絞り込み条件を変更する
検索条件を絞り込む
有料ブログの投稿方法はこちら

すべてのカテゴリ

72 件中 1 - 60 件表示
カバー画像

自分探しのはじまりは、ここから  #47

前回に続き、今回の診察でも、信頼を置いている医師を指名した。2時間待ち。しょうがない。その価値があると知ってしまったので、粛々と待つ。今回は、髪が薄くなってしまったことで飲み始めた、「発毛を促すサプリメント」について質問した。横柄な医師には聞きづらい、ちょっと乳がん治療中の諸症状からズレたテーマだ。だが、しかし!またもや、信頼している医師は、清々しい笑顔でアドバイスをしてくれた!髪が薄くなったのは、初期の2年間投与されたニュープリンの影響はあるが、タモキシフェンでの影響ではないかも。ホルモンが低下してくる年齢でもあり、それも一要因。閉経後はさらに薄毛になる可能性があるが、個人差もある。サプリは服用してかまわないし、なにより、それで自分の気持ちが安定するようなら、続けるといいと思う。ただ、サプリメントは①動物由来ではないこと(プラセンタなど)②高額ではないこと(長く続けていくために)を、考慮した方がいい。タモキシフェンは、閉経しても服用すると、骨粗鬆症の予防にもなる。と、とても重要な見解を下さったのだ!!確実に効果を感じ始めていたサプリメントを服用する度に、それとは裏腹に、心のどこかで、再発を誘発する原因になりはしないかと不安に思う自分がいた。でも、もう心配は無用。毛量が増えていくことに心躍らせながら、これからもサプリメントを飲み続ければいいのだ。あぁ、安心した。自然と自分も笑顔になり、診察室を出ていくときには、優しい笑顔の医師の「お大事になさってくださいね」を、またまた今回も背中に受け取った。そういえば、この医師に初めて診察をしてもらったとき、手術時の、自家組織を使う乳房同時再
0
カバー画像

自分探しのはじまりは、ここから  #45

前回の診察では、治療期間を5年にするか10年にするかを、次回の診察までに決めて欲しいと言われていた。自宅に帰り、まずはネットで、再発リスクの数字を検索した。「2014年にホルモン治療ガイドライン改定、10年治療選択肢追加」「晩期再発のリスクの低減」「術後15年目の再発リスク 5年服用群 25% 、10年服用群 21%」「術後15年目の死亡リスク 5年服用群 15% 、10年服用群 12%」ふぅん、そうなのか。どちらにしても、この数パーセントの違いを生み出した「再発した人」に、自分がなってしまう可能性を下げたい。たとえ数パーセントでも。そこは、自分の気持ちに素直に、そして、貪欲に「生」にこだわりたい。更年期症状は、相変わらず最悪だ。それでも、一分一秒でも長く、大切な人と現世で過ごしたい。10年服用を選ぶことにした。「次の診察は信頼している医師を指名する」と決めていたので、今回初めて、受付で医師を指名した。「待つことになりますが、いいですか?」と訊かれたが、もちろんOKだ。たっぷり待ち、やっと診察の時間が回ってきた。個室に入ると、満面の優しい笑顔で、医師は迎えてくれた。お、お久しぶりです〜(嬉)先日撮った5年目のマンモグラフィーとエコーの画像を見ながら、「再発無し、問題無し」という診断を、医師から優しい笑顔で伝えてもらう。一緒に喜んでくれているようで、胸が熱くなる。そんなことだけで、患者は、救われるのだ。治療期間を決める話では、「再発リスクの違いはステージによって違うので、この場合は5年で約5%、10年で4%です。1%の違いで、辛い更年期症状をあと5年耐えることを考えると、悩ましい
0
カバー画像

自分探しのはじまりは、ここから  #44

3ヶ月に1回の診察日、数人いる乳がん担当医師の誰に当たるかは、クジのようなものだ。今回は、横柄な態度の医師に当たった。こいつは、本当に患者を見下した物言いをする奴だ。次の診察までに、治療の終了を5年と10年のどちらにするのか、決断してくれと言ってきた。「以前診察してくれた〇〇医師から、5年と10年のリスクの差と、更年期症状の辛さを考えて、5年の選択肢もアリだと説明を受けているのですが…」と、横柄医師に相談したのだが。即答で、「あれは、前の話。その後、リスクの数字が変わったんだよ。〇〇の時とは違うから」と、バッサリと会話を終了された。以前の〇〇医師は、説明時にそれぞれの再発リスクの数字を提示してくれ、丁寧に説明してくれた。しかし、この横柄医師は、標準治療の基準期間が変わったことは教えてくれたが、その根拠になった再発リスクの数字、5年と10年との差は教えてくれなかった。そんなノーヒントで、自己決定しろだと?!心の中で、「こいつに質問をしたら、また横柄に返答されそうだな。帰宅してから、自分で再発リスクをネット検索したほうが、マシだな」と思い、言葉を吞んだ。偶然にも、診察の後に、また患者会が開催されていた。折角なので参加すると、先ほどの横柄医師を「大好きだ、ずっといて欲しい」と話す患者がいた。マジか。人には、相性ってあるんだな。今回は、看護師が参加していたので、「この大病院で、毎回、違う医師に診察されるのは、結構なストレスになっています。できれば、同じ医師に毎回診てもらいたいので、初めに検査を受けた個人病院への転院を考えているのですが、可能でしょうか」と聞いてみた。すると、看護師から、
0
カバー画像

