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junction ~わたしの人生を変えたこと⑳~

~⑲からのつづき~2020年のはじめ、家庭では息子のこうきが高校卒業を間近に控えていました。不安な気持ちでいっぱいだった中学の卒業時と比べると大人になって頼もしく成長していました。高校入学当時からはじめたアルバイトや運動部での部長経験もこうきを成長させたのだと思います。卒業する開放感からか、やや浮足立った生活を送るようになり母としては気の休まらない日々を過ごしていました。娘のしおりは、高校に入学して部活動や電車と自転車を使っての通学に慣れるだけでも大変そうな時期もありました。二学期になると高校生活にも慣れてきて、兄もお世話になっているスーパーで一緒にアルバイトを始めていました。アルバイトにも慣れてきて3月に行われる部活動の発表会の練習が忙しくなってきた頃です。2020年の2月には、新型感染症のニュースが毎日のように報じられるようになっていました。世界中がパンデミックの恐怖を感じていたその頃。わたしも再びはっきりとしはじめた不思議な症状に恐怖を感じていました。前年の8月、関節リウマチの注射薬が半分になってから2カ月はほぼ体調の変化を感じていませんでした。11月には視界のゆがみが強くなったことに気が付きます。手指の関節が赤味をもって腫れるようになり、目眩や筋肉の痛みも感じるようになりました。12月には倦怠感や疲労感がひどく座って過ごすこともツラくなっていました。2月に入ると食欲もなく一日中横になって過ごすようになりました。火にかけた覚えのない薬缶がシュンシュンと沸騰していたり…。記憶がないのにお米が研いである…。いくら冷蔵庫を開いても献立がたてられません。あれだけ得意だったお料理が
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junction ~わたしの人生を変えたこと⑮~

~⑭からのつづき~原因不明の体調不良がおきてから、たくさん理不尽なことがらを耐えてきました。家族のため、迷惑をかけている職場のため…。一日も早く元気になってもとの生活に戻りたい。そのことだけを思って過ごしてきました。ですが、ついに父に対して感情を爆発させてしまったのです。もう若くはない父を傷付けた申し訳なさ、そしてバッグの中には納得いかない『あの薬』。何もかもすべてを投げ出してしまいたい心境で帰宅しました。リウマチを見逃していた大学病院に対して、強い怒りをもっている夫にどう向き合っていこうか…。そこもわたしの頭を悩ませていました。「そんな病院には行くな!ほかにもたくさん病院があるんだから!俺がまともな病院を探すから!」もっともな夫の説得の言葉でした。ですが、わたしにはどうしても譲れない考えがあって通い続けたかったのです。「弱めの薬だし半分の量しか出してもらってないけど、リウマチの薬に違いないからとりあえず飲んでみる。それで、効きが良くないと言ってみるから。」と夫には納得をしてもらいました。心身ともにギリギリの状態で翌日の朝からリウマチの治療薬がスタートしました。期待値ゼロのあの薬。痛みと微熱ひどい倦怠感で、生きるのも精一杯でした。いま思えば自分には合っていなかった抗うつ薬の影響で衝動性が高まっていたわたし。今後もあの敵キャラ林先生にかかわるのも、顔を見るのも耐えられそうにありませんでした。薬を飲んでみると夫を説得したのに、数日後にはもう一度膠原病内科の外来を受診したのです。予約外で受診したわたしは当日どの医師に診てもらえるか分かりませんでした。とてもラッキーなことに川本先生の外
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junction ~わたしの人生を変えたこと㉒~

~㉑からのつづき~4年2か月ものあいだ原因がわからなかった不思議な症状がついに大きな進展をむかえました。偶然に視聴した動画から情報を得て、脳神経内科の先生の診察を受けるのです。その頃、なぜか両手両足同時におこった腱鞘炎。両手に装具、足元にはソールの厚いスニーカーを履いていました。それでも、痛みやシビレがひどく夫の手助けはありがたかったものです。通いなれた大学病院の慌ただしい印象とちがい、この神経内科の病院は時間が静かに流れているようでした。3時間くらい待ったでしょうか。ようやく通された診察室では、受診のきっかけとなったあの動画に出演されていたお医者さんが迎えてくれました。前日に支度した各検査結果、経過表、薬手帳を見せながらあの日から今日までのことをお伝えしました。既往歴や家族歴、誤診のことや精神科のお薬が合わなかったこと、そして自己判断で断薬したこともすべて…。小さくうなづき、電子カルテに打ちこみながら聞いてくださいました。先生「言葉がでないことがあるでしょ?献立も決められない…?自己注射を減らしてから悪くなったでしょ?」いくつかの質問をしながら、大学病院で撮った頭部MRIや脳血流検査の読影レポートに目を通していました。しばらくして、こちらに向き直ると先生「症状や経過をお聞きして、自己免疫疾患の既往もあるので、ほぼこの病気に間違いないと思います。」やっと分かったのか、そうか…4年間長かったな。”やっぱり”という気持ちと『原因不明のループ』から突然ぬけだした驚き。ひどくボーっとする頭で先生からの説明を聞いていました。先生「自己注射をもとの量にもどしつつ、神経内科からもお薬を出して
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junction ~わたしの人生を変えたこと㉓~

