそ財力と武力と陰謀とを駆使して、これまで手なづけようと各国が覗って来たが、成功しなかった国である。これこそ巧みに文明の申出を避け、自己の知力と法規によって敢て生きようとして来た人類の大集団であり、外国人の友好と宗教と通商とを頑強に排撃し、この国を教化しようとする我々の意図を嘲笑し、自己の蟻塚の勝手気ままな国内法を、自然法にも、民法にも、その他あらゆるヨーロッパ流の正と不正に対立させている国である。」(イワン・A・ゴンチャロフ『日本渡航記』)

 これは1852~1854年までプチャーチン提督の秘書という立場で幕末日本を訪問したゴンチャロフ(1812~1891年、彼が書いた『断崖』という作品は二葉亭四迷の『浮雲』のモデルになったとされます)の体験談『フリゲート艦パラーダ号』の一部『日本渡航記』(1858年刊)です。いよいよヨーロッパ列強の目に東洋の島国が魅力的に映ってきたようです。「我々でなければアメリカ人が、またアメリカ人でなければ誰かその後に続く者が、いずれ近いうちに日本の血管に健康な液汁を注ぐ運命にあるのだ」という意気込みを持ってやって来たロシア使節ですが、日本側の応対は「役人達は奉行に聞かねばならぬと言い、奉行は江戸の将軍に伺い、将軍はミヤコの天子ミカドに奉問する」と言って、回答引き延ばし戦術を取るといったものでした(イギリス公使パークスの片腕として来日したアーネスト・サトウも、幕末日本にいた外国人は「日本人と不正直な取引者は同意義である」と確信していたと報告しています)。これには業を煮やしたようですが、日本の風景については「どこを見ても一場の絶景であり、一幅の絵である」としてこれをほめちぎり、日本人については「相当に開けており、応対も気楽で気持ちが良く、またあの独特の教養は極めて注目すべきものがある」「頑迷固陋な見込みの無い国民ではない。かえって物の分かった、分別のある国民で、必要と認めたら他人の意見もうまく取り入れる国民である」と評価しています。
 彼は中国に関しても、上海などでの「命令的で、粗暴で、冷たい軽蔑的な」イギリス人の態度に触れながら、「イギリス人と中国人とどちらがどちらを文明開化しているか分かりません。かえって中国人の方が、あの謙譲と気弱さと商売上手でもってイギリス人を開化しているのでしょうか」と述べており、さらに丁寧に手入れの行き届いた田畑・茅屋・庭園があり、平和な人間関係を保っている琉球諸島に高い評価を与えていることにも窺えるように、比較的冷静に客観的な観察をしていたことが分かります。ちなみに1859年にイギリス初代駐日総領事(後に特命全権公使)として来日したR・オールコック(1809~1897年)も関心を持って日本の風俗習慣を研究していますが、1863年に刊行した『大君の都』の中で「日本は本質的に逆説と変則の国だ」と述べています。

⑩「日本人は実に驚くべき国民です。蘭学に依って、アメリカの大学卒を凌(しの)ぐほどの学力を身につけています。蘭学は日本人にとって大いなる祝福であったと言えます。」(ヘボン、「Spirit of Mission」誌上に掲載された記事)

 ヘボン(1815~1911年)はヘボン式ローマ字の発明者として知られ、聖書の日本語訳に携わり、明治学院創設者の一人に数えられている人物です。彼は「私はフランス人よりドイツ人が好き、そしてそれよりも日本人の方がずっとよろしい」と言うほどの親日家で、長年にわたる日本語研究の結果、「日本語は中国語より数段高級な言語だ」とまで述べています。

参考文献:『日本人とは何か(下)』(山本七平、PHP文庫)、『誰でも知りたい 朝鮮人の日本人観 総解説』(琴秉洞・高柳俊男監修、自由国民社)、『江戸時代の朝鮮通信使』(李進煕、講談社学術文庫)、『外国人による日本論の名著 ゴンチャロフからパンゲまで』(佐伯彰一・芳賀徹編、中公新書)、『ヘボンの生涯と日本語』(望月洋子、新潮選書)
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