自分探しのはじまりは、ここから  #43

初めて参加した乳がん患者会には、ファシリテーターの女性2人と自分を含めて、7人の参加者がいた。ある患者は、自家組織を使った乳房再建を行なったが、日が経つに連れて乳房のサイズが小さくなり、再再建を行うか検討中という話をしていた。再建直後と数ヶ月後の乳房の大きさの違い、ビフォーアフター自撮り写真を参加者達に見せて、こんな感じに変化したと説明してくれた。今日初めて会う人の乳房写真を見ることに少し抵抗があったが、貴重な情報を得るチャンスだと思い、ありがたく拝見させてもらった。それを見て、再建経験者のファシリテーターは、「あ〜、また数十万円掛かっちゃうね〜(笑)もう一回手術を受けないといけないけど、そういうこと、あるよ〜」と、とてもカジュアルな雰囲気でアドバイスをしていた。そうなんだ。萎んじゃうことって、珍しくないんだ。そうなったら、また手術もできるけど、自己負担なんだ・・・。知らなかった。自分は、薬によって突然現れた、重い更年期症状について話した。そこにいる参加者は、自分より年上であろう人が多かったが、この話に関しては、拍子抜けするほど共感を得られなかった。つまり、更年期症状は個人差があり、自分ほど重い症状に苦しんでいる人が、今ここには居ない、ということだったのだ。なるほど。こんなにも、個人差があるものなのか。そして、自分はやはり症状が重い方だったのか。そうだったのか・・・。そのときはまだ、婦人科を受診していなかったため、ファシリテーターや他の参加者達から、受診を勧められた。ホルモン治療をしていく過程で子宮内膜が厚くなりやすく、自分はそれで手術を受けた経験があるので、子宮体がんの検査も
0
カバー画像

自分探しのはじまりは、ここから  #42

皮下脂肪に注射で打つホルモン剤ニュープリンを終了して1年7ヶ月ほど経ったころ、不正出血があった。それは1日だけのことだったが、数日前から、体が浮腫んで調子の悪い日が続いていたので、気になる。不正出血から4日後、生理になった。子宮筋腫のせいもあってか、以前より出血の量がかなり多い。筋腫が大きかったり、数が多かったりすると、出血の量が増えるらしいのだ。ニュープリンを投与して生理を止めている間は、子宮筋腫が大きくならないという嬉しい副作用があるのだと、健康診断の婦人科検診で、医師から教えてもらっていた。しかし、今、服用しているのはタモキシフェンだけなので、筋腫もまた育っているのだろう。これまで経験したことのない大量出血に、驚いてしまった。それにしても、生理があるのに、ホットフラッシュなどの更年期症状も無くならずにある、といことが腹ただしい。どっちかひとつにならんのか。これじゃぁ、二重苦だ。自分が初めに、医師から、これからの治療方針の説明を受けたとき、5年再発がなければ寛解、治療終了ということだった。しかし、その数年後に、乳がんの標準治療の期間は10年に変わっていた。つまり、あと5年、タモキシフェンを服用するのだ。あと5年、更年期症状に苦しむ日々が、まだ続く。なのに、大量出血。残念だ。医師からは、がんの顔つきが悪くはないから、治療を5年で終了してもいいという提案があった。5年と10年の治療の予後の差、つまり生存確率。数パーセントでも、生存確率を上げたい気持ちで、10年治療を選んだ。間違いだっただろうか。病院で、ぼんやりと診察の順番を待っていると、元患者が主催する患者会のチラシが目に入っ
0
カバー画像

