junction ~わたしの人生を変えたこと㉓~

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コラム
~㉒からのつづき~

2020年6月
4年以上、正体のわからなかった不思議な症状に『病名』がつきました。


病名の有無と健康・不健康はあまり関係がないように思えます。


病名がわかれば治療につながり、元気なころの自分にもどれると信じていました。


検査入院した大学病院では「あなたは、病名を欲しがっているようにしか見えません。」と言われたこともありました。


正しくない病名がついたせいで服用した薬のツラい副作用も経験しました。


そして、この頃には両親と距離を置くようになっていたのです。

父は当時現役で仕事をしていました。


徹底した権威主義者の両親は、医師の言葉は間違いがないものと信じていたのです。


リウマチなど膠原病の症状はとても良くなっているのに不調を訴えつづけるわたし。


自宅でようやく家事をしている状態でした。


行く先々でくり返される医師からの『異常なし』


いつしか両親の目には、わたしの姿が怠けているように映ったようです。


忙しく充実した日々を送っている姉との比較。


「そうやって家にいて、働いている人に申し訳ないと思わないの?」


そう聞いたのは母でした。


そんなこと、わかってる…。


子どもたちの運動会にも行けず、受験準備も満足にしてやれなかった。


あの日から一度も旅行にも連れて行っていない。


夫の休日もほとんどを通院の付き添いにつかってしまうこと。


復職できなかった職場にも仲間にも申し訳なく、自分を責めてきました。


だからそんなこと…とっくに分かっているから。


些細なやり取りすらツラくなり、両親からの電話に出ることができなくなりました。


怠け癖が付いてしまった娘を励まして更生させようとする、純粋な親心だったのかもしれません。


ですがこの時には、そう思える余裕は全くありませんでした。


病院にも身内にも向けられた無理解や偏見の目。

病名が付かない状況は社会制度や支援を受けることができず、社会からの孤立をさらに深めました。


怠けでも…妄想でも…ワガママでもなかった。


そのことの証明がこの『病名』だったのです。


良かった…ほっとする半面で残酷な事実を受け入れることにもなったのです。


【有効な治療法はなく、発症前の身体機能を取り戻す率は0%】
(※文献の中には~6%という報告もあり。)


夫と一緒にこの病気について調べたときに見つけた一文でした。


わたしが動揺したことを感じとったのでしょうか、沈黙をやぶったのはあきらさんでした。


「まだ分からないじゃない。先生たちが研究してるのは可能性があるってことだよ。」


現実を知ったからと言って、状態が悪くなったわけではありません。


診断されたことにより大きく前進したのです。


今、やれることをしよう!


自己注射を元の量に戻してもらうために、膠原病内科の川本先生の診察日を早めてもらう連絡をしました。


川本先生あてのお手紙は神経内科の吉田先生から預かっています。


ですが、神経内科を受診した経緯をお伝えしないといけません。


当時はとくに高次脳機能障害の症状がはっきりとしていました。


言葉が出るまでに時間がかかったり記憶の問題もあったので、わたしからも川本先生に手紙を書くことにしました。


注射減量後におきた症状の説明と動画を観たことがきっかけとなって神経内科を受診したことを書いた手紙です。

毎日書きためた症状の記録をさかのぼり、何度も書き間違えては書き直しました。


シンプルな便せん2枚に書いた簡単な文章を、当時は何時間もかけて書いたのです。


予約を早めた川本先生の診察には夫の車で向かいました。


「まつもとさぁん」5番の診察室から川本先生が顔を出して呼んでいます。


4年前、はじめて川本先生にお会いしたのもこの5番診察室でした。


その時にも、隣にあきらさんがいました。


おなじ場所おなじ顔ぶれですが、4年という歳月が経ったことには信じられない気持ちでいました。


ひと月早めて夫婦一緒に受診したことと、突然差し出された2通の手紙に少し驚いた表情の川本先生。


”先生、やっと不思議な症状の正体がわかりました”


ちょっとだけ誇らしい気持ちで手紙を読む川本先生の横顔を見つめていました。


~㉔へつづく~


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