弥生時代(紀元前3世紀~紀元3世紀)の日本と世界の交流①

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①「(始皇帝28年、紀元前219年)既に斉(戦国七雄の1つ、斉国。現在の山東省)人、徐市(じょふつ、徐福)」らは上書して言うには、「海の上に三神山があり、名を蓬莱(ほうらい)、方丈、瀛州(えいしゅう)と言い、仙人が住んでいるという。心身を清めて、童男、童女と三神山へ行くことを請い願う」と。そこで徐市を遣わし、童男女数千人を発たせ、海に出て仙人を求めさせた。」(『史記』六巻 秦始皇帝本紀第六)

②「(始皇帝37年、紀元前210年)海に連なり、北、琅邪(ろうや、現青島〔チンタオ〕市の西南方)に至る。神仙の術を持つ徐市らはここから海を行き、神薬を求めたが、数年経っても得られず、出費を多かった。罰を怖れ、詐って報告した。「蓬莱の薬を手に入れることはできますが、大鮫がいて苦しめられています。だから行き着くことができません。どうか弓の名手を付け、鮫を見たら連発できる弓で射止めることをお認め下さい」と。」(『史記』六巻 秦始皇帝本紀第六)

③「(紀元前124年、漢の高祖の孫である淮南〔わいなん〕王劉安を臣の伍被〔ごひ〕が諌める)徐福は海に出て不老不死の薬を求めさせましたが、帰って偽りの報告をしました。
「私は海の上で大神に出会いました。神は言いました。『汝は西の皇帝の使者か』と。私は答えました。『そうです』と。『汝は何を求めるか』と訊ねたので、『お願いしたいのは延命長寿の薬です』と答えました。神は言いました。『汝の秦王の礼物は足らないので、薬を見ることはできても手に入れることはできない』と。ついで、東南の蓬莱山に私を連れて行きました。霊芝で造られた宮殿を見ました。使者がいて、銅色で竜の形をしており、光が上り、天を照らしていました。そこで私は再び神を拝み、問いかけました。『何を献上すればよろしいのですか』と。海神は答えました。『育ちのいい少年少女にいろいろの道具、技術を献上すれば、神薬を得ることができよう』と。」
 始皇帝は大いに喜び、童男女三千人に五穀の種やいろいろの道具、技術者を与えて、東方に行かせました。徐福は平野の水が豊かな地に着き、王となって帰りませんでした。」(『史記』百十八巻 淮南衡山〔わいなんこうざん〕列伝第五十八)

④「(淮南王への伍被の言葉)徐福を海に出し、仙薬を求めさせました。珍宝や童男女三千人、五穀の種、百工(道具、技術者)をつけて行かせました。徐福は平原、大沢を得て、王となって帰りませんでした。」(『漢書』四十五巻 蒯〔かい〕伍江息夫伝第十五)

⑤「(230年、春正月)孫権は将軍衛温(えいおん)、諸葛直(しょかつちょく)ら将兵万人を遣わし、海に出て夷洲及び亶洲(たんしゅう)を求めさせた。亶洲は海の中にあり、長老は伝えて言う。
「秦始皇帝は神仙の術を持つ徐福に童男童女数千人を連れ、海に出て、蓬莱の神山と仙薬を求めさせたが、この島に留まって帰らなかった。代々、続いて数万家もあり、そこの人民は時に会稽に来て取り引きをする。」
その住んでいる所は果てしなく遠く、将軍らはついに亶洲には行き着くことができなかった。が、夷洲には行くことができ、数千人が帰ってきた。」(『三国志』呉志二巻 呉主権)

 有名な「徐福伝説」です。徐福が来たという説話は日本中にあります。三千人の集団であれば、「徐福集団」の中のいくつかのグループが各地に至ったということは当然あり得るでしょう。「海の上の三神山」「山東半島から見て東南」「平原、大沢の地」「会稽(江南)に近い方に夷洲(中国の定説では台湾)、それより遠い所に亶洲、蓬莱山はさらに別な場所」「亶洲に徐福の子孫が数万家、時に会稽へ出て取り引きをする」といった記述が手がかりですね。さらに中国側に本州が島だという認識(これは「津軽海峡の認識」という命題に置き換えられます)が現われるのが『新唐書』(11世紀)であること、『漢書』に「(燕地)楽浪海中の倭人、百余国」「(呉地)会稽海外の東鯷(とうてい)人、二十余国」がそれぞれ定期的に朝貢してくるとあること、『三国志』魏志倭人伝に「邪馬壱国七万余戸、投馬国五万余戸、奴国二万余戸」とあること、『隋書』に出てくるのも俀国(たいこく、地理的記述としては「阿蘇山有り」と出てきます)伝と琉球国伝の2つだけであること、などをふまえると、夷洲は台湾、亶洲は琉球諸島、蓬莱山(恐らく阿蘇山)は九州島と見ることができるかもしれません。
参考文献:『中国正史の古代日本記録』(いき一郎編訳、葦書房)、『真説「徐福伝説」 謎に包まれた「日本人の祖先」の実像』(羽田武栄・広岡純、三五館)
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