「死」は誰かと共有できない
今日のタイトルにはふたつの意味があります。一つは誰かの死に対して、その表現方法や感じ方はそれぞれであるということです。葬儀で泣き叫んでいるから悲しいのだろう、涙一つ流さないから悲しくないということことではないですし、誰かの死後いち早く駆け付けるから親身になっているわけでもないのです。「死」を受け止める方法というのは人それぞれです。100人いれば100通りあるということを知っておいていただきたい。特に「こうするべき」という考えで、誰かの態度や対応をジャッジしたくなっている方は、そういう考えもあるのだということを知っておいていただきたいのです。元々、葬儀というのは亡くなった方の為ではなく、残されたの為です。亡くなった本人はすでにあちらの世界にいるわけですから、葬式がどのような形であろうともとりわけ文句はありません。別れ方は人それぞれで、後から突然悲しくなる人もいますし、じわじわ悲しくなる人もいます。自分とは違う悲しみ方で受け入れている人もいるのだなという考えをお互いが持てるといいのではないでしょうか。そう言う意味で「死」は実は誰とも共有できないのです。私達は儀式と言う形の中で、共有しているふりをしているだけなのかもしれないのです。もう一つは、若い方に多い「誰かと一緒に死にたい」という衝動。しかし残念ながらせーので一緒に崖から飛び降りても、それはそれぞれの死であり、一緒にということは絶対にないということです。もしあなたが悩み、友人や誰かを巻き込もうとする考えが頭の中にあるのなら、それは決して「一緒に」ではないということを知ってください。人は一人で生まれてきて、一人で死んでいくのです。
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