平安時代(8~12世紀)の日本と世界の交流①

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学び
①「日本の使の還るを送る
・・・絶国 将(まさ)に外無からんとするに
扶桑 更に東有り・・・」(徐凝:元和年中〔806~820年〕には活躍していたようです)
(果ての国で、そこより東はもうないかと思っていたが、
扶桑にはまだ東の地があって、あなたはそこへ帰るのだ。)

②「日本国の僧敬龍の帰るを送る
扶桑は已(すで)に渺茫(べうぼう)の中に在るに
家は扶桑の東の更に東に在り
此(ここ)より去って師と誰か共に到らん
一船の明月 一帆の風」(韋荘:836~910年)
(扶桑はすでに果てしない水の、おぼろな遠方にあるのに、
あなたが帰る家はその扶桑の東のさらに東にある。・・・)

 これらを見ると、日本列島に対して、「扶桑」(九州)→「扶桑の東」(大和・日本国)→「扶桑の東のさらに東」(東国)といった存在認識が中国側に出てきたようです。

③「王尊師に贈る
先生自ら説く 瀛洲(えいしゅう)の路(みち)
多くは清松白石の間に在り
海岸 夜中 常に日を見る
仙宮深き処(ところ) 卻(かへ)って山無し・・・」(姚合:775~855年)
(中国の東方の海の沖はるかに、中国よりも六時間早く太陽が昇り、また沈む場所があるとして、中国で真夜中の時にそこでは日影が見えると詠んでいます。)

④「僧の日本に帰るを送る
四極 二儀を共にすと云ふと雖(いへど)も
晦明(くわいめい) 前後 即ち知ること難(かた)し
西方は尚(な)ほ星辰の下(もと)に在るに
東域は已(すで)に寅卯の時を過ぐ
大海の浪中に国界を分かち
扶桑の樹底は是(こ)れ天涯(がい)
満帆 若(も)し帰風の便有りとも
岸に到るは猶(な)ほ須(すべか)らく歳を隔てて期すべし」(方干:809~873?年)
(西方の中国ではまだ星空、東方のそこでは夜明けを過ぎているとし、六時間の時差が窺えます。)

⑤「僧の日本国に帰るを送る
滄溟(そうめい) 故国を分かち 渺渺(べうべう)として杯を泛(う)かべて帰る
天尽きて終(つひ)に到るを期せん 人生 此の別れ 稀(まれ)なり
風無きも亦(ま)た駭浪(がいらう) 未だ午ならざるに已(すで)に斜暉(しゃき)
帛(きぬ)を繋(つな)ぐに何ぞ雁を須(もち)ひん 金烏(う) 日日に飛べり」(呉融:850~903?年)
(中国時間の午〔ひる〕前にそこではもう西日で、6時間の時差が示されています。)

 これら姚合・方干・呉融らはいずれも揚子江下流にゆかりのある人で、恐らく現地の船乗り達から、「東海の沖に中国より6時間ばかり早く夜が明けたり、日が暮れたりする所がある」という情報を得ていたものと思われます。

⑥「(哀荘王三年〔802年〕)冬十二月、均貞(昭聖王の従弟)に大阿飡(だいあさん)を授け、仮の王子と為し、以て倭国に人質にしようとした。均貞はこれを辞退した。・・・
(哀荘王四年〔803年〕)秋七月、日本国と聘(へい)を交わし、好(よしみ)を結んだ。・・・
(哀荘王五年〔804年〕)夏五月、日本国、使いを遣わして黄金三百両を進物とした。」(『三国史記』新羅本紀)

⑦「天聖四年(北宋第四代仁宗、1026年)十二月、明州(浙江省、今の寧波)が言うには、「日本国の太宰府が人を遣わして方物を貢した。しかも本国の表文を持っていない」と。詔してこれを却(しりぞ)けた。その後もまた、まだ朝貢を通じることができず、南方の商人の中に、時にその物貨を伝えて中国に至る者があった。」(『宋史』日本伝)

 これを見ると、平安時代に入ってもなお、「倭国」と「日本国」が区別されており、九州筑紫の太宰府は一種特別な存在であったということですね。

参考文献:『シンポジウム 邪馬壹国から九州王朝へ』(古田武彦編、新泉社)、『東アジア民族史2 正史東夷伝』(井上秀雄他訳注、平凡社)、『邪馬一国への道標』(古田武彦、角川文庫)、『失われた九州王朝』(古田武彦、朝日文庫)、『三国史記倭人伝 他六篇 朝鮮正史日本伝1』(佐伯有清編訳、岩波文庫)、『中国正史日本伝(2) 旧唐書倭国日本伝・宋史日本伝・元史日本伝』(石原道博編訳、岩波文庫)
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