~⑦からのつづき~
入院室のとなりの建物は、外来診療や検査室を備えていました。
その外来まで徒歩で移動して精神科の診察を受けてきたのです。
大学病院は広いとはいえ、強い倦怠感のある身体での移動は気が遠くなるほどの距離とも思えました。
各診療科をつなぐ書類【ご高診依頼書】に目を通しながら、いくつかの質問をした精神科の医師は、
「じゃあ、病棟の先生にお返事を書いておきますね。」
5分にも満たないで診察は終了しました。
数時間後に、安西先生が病室に入ってきました。
「松本さん、精神科の先生からのお返事を読みました。
いま、松本さんの身体に起きたことは、うつ病による妄想との診断でした。」
「妄想…?うつ病ですか?あの、すみません、よくわからないのですが…。」
「今夜から精神科のお薬が始まります。数日間は副作用の様子をみたいので、このまま入院していただいて、来週あたりにご家族にも説明をして、退院してもらいます。」
「あの…関節や筋肉の痛みは…?目も口もすごく乾いてしまって…。
血痰は?あの、ほかにも...」
「ですから、主治医の林先生とも相談して、そう決まりましたから。
いろんな症状は精神科の治療の経過を診て、また考えましょう。」
その時に、はじめて気が付きました。
主治医の林先生には一度もお会いしていない。
林先生がどんな方なのか、顔すら知らない。
足早に立ち去る安西先生の白い背中が見えなくなると、あらためて自分のベッドネームを確認しました。
【 松本 かよ 様 】
【主治医 林 担当医 安西 】
わたしは林先生を知らないのに、林先生はわたしの何を知っているのだろうか。
痛む指すら触らず、血痰の止まらない胸の聴診すらせず…。
顔も見たことのない医師にわたしの何がわかるのだろうか。
わたしは本当にうつ病なのだろうか。
そしてこの症状は、妄想なのだろうか。
妄想? 妄想…。
Googleで言葉を調べてみました。
『妄想』
妄想とは、ほかの人にとってはあり得ないと思えることを確信してしまうこと。
そう書いてありました。
感じている痛みやツラさは、あり得ないことなのだろうか。
そして、血痰はたんなる出血?
その頃から、わたしの頭の中はひどくボーっとしていました。
考えてもまったく思考を整理することができなくなっていたのです。
その日を境に、わたしが訴える症状はすべて
『妄想』その一言で片付けられてしまいました。
早く自宅に...家族の待つ自宅に帰りたい。
6月半ばには、あの子たちの通う中学校の運動会があります。
中学校に歩いて行くこともできそうにないので、運動会を見に行くことはできないと思いました。
お弁当だけでも支度して持たせてやりたい。
退院するためには、安西先生の言うことに従うしかありませんでした。
納得できない状況で、お薬は飲みたくないのです。
でも、きちんとした大学病院の先生たちが言っているのだから、間違っているのはわたしの方かもしれない。
そんな不安が心を揺らし、まるで真っ黒い波に飲み込まれているような感覚。
その胸苦しさを今も鮮明におぼえています。
~⑨へつづく~