~㉒からのつづき~2020年6月4年以上、正体のわからなかった不思議な症状に『病名』がつきました。病名の有無と健康・不健康はあまり関係がないように思えます。病名がわかれば治療につながり、元気なころの自分にもどれると信じていました。検査入院した大学病院では「あなたは、病名を欲しがっているようにしか見えません。」と言われたこともありました。正しくない病名がついたせいで服用した薬のツラい副作用も経験しました。そして、この頃には両親と距離を置くようになっていたのです。父は当時現役で仕事をしていました。徹底した権威主義者の両親は、医師の言葉は間違いがないものと信じていたのです。リウマチなど膠原病の症状はとても良くなっているのに不調を訴えつづけるわたし。自宅でようやく家事をしている状態でした。行く先々でくり返される医師からの『異常なし』いつしか両親の目には、わたしの姿が怠けているように映ったようです。忙しく充実した日々を送っている姉との比較。「そうやって家にいて、働いている人に申し訳ないと思わないの?」そう聞いたのは母でした。そんなこと、わかってる…。子どもたちの運動会にも行けず、受験準備も満足にしてやれなかった。あの日から一度も旅行にも連れて行っていない。夫の休日もほとんどを通院の付き添いにつかってしまうこと。復職できなかった職場にも仲間にも申し訳なく、自分を責めてきました。だからそんなこと…とっくに分かっているから。些細なやり取りすらツラくなり、両親からの電話に出ることができなくなりました。怠け癖が付いてしまった娘を励まして更生させようとする、純粋な親心だったのかもしれません。ですがこ
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junction ~わたしの人生を変えたこと⑲~

~⑱からのつづき~長男こうきの高校入試をひかえて2017年は年明けから慌ただしく過ぎていきました。公立高校の入試日程は私立に比べるとおそく、合格発表・入学手続きを済ませると卒業式は間近にせまっていました。ようやく進路が決まって、落ち着いてきたこうき。息子の卒業式・入学式にはわたしも出かけることができました。わたしの体調は自己注射でかなり落ち着き、休みながらの家事や短時間の外出が可能になりました。夫の付き添いを頼りにしていた通院も自分で電車を使って行けるようになっていました。目に見えるように回復した関節と外分泌腺(涙・唾液)の炎症、不眠。一方で、やや回復傾向にあるひどい倦怠感や記憶力などの不思議な症状たち。それらは依然としてはっきりと症状として残っていたのです。膠原病内科の川本先生にもお聞きしてみました。ですが採血検査や画像診断も異常なく、不思議な症状の原因は分からないと。いつしか自分でもそれらを考えないようになっていたのです。家庭では進学・進級を迎えた子どもたちが日々成長していきます。母として成長を喜ぶかたわらで新たな心配ごとが次々と起こるのです。思春期の子育ての難しさを感じているうちに、時間は瞬く間に過ぎていきました。2カ月おきの通院は同じ薬を処方されるだけになって慢性期といえる状態でした。関節リウマチなど膠原病の症状はとてもよくなり、全身が痛かった身体は一か所も痛まなくなっていました。ですが、元気になったわけではないのです…。少し動くと疲れて立っていられなくなり、日に何度も横になって休みながら過ごしていました。2016年の春をさかいに、別人のよう変わってしまった身体。家族に
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junction ~わたしの人生を変えたこと⑭~

~⑬からのつづき~林先生が処方した内服薬を前に、わたしは言葉を失いました。カウンターの向こうでは、お薬の説明書きをもとに薬剤師さんが説明を続けています。わたしはつい数週間前まで病院でナースとして勤務していました。時には関節リウマチの患者さんの診察に同席することがあります。『関節リウマチ』と初めて診断された方にリウマチの治療について医師から説明がおこなわれていました。いく度となくそうした説明を聞いていたわたしは、エコー検査後に関節リウマチと聞いてから、自分が処方される薬について予想ができていたのです。関節リウマチの治療薬は、メトトレキサートが国際的な標準治療薬として使われています。米国においてはそれが第一選択薬として推奨されています。しかし、目の前に出された薬を見るとそれは、メトトレキサートではありません。林先生がわたしに処方した薬はリウマチの治療薬ではあるのですが、通常処方される半分の量しかありませんでした。つまり、成人1000mg/1日とされている薬が、わたしには500mg/1日で処方してあったのです。”なぜ、こうも林先生は痛めつけるようなことをするのだろうか…。”患者の立場で医師の処方に意見して、とおる道理はありませんから…。ただ黙って薬を受け取りました。今にも破裂しそうな心を抱えて病院を出ようとすると、バッグの中でスマホがマナーモードで着信を知らせていました。いそいで病院の建物を出てスマホを見ると、それは父からのものでした。20日も入院していて一度も会うことのなかった主治医の林先生は、外来でも信じられない態度であったこと。処方された薬は、種類も量も納得いかないものであるこ
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junction ~わたしの人生を変えたこと⑱~

~⑰からのつづき~誤診がきっかけで服用してしまった抗うつ薬。この薬をやめたことで、イラだちや衝動性がおさまってきました。本来の性格を取り戻したことで、自身の身に起きたことを冷静に考えられるようになってきたのです。生物学的製剤の注射で大きな改善が認められた関節の症状と目や口の乾きの外分泌腺の症状。なぜか改善した不眠・引きちぎられるような筋肉の痛み・記憶の異常・献立や洗濯機の操作に戸惑う・連絡網の使い方が分からないなどの症状。ゆっくりであっても改善があったものも含めると一時の寝たきり状態からは比べ物にならないほどに回復しました。一方で、ひどい倦怠感や疲労感・ボーっとする頭・ゆがんで見える視界や眩しさ・集中力や文章理解力の低下などの症状は残っています。これらは、抗うつ薬を服用しても少しも良くなることはなく、うつ病の症状ではなかったことがはっきりしました。短時間の外出ができるようになり、目前にせまった息子こうきの高校受験の準備に参加しました。入試に記載する内申点が決まり、最後の進路面談にはわたしも同席したのです。反抗期のうえ、伸びない成績にふてくされていた息子をなだめるように担任の先生が親身になってくださいました。アドバイスを受けて、学校説明会にギリギリの日程で間に合ったのです。インフルエンザやノロウイルス感染症が心配されるなかで慌ただしく日々が過ぎていきました。入試に必要な書類の作成や提出に追われる中で、受験予定の高校の帰り道にわたしは駅の階段を踏み外してしまったのです。隣にいたこうきが咄嗟に腕を持ってくれなければ、そのまま転げ落ちてしまうところでした。この出来事をきっかけにひさしぶ
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junction ~わたしの人生を変えたこと⑫~