自分探しのはじまりは、ここから  #40

イライラ、ホットフラッシュ、高血圧などの更年期障害症状を和らげるために漢方を服用しているが、全然効果を感じられないまま、2年が過ぎた。医師と相談して、漢方服用は終了にした。そもそも、ホットフラッシュに漢方は効かないらしい。え、そうなの?早く言ってよ。そして、今、心を重くしているのは、薄毛だった。子供が濡れ髪を見て驚いた旅行の時から、さらに薄毛は進行している。 BELTAという育毛剤を1年間使用したが、悲しいことに、自分に関しては、効果が無かった。毎日、鏡で自分の姿を見ると、やるせない気持ちになる1年を、無駄に費やしてしまった。ある種の怒りを感じつつ、定期購入を解約した。価格がBELTAより高かったが、新たにネットで見つけた、ミューノアージュとう育毛剤に一縷の望みを賭けた。育毛剤は、6ヶ月は使って効果を確認するものと分かっているが、ミューノアージュが効いているのか全く確信が持てないまま、3ヶ月が過ぎた。薄毛はまだ、進行中のように感じていた。もっと何かできることはないかと、焦る気持ちでPC検索をした。そこで見つけたのが、サプリメントのパントガールだった。どうやら、薄毛治療で病院でも処方されるサプリメントらしかった。そんなものがあるのか・・・。しかし、やはり高価!!でも、今、自分は藁にもすがりたいほど、ハゲなのだ!!思い切って、直輸入サイトで注文をし、服用を始めることにした。ミューノアージュとパントガールの、ダブル使用をして、ダブル効果を信じたい。ダブル費用は痛いが、背に腹は変えられないほどに、薄毛の自分に自信が持てなくなっている。どっちか、効いてくれ!!と、願いをかけた。サプリメン
0
カバー画像

自分探しのはじまりは、ここから  #39

術後2年が経ち、エコーの検査で「再発なし」の結果が出て、ホッとする。ちなみに、検査方法は、まだ負担のかかるマンモグラフィーはせず、エコーのみ。これで、ホルモン剤注射の治療は終了となった。タモキシフェンは、引き続き服用するので、この注射(ニュープリン)が終了ことで、どんな変化があるのか、医師に確認してみた。その返答は、「個人差があるのでなんとも言えないが、生理はまたあるかもしれないし、ないかもしれない。また、量も多かったり、少なかったりするかもしれない」というものだった。まぁ、要するに、人それぞれということか。そんなものなのだと、心づもりだけはしておこうと思った。引き続き、眠剤と更年期症状のための漢方を処方してもらった。漢方では、残念ながらホットフラッシュの改善が見られていないので、中止の時期を探ってみようかなと思案する。真冬の今でも、ホットフラッシュが起きると、暑くてTシャツ一枚になりたいし、ホットフラッシュが治ると、寒くて羽織るものが必要になる。カーディガンを脱いだり着たり、大忙し。冬なのに、暑さ対策のために、ハイネックやタートルネックの服なんて、もう全然着なくなった。手術した胸やリンパの部分の痛みは消えていた。術後の診察で、ちょっと高飛車な医師から聞いた、「痛みが消えるのに2年くらいかかるかも」というアドバイスは、的確だった。この年の秋には、定期的に受けていた婦人科検診にオプションをつけて、卵巣癌検査も受けた。結果、問題は無く、一安心。これから、乳がんに関連して発病しやすい病気については、自分で専門の病院を探して、検診を受けなくてはいけない。当たり前だが、乳がんを治療してく
0
カバー画像

自分探しのはじまりは、ここから  #38

ホルモン剤治療を始めて、一年半以上が経った頃、子供の夏休みに合わせて、石垣島へ旅行に行った。何度目の、沖縄だろう。美しい海に、心が踊る。青い海が大好きで、独身時代は、趣味がダイビングだった。お金を貯めて、南国へのダイビング旅行を、何度も楽しんだ。美しくてダイナミックな魚を見るために、いっぱい海に潜った。今は、重装備で潜らなくても、家族で気軽にシュノーケルをして、海の中の世界を十分楽しんでいる。自然の中で遊んで笑うことが、家族の中では大切な時間だと思う。子供は、波打ち際で遊ぶのも大好きだ。いつまででも、そこを離れない。ずっーと楽しそうにはしゃいで、疲れたって言わない。そんな子供と一緒に、波打ち際でパシャパシャ遊んでいると、急に子供が、母親の濡れた髪を見て「お母さん、ハゲてる!!」と、驚いて叫んだ。そうなのだ。確かに自分でも気づいていた。髪が薄くなってきていたことに。外出先で、なんか髪型がキマらないなと思いつつ、鏡を見ながら髪を整えていた時に、気がついた。「前髪が無い・・・」ホルモン剤治療を受けた数パーセントの患者に起こる副作用、薄毛。頭頂部から前髪にかけて、かなり薄くなり、頭皮がテカテカ光るほどに薄くなり始めていた。かなりの精神的ダメージになった。過去にも同じ経験をしていた。出産後も抜け毛があり、その時も前髪が無くなったのだ。だがその時は、数ヶ月もすると、自然にまた前髪が生えてきていた。子育てに追われ、それがどれくらいの期間だったかも覚えがない。今回も、そんな風に過ぎ去ればいいと思っていたが、薄毛度合いが前回より、酷かった。なので、今できることをしようと思い、BELTAという育毛
0
カバー画像

