~⑱からのつづき~
長男こうきの高校入試をひかえて2017年は年明けから慌ただしく過ぎていきました。
公立高校の入試日程は私立に比べるとおそく、合格発表・入学手続きを済ませると卒業式は間近にせまっていました。
ようやく進路が決まって、落ち着いてきたこうき。
息子の卒業式・入学式にはわたしも出かけることができました。
わたしの体調は自己注射でかなり落ち着き、休みながらの家事や短時間の外出が可能になりました。
夫の付き添いを頼りにしていた通院も自分で電車を使って行けるようになっていました。
目に見えるように回復した関節と外分泌腺(涙・唾液)の炎症、不眠。
一方で、やや回復傾向にあるひどい倦怠感や記憶力などの不思議な症状たち。
それらは依然としてはっきりと症状として残っていたのです。
膠原病内科の川本先生にもお聞きしてみました。
ですが採血検査や画像診断も異常なく、不思議な症状の原因は分からないと。
いつしか自分でもそれらを考えないようになっていたのです。
家庭では進学・進級を迎えた子どもたちが日々成長していきます。
母として成長を喜ぶかたわらで新たな心配ごとが次々と起こるのです。
思春期の子育ての難しさを感じているうちに、時間は瞬く間に過ぎていきました。
2カ月おきの通院は同じ薬を処方されるだけになって慢性期といえる状態でした。
関節リウマチなど膠原病の症状はとてもよくなり、全身が痛かった体は一か所も痛まなくなっていました。
ですが、元気になったわけではないのです…。
少し動くと疲れて立っていられなくなり、日に何度も横になって休みながら過ごしていました。
2016年の春をさかいに、別人のよう変わってしまった身体。
その頃には”ただの病弱な人”になっていたと思います。
家族に守られながら、一通りの家事をして穏やかに過ごしていました。
家族の猛反対にあってからは口に出さないまでも【解剖の希望】はあきらめずに持ち続けていました。
いつかこの不思議な症状の正体を突き止めるために。
そう思い書きためていた症状の記録や検査データがかなりの量になっていたのです。
発病当時は中学生だった二人が高校生になって自分の世界をもつようになっていました。
母としての淋しさを感じた、そんな2019年8月転機が訪れます。
約3年投与した生物学的製剤の注射が2週から4週間隔へ、つまり半分に減ったのです。
自分で申告しないとリウマチ患者だとは専門医でも分からないくらいに関節の状態は良好でした。
「ここまでくれば再発はありえません。」
慎重な川本先生が言うならとわたしも減薬を喜んでいました。
しかしこの減薬はわたしの人生を変えるのです。
少しづつ、気がつくと手指の関節が痛み始めたのです。
一か所…もう一か所、手から足にも。
目の乾き、口の乾きも強くなりました。
受診時に川本先生に相談しても自己注射は増やさず、内服薬で調整すると言うのです。
回復過程をまるで逆再生しているようでした。
体調が悪い日が続き、ほとんどの時間を横になって過ごすようになっていました。
冷蔵庫を見ても献立が考えられない、自宅の電話番号を思い出せない。
そしてまた、洗濯機の操作ができなくなっていました。
あぁ、またあの時にもどってしまった。
リウマチの注射を減らしたからと言って、なぜ不思議な症状までが悪化するのだろう…。
膠原病と不思議な症状ってなにか関係があるのかなぁ。
再びボーっとする回らない頭で考え始めていました。
居間のテレビが「中国の武漢で謎の肺炎が流行している」と報じています。
この時は2020年1月。
その時はまだ世界中でパンデミックが起こるとは思っていませんでした。
~⑳へつづく~