縄文時代(紀元前1万年~紀元前3世紀)の日本と世界の交流

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①「周の時、天下太平、越裳(えっしょう、現在のベトナム)白雉(はくち、食べると吉を招き、凶を除くことができる縁起物とされました)を献じ、倭人鬯草(ちょうそう、黒きびで造った神酒に浸す香草で、やはり縁起物とされました)を貢す。」(『論衡〔ろんこう〕』第八巻儒増篇)

②「成王(周王朝第2代天子、紀元前1115~1079年)の時、越常(えっしょう)、雉(きじ)を献じ、倭人、暢(ちょう)を貢す。」(『論衡』第十九巻恢国〔かいこく〕篇)

 縄文倭人が周王朝に貢献したという驚くべき記事です。著者は後漢代の王充(27~永元年間〔89~104年〕)で、『漢書』を書いた班固(32~92年)の先輩に当たります。この記事は後漢代の「合理主義」に基づいて書かれており、「縁起物」である「ベトナムの白雉」も「倭人の鬯草」も「凶を除く能(あた)わず」、周王朝のシンボルであった「鼎(かなえ)」についても「福を致す能わず」として、効き目が無かった(実際には周王朝は滅んでしまった)としています。逆に言えば、「この本の読者(後漢の読書階級、インテリ層)の間では、倭人の鬯草貢献は周王朝の史実として疑われていない」ということを示しています。
 ちなみにこの「縄文倭人の周王朝貢献」は箕氏朝鮮の箕氏(きし)を通じてなされたと見られています。殷王朝最後の天子紂王(ちゅうおう)は暴君で、王族の親戚にして宰相であった箕氏のいさめも聞かず、とうとう周王朝初代天子となる武王によって滅ぼされましたが、武王は箕氏を朝鮮に封じます(東夷の鎮撫が目的です)が、「臣」とはしなかったとされます。これは殷の名家にして民衆に人望の高かった箕氏に対して礼を尽くしたものと見られますが、その後、成王の代に箕氏は自ら「革命」後の周の天子に直接拝謁しており、恐らくこの時に東夷の諸族は箕氏に貢献物を託したと考えられ、倭人の鬯草もその中の1つとしてあったのではないかということです。

③「蓋(がい)国(平壌を中心とした朝鮮半島北半の国)は鉅燕(きょえん、「鉅」は「巨」に同じで、戦国七雄の1つである燕は北京を中心に鴨緑江北辺まで延びていたとされます)の南、倭の北に在り、倭は燕に属す。」(『山海経』海内北経)

 これによれば、「蓋国」は「海を隔てて倭と相対している」といった感じではなく、「陸上で接している」という感じなので、朝鮮半島南端に倭人の国があったことが分かります。
参考文献:『邪馬一国への道標』(古田武彦、角川文庫)、『中国の古典名著総解説 中国4000年・知恵と話題の書・集大成!』(自由国民社)
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