~⑪からのつづき~クリニックからの紹介状を受け取ると、翌日には1カ月ぶりに膠原病内科の外来を受診しました。予約を取らずに受診する患者は、当日診察している外来担当医にふり分けられます。3時間以上待ってようやく通されたのは、初めてお会いする先生の診察室でした。紹介状に目を通した先生は、静かに診察をすすめていきます。肩、肘、手首、手指、膝、あご。左右の関節を同時に、かなり慎重に触診していました。”よかった…今度こそ聞いてくれそうな先生だ。”安心したわたしは今日まで伝えようのなかった症状をお話ししました。・37,5℃前後の熱が下がらないこと。・関節の腫れや痛みは広がっていること。・引きちぎられるような筋肉の痛みは移動性で部位が変わること。・目や口の乾きはさらに悪化していること。・強い倦怠感・疲労感で普通の生活がおくれないこと。・頭がボーっとしていて文章の理解ができないこと。・視界が歪んで見えること。・退院時にもらった止血剤を飲み切っても、血痰は止まらないこと。圧縮された気持ちが噴き出すように、次々と言葉になって出てきました。静かに聞いていた先生が、入院中の記録を見ながら聞きました。「関節のエコー検査はやっていなかったんでしょうか?」入院中に受けたエコー検査は、甲状腺のエコーだけでした。「では、今日は採血をして関節エコーの予約を取って帰ってください。」数日後の予約を取って帰宅しました。やっと進んだ…。ようやく一歩進めた。そして、検査当日。体温は38℃近くに上がっていました。梅雨の明けた7月の暑い日差しがさらに体を疲れさせ、やっとの思いで大学病院にたどり着きました。暗くした診察室でおこなわ
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junction ~わたしの人生を変えたこと⑧~

~⑦からのつづき~入院室のとなりの建物は、外来診療や検査室を備えていました。その外来まで徒歩で移動して精神科の診察を受けてきたのです。大学病院は広いとはいえ、強い倦怠感のある身体での移動は気が遠くなるほどの距離とも思えました。各診療科をつなぐ書類【ご高診依頼書】に目を通しながら、いくつかの質問をした精神科の医師は、「じゃあ、病棟の先生にお返事を書いておきますね。」5分にも満たないで診察は終了しました。数時間後に、安西先生が病室に入ってきました。「松本さん、精神科の先生からのお返事を読みました。いま、松本さんの身体に起きたことは、うつ病による妄想との診断でした。」「妄想…?うつ病ですか?あの、すみません、よくわからないのですが…。」「今夜から精神科のお薬が始まります。数日間は副作用の様子をみたいので、このまま入院していただいて、来週あたりにご家族にも説明をして、退院してもらいます。」「あの…関節や筋肉の痛みは…?目も口もすごく乾いてしまって…。血痰は?あの、ほかにも...」「ですから、主治医の林先生とも相談して、そう決まりましたから。いろんな症状は精神科の治療の経過を診て、また考えましょう。」その時に、はじめて気が付きました。主治医の林先生には一度もお会いしていない。林先生がどんな方なのか、顔すら知らない。足早に立ち去る安西先生の白い背中が見えなくなると、あらためて自分のベッドネームを確認しました。 【  松本 かよ 様  】 【主治医 林   担当医  安西 】わたしは林先生を知らないのに、林先生はわたしの何を知っているのだろうか。痛む指すら触らず、血痰の止まらない胸の聴診すら
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junction ~わたしの人生を変えたこと㉔~

~前回㉓からのつづき~膠原病内科の川本先生は2通の手紙を読み終えると電子カルテの入力に集中していました。4年以上も病気を見過ごしていたことの言い訳を考えているのでしょうか。それとも、他院での診断を持ち込んだわたしに立腹しているのでしょうか。川本先生の気持ちを想像しながら、じっと次の言葉を待っていたのです。息がつまるほどの緊張は、淡々とした川本先生の言葉でほぐれていきました。「とりあえず、脳神経内科の吉田先生の指示通りに注射の量を戻しますね。」結局、川本先生はこの病気については詳しくなく全面的に吉田先生の治療方針に従うかたちになりました。川本先生のお気持ちがわからないまま、不足分の注射薬を受け取って帰宅したわたしたち。混み始めた高速道路を自宅に向かいながら、病名の分からなかった4年間をふり返っていました。なん度も希望と絶望をくり返したこと、死後に解剖(献体)を望んでいたこと。まだ明るい夕方の街並みを見下ろしながら、二人は過去から未来の話へとふくらませていました。現在でも研究段階にあるこの病名には保険診療で使える治療薬は多くはないのです。この”生物学的製剤の注射”も新たに見つかった脳神経内科の病名では処方出来ません。あくまでも膠原病の治療として処方を受けるしかありませんでした。複雑な医療保険制度のなかでも有り難いことに治療を続けることができたことにホッとしました。そして、注射の量が元に戻ったたったこれだけのことで体調は目に見えて回復していきました。痛む関節は消えて、起きていられる時間がふえていきました。買い忘れや献立がたてられないなどの困りごとも減りました。両手両足の同時におきた腱
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junction ~わたしの人生を変えたこと⑪~