自分探しのはじまりは、ここから  #37

自分の場合、ホルモン剤治療の副作用は、強く出ている。副作用イコール、更年期障害の症状と言っていい。周囲の人は、更年期障害の辛さを、どれだけ理解しているだろう。「年配女性のイライラの原因」とか、「急に汗が吹き出して、大変そうだね」くらいだろうか。命の危険に晒されていないのだから、周囲の人が、この症状の辛さを深刻に感じていなくても、不思議はない。しかし、自分の場合、この更年期障害の症状のひとつ、ホットフラッシュが起こっている最中は、体が暑くなり、汗が吹き出して、動悸が激しくなるのと同時に、大きな焦燥感にも襲われていた。「自分は今まで何をしてきたのだろう?今この状況、これでいいの?間違っているのかも!!どうしよう!!どうしよう!!もう、全てを終わりにしたい!!!」という、焦燥感だ。猛烈な自己嫌悪とでもいおうか・・・。この焦燥感、自己嫌悪は、絶望にも似た感情だ。ホットフラッシュが起きていないときには、まったく抱かない感情。ホットフラッシュが起きると、全てが、どうにも苦しい。でも、こんなに苦しいからこそ、この苦しみの「全て」を分析しなくてはならないと思った。そして、必死にホットフラッシュの最中に向き合ったものが、これだった。肉体だけの苦痛ではないということ。この時だけ、精神にも、変調が起きている。大きな気づきだった。「こんなキツイことを、今、自分は耐えているのだ」と、自分をきちんと労って、評価してあげることができた。だからこそ、男性である夫、幼い子供が、副作用の苦しみを理解できるはずもないのだと、自分が承知していなくてはならないことなのだ。だが、その結論とは裏腹に、気持ちがついていかない
0
カバー画像

自分探しのはじまりは、ここから  #36

申請資料に沿って必要な書類を用意し、大学へ送り、無事に入学手続きが済んだ。通信制大学への入学とは、こんなものなのだと、若干拍子抜けした。学部は、心理と教育のコースを選んだ。以前から、「人の心」について触れる学びがしたいと思っていたからだ。分からないことを知る喜びがありそうだと、感じていた。それとは別に、自閉症の当事者ドナ・ウィリアムズのテレビ番組や著書に触れて、「自閉症」についても興味を持っていた。あるとき図書館で借りた「自閉症だった私へ」は、分厚い本だったが、寝る間を惜しんで、数日で読み切ってしまった。あまりにもその先が知りたくて、読むのを止められなかったのだ。どうしてだか、自分でも解らない。そして、他者から軽んじられている自分と向き合い、赤裸々に、認めるには苦しすぎる自分自身を言葉で表現した著者に対し、尊敬の気持ちを抱いていた。そんな分野も、学べたらいいかな・・・と、漠然と考えていた。取り敢えず、諸連絡事項を聞くために、入学式に参加した。式の後半では、サークル活動紹介などがあったが、そういった時間を自分は取れないので、スルーして帰宅した。子育てと学業を両立して、できれば4年で卒業し、学位を取得したい。そして、資格を持ち「働く」ということを通して、社会復帰を果たしたい。子供が学校に行っている間の家事の隙間時間と、家事が全部終わった後の就寝前の時間を、勉強の時間に当てた。何年ぶりの勉強だろう。使っていなかった座卓を引っ張り出してきて、自分の勉強机にした。届いたテキストを読むと、「涵養」「敷衍」など、知らない言葉が並んでいた。意味が分からなくて、スラスラと読み進められない。悲しく
0
カバー画像

