古墳時代(3世紀後半~7世紀)の日本と世界の交流①

記事
学び
①「泰和四年(369年)五月十六日の丙午正陽に、百たび鍛えた鉄の七支刀を造った。進んでは百たびの戦いを避け、恭しい侯王(が帯びるの)にふさわしい。先の世からこのかた、まだこのような刀はない。百済王の世子貴須は特別に倭王旨のために造って、後の世に伝え示すものである。」(石上〔いそのかみ〕神宮所蔵の七支刀銘文)

 「侯王」とは中国の天子の下にある諸王に対して用いられる用語で、百済王も倭王もどちらも東晋の天子の下にあって対等な「侯王」なのですが、その百済王が倭王と好(よしみ)と通じようとして、この独特な七支刀を贈与したということです。後に白村江(はくすきのえ)の戦(663年)で、百済の残党を助けるために倭国がわざわざ援軍を派遣し、悲惨な敗北を喫していますが、こうした百済と倭国の蜜月関係には実に長い伝統があったわけです。

②「百済と新羅とは、もとこれは(高句麗の)属民であって、もとから朝貢していたのである。しかるに倭は、辛卯の年(391年)にやって来た(そのため、百済、新羅は高句麗側から見て属民らしい態度を取らなくなった)。これに対して、好太王は海を渡って(渡海作戦による奇襲攻撃~この先例として3世紀、魏の明帝による遼東半島の公孫氏征討作戦があり、『三国志』公孫伝に出て来ます)、百済、・・・新羅を破り、臣民とした。・・・
 九年(399年)己亥、百済は(高句麗との)誓いに背き、倭と和を通じた。・・・
 (広開土)王は平壌に巡下した。そこで新羅は使者を遣わし、王に申し上げて、「倭人は新羅の国境に充ちあふれ、城や池を打ち破り、(百済の)奴客を民としてしまいました。王に帰属し、仰せを承りたいと願っております」と言った。・・・
 十年(400年)庚子、歩騎五万を派遣し、前進させて新羅を救援させた。男居城より新羅城に至るまで、倭はその中に充ちあふれていた。・・・官軍がまさにやって来ると、倭賊は退却した。・・・倭は充ちあふれ、倭は潰滅した。・・・
 十四年(404年)甲辰、倭は不法にも帯方の界に侵入した。・・・倭寇は潰滅し、斬り殺した者は数え切れなかった。」(高句麗好太王〔広開土王〕碑文)

 これは高句麗好太王の功績を記したものなので、高句麗にとって都合の悪い記事は当然カットされていますが、倭軍が朝鮮半島南半部に進出し、軍事的緊張がかもし出されていることがよく窺えます。

③「倭は高驪(こうり、高句麗)の東南大海の中にあり、王は代々、中国に貢物を納めてきた。高祖(南朝劉宋初代の武帝)は永初二年(421年)に詔して言った。「倭の讃は万里の彼方から貢物を納めてきた。遠くにあって忠誠を尽すことは宜しく顕彰すべきであり、爵号を与えるべきである」と。太祖(文帝)の元嘉二年(425年)、讃はまた司馬(しば、将軍、都督の属官)曹達(そうだつ)を遣わし、上表文を奉り、土産品を献上した。
 讃が死んで、弟の珍が王となり、使者を遣わし、朝貢してきた。自ら使持節(しじせつ、軍政の役人で州長官を兼ねた)、都督(ととく)、倭・百済・新羅・任那・秦韓・慕韓六国諸軍事、安東大将軍倭国王と称していた。上表文を出して正式に認めてほしいと求めたので、安東将軍倭国王とした。同時に珍は倭隋(ずい)等十三人に平西、征虜(せいりょ)、冠軍(かんぐん)、輔国(ほこく)の将軍号(軍府を開くことができる)を授けるように求めたので、詔して同じく認めた。
 (元嘉)二十年(443年)、倭国王済が使いを遣わし、貢物を送ってきたので、同じく安東将軍倭国王とした。(元嘉)二十八年(451年)、使持節、都督、倭・新羅・任那・加羅・秦韓・慕韓六国諸軍事とし、安東将軍は前のままとした。同じく済の願い出た二十三人を軍、郡(長官)に任命した。
 済が死んで、後継者の子興が使者を送り、朝貢してきた。世祖(孝武帝)は大明六年(462年)、詔して言った。「倭の世子興は歴代の王の忠誠心を受け継ぎ、外海に倭が王朝の垣となり、天子の徳を稟(う)け、境の地を治め、心を込めて朝貢を納めてきた。新たに辺土の守りを受け継いだので、爵号を授け、安東将軍倭国王としよう」と。
 興が死んで弟の武が王となり、自ら使持節、都督、倭・百済・新羅・任那・加羅・秦韓・慕韓七国諸軍事、安東大将軍倭国王と称した。順帝の昇明二年(478年)、使者を遣わし、上表文を寄せた。
「中国の冊封国である我が国ははるか遠くにあり、外夷に対する垣となってきた。・・・歴代の倭王は定期的に中国に貢献してきた。・・・しかしながら高句麗は無道で百済を征服しようとし、掠奪し尽して止まない。私が使者を送る度に押しとどめられ、これまでの朝貢という美風を失ってしまった。・・・私の亡父済は高句麗が天子への道を塞いでいるのを怒り、武装した兵百万で正義の声を上げて大挙して出撃しようとしたが、にわかに父と兄を失い、まさに成ろうとしていた功を消え失せてしまった。私は服喪の部屋にこもり、兵を動かせず、そのため、いまだに手をこまねいて高句麗に勝てないでいる。・・・もし、皇帝の徳を受けてこの強敵を撃ち砕き、困難を打ち払うならば、私は歴代の功を受け継ぎたい。私(ひそか)に自ら開府儀同三司(かいふぎどうさんし)を仮称し、その他の者に各々皆仮授させた。このようにして忠節に励んでいる。」
 詔して、武を使持節、都督、倭・新羅・任那・加羅・秦韓・慕韓六国諸軍事、安東大将軍倭国王に任命した。」(『宋書』九十七巻 倭国伝)