~⑩からのつづき~「かよ…。(港のある地名)に引っ越そう。ごめん、先生に言われて気付いた…。 かよの病気は俺のせいだから。治すためなら、なんでもするから。」突然の夫の言葉に動揺したことを覚えています。「何言ってるの!?仕事は? どうするつもり? 子どもたちだって…。こうきは受験生でしょ?しおりだってやっと中学校に慣れてきたのに!」「かよの体が一番大事だろっ!!」動揺したわたしの声に呼応するような大きな声。夫の言葉はまるで夕立の始まりを告げるカミナリのようにわたしの足元を揺らしました。「……あいつらは…大丈夫だよ…きっと、なんとかなるよ……」ぽつり、ぽつりと降り始めた雨のように夫は言葉をえらんで話してくれました。もしかしたら、泣いていたのかもしれません。わたしは出来るだけ静かにゆっくりと話しかけました。「あのね、聞いてくれる?あきらさん…わたしのこと信じてくれているよね?全部が妄想だとは思ってないよね?」夫が黙ってうなずくのを確認してから、わたしの考えを伝えたのです。・あの日をさかいにいろんなことが体に起きて戸惑っていること・妄想では説明のつかないことが確かに起きていて野中先生もそう言ってくれていること・5月下旬のようにどこにも主治医がいない状態は避けたいと思っていること・時間が経ったらほかの症状が出てきて診断につながるかもしれないということ・正体不明の病気以外にも、もしかしたら本当にうつ病にもなっている可能性もあること・処方される薬を飲むことでこの症状がどう変化するか自分でも確かめたいと思っていること・今起きていることは家族のせいではないこと・これ以上家族の重荷になりたくないと
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junction ~わたしの人生を変えたこと⑬~

~⑫からのつづき~女性医師に起こしてもらったあとで、エコー検査の結果を聞きました。・エコーでは、左右のすべての手指に明らかな炎症がみえた。・関節の滑膜に炎症が起っているので、関節リウマチに間違いない。・手指しか検査をしていないが、手首や足の関節痛もリウマチによるものと考えてよい。・関節リウマチだけではなくシェーグレン症候群も合併している。説明のあと、廊下で待つことになりました。しばらくすると、入院担当医だった安西先生が待合室のわたしのもとに来られました。大勢の患者さんたちがいる待合室の片隅で安西先生とわたしは一カ月ぶりにお話をしました。「松本さん…。入院時から関節痛をうったえていたあなたに、関節エコーのオーダーをし忘れました。膠原病内科医がリウマチを見逃しました。ごめんなさい。」今日までわたしを苦しめた安西先生からの謝罪でした。あの大柄なヤンキー先生がいてくれなかったら、安西先生はこの場面においても頭を下げることはなかったと思います。上品な言葉でわたしを拒絶し続けたプライドの高い安西先生。その先生との再会は、まさかの謝罪をきっかけにわたしの感情を軟化させました。伝えたいことがあり過ぎると、かえって言葉が出てこなくなるものです。できるだけ冷静に、先生に分かっていただけるように静かに話しかけました。「安西先生は、入院中に『あなたは、病名を欲しがっているようにしか見えません。』とおっしゃいましたが、わたしは病名が分かれば治療法があるかもしれないので、元気になりたい一心で病名が分かることを望んでいました。」目を見てじっと話を聞いてくださる安西先生を見て、わたしはホッとして話を続けました
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junction ~わたしの人生を変えたこと⑥~

~⑤からのつづき~いったい、いくつの検査をしたことでしょうか。連日の採血のほか、エコー検査、CT・MRIなどの画像検査は頭から腹部までくまなく調べました。あっという間に10日が経っていました。 入院した4人部屋のすぐまえが 電話室 なのがありがたく毎朝7時と夕食も済んだ19時半に自宅に電話をしていました。中学校の友人たちのこと、部活のこと、運動会の出場種目のこと、家の手伝いのこと、お父さんのようす。しーちゃんが話し終わると、こう君のお話し。こう君がおしゃべりしすぎると、しーちゃんが「代わってぇ!」とせがんでくる。(二人ともまだ幼いな、早くおうちに帰るからね。)しかし、止まらない血液混じりの痰…。出血源を調べるために耳鼻科受診、呼吸器外科受診なども並行しておこなっていました。鼻咽喉ファイバー・胃カメラも、やはり異常なし。そして気管支鏡検査をすることになりました。安西先生「溺れる感覚といいますか、苦しい検査ですが頑張ってください。」気管支鏡検査の必要性やリスク等の説明をおえて一枚の用紙を渡してきました。【気管支鏡検査の説明・同意書】わたし「わかりました。頑張ります。」そう言って同意書に住所と名前を記入しようとしました。あれ?住所…?番地…何番地だったかしら。ダメだ、思い出せない。その日を境に、どんどんと壊れていきました。これまで出来ていたことが出来ない。絶対に覚えていたことを思い出せない。視界が歪む、まぶしい、本が読めない。コインランドリーの利用届けに書く使用時間の計算が出来ない。眠りに入ることが出来ず、朝まで一睡も出来ない。自分が壊れていく不安・恐怖は今も上手に説明することができ
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junction  ~わたしの人生を変えたこと⑤~