自分探しのはじまりは、ここから  #35

今は、便利な時代だ。大学の資料申請は、ネットで簡単にできた。どこか、「本当に、これでいいのかな?」という、躊躇する気持ちを抱えながら、ドキドキしつつ個人情報を入力し、送信した。自分の中では、届いた資料を見てから、大学で勉強したいと思っていることを夫に相談してみる予定だった。しかし数日後、大学からの「資料請求ありがとうございます」のメッセージが、予期せず留守電に入っており、タイミング悪く、自分より先に夫がそれを聞いてしまっていた。「これって、何のこと?」と、とても訝しげに聞いてきた。その夫の表情を見て、つい自分の気持ちが固くなり、強い口調で自分の計画を伝えてしまった。ダメだなんて、初めっから言われてないのに。「そういうこと、やりたいって思ったって、いいじゃない!!」なぜか、喧嘩腰だった。弱い犬ほどよく吠えるとは、このことだ。夫は呆れながらも、「本当にやってみたいなら、卒業までにどれだけ掛かるのかきちんと調べて教えてね」と言った。そして、自分の親は勉学に対してお金を惜しまず掛けてくれたから、自分自身もそういう価値観を持っていると、教えてくれた。ちなみに、夫は大学院を卒業し、博士号をもつ物理の研究者だ。説得力が、猛烈にあった。なんだか、吠えた自分が幼稚に見えた。本当に、バカだった。でも、精一杯だった。こういうわがままを言うことに、慣れていなかったから。この時、自分はすっかり忘れていた。結婚する前に、「俺が大学に行かせてあげるから、もう泣くな」と言ってもらっていたことを。夫は、思い出していたのだろうか。バカな自分は、バカのように救いようがなく、全くバカみたいに忘れていた。こんなに大切な
0
カバー画像

自分探しのはじまりは、ここから  #34

放射線治療を無事終え、頻繁に病院へ通う治療期間が終了した。体調は決して万全ではなかったが、これから、新たなリスタートだ。取り敢えず、日々の家事、子供の習い事の付き添いに忙殺される毎日が戻ってきた。平日は、吐き気に悩まされ、午後には横になって休むこともあったが、週末は、敢えて予定を立て、家族で出掛けるようにした。海を見ながら牡蠣小屋でランチ、近場のサイクリング、子供向けの富士山麓洞窟探検、そして、久しぶりのキャンプ等々。楽しい非日常は、気持ちに栄養を与えてくれた。明るい日差しは、心を軽くしてくれた。そして、いつもの生活を取り戻しつつあった。久しぶりに、大切なママ友に、ランチのお誘いをした。がんの報告をすると、静かに涙を流してくれた彼女だ。無事に元気で会えたことを、喜んでくれた。とりとめのない雑談が、本当に楽しかった。その雑談の中で、自分の「死ぬまでにしたいこと」の「大学を卒業して学位を取得したい」という思いを口にしたとき、彼女から、思いがけないヒントを貰った。自分が入りたいと思っていた通信制大学で、彼女が既に学んでいたのだ。将来、自分がひとりになった時、役に立つと思って心理学の勉強を始めた、と教えてくれた。そうそう、自分は大学で心理学を学びたかったのだ。なんたる偶然!ここに、先駆者がいたとは!一気に、自分の「そうできたらいいな・・・」の思いが、現実味を増した。なぜか勝手に、運命に後押しされているような気持ちになった。だが、いつもの思考グセが顔を出す。卒業するまでに、どれくらい費用が掛かるのかな。自分にそんなお金を掛けるくらいなら、子供に掛けた方がいいんじゃない?元取れないかもしれ
0
カバー画像

自分探しのはじまりは、ここから  #33

健康診断でしこりを発見されてから、検査、入院、手術、ホルモン剤治療、放射線治療と、必要な標準治療を次々とこなして7ヶ月が過ぎた。振り返ると、確実に人生のターニングポイントになるような、怒涛の数ヶ月だった。季節は夏から秋冬を越え、春になっていた。頻繁に病院へ通う時期は終わり、これからは1年に1度エコーとマンモグラフィーを受け、3ヶ月毎の診察時に、ホルモン注射と薬の処方箋を出してもらうだけになる。ホルモン剤治療を始めて約3ヶ月が経ち、ホットフラッシュが本格的になっていた。体が急にほてり汗が噴き出すのはもちろんのこと、胸が苦しく、激しい動悸も伴う。就寝時、ウトウトと寝入りそうになると決まってホットフラッシュが起き、眠りたいのに眠れないという日が続くようになった。入眠剤を使用していたが、効果は4時間ほどしかない。夜中にも数回ホットフラッシュが起こり、その度に次の眠りになかなか入れず朝を迎える日々だった。完全に、睡眠障害を起こしていた。放射線治療が終了して1ヶ月以上経つと、乳房の開いていた毛穴が小さくなり、元の状態に近づいてきた。これは、自分的に嬉しい変化だった。しかし、体調は思わしくなく、吐き気で食事が取れない日が多くなった。久しぶりの診察で体調不良が続いていることを医師に伝えると、「一旦ホルモン注射を中止しましょうか?」と提案されたが、できる治療は全て受けたいという希望を伝えた。3ヶ月用の太いスティックを注射で腹に打ち込み、ホルモン剤と入眠剤の他に、漢方も処方してもらうことにした。自分は、大学病院の周りの混んでいる薬局ではなく、自宅近辺の比較的いつも空いている薬局を使っている。通常の
0
カバー画像

