古墳時代(3世紀後半~7世紀)の日本と世界の交流②

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④「梁が興り、また情報が増えた国があった。扶桑国はこれまで聞いたことがなかった。普通年間(520~527年)、ある僧がその国が来たと称し、中国に着いたが、その言うことはその地を十分に知り尽くしたものだったので、ここに記録する。・・・
 倭は自ら呉の太伯の後裔と称している。風俗には入墨がある。帯方郡を去ること一万二千余里で、およそ会稽の東にあり、はるか遠くに離れている。・・・
文身国は倭国の東北七千余里の所にある。・・・土地の風俗は歓楽的で、物は豊かで安い。旅をする者も食糧を持って行くことはない。・・・
大漢国は文身国の東五千余里にある。武器がなく、戦争をしない。風俗は皆文身国と同じだが、言語は違っている。・・・
 扶桑国とは、南斉の永元元年(499年)、その国の僧慧深(えしん)が荊州(けいしゅう)に来て話して言った。
「扶桑国は大漢国(これはせりふ中の言葉なので、先述の地の文に出てきた大漢国と同じとは限りません)の東二万余里の所にある。土地は中国の東にあり、扶桑の木が多いので、国名にしている。・・・その習俗に元々仏教はなかったが、宋の大明二年(458年)、罽賓(けいひん)国(西域のカシミール、またはその西のガンダーラに当たるとされます)の僧五人が来て、経典、仏像を伝え、教えを広めて出家させたので、やがてその習俗も変わった。」
慧深はまた言った。
「扶桑の東、千余里に女国がある。容貌は端正で、色は非常に白く、身体に毛が生えていて、髪は地に届く。・・・」」(『梁書』五十四巻 列伝第四十八)
 「謎の史書」とされる『梁書』の記述です。里数を比定しづらいところですが、日本列島において、西から「倭国→文身国→大漢国」「扶桑国→女国」といった順番で国が並んでいたようです。ここで驚くべきは、扶桑国に458年に西域仏教が伝わったという証言でしょう。『日本書紀』の記録では、欽明天皇の時(552年)に百済仏教が伝わったとされ、諸寺伝では538年にやはり百済仏教が「初伝」したと伝えています。ところが、例えば九州の雷山(らいざん)にはもっと古い年代で、インド仏教が渡来したという伝説が伝わっていますから、どうなっとんじゃいといったところですね。実は「仏教伝来」というテーマは、分かっているようで意外に分かっていないテーマなのです。

⑤「流求国は海島の中にあり、福建省建安郡の東に当たり、水行五日で着く。土地には山の洞穴が多い。王の姓は歓斯(かんし)、氏名は渇刺兜(かっしと)だが、その由来は分からず、国は代々続いている。土人は王を呼んで可老羊(かろうよう)、妻を多抜荼(たばと)と言う。居所を波羅檀洞(はらだんどう)と言い、塹柵を三重にし、流水を用い、棘(いばら)の樹を藩(へい)としている。・・・
 風俗に文字はなく、月の満ち欠けを望み見て時節を紀(しる)し、草の枯れたり、青くなるのを見て年歳とする。人は深目、長鼻ですこぶる西方の胡人に似ている。・・・男子は髭鬢(しびん、ひげ)を抜き、身体で毛のある所は全て除去する。婦人は墨で手に入墨をし、虫や蛇の文様を入れる。・・・王に酒を上(たてまつ)る者もまた王の名を呼び、銜杯(がんぱい、口に含む)して共に飲むというのも全く突厥(とっけつ、中央アジアのトルコ系遊牧民族)に似ている。歌い出し、足踏みして、1人が歌えば皆が和し、音はきわめて哀怨(あいえん)に響く(琉球音階のことで、インドネシアのガムラン音楽と琉球地方のみに伝わる独特の5音階とされます)。・・・
 大業三年(607年)、煬帝(ようだい、隋の第二代皇帝)は羽騎尉(うきい)の朱寛(しゅかん)に海に浮かんで異俗を訪ねさせたが、海師(航海技術に熟練した人)の何蛮(かばん)がこのことを告げたので、何蛮と共に行かせ、流求国に着いた。言葉が通じなかったので、一人を掠(とら)えて帰った。
 明年(608年)、煬帝は再び朱寛に流求国を慰撫させようとしたが、流求国は従わなかった。朱寛はその布や甲(よろい)を取って帰った。時に俀国(たいこく)使が来朝していて、これを見て言った。「これは夷邪久(いやく)国(屋久島)人の使っているものだ」と。
 煬帝は武賁(ぶふん)郎将陳稜(ちんりょう)と朝請大夫張鎮州(ちょうちんしゅう)を遣わし、兵を率いて義安(広東省潮州)より海に浮かんで流求を求めさせた。高華嶼(こうかしょ、台湾)に至り、また東行して二日、くへき嶼(久米島)に至り、さらに一日で流求に着いた。初め、陳稜は南方諸国人を率いていて、その中の崑崙(こんろん)人が流求の言語をよく解したので、遣わして流求を慰諭したが従わず、拒み逆らった。陳稜は攻撃し、その都に進み、しばしば戦い、ことごとく破ってその宮室を焼き尽くし、男女数千人を虜(とりこ)にし、戦利品として持ち帰った。これより往来は絶えた。」(『隋書』八十一巻 琉球国伝)