~④からのつづき~「お母さんは、病院のベッドがあいたら入院させてもらえるように頼んできたから、お前たちも協力するんだぞ。」「良かったね!」「早く元気になってね、お母さん。」喜んでくれる家族のようすに、うれしさとこの子たちを置いていく不安が半分づつでした。いつ入院してもいいように、翌日から少しずつ荷造りをスタート。パジャマや下着、タオル、洗面用具などを並べてチェックリストを見ながら準備しました。クローゼットの上の段から大きなスポーツバッグをおろして陰干しをしようと手に取ると、革製のチャームが触れました。去年の小6の宿泊学習の時にしーちゃんが付けたクマさんのチャームです。(外さないでこのまま病院に付けて行こう。)入院準備が整い、ふくらんだスポーツバッグを玄関の片隅に置いてしばらくすると電話がかかってきました。「お部屋の準備ができましたので、明日の11時までに入院受付にお越しください。」明日か…。予想よりも早いことの驚きと気がかりなのは家族のこと。いそいで夕食用の宅配弁当の手配を済ませました。戸締りやお洗濯ものについてのお願い事を書いて、見えるところに貼りだしました。今年から受験生、中3のこう君は部活で副部長になり新入部員のお世話に忙しいようです。妹のしーちゃんは中1です。はじめての部活動で新たなできごとに挑戦する日々です。二人とも6月半ばの運動会の練習を通して、新しいクラスメイトとも少しづつ打ち解け始めているようでした。後ろ髪を引かれる思いで、自宅を出て入院先の病院に向かいます。案内された病室のベッドには、   【  松本 かよ 様  】【主治医 林   担当医  安西 】あぁ、患
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junction  ~わたしの人生を変えたこと④~

 ~③からのつづき~子どもたちを中学校に送り出すと、すぐにわたしたちも膠原病の先生のいる医院へ向かいました。タクシー、電車、地下鉄…。一体いくつ乗り換えたか記憶がはっきりしません。関節の腫れた手では電車の手すりに摑まることもできずスロープのわずかな傾斜すらバランスをとることもできない。足の指まで炎症が広がっていました。呼吸器からの出血は、増えないものの止まる気配がありません。真っ赤な血液を含んだ痰をテッシュに吐きながらの移動です。「ごめん、もう歩けない。」壁に寄りかかり目を閉じてしばしの休憩。早く行かないと!早く原因を見つけて…早く元気にならないと。気持ちばかりが焦るのに、数十メートルが歩けないのです。こうしているわたしたちのすぐ前を忙しそうに会社に向かう人びとが通り過ぎていきます。3月までは、わたしも同じように社会の一員だった。いつからこんな風になってしまったのだろう。何がいけなかったのだろう、何を間違えたのだろう。寄りかかり目を閉じたわたしの目から涙があふれていました。「歩ける?」再び、脇からグイっと抱え上げてくれた夫。たしか、駅前の医院と聞いていました。実際には本当に徒歩数分なのかもしれませんが、もの凄く遠い距離に感じました。やっと到着して渡された問診票を記入して、ほどなくして診察室へ。”しっかりしないと!やっとみつけた診察への扉じゃないか…。”奮い立たせる気持ちとはうらはらに体力は限界でした。座っていることもままならず、診察机につかまらないと姿勢を保つこともできなかったのです。問診票と自宅で書き出していった「これまでの経過」に目を通した先生は、いくつかの質問をするとおも
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junction ~わたしの人生を変えたこと🈡~

~前回㉔からのつづき~2022年に脳神経内科の吉田先生から紹介された新たな治療法。すっかりあきらめていたあの不思議な症状に大きな効果がありました。耳鼻科の先生の言葉どおりに頭のボーっとする感じが軽くなっていきます。それまでは、いつも脳内に暗幕をかけられている感覚がありました。何をするにも重く暗い感じがしていたのです。それらの症状が良くなると同時に、著しい低下を感じていた集中力や思考力も回復を実感しました。気がつくと、献立に悩まなくなり洗濯機の操作ミスもなくなっています。特に困っていたのが文章を理解できないことでした。子どもたちが持ち帰る”学校からのお知らせ”や役所関係の書類は全く内容を理解できないでいたのです。こんな状態が長く続いているとそれが当たり前になるのか、家族にはずいぶんと助けてもらっていました。「保護者アンケートの紙で、書いて提出するものだよ。」「文化祭中止のお知らせだよ。」と、あらかじめ大まかな内容を伝えながら手渡すルールができていました。それでも分からない時には家族に読んでもらったり、頼れない時には一文づつ何度も読んでいました。指でたどったり、「/」や「。」をつけたり、重要と思われるところに蛍光ペンで印をつけて読む。それでも理解できない時には、声に出して読み上げると聴覚からも助けられるのでなんとか読めていました。ですが書類での手続きは、もっぱら夫にお願いしていました。字は読める、単語の意味も分かる。なのに、文章になると理解ができない。高次脳機能障害のひとつというこれらの症状も、この耳鼻科の治療により改善していきました。体調をくずして6年半、日常生活に困難があること
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junction ~わたしの人生を変えたこと⑰~

