奈良時代(8世紀)の日本と世界の交流①

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学び
①「倭国は古の倭奴国(志賀島の金印を授けられた委奴国)である。京師(長安)を去ること一万四千里、新羅東南大海の中にある。山の多い島に生活し、領域は歩いて東西五ヵ月、南北三ヵ月行という。歴代、中国と通交してきた。…四面に小島五十余国があり、全て倭国に従属している。王の姓は阿毎(あま)氏で、一大率を置いて諸国を検察したので、皆怖れ従ってきた。官位を設けて十二等がある。…この地には女が多く、男が少ない。文字は十分に使われ、風俗は仏教を信じている。…二十二年(六四八年)になって、また新羅に附託して上表文を奉り、唐と通交するようになった。」(『旧唐書』百九十九巻上「倭国伝」)

②「日本国は倭国の別種である。その国が日の昇る所にあるので日本と名づけた。あるいは、倭国は自らその名の美しくないことを嫌い、日本と改めたという。あるいは、日本はもと小国で、倭国の地を併せたという。…
 長安三年(703年)、その国の大臣朝臣(あそん)真人(まひと、粟田真人のこと)が来て、貢物を献上した。朝臣麻痺とは中国の戸部尚書(民部省長官)に当たり、…好んで経書や史書を読み、文をつづることを理解し、容姿は温雅だった。則天武后は真人を麟徳殿(りんとくでん)でもてなし、司膳卿(しぜんきょう、膳を司る官)を授け、本国に帰した。
 開元(713~741年)の初め、また遣使来朝した。…使者の一人、朝臣仲満(なかまろ、阿倍仲麻呂)は中国の風を慕って滞在し、帰国しなかった。姓名を改めて朝衡(ちょうこう)とし、左補闕(さほけつ)、儀王友(ぎおうゆう)などを歴任した。朝衡は長安に五十年も留まり、故国に帰らせようとしたが、留まって帰らなかった。」(『旧唐書』百九十九巻上「日本国伝」)

 「倭国」と「日本国」を初めて明確に書き分けて区別したのが『旧唐書(くとうじょ)』です。朝鮮半島の正史である『三国史記』にも「(文武王十年〔670年〕、十二月)倭国、更(あらた)めて日本と号す。自ら言う。日出づる所に近し。以(ゆえ)に名を為すと」(新羅本紀)という「倭国更号」記事が出ています。伝統的に中国と通交してきた倭国は九州を拠点とし、いわゆる大和朝廷が日本国で、後者が前者を併合して覇権が移ったのは、「白村江(はくすきのえ)の戦」(663年、唐・新羅連合VS百済・倭国)の戦後処理によるということです。戦前、「日本は1度も外敵に占領されたことはない、いざとなったら元寇の時のように神風が吹く」といった「神風信仰」「神州不滅の思想」があり、その結果、敗戦後、米軍によって初めて軍事占領されたと思っていますが、実ははるか昔に1度だけ本格的な軍事占領を受けています。それが「白村江の戦」後の唐軍による九州=倭国(筑紫)に対する軍事占領でした。これは百済鎮将劉仁願(りゅうじんがん)による使節郭務悰(かくむそう)の筑紫派遣(2千人以上の軍団が送り込まれています)によるもので、『日本書紀』天智紀に出て来ます。

③「崔載華の「日本の聘使に贈る」に同ず
憐れむ 君の異域より周に朝すること遠きを
積水 天に連なって 何(いづ)れの処(ところ)にか通ずる
遙かに指(さ)す 来たること初日の外従(よ)りすと
始めて知る 更に扶桑の東有ることを」(劉長卿)
(私は深い感動を覚える。あなたが別世界のように遠い所から、わが国に朝貢してきたことに。
海の水が天にまで連なっているが、あの水はどこの陸地に通じているのやら。
あなたははるかに指し示した。私はあのさしのぼる朝日の外側から来たのです、と。
今初めて私は知った。扶桑よりさらに東の地があったということを。)