⑥「俀国(たいこく)は百済、新羅の東南、水陸三千里の所にあり、大海の中で山の多い島に起居している。…
 隋代に入って、開皇二十年(600年)、俀王の姓は阿毎(あま、天)、字(あざな)は多利思比孤(たりしほこ)、号を阿輩鷄弥(あはきみ)という者が使者を遣わし、朝廷に詣(いた)った。…王の妻は鷄弥(きみ)と称し、後宮には侍女が六、七百人いる。太子を名づけて利歌弥多弗利(りかみたふつり)と言う。…
 内官に十二等があり、一を大徳、次を小徳、次を大仁、小仁、大義、小義、大礼、小礼、大智、小智、大信、小信と言う。それぞれに定数はない。…軍隊はあるが、征戦(出征、攻戦)はしない。…この国のしきたりでは、殺人、強盗、姦通は皆死罪となり、盗人には盗んだ物を計って贖わせ、財のない場合は身体を没収して奴婢にする。…楽器には五絃、琴、笛がある。…昔は文字がなく、ただ木を刻み、縄を結んでしるしとした。仏法を敬うようになり、百済で仏教経典を求めて初めて漢字を知った。…性格は素直で雅風がある。女が多く、男が少ない。婚姻は同姓は不婚とし、男女が好き合えば結婚する。…婦人は貞淑で嫉妬しない。…
 阿蘇山がある。その石が突如噴火によって天に高く上がろうとする時、習わしとしては異変とし、祈禱の祭りを行なう。…新羅も百済も俀を大国とし、珍物が多い国として共に敬仰し、常に使者を往来させている。
大業三年(607年)、その王多利思比孤は使者を遣わし、朝貢してきた。使者は言った。
「海西の菩薩天子が重ねて仏法を興隆されていると聞いたので、使者を送り、朝拝させ、合わせて沙門(しゃもん、僧侶)数十人を来させ、仏法を学ばせたい」と。
 その国書は記していた。
「日出づる処の天子、書を日没する処の天子に致す。恙(つつが)なきや、云々」と。
 煬帝はこれを見て悦ばず、鴻臚卿(こうろけい、夷蛮外交の担当長官)に、「夷蛮の国書は無礼だ。二度と奏聞させるな」と命じた。」(『隋書』八十一巻 俀国伝)

 あまりにも有名な「日出づる処の天子」の国書を隋の煬帝に送った「遣隋使」の記事ですね。これは「俀国伝」に出てくるもので、俀王は多利思比孤で男性ですから、推古天皇ではありません。また、「王」ですから、天皇の甥にして摂政であった聖徳太子とも違います。さらに『日本書紀』推古紀に「遣隋使」派遣記事は出てきません。使者を送った相手の国はいずれも「唐」となっているのです。是非、自分でも確認してみましょう。また、『日本書紀』に出ている「冠位十二階」は「大徳・小徳・大仁・小仁・大礼・小礼・大信・小信・大義・小義・大智・小智」となっていて、一見似ているようですが、こちらは陰陽五行の理論で言う「相生(そうじょう)の原理」(仁=木、礼=火、信=土、義=金、智=水で、「木生火」「火生土」「土生金」「金生水」「水生木」と位置づけられます)から成っているのに対し、俀国の「内官の十二等」は「相剋(そうこく)の原理」(「金剋木」「火剋金」「水剋火」「土剋水」「木剋土」と位置づけられます)から成っていて、全く別物です。また、俀国の五絃琴(玄界灘の沖ノ島でも出土しています)に対して、正倉院に収められているのは六絃琴です。
 元々、中国南朝の冊封体制の中で自らを位置づけてきた「東夷」の倭国は、北朝出身の隋が天下統一して「天子」を名乗った時、同じ夷蛮である「北狄」の王が「天子」を名乗るなら、「東夷」の王である自分が「天子」を名乗って何が悪い、という自負心があったものと思われます。

参考文献:『中国正史の古代日本記録』(いき一郎編訳、葦書房)、『三国史記倭人伝 他六篇 朝鮮正史日本伝1』(佐伯有清編訳、岩波文庫)、『失われた九州王朝』(古田武彦、朝日文庫)、『邪馬一国への道標』(古田武彦、角川文庫)
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