日本史 筆者が好きな恋の話

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難い話は避けて、興味を惹きそうな話を書こうと考えたら、恋の話を思いつきました。

私が聞いて気に入った話をここで記しましょう。

歴史を好きになるきっかけの1つになれば。

時は西暦1600年 関ヶ原の戦いが起こった年です。

場所は、出羽国山形。

山形の大名 最上義光の重臣で鮭延秀綱という武将がいました。
この秀綱の許に、鳥海勘兵衛という若い家臣がいました。

この勘兵衛、ある日、義光の正室・北の方に仕える侍女と恋仲になり、密かに文のやりとりをするようになりました。

ところがある日、このことが発覚します。
義光は激怒し、二人に死罪を言い渡そうとしました。

侍女というのは、殿の奥方に仕える女性ですが、場合によっては、殿の養女となって他国との婚姻をする役割や殿が気に入れば側室になることもあり得る存在でした。

その女性と仲良くなるということは、「親分の女に手を出した」ということにもなるわけです。

これをとりなしたのが、官兵衛が仕える主君の秀綱でした。
若い勘兵衛が過去の戦で武功を立て、将来有望な武士であることを義光に説明します。

結果、義光を二人を許すだけでなく、二人が結婚することを認めました。

勘兵衛と侍女の幸せな時が続くかと思われました。

しかし、その半年後、関ヶ原の戦いが起こります。

当初、徳川家康は会津の上杉景勝を征伐すると言って、関東に向かいましたが、上方で石田三成が挙兵すると軍を反転させて西へ向かいました。

家康を待ち構えていた景勝は、家康との戦いのために用意した兵力を東北攻略に使います。その最初の相手が、徳川家康と親しかった最上義光になりました。

上杉軍3万VS最上軍8千

上杉軍の前に、山形の諸城は続々と陥落。ついに、山形城と支城である長谷堂城、上山城を残すだけになってしまいました。

この時、山形城最後の防衛線 長谷堂城を守っていたのが、秀綱でした。
勘兵衛も、秀綱とともに長谷堂城に立て籠もっていました。

攻める上杉軍は、直江兼続率いる2万 守る長谷堂城はわずか3千

しかし、長谷堂城は懸命に防戦し、時を稼ぎます。

ある日の戦いで、秀綱が奮戦しますが、周囲を上杉軍に囲まれもはやこれまでかと思われた時、一騎の騎馬武者が突破口を作り、秀綱の逃げ道を作ります。
自分の命を引き換えにして。
その騎馬武者が、勘兵衛でした。

この長谷堂城の戦いの最中、美濃の関ヶ原で徳川家康勝利の知らせが届き、上杉軍は撤退し、最上家は生き残りました。

戦後、勘兵衛の遺書が見つかります。
勘兵衛は、自分を助けるために奔走した秀綱と許してくれたばかりでなく侍女との結婚まで認めてくれた義光への感謝の念と妻と過ごした半年間の幸せな日々の喜びが記されていました。
その上で、「このお礼には命をもって報いたい」と書かれていました。

勘兵衛の妻は、勘兵衛戦死の報を聞くと、静かに頷き、恙なく葬儀を取り仕切りました。
そして、葬儀一切が終わった後、自害して勘兵衛の後を追いました。

秀綱は、この遺書と妻の死を義光に伝えると、義光は号泣し、二人を手厚く葬ったということです。

この話は、軍記物である「奥羽永慶軍記」に記されています。
勇壮な話を乗せる軍記物に作者が乗せるほど、心を打った物語です。

こんな話もあるんです。

感想は書きませんが、何かの時間つぶしに読んでいただければ幸いです。

画像は、山形城跡にある最上義光の像です。

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