自分探しのはじまりは、ここから  #32

放射線治療が始まり1週間も経つと、放射線が当たっている部分にヒリッとした痛みと赤いポツポツが出始め、少しずつ変化が現れていた。2週間経ったあたりで、前述した皮膚の剥がれが起こった。さらに、乳房の外側にも水ぶくれができた。そして、照射された乳房全体が赤くなり、張って固くなってきていた。まるで、真夏の海で日焼けをした時の皮膚のようだ。放射線医師は水ぶくれを見て、「次から次に大変だね(笑)」と言った。全然、笑えませんけど。こういうときに、やはり体験ブログは役に立った。他にも似たような症状の人がいて、乗り越えている。それを知ることで、どうやらなんとかなりそうだと、自分は、前向きに先を見通せるようになった。闘病患者として、気持ちを正常に保つためには、このステップが必要なのだ。残念ながら、医師のアドバイスにはそれが、無い。だからこそ、本当に、それぞれの個人体験を共有してくれているブロガーに、感謝だ。なぜか、肩や肋骨が痛み始めた。腕に力を入れて物を持ち上げようとすると、肋骨上部の痛みで力が入らない。痛みのある右側が下にならないように、就寝時の体勢に気をつけてみた。放射線医師に相談すると、「放射線は肩や肋骨に当たっていないから、照射の時の両腕を上げる姿勢のせいなんじゃない?」と、軽く受け流された。そうだろうか?採血して調べていた白血球の数や炎症反応などは、正常だった。ここに異常があると放射線治療が続けられなくなるので、いい結果が出て、安心した。どうせなら、イッキに治療は済ませてしまいたい。3週間経つと、乳首の色がかなり濃くなり、擦れると痛むようになった。乳房の皮膚は、毛穴が大きく開き、おまけに
0
カバー画像

自分探しのはじまりは、ここから  #31

専門家が難色を示したように、ほんの数ミリの皮膚の剥がれは、簡単に治るものではないのだと、思い知らされることになった。放射線医師に、皮膚の状態を診察してもらう。例えば、ガーゼをあてたとしても、それを止めるテープでまた皮膚が剥がれるため、それはできない。もちろん、絆創膏は使ってはいけない。できることは、患部を乾燥させるくらいだと説明を受ける。そうなんだ・・・。上半身裸で診察台に横たわりながら、やっぱり肌が弱いから副作用を避けられなかったな・・・、と考えていた。気の毒に思ってくれたのか、看護師が、「軟膏を使いましょう」と提案してきた。すると、医師が「いつも、そうやって君は軟膏を勧めるけど、あれは効果がないだろ!なんで、勝手にそう言うんだ!」と語気を荒げて看護師に言った。「でも、何もしないより、いいじゃないですか!」と看護師も応戦し、2人の言い争いが始まった。上半身裸で診察台に横たわっている自分を、放置して。はぁ、困るんだけど・・・。看護師の患者に寄り添う気持ちはありがたいが、若干、越権行為かもしれない。ここは医師を立てるのが正しいだろう。「あ、分かりました。じゃ、なるべく乾燥してみます!」と、上半身裸のまま2人の言い争いに割って入り、険悪な状況を収めた。皮膚の剥がれた部分は、下着のアンダーバストが当たる部分なので、そこにガーゼを挟んで滲み出る浸出液を吸わせるようにした。こんなとき、ネットの、体験記ブログの情報が大いに役立った。日が経つにつれ、その皮膚の剥がれはだんだん大きくなり、長さ3センチ・幅1センチほどの大きさに広がっていった。一部分はカサブタにもなっていたが、周囲の皮膚が剥がれ
0
カバー画像

自分探しのはじまりは、ここから  #30

ホルモン剤治療が始まって約1ヶ月が過ぎると、突然、めまいや吐き気に襲われたり、コントロールの難しいイライラや怒りが湧き上がる様になった。それなのに次の日には、嘘のように症状が治まり、気分も軽い。明らかに、ホルモン剤による副作用が始まっていた。これはいっときの体調の揺らぎで、薬に体が順応したら落ち着くかもしれないと、淡い期待を抱きながら、体調不良を我慢していた。並行して、放射線治療は1週間ほど経っていた。テープやペンでマークした部分は、印が消えないように、入浴中も注意しなければならない。それでも、その部分は新陳代謝をし続けている。ちょっと触ると、垢がポロポロ出てくるようになった。人間の皮膚って、こんなに生まれ変わっているんだと、改めて思わされるほど、垢がはりついていた。放射線技師は、50代とそれ以上の年齢に見えるベテラン男性2人が、多く担当してくれた。言葉ひとつひとつに気を使い、静かに必要なことを伝えてくれた。患者は、検査着を脱いで台に横たわり、照射が始まるまで、胸にバスタオルを掛けて待つ。どのみち上半身裸で照射を受けるのだが、その検査着からバスタオルを掛ける途中に胸が露わにならないよう、顔を背けながら手伝ってくれた。そういう配慮が、とても嬉しかった。本来なら、何人もの見知らぬ男性に上半身を見せるなんて、嫌に決まっている。だが、今それができるのは、「生きる」ためだ。そんな患者の究極の覚悟に、寄り添ってくれているような気がした。元来、肌の弱い自分は、またテープにかぶれていた。ずっと我慢していた、乳房の下の、マークのため貼ってあるテープ部分がとても痒いことを技師に伝えると、それなら取
0
カバー画像

