注)今回のブログの内容は、自己判断での断薬について書いています。これは危険なことであり、再発の可能性が高まったり離脱症状が現れるなど悪化の原因になります。薬の服用は医師と相談のうえおこなってください。あくまでも、『誤診がもとで服用してしまったわたしのケース』としてご理解いただける方のみお読みください。
~⑯からのつづき~
「立派に死ぬこと以外、家族のためにわたしにできることはない。
だから、子どもたちをお願いします。」
振り返って考えると、めちゃくちゃとしか言いようのない宣言。
当時のわたしはそれが真剣に考えた最良の答えと信じていたのです。
そして顔を上げて言ってくれたのは
「苦しいときも楽しいときも家族はいつも一緒だ。」
夫のその言葉はとても力強く、ありがたく感じました。
頑固で不器用で口下手な夫が精一杯の応援として言ってくれたのでしょう。
わたしには合っていなかった抗うつ薬の影響でこの時期は自殺願望を強くもっていたのです。
未遂に終わったものの自殺を図ったこともありました。
一日のほどんどの時間、回らない頭でじっと考えていました。
リウマチの治療はこのまま続けていく。
それで、きっと良くなる。
問題は抗うつ薬…あれを飲んでからわたしがわたしじゃない。
まるでエンジンを空ぶかしした自動車のようでした。
そしてほかの症状がさらに複雑になっているのです。
そんな折、精神科の外来でわたしは野中先生と喧嘩をしてしまったのです。
「まったく良くならないばかりか、どんどん薬が増えていくじゃないですか!
この先も良くなると思えません。
もう、いいです!」
抑えられない感情を、野中先生にぶつけていました。
「すみません、すみませんでした。」
夫は先生に何度も頭を下げていました。
その横で、わたしは迷いが確信に変わります。
”多分、うつ病の診断が間違っているんだ。
野中先生の診察には行かない。この薬をやめる。”
そう決意したのです。
いま思えばとても危険なことですが、自己判断で減薬をはじめたのでした。
服用期間が数カ月と短かったので減薬はスムーズにいきました。
3錠から2錠、2錠から1錠に…。
ですが、ここからが減薬の本番でした。
めまい・頭痛・筋肉の張り感・不安・吐き気。
軽くではあっても離脱症状と言われるものも味わいました。
0.5錠からは、さらにペースを落として様子を見ながら減らしていきました。
最後は粉にした薬を指につけてなめる。
時間をかけて抗うつ薬を完全にやめたのです。
ようやく本来の性格が戻ってきました。
正しく診断された方には素晴らしい効果のある薬も、診断が合っていない場合には良くない効果があるのは当然のことです。
この経験から良くも悪くも薬の効果を実感したのでした。
抗うつ薬と精神安定剤の減薬・断薬をする間にも生物学的製剤の注射は効果を発揮してくれました。
リウマチによって腫れた関節は炎症がおさまり徐々に曲がるようになってきました。
自己注射を始めてから3ヶ月後には、膝をついて床の雑巾がけができるまでに回復したのです。
気がつくとほかの症状にも改善がみられていました。
あれだけひどかった目と口の乾きが楽になってきたのです。
涙がほとんど出ていなかったので目薬が手放せなかったのですが、乾燥によるヒリヒリ感は徐々になくなっていました。
唾液も少なくなっていたので、口腔保湿ジェルを口に含みながら生活していたのですが、それを使わなくても眠れるようになりました。
にぶくなっていた味覚も正常になりました。
生物学的製剤の注射で自己免疫反応を抑えることで、関節や外分泌腺の炎症が落ち着いたためとおもわれます。
そして不眠・筋肉の激しい痛み・記憶の異常・洗濯機の操作を間違えるなどの症状も落ち着いてきました。
一方、ボーっとする頭・ひどい倦怠感や疲労感・ゆがんで見える視界や眩しさ・集中力や文章理解力の低下などは変わらずに感じていました。
それらの見えない症状は理解されがたく、時として差別や偏見を受けることもありました。
また親しい方々からも
「みんなどこか調子が悪くても我慢してるよ。」
「社会復帰は間近だね。頑張って!」
「膠原病は良くなってきたのに、働かないの?」
など、わたしを思い応援の気持ちで言ってくれたそれらの言葉にも、時に心を傷つけられました。
少しづつ人と関わることが怖くなり、自宅にこもって過ごすようになっていきます。
年が明けて季節は冬本番、こうきの高校受験は目前に迫っていました。
~⑱へつづく~