奈良時代(8世紀)の日本と世界の交流②

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⑥「釈道昭(どうしょう)は俗姓船(ふな)氏、河内国丹北郡の人である。元興寺(がんごうじ)に住み、戒行の誉れがあった。白雉(はくち)四年(653年)五月勅命を受け、遣唐使小山長丹(おやまのながに)に従って海を渡った。時に志を同じくする僧侶は道厳(どうごん)他十三名、長安に至り、三蔵玄奘(げんじょう)にまみえた。この年は唐の高宗(第3代皇帝李治)の永徽(えいき)四年(653年)に当たる。三蔵法師が門弟達に言った。
「この道昭は衆人を済度(さいど)すべき器量を備えている。諸君は外域(日本)の僧侶だからといって、彼を侮ってはいかん。」
 三蔵法師は熱心に道昭を教導し、さらに彼に告げて言った。
「わしが印度に旅した時、途中で食物が尽きてしまったことがあった。どこにも人家は見当たらず、今にも死にそうになった時、ふと一人の沙門(僧侶)が立ち現われ、梨をわしにくれた。わしはこれを喰らい、気力回復して、ようやく天竺(てんじく)にたどり着くことができたのだ。あの時の沙門こそ、君の前世の姿なのです。だから、わしは君を大切に思っているのだ。」
 ある日、三蔵法師が語って言った。
「経論は巻数多く、たとえ読了したとしても、労のみ多くして、功は少ない。わしは禅宗を体得したが、その旨意(おもむき)は微妙である。君はこの法理を会得(えとく)し、東の方、日本に伝えなさい。」
道昭は師の言に従い、欣然(きんぜん)としてこれを習い修め、すみやかに会得した。」(『元亨釈書』一巻「元興寺道昭」)

⑦「日本国の天平五年(733年)、沙門栄叡(ようえい)や普照(ふしょう)らは遣唐大使丹墀真人広成(たじひのまひとひろなり)に付き従って唐へ行き、留学した。この年は唐では開元二十一年に当たる。・・・栄叡・普照は唐の国に留学して十年も経ったので、遣唐使が来るのを待たずに早く帰国したいと思った。・・・その時、(鑑真)大和上は揚州の大明寺に滞在して、多くの僧に戒律を講義していた。栄叡と普照は大明寺へ行って大和上の足下に頂礼し、詳しく本意を述べて、
「仏法は東へ東へと流れて日本国にまで伝わりました。しかし、日本には仏法はあっても、それを伝える人がおりません。本国には昔、聖徳太子という方がおられて、『二百年の後、この聖教は日本に興隆するであろう』とおっしゃいました。今がこの運に当たる時です。和上が東方に来られて教化なさるよう、お願いいたします」
と申し上げた。大和上は答えて言った。
「昔、南岳におられた慧思(えし)禅師(天台大師の師)が亡くなられた後、日本の王子として生まれ、仏法を興隆し、衆生を済度されたと聞いております。また、日本国の長屋王は仏法を崇敬して、千領の袈裟を作り、この国の大徳や多くの僧に施されました。その袈裟のふちに四つの句が刺繍してありました。『山川は地域を異にするも、風や月は天を同じくす。多くの仏子に寄す、共に縁(えにし)を結び来たれ』と。このようなことから考えると、本当に仏法が興隆する縁のある国である。今、自分と法を同じくしている人達の中で、誰かこの遠くからの要請に応じて日本国に向かい、法を伝えようとする者がいるか。」
 その時、人々は黙っていて、一人として答える者はいなかった。しばらくしてから祥彦(しょうげん)という僧が進み出て、
「あの国ははなはだ遠いのです。生きて行き着くのは困難です。大海は無限に広がり、百人のうち一人として行き着く者がいません。同じ生まれるにしても、人間に生まれるのは難しい。まして、同じ人間でも中国に生まれるのはなお難しいのです。進んで修行してもまだ不十分で、悟りを得ることはできておりません。だから、僧達は黙っているのです。」
と言った。すると、和上が言った。
「このことは仏法のためのことなのである。どうして身命が惜しいことがあろうか。皆が行かないならば、自分が行くだけのことだ。」
そこで祥彦が、「もし和上がいらっしゃるのならば、祥彦もまた従って参りましょう」と言った。ここに・・・二十一名の僧がいて、心を同じくして和上に従って行くことを願った。」(『唐大和上東征伝』)

 奈良時代以降、日本文化は圧倒的な盛唐文化の影響下にありました。仏教もその中の1つです。最先端の知識は常に大陸・半島からやって来るものでした。それが、やがて平安時代に入って遣唐使が廃止され、文化流入がストップすると、今度はこれまでの蓄積を発酵させ、かなを始めとする独自の文化を花開かせるに至りました。仏教もやがて日本教の一派になっていったとされます。

参考文献:『原本現代訳<62> 元亨釈書』(虎関師錬原著、今浜通隆訳、教育社)、『日本の名著2 聖徳太子』(中村元責任編集、中央公論社)
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