弥生時代(紀元前3世紀~紀元3世紀)の日本と世界の交流③

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⑩「倭人は帯方(たいほう)郡(現ソウル付近)の東南、大海の中に住み、国や邑(むら)をつくっている。もと百余国から成り、漢の時代に朝貢してくる者がいたが、今、通訳を連れた使者がやって来る国は三十国である。
郡から倭に至るには海岸に沿って海上を行き、韓国(朝鮮半島南半部、ここは元々馬韓・弁韓・辰韓の「三韓」の地でした。やがて馬韓から「百済」が、弁韓から「伽耶」が、辰韓から「新羅」が誕生していきます。北半部は元々「朝鮮」の地です)を通るのに、あるいは南にあるいは東に行き、倭の北岸狗邪(こや)韓国(朝鮮半島南岸部、いわゆる「伽耶」の地です。後に日本側地名として「任那〔みまな〕」の名で呼ばれる所です)に到る。七千余里(約500キロメートル)ほどである。はじめて海を渡ること千余里(約70キロメートル)で対海国(対馬)に至る。・・・また南へ海を渡ること千余里、瀚海(かんかい)と名づけている。一大国(壱岐)に至る。・・・また海を渡ること千余里で末盧(まつろ)国(唐津近辺)に至る。・・・東南陸行五百里(30数キロメートル)で伊都国(福岡県旧糸島郡)に到る。東南、奴国に至るのに百里(約7キロメートル)、・・・東行不弥(ふみ)国に至ること百里。・・・南、投馬国に至こと、水行二十日。・・・南、邪馬壹国に至る、女王の都する所、水行十日、陸行一月。・・・郡より女王国に至る、万二千余里(800数十キロメートル)。・・・倭への道里を図ると、まさに会稽東治(とうち)の東に在る。」(『三国志』魏志倭人伝)
 有名な「魏志倭人伝」の記事ですが、この原文にある通り、「邪馬台国」という表記は出て来ません。実はこの表記が出て来るのは5世紀の『後漢書』からで、3世紀の『三国志』の時点では「邪馬壹国」が正しい表記です(中華書局標点本にはっきり出ています)。ちなみによく『魏志倭人伝』という本があるかのように書かれていますが、そんなものは存在していません。『三国志』(我々がよく知っている三国志の物語は明代に羅漢中が書いた『三国志演義』です)に魏志・呉志・蜀志(「志」は「史」に他なりません)の3つがあり、その「魏志」の中に「東夷伝」があり、その「東夷伝」の最後を飾っているのが「倭人伝」なのです。したがって、「史料批判」の基本を適用するならば、「魏志倭人伝」だけを頼りに想像たくましく推理するのではなく、中国正史の表記上のルール、『三国志』の表記上のルール、「魏志」の表記上のルール、「東夷伝」の表記上のルールをそれぞれ確認した上で、「魏志倭人伝」を分析しなければならないのですが、いわゆる「学説」「定説」「通説」と呼ばれるものでもこうした手続きを経ていないものがほとんどです(アマチュア歴史家がいわゆる「邪馬台国論争」に参戦して、それこそ「邪馬台国~説」が「百花繚乱」状態となっているのは、こうした方法論的理由があります)。実は東大の学者を中心とする「邪馬台国九州説」も、京大の学者を中心とする「邪馬台国近畿説」も、方法論的にはけっこうムチャクチャな論法を使っているんですね、これが。

⑪「男子は大人、小人とも顔や身体に入墨をしている。昔から倭人の使者が中国を訪れると、皆、周代の大夫を自称する。大昔の夏王朝の帝少康(しょうこう)の子は南の会稽に任ぜられた時、民に断髪文身(入墨)をさせ、蛟竜(こうりゅう、みずち)の害を避けるようにさせたものである。今、倭の水人は好んで潜って魚や蛤(はまぐり)を捉える。そのために入墨して大魚や水禽に嫌わせてきたが、次第に飾りになってきた。・・・その風俗は乱れず、男子は皆冠を着けず、木綿で頭を巻き、衣服は横に長い布を結んで束ね、おおむね縫い付けない。婦人は髪を下げるか、まげ結びにして、衣服は単衣(ひとえ)のようにつくり、衣の中央に穴を開け、頭を通して着ている。・・・風俗の共通するものは中国南端の儋耳(たんじ、広東省)、朱崖(しゅがい、海南島)と同じである。
 倭の地は温暖で、冬でも生野菜を食べ、みな裸足で暮らす。家屋を作り、父母兄弟は寝る所を別にしている。身体に朱や丹を塗るが、中国人の使う白粉のようなものである。飲食に高坏(たかつき)を使い、手で食べる。・・・人の集まりや立ち居振る舞いに父子、男女の区別はなく、性来、酒好きである。・・・婦人は淫らではなく、嫉妬もしない。盗みも無く、訴訟も少ない。倭人が法を犯した場合、罪の軽い者はその妻子を没収し、重い者はその一族を滅ぼす。各人の身分の尊卑には各々差別と序列があって、それぞれ十分に服従している。」(『三国志』魏志倭人伝)