注)今回のブログの内容は、自己判断での断薬について書いています。これは危険なことであり、再発の可能性が高まったり離脱症状が現れるなど悪化の原因になります。薬の服用は医師と相談のうえおこなってください。あくまでも、『誤診がもとで服用してしまったわたしのケース』としてご理解いただける方のみお読みください。~⑯からのつづき~「立派に死ぬこと以外、家族のためにわたしにできることはない。だから、子どもたちをお願いします。」振り返って考えると、めちゃくちゃとしか言いようのない宣言。当時はそれが真剣に考えた最良の答えと信じていたのです。そして顔を上げて言ってくれたのは 「苦しいときも楽しいときも家族はいつも一緒だ。」夫のその言葉はとても力強く、ありがたく感じました。頑固で不器用で口下手な夫が精一杯の応援として言ってくれたのでしょう。わたしには合っていなかった抗うつ薬の影響でこの時期は自殺願望を強くもっていたのです。未遂に終わったものの自殺を図ったこともありました。一日のほとんどの時間、回らない頭でじっと考えていました。リウマチの治療はこのまま続けていく。それで、きっと良くなる。 問題は抗うつ薬…あれを飲んでから、わたしがわたしじゃない。まるでエンジンを空ぶかしした自動車のようでした。 そしてほかの症状がさらに複雑になっているのです。そんな折、精神科の外来で野中先生と喧嘩をしてしまったのです。「まったく良くならないばかりか、どんどん薬が増えていくじゃないですか!この先も良くなると思えません。もう、いいです!」抑えられない感情を、野中先生にぶつけていました。「すみません、すみませんでした。」夫は
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junction ~わたしの人生を変えたこと⑩~

~⑨からのつづき~わたしの状態は一向に良くなることはなく経過しました。数日後には医師からの説明を聞くために夫が病院に来ることになっています。その朝の情報番組は女性フリーアナウンサーについてご主人が記者会見をするという話題でもちきりでした。美しい容貌と品の良い立ち振る舞いが好きで、以前からわたしは彼女のファンであったのです。なにか良くない事が起きたのではないかと心配しながら病室で記者会見を見ました。有名人カップルと知られたのご主人の悲痛な表情と『深刻』の一言。痛々しく、胸がつぶれるような苦しい気持ちになったことを覚えています。わたしの方は、数日前に始まった精神科のお薬の効き具合を診てもらうために精神科の2回目の診察を受けることになっていました。待っていたのは前回とは違う先生です。「あ、松本さん?はじめまして、野中です。よろしくお願いします。」目を見て優しく挨拶してくれた野中先生。なんとなく気を許せそうな、わずかな安心感をもちました。この病院では何を言っても伝わらない、そう心を閉ざしたはずなのに。激しい痛み、疲労感、倦怠感、不眠。ほかにもたくさんの不調がある…。一向に改善しないそれらの症状をお話してみました。「う~ん。お薬を変えてみましょうね。退院してもこちらに通院できますか?僕も心配ですのでいらしてください。」思いきって聞いてみました。「あの…妄想で涙は出なくなりますか?ひどい妄想だと肺から出血することもありえますか?」もちろん、聞かなくても答えは分かっていました。でも、聞かずにはいられなかったのです。「それはないですねぇ。そこは病棟の先生たちに頑張ってもらわないと困りますよね。
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junction ~わたしの人生を変えたこと⑦~

~⑥からのつづき~病棟の夜は長いものです。21時の消灯時間をすぎると、文字通り病室の照明は薄暗く足元灯が中心となります。そうしたほの暗さがより夜の長さを感じさせていたのかも知れません。初めての異変を感じたあの日、しーちゃんの中学校の入学式…。その日から、少しづつ眠りに入るのに時間がかかるようになっていました。ナースの仕事は立ち仕事です。日勤を終えて自転車に飛び乗ると、帰宅途中でお買い物を済ませて家路を急ぐ。休むことなく、家族の夕食の支度・片付け・入浴が終わるころにはもう 電池切れ です。横になった瞬間に眠りに落ち、すぐに朝になっていました。不眠に悩んだことなど一度もなかったのです。しかし、あの日を境にどんどん眠れなくなっていきました。入院したあともさらに不眠はひどくなる一方で、長い長いその不安な夜を病室のベッドの中で過ごしていました。布団を頭からかぶり、スマホでテレビを観たり…。家族や友人とメッセージでやり取りをしたり。それも、日付が変わるころまでのことでした。病室の薄いカーテンのすき間から、外の世界が見えます。10階の病棟から見下ろす繁華街のネオンは、まるで万華鏡の中を見ているようでした。眼下を行きかう自動車のライトは呼吸するかのように、規則性をもって煌めいています。左の向こうには、電車が長い車列をなして流れていきます。(あの電車に乗ればみんなの待つ家に帰れる…。自宅に帰りたい。)今にもあふれそうな涙をパジャマの袖でそっと拭い再び横になりました。(そうだ!)スマホで地図を開き、ストリートビューで自宅付近を探してみました。こう君としーちゃんが通った小学校が見えます。西門のすぐ左
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junction ~わたしの人生を変えたこと⑨~