自分探しのはじまりは、ここから  #29

手術から2ヶ月以上経って、やっと放射線治療が始まった。これから4週間、ウェークデイは毎日病院へ通う。億劫に感じても、必ず出掛けなければならない。そういうことなら、どうせなら、自分にとって少しでも楽しい「お出掛け」にしたい。折角なら、昔のお気に入りの服を引っ張り出して、「おしゃれをして出掛ける」縛りをつけてみよう、そう思いついた。そのためのコーディネイトを考える作業は、自分にとっては楽しい時間だ。いつもの、カジュアルな子供の学校へ行くときの保護者ファッションではなく、独身だった頃テーマにしていた「少しカッコイイ」テイストにしたい。どんな服がタンスに眠っていたっけ。また、出番を作ってあげよう。まだ、サイズは大丈夫かな?なんだか、ワクワクしてきた。久しぶりに、ヒールが高いブーツを履いて、颯爽と病院へ向かった。同じ時間の電車に乗り、同じ時間に地下へ向かう病院のエレベーターを待つ。そして、数日経つと、あることに気づいた。自分の後に、いつも同じ女性がエレベーターに乗り込み、サッと先に降りて行く。自分より先に、放射線科の受付に診察カードを提出し、先に放射線を受けて帰る人がいるのだ。予約枠は15分刻みになっており、どうやら同じ枠内の人らしい。自分は、毎回、エレベーターに先に乗ると奥に立ち、扉が開くと、横壁面にある「開」ボタンを押して最後に降りていた。そのため、受付に行くのも最後になり、放射線を受ける順番が毎回彼女の後になり、約15〜20分は待たされていた。数日は、なんとなく漠然と、エレベーターに後で乗り込んできて先に降りる彼女を見て、「お先にどうぞ」という習慣の無い人なんだな、としか感じていな
0
カバー画像

ヴァージョンアップで「新作」に

2023年 2月10日 金曜日 あの頃 私は家族を放ったらかしにして (行かないって言うから) 独りで映画を観に行きました。 上映時間三時間を優に超える大作だったし 妻は人混みを嫌っていたから。 傍目には 「大切な家族よりも 御楽な映画を選ぶ」 自分勝手な 自分の事しか考えない 自分中心的な夫としか映らなかった事でしょう。 そういった積み重ねも 離縁の原因として 妻の心の中に溜まって行きます。 その作品がビデオ化され レンタルビデオ屋さんの店頭に並んだ頃 私はレンタルに満足せず 購入しました。 195分の長編だったから テープは『前後編』の二本。 (後にDVDも購入) その頃に妻が 『乳がん』の疑いで検査入院。 私は その一週間という短期間を (直の上司は認めてくれなかった) 営業本部中に直談判して 有給休暇を もぎ取りました。 あまりに時間が余った事もあって 幼かった子供達に その映画を観せていました。 前後編を二日に分けて。 海に浮かぶ巨大な船が 脆くも簡単に 極寒で暗黒の中に沈んで行く様を あの子達は どう思いながら・・? あれから二十有余年 新作製作ついでに手を加えた? 4Kとして蘇り、 3D上映されるそうです。 それも上映期間が二週間と 期間限定で公開されます。 そう 今日から。 今日 パンフレットを買い求めに行きたい 昔と同一では無いでしょう? 4K化の解説ページが加わったり 3D仕様の解説が増えたり 色々とヴァージョンアップされ 価格もアップしているかもよ。 内容は同じだけれども パッケージを変えて 最新技術を加えた作品 近日中にでも 鑑賞に行きたいと思っています
0
カバー画像

