弥生時代(紀元前3世紀~紀元3世紀)の日本と世界の交流②

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⑥「(燕地、燕は戦国七雄の1つで、中国東北部から朝鮮半島北部を支配した国です)東夷、天性従順、西南北と異なる。孔子は中国で道が行われていないのを悼み、海に浮かんで九夷と共に住もうとした。もっともだ。
そう、楽浪(紀元前108年に漢の武帝が置いた「漢四郡」のうちの1つで、今の平壌付近を中心としていた)の海中に倭人が住み、分かれて百余国をつくり、定期的に朝貢してくるという。…
(呉地、長江河口付近を占めた国です)会稽(かいけい)の海外に東鯷(とうてい)人が住み、分かれて二十余国をつくり、定期的に朝貢してくるという。」(『漢書』二十八巻下 地理志第八下)

 『漢書』は1世紀の成立ですが、当時、日本列島から定期的に朝貢していた(つまり、それなりの政治システム、社会制度を有していた)のは「楽浪海中」(朝鮮半島の向こう、玄界灘を越えた海の中)の「倭人」と「会稽海外」(東海の向こう)の「東鯷人」のみだったとしています。さらに7世紀に成立した『隋書』では「俀国伝」と「琉球国伝」の2つのみ、わざわざ伝が立てられているので、この「倭人」は「九州島人」、「東鯷人」は「琉球諸島人」と見るのが妥当かもしれません。

⑦「瓠公(ここう、新羅初代朴赫居世〔ぼくかくきょせい〕王の側近)はその族姓が詳(つまび)らかではない。元は倭人であって、はじめは瓠(ひさご)を腰に付けて海を渡ってきたのである。たから、瓠公と言った。」(『三国史記』新羅本紀第一巻 始祖赫居世居西干三十八年、紀元前二十年、二月条)

⑧「昔脱解(せきだっかい、新羅第4代王、在位57~80年)は元は多婆那(たばな)国(『三国遺事』では「竜城国」)の生まれであった。その国は倭国の東北一千里にあった。」(『三国史記』新羅本紀第一巻 脱解尼師今即位前紀)

 何と新羅の初代王の側近中の側近(西方の大国馬韓に派遣され、外交交渉を行っています)も、第4代王も倭人ないし、日本列島人(「東北一千里」は短里で70数キロメートルに相当します)であるというのですから驚きですね。これを朝鮮半島における正史で述べているわけですから、信頼できるといってよいでしょう(「倭人の侵略記事」などはそれこそ無数に載っています。ただし、「新羅史」は大義名分上、「伽耶史」を取り込んで、最古の系譜に仕立てている可能性があるので、記載年代には史料批判上、問題があります)。

⑨「建武中元二年(57年)、倭奴国が貢物を献じ、朝賀してきた。使者は自分のことを大夫と称していた。倭の最南端である。光武帝は印綬を賜わった。安帝の永初元年(107年)、倭国王帥升(すいしょう)等は生口百六十人を献じ、皇帝の拝謁を申し出た。」(『後漢書』八十五巻 東夷列伝)

 これは有名な「志賀島(しかのしま、博多湾岸)の金印」にまつわる記事です。この金印のレプリカが福岡市立博物館にありますので、行く機会があったら、是非、訪ねてみましょう。そこには「漢委奴國王」の5文字が刻まれており、伝統的に「漢の委(わ)の奴(な)の國王」と読まれてきましたが、こうした「三段読み」は中国史書の表記上のルールにはそぐわないものです。「史料批判」を普通に適用すれば、「漢の委奴(いど)國王」となるところでしょう。ちなみに「金印」は「夷蛮(東夷・西戎〔せいじゅう〕・南蛮・北狄〔ほくてき〕)の首長」にそうそう簡単に与えられるものではありません。出土例は東にこの「志賀島の金印」、西にもう1つあるだけで、この2例しか確認されていないのです。後漢初代皇帝の光武帝から見て、当時の博多湾岸には東夷の中枢たる「政治勢力」(委奴国)があり、それを漢を中心とした世界秩序の中に組み込んだということですね。
参考文献:『「邪馬台国」はなかった』(古田武彦、朝日文庫)、『倭人伝を徹底して読む』(古田武彦、大阪書籍)、『三国史記倭人伝 他六篇 朝鮮正史日本伝1』(佐伯有清編訳、岩波文庫)
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