~⑧からのつづき~安西先生の説明通りその日の夕食の少し前に精神科から処方された内服薬が届きました。薬剤師さんが丁寧に説明をしてくださいました。「お薬について、何か質問はないですか?」優しく聞いてくださったその質問に、言葉がつまり何も答えることができませんでした。(聞きたいことは、たくさんあります!いや、違う…。こんなにも痛むのに、ほかにもたくさんの症状があるのに。妄想って。納得できないんです!)心の中で叫んでも、どうしても声に出すことができませんでした。わたしが、なにを伝えてもムダなんだ。わたしの感じる症状すべてが『妄想』それで終わる。どんなに伝えても伝わらない…。つかもうとすればするほど、遠くに離れていってしまう無力感。わたしは理解してもらうことをあきらめて、静かに希望を捨てました。なにも伝えず、なにも求めず。壊れたままのわたしでも、家族さえ受け入れてくれるのならば、それでいい。決心したわたしは納得できないままその薬を飲むことにしました。しかし、その薬はわたしになんの変化ももたらしませんでした。 薬を飲むことでさらに具合が悪くなると思っていたのですが、まったく何の変化もないのです。もちろん、良い効果もありませんでした。いつもの時間に病室を訪れた安西先生は、「松本さん、昨夜は眠れましたか?」「いいえ、まったく眠れませんでした。」「もう少し様子を見ましょうね。」数日たっても良くなることはなく、相変わらず痛む関節や筋肉は増えていきました。さらにツラかったのは目と口の渇きが日を追うごとにひどくなっているのです。瞬きをするたびに、眼球がまぶたでこすれます。つねに水を口に含まないと、口の
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「奥歯戦争」

【無理な治療】20歳の時右上の奥歯が歯ぐき側に引っ込み大変な事になってしまった。アワワワワ(((゚д゚; )))ワワワワッそれは行き付けの歯医者でレントゲンを撮った時判明した。ヒィィッ!!∑(;Д;ノ)ノしかしこの時痛む虫歯があったのでそこを優先的に治してもらいその後引っ込んだ歯を治す事にした。そして虫歯の治療があらかた終わり引っ込んだ歯を治し始めた。すると院長が「この引っ込んだ歯の治療はこの病院じゃ出来ないから大学病院行ってみて」と言われた。そして紹介状を書いてもらいお茶の水の医科歯科大学に行く事になった。この医科歯科大学は頭蓋骨全般の治療を専門の大学で顎の骨や首の骨などの治療も行う特殊な病院だった。〓=〓=〓=〓=〓=〓=〓=〓=〓=〓=〓【大手術】俺はこの病院で最初にまたレントゲンを取られ精密検査を行った。その結果右上の奥歯が上顎の頬の内側の空洞に引っ込んでる事が解った。しかも4本も引っ込んでて全部抜かないとダメだと先生に言われてしまった。ヒィー(゚ロ゚ノ)ノどうやら引っ込んだ歯は全部引っ張り出してももう歯ぐきが固定してくれないらしい。しかし奥歯4本抜くなんて食事出来なくなってしまうと感じすごくショックだった。(´;ω;`)シクシクこの奥歯を抜く治療方法は歯ぐきに下から穴を開けてニッパーを使い力ずくで引っこ抜くと言うその為全身麻酔の手術となり大掛かりな手術になるようだ。〓=〓=〓=〓=〓=〓=〓=〓=〓=〓=〓【原因不明】この時先生に永久歯が生えてその後引っ込んでしまうその原因が何なのか聞いてみた。しかし先生は「このケース初めての事だから全く原因が解らない」そう答えた。そ
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不登校と起立性調節障害

こんばんは。今日も無事に1日が終わりそうなつららのママです。今日は、朝一で下の子を連れて大学病院へ行ってきました。生まれて数ヶ月後に一度行ったきりで、今日まで幸いにもお世話になることがなかった大学病院。十数年前とは明らかに建物の様子が変わっていて、とても綺麗になっていました。昨日の夜から、ソワソワしていた私。夜中に何回も目が覚めてしまいました。朝、下の子が早い時間から起きてくれるのかという不安。不登校の子には朝起きれないと言う子が多いんですよね。起立性調節障害…。私の子は病院へ行くのを嫌がったため、正式な診断はもらっていないのですが、この症状によって数多くの親子さんが悩んでいることは知っています。(ちなみに今日病院に行ったのは全く別の症状によります)一番苦しいのはその症状を持った子、本人だと言うことは理解したいとは思うけれど、「起きれない」と言う我が子を毎日見続けるのは辛く、時にはイライラもしてしまいます。私も当初、幾度となく起きれないという子供にきつくあたってしまい、たくさんたくさん涙を流してきました。今はそんな状況も受け入れれるようにはなりましたが、それでも時々怒ってしまうんですよね😢その子その子、その日その日で症状もタイミングも全く違います。だからこそなおさら悩みや不安を感じている方も多いのではないのでしょうか?最近、不登校になってしまう子はとても多くなったと聞きます。その理由はそれぞれ違いますが「なぜ、自分の子が??どうして自分の子だけが??」と非難することはありません。不登校だって成長のための大事な大事な経験だと思います(๑>◡<๑)不登校で悩む全ての方に
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「初の全身麻酔治療」

【治療方法】 20歳の時虫歯治療のため歯医者に行き このとき右の上の奥歯4本が頭蓋骨の 鼻の奥の空洞部分に引っ込んでる事が レントゲンを撮って確認できた この4本の歯は引っ張り出しても 奥に引っ込まない為の土台がもう無く 歯茎に穴が開いてしまってるから 取り除くしか方法が無いと言われた アワワワワ(((゚д゚; )))ワワワワッ なのでこの治療は手術しないとならず 今通ってる町医者の歯医者では無理で お茶の水にある頭部手術も出来る 順天堂大学に通院する羽目になる そして早速紹介状を書いてもらい 順天堂大学に行き受付を済ませると 歯科口腔外科で診察を受ける事になり レントゲンを撮る事になった その後レントゲンを見た先生から 「これは前例がないし初めての現象で しばらく研究材料として協力して」 と言われてしまった 俺は特に問題無いので協力する事にし 「次回の診療までに治療方法を決めて 伝えます」と言われていったん帰り いつもの町医者にこの事を連絡する 次の診療日また順天堂大学に行くと 治療方法が決まって教えて貰うと 「全身麻酔をして引っ込んだ奥歯を 一気に全部抜きます」と言われた ヒィー((((゚Д゚))))ガタガタ 〓=〓=〓=〓=〓=〓=〓=〓=〓 【同じ部屋の人】 更に「一気に歯を4本抜くと一持的に 平行感覚がおかしくなり立ち上がると めまいがします」と言われて俺は 一気に4本抜く危険性を初めて知った ∑(゚∀゚;ノ)ノキャーッ しかも全身麻酔も生まれて初めてだし その後数日間入院するのも初めてだし ここまでの大手術になるなんて思わず 怖くて仕方なかった そして手術日当日
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「口腔内陥没治療」