 三世紀倭人の風俗ですね。「同時代史料」なので、かなり信用できます。倭人は呉の地、会稽当たりと関係が深く、江南地方と風俗が似通っていることに注意しておきましょう。『晋書』四夷伝にも「(倭人は)自分達は呉の太伯(たいはく)の後裔だと言っている」と出て来ます。太伯とは周の太王の長子ですが、太王が末子季歴(きれき)の子昌(しょう、後に孔子にその聖徳を慕われた周の文王です)を愛していることを知って、自らは南方の呉の地へ行き、「文身断髪」して天子の身となれないことを示したという故事が知られています。つまり、「文身断髪」(今風に言えば「タトゥー」と「スキンヘッド」ですかね)は呉地の風習で、それはさらに古く夏王朝中興の祖とされる少康の子が会稽王に封ぜられて以来の風習で、それが時代がずっと下って3世紀の倭人の風習として今なお伝えられているというわけです。

⑫「女王国以北には特に一大率(いちだいそつ)を置き、諸国を検察させているので、諸国は畏(おそ)れ憚(はばか)っている。常に伊都国に置かれ、中国の州長官のような役人である。王が洛陽や帯方郡、諸韓国に使者を送ったり、郡から倭国に使者を送って来る時、全て港で点検を受け、文書や贈り物を間違いなく女王の元に届けるようにする。・・・景初二年(238年)六月、倭の女王は難升米(なんしょうまい)等を遣わして帯方郡に行かせ、魏の天子に拝謁して貢物を献上したいと申し出た。郡太守劉夏(りゅうか)は部下の役人に同行させ、倭使を魏都に送り届けた。その年の十二月、明帝(魏の第二代皇帝)は証書で倭の女王に伝えて言った。
『親魏倭王に制詔(みことのり)する。・・・汝の居る所ははるか彼方であるが、使いを送り、貢物を献じてきたのは汝の忠孝心の表われであり、我は汝を深くいとおしむものである。ここに汝を親魏倭王とし、金印紫綬を与えたい。包装し、帯方郡守に託し、授けることにする。倭人らをよく治め、我に忠誠を示し、従うように努めよ。汝の使者難升米、牛利(ぎゅうり)は長い道を苦労したので、ここに難升米を率善中郎将(年2千石の役人)とし、牛利を率善校尉(こうい、天子の宮城を護衛する役人)とし、銀印青綬を与え、引見して労(ねぎら)い、賜物を渡し、還したい。・・・』」(『三国志』魏志倭人伝)
 これはまさに卑弥呼の「外交革命」を示しています。伝統的に「呉」の地と関係が深かった倭国が、華北の魏を宗主国に選び、「親魏倭王」に封ぜられたのですから、卑弥呼は当時の東アジア国際情勢をかなり的確につかんでおり、なおかつ機を見るに敏な決断力・行動力があったことがよく分かりますね。これは次のような諸記事によっても裏づけされます。

⑬「宣帝(179~251年)が公孫氏を平定すると、その女王は使いを遣わして帯方郡に来て朝見し、その後、朝貢は絶えることがなかった。文帝が魏の宰相時代にも、また何回も朝貢してきた。秦始年間(265~274年)の初めに使者を遣わし、重ねて朝貢した。」(『晋書』九十七巻四夷伝)

⑭「倭の女王卑弥呼、使いを遣わし来聘す。」(『三国史記』新羅本紀第二巻 阿達羅尼師今二十年〔173年〕、五月)

 つまり、卑弥呼の情報戦略は「朝鮮半島」を舞台にして繰り広げられていたということですね。こうした「遣新羅使」「遣帯方郡使」「遣魏使」を軸にした外交戦略は、今日的にも評価の対象となることでしょう。

参考文献:『「邪馬台国」はなかった』(古田武彦、朝日文庫)、『倭人伝を徹底して読む』(古田武彦、大阪書籍)
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