自分探しのはじまりは、ここから  #28

手術からほぼ2ヶ月が経ち、放射線治療が始まった。通常は術後5週間後くらいで放射線治療が開始されるらしいが、病院の都合で、自分の場合はそれより3週間遅くなる。たったそれだけの違いでも、今の自分の不安を掻き立てるには十分だ。放射線専門の医師に質問すると、既にホルモン剤治療を始めているし、「術後5週間後」という基準も変化しつつあるので問題ないのでは?という見解が返ってきた。まぁ、そうだろう。どっちにしたって、スケジュールは決まっている。聞く必要は無かったかな。放射線を照射するときに必要になるマークを、体に赤ペンとテープで付けられるとき、肌が弱くてかぶれやすいことを伝えると、テープの数を減らしてくれた。こういう配慮が、本当にありがたい。単純だが、心が、すっと穏やかになる。放射線治療が始まると白血球が減るため、風邪などの病気にかからないよう気をつけるように、とアドバイスをもらった。ついでに、アルコールもNGとのこと。心が、ちょっと乱れた。放射線を受ける場所は、病院の地下にある。予約をしている数人が、廊下の椅子で順番待ちをしている。自分と同じ様な年齢の女性もいたが、仕事の途中で来たようなキャリアウーマン風の人、小さい子供を連れたまだ30代くらいの若いママさんなどもいた。年配の男性もおり、看護師と話している声から判断すると、前立腺の病気のようだった。それぞれが、生きるために、この地下へ放射線を受けに来ている。まずは、これからの放射線を受けるルーティンを看護師から説明を受けた。この説明をする役割だけの看護師がいる。またも、ニッチな仕事の人に会った気分だ。どこか彼女はおどおどした雰囲気のある人で
0
カバー画像

自分探しのはじまりは、ここから  #27

そういうわけで、年末に行った診察時に、ホルモン剤の注射を腹部に打った。液体ではなく、短いスティック状の固形物だ。腹部の脂肪の中で、薬剤がゆっくりと溶け出し作用するもので、飲み薬と並行して行うということだった。効き目が安定してくるのは1〜2ヶ月後、その間、生理もまだあるかもしれないとのこと。ふぅ〜ん、そうなんだ・・・。取り敢えず、無事に、子供と「お気に入りのお店」へ行き、ホルモン剤投与の初日の3/4を乗り越えた。次は、薬局で飲み薬を受け取らなければならない。薬局では、処方箋の飲み薬「ノルバデックス」のジェネリックをお願いした。これから5年間毎日服用するのだから、高額な先行品は避けたい。しかし、薬剤師から渡された薬は、自分が予測していなかった、知らない名前の薬だった。ネットで色々情報を得ている自分としては、タモキシフェンが処方されると思っていたので、動揺した。聞きかじった知識しかない素人が余計な事を言うのは失礼かな・・・と思いつつ、薬剤師に聞いてみた。「あの・・・、ジェネリックだと、タモキシフェンという薬もあると聞いているのですが・・・」「はい、ありますよ。そちらにします?」「値段は、違いますか?」「はい、お待ちください」そう言って提示されたタモキシフェンの金額は、今、目の前に出されている初耳の名前のジェネリックより、かなり低価格だった。「すみません・・・、価格が安いのでタモキシフェンに変えてもらうことできますか・・・?」と、すでに初耳ジェネリックの情報諸々をPCからプリントアウトしている薬剤師に、申し訳なさそうに言ってみた。「あ、はい。わかりました」薬剤師は、無表情で薬を変更する
0
カバー画像

自分探しのはじまりは、ここから  #26

退院して約1ヶ月が経ち、やっと、手術で摘出した腫瘍の、病理検査結果を聞く日が来た。その間、手術した乳房に時々起こるズキンとした強い痛みと、手術側の腕のツッパリ感にも悩まされていた。2年後には癒えるのだと自分に言い聞かせつつ、なるべくストレッチをして、痛みをやり過ごすようにしていた。大学病院は、とにかく待ち時間が長い。予約制なのだが、2時間以上は必ず待たされる。今回は子供が冬休みに入り、一人で留守番をさせるわけにもいかなかったので、連れてきていた。待ち時間は大好きなDSをやっていいこと、病院が終わった後は「お気に入りのお店に行く」、というご褒美を約束していた。子供が、DSにも飽きて、「ねぇ、まだなのぉ〜」とうんざりした頃、やっと診察の順番が来た。今回の医師は、一番偉い人だった。入院中の回診では、先頭を歩いていた医師だ。病理検査の結果と今後の治療方針を聞いた。グレードは2、今後は放射線とホルモン治療を行うことに決定され、抗がん剤治療をしなくて済むことに安堵した。そして、唐突に「では、今日ホルモン注射をしましょうか」と医師に言われた。今日は、病理検査の結果を聞くだけだと思っていたので、これから子供と「お気に入りのお店に行く」約束がある。今日からホルモン治療を開始するとは考えていなかった。外出中に、体調不良を起こさないだろうか。あと数日で今年も終わろうとしている今、副作用