【種種後の一服】 20歳の時右上奥歯4本が頭蓋骨の鼻の 奥の空洞に引っ込んでるのが歯医者で レントゲン取ったとき発見されて 治療の為順天堂大学病院に行った そして検査後に知らされた治療方法は 全身麻酔の手術をする事になり数日後 手術をして麻酔が切れて目が覚めると 猛烈な痛みを感じてしまった ヒィー(゚ロ゚ノ)ノ 俺はあまりの痛さで起きてるのが辛く 再度寝てしまって起きると痛みが無く 心底ホッとしてしまいふと腕を見ると 点滴が刺さってる しかし猛烈にトイレに行きたくなり 点滴持ってトイレに行くため立つと 常時めまいがしてる感じになってて 上手く真っ直ぐ歩けなかった 手術前に先生に言われた「奥歯を 一気に4本抜くとめまいで立つのが 困難になるよ」と言う言葉の意味を この時初めて実感できた でも点滴のハンガーを支えにして なんとかトイレにたどり着き用をたし その後喫煙所で一服してホッとして ふと同部屋の高校生の事を思い出す ( ´ー`)y-~~フゥ この子はバイク事故で頭蓋骨を骨折し 各病院で治療が出来ないと断られ やっとの思いでこの病院にたどり着き 手術して治療してもらえる子だった 〓=〓=〓=〓=〓=〓=〓=〓=〓 【パニック】 そして部屋に戻ると頭蓋骨骨折の子が 頭を丸坊主にされて麻酔で眠ってて とうとう頭蓋骨の大手術が始まる様で 少し心配になってしまった アワワワワ(((゚д゚; )))ワワワワッ そのご俺は病院の休憩所に行き 本を読んだり中庭に出て散歩したり 同室の人と話したりして時間を潰し 食事をした後眠くなり寝てしまった 深夜部屋の物音で目が覚めてしまい 何の音か確認す
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「新人初治療」

【新人さん】 20歳のとき虫歯ができて歯医者に行き 再び通い始めたから歯のレントゲンを 撮る事になってレントゲン室に入り 痛む個所を集中的に撮影した そして治療台に戻ると初めて見る 歯科医師免許取りたての若い女性が 実習生として来てて今回の治療は この新人さんがする事になった オロ((ヾ(*'д';*)ノシ))オロ 治療をする時いつもは助手として 委員長の怖いお姉さんがつくのだけど 今回は何やら奥で委員長と話してて 補助は遅れてくるとの事 その間俺の歯の治療の下ごしらえをし 後は削るだけの状態でしばらく待つと 怖いお姉さんがやっときてくれて 治療が始まった 治療が始まり口を開けてと言われて 大きく口を開けたら口が横に広がらず 縦に広がったので実習生のお姉さんが 俺の口に指を入れて横に引った! その力が意外にも強くて俺は顔ごと 横に引っ張られてしまいその勢いで 「んが!」と声が出て委員長の怖い お姉さんに大爆笑されてしまう! この新人歯科医師は本当に治療が 初めての実践らしくその実験台として 俺が選ばれたという事はきっと 意地悪されてるに違いないと感じた アワワワワ(((゚д゚; )))ワワワワッ 〓=〓=〓=〓=〓=〓=〓=〓=〓 【虫歯治療】 研修生のお姉さんが治療を始める時 「痛い歯はありますか?」と聞くので 「右の上の歯が痛いです」と言うと 「そこに虫歯はないです」と言われた そして「その痛みは多分右下の歯で 歯の神経は中で全部繋がってるから 痛む所と虫歯は一致しないのですよ」 と教えてくれた なので痛む右下の歯を最初に治療し 他の歯の治療はその後からになって 早速虫歯を
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      tau_のひとりごと:大学病院

冬になると、ときどき思い出すことがあります。年末に酒さの症状が急に悪化し、  どうすればよいのか分からなくなってしまったときのことです。  不安が大きくなる中で、家族の勧めもあり、  大学病院で診てもらうことになりました。確か、1月の3日か4日だったと思います。  それまでの治療記録や、私がまとめていた症状の経過メモをすべて持参して、  先生にお渡しして診ていただきました。しかし、返ってきた言葉は、とても短いものでした。「無理だと思います」症状があまりにも重いため、  治療はできないと言われました。そのあと、研究の資料にしたいとのことで、  何枚も写真を撮影されました。  ブルーの垂れ幕の前に立ち、真正面、右向き、左向きと、  指示されるままに体の向きを変えていきました。淡々とシャッターが切られていく音。  モニターに映し出される自分の顔。  向き合う医療スタッフの方々も、どこか静かでした。あのとき撮られた写真は、  今どこかで何かの役に立っているのでしょうか。  ふと、そんなことを思うことがあります。                     tau_
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