 有名な「倭の五王(讃・珍・済・興・武)」の記事です。注目されるのは、中国大陸が南北朝時代に突入し、倭国は一貫して南朝冊封体制に自らを位置づけようとしたこと、徹底的な「授号」(倭国側からすれば「受号」)外交を行なったことの2点でしょう。特に倭国の執拗な「授号」要求の中に、朝鮮半島南半分に相当する「百済・新羅・任那・加羅・秦韓・慕韓」への「軍事権」の承認があったことは重要です。これは倭国の最大のターゲットが高句麗にあったからで、北方の大国高句麗と南方の大国倭国との対立が浮かび上がってきます。これをストレートに高句麗側から記述したものが、「高句麗好太王(広開土王)碑文」です。
 いずれにせよ、中国南朝側はこの執拗な要求には手を焼いたようで、何とかこれをかわしていますが、最後には百済を外してこれを承認しています。百済を外さざるを得なかったのは、すでに高句麗、百済に対してはむしろ倭国よりも上位の「授号」がなされており、南朝中心の冊封体制での位置づけがなされていたからです。逆に新羅に関してこれを認めていることは見逃せないところですね。7世紀に唐と組んで百済・高句麗を打ち破り、朝鮮半島を統一した新羅ですが、5世紀の時点ではまだ倭国の軍事的影響下にあったということです。
 さらに倭王武が「開府儀同三司」(府=官省を開く権限を持ち、儀礼上、三司=太尉・司徒・司空と同じと認める)を自称したことも目を引きます。『宋書』百官志によれば、官名関係は全部で「九品」に分かれており、倭王武は「使持節」「都督」「安東大将軍」に任ぜられていますから、「第二品」に属します。ところが、彼は勝手に「第一品」の「太尉(たいい)・司徒(しと)・司空(しくう)」に準ずる位置を自称したわけです。これは「(大明七年、463年、七月)征東大将軍、高麗王高璉(こうれん)、車騎大将軍、開府儀同三司に進号す」(『宋書』孝武帝紀)とあるように、高句麗王がすでに授号されていたことが動機となったのでしょう。ところで、その後の7世紀にとうとう「日出づる処の天子」という自称まで飛び出してくるのですが、その前に臣下としての最高位である「太宰(たいさい、宰相)」を通過しなければなりません。この「太宰」が開く「府」のことを「太宰府」と言いますが、日本列島でこの地名が残るのは1箇所だけで、恐らくこの地で倭国王は「太宰」を自称したのだと思われます。ちなみに太宰府には「内裏趾」「紫宸殿(ししんでん)」という地名が残っており、その西南の基山の上にある基肄城(きいじょう)跡には「北帝門」という地名すら残っています。そもそも「九州」という言葉自体が、「州が九つに分かれている」という意味ではなくて、「中国の伝説の聖天子、禹が天下を九つに分けて統治した」ことに由来しており、元々「天子の下の直接統治領域」を指しているのです。はァ~って感じですね。

参考文献:『中国正史の古代日本記録』(いき一郎編訳、葦書房)、『三国史記倭人伝 他六篇 朝鮮正史日本伝1』(佐伯有清編訳、岩波文庫)、『失われた九州王朝』(古田武彦、朝日文庫)、『邪馬一国への道標』(古田武彦、角川文庫)
サービス数40万件のスキルマーケット、あなたにぴったりのサービスを探す