④「秘書晁監(ちょうかん)の日本国に還(かえ)るを送る
積水 極(きわ)む可(べ)からず
安(いずく)んぞ滄海(そうかい)の東を知らんや
九州 何(いず)れの処(ところ)か遠き
万里 空(くう)に乗ずるが若(ごと)し
国に向(むか)っては惟(た)だ日を看(み)
帰帆(きはん)は但(た)だ風に信(まか)すのみ
鰲身(ごうしん) 天に映じて黒く
魚眼(ぎょがん) 波を射て紅(くれない)なり
郷樹(きょうじゅ)は扶桑の外
主人は孤島の中(うち)
別離 方(まさ)に域を異(こと)にせば」(王維)
(海は果てしもなく、広々とした広がり、
その青海原の東のことなど、知るべくもない。
中国の外にある九つの世界のうち、どこが一番遠いかと言えば、それは他ならぬ君の故国。
そこまでの万里の船路は、虚空を泳いで行くようなものであろう。
日出づる国へ帰られることゆえ、ただ太陽の出る方角ばかりを見つめ、
帰り行く船の帆は、風の吹くに任せるだけ。
その途中、大きな海亀の胴体が空を背景に黒々とその姿を映すことであろう。
また、大魚の目玉が波を射て、紅色に輝くことであろう。
君の故郷の木々は扶桑のはるか彼方に生え、
あるじなる君は孤島の中に住む身となろう。
かくて、今ここで君とお別れして、全く別世界の人となれば、
どのようにして便りを通じましょうか。)

⑤「晁卿衡(ちょうけいこう)を哭(こく)す
日本の晁卿(ちょうけい) 帝都を辞し
征帆(せいはん)一片(いっぺん) 蓬壺(ほうこ)を遶(めぐ)る
明月(めいげつ)帰らず 碧海(へきかい)に沈み
白雲(はくうん)愁色(しゅうしょく) 蒼梧(そうご)に満つ」(李白)
(わが友、日本の晁衡どのは、都長安に別れを告げ、
一艘の帆かけ船に乗って、遠く東方の海上にある蓬莱の島を巡り去った。
清らかな月のような晁衡どのは、深い海に沈んで帰らぬ人となった。
白い雲が憂いを帯びて、蒼梧の山に広がっている。)

 これらはいずれも日本の遣唐使として中国に渡り、50年以上も唐王朝に仕えて秘書監(宮中の図書を司る秘書省の長官)にまで昇りつめた阿倍仲麻呂(697~770年。中国名は朝衡、晁衡〔ちょうこう〕)との出会いと別れ、その死を伝え聞いた嘆き(実際は誤伝)をうたったものです。唐代第一級の詩人達がかくも詩を寄せるということは大変なことですね。まぎれもなく仲麻呂は当時の日本を代表するエースであり、玄宗皇帝もなかなか手放すことができなかった(仲麻呂が入唐後35年経ち、56歳になった時、ようやく帰国許可を出しました)一級の人材だったということでしょう。彼の詠んだ「天の原ふりさけ見れば春日なる三笠の山に出でし月かも」という和歌は有名で、百人一首にも入っているほどですが、それを漢詩に訳したものが西安の興慶公園に記念碑となって刻まれています。
「望郷詩
首(こうべ)を翹(あ)げて東天を望み
神(こころ)は馳(は)す 奈良の辺(あたり)
三笠 山頂の上
想うに又(ま)た皎月(こうげつ)円(まどか)ならん」(朝衡)
 また、「扶桑」は中国で伝統的に認識されてきた所「日出づる処」(九州・筑紫・倭国)で、「扶桑より東」は新たに中国で認識されてきた所(近畿・大和・日本国)と見てよいでしょう。

参考文献:『中国正史の古代日本記録』(いき一郎編訳、葦書房)、『三国史記倭人伝 他六篇 朝鮮正史日本伝1』(佐伯有清編訳、岩波文庫)、『シンポジウム 邪馬壹国から九州王朝へ』(古田武彦編、新泉社)、『NHK漢詩紀行』(石川忠久監修、NHK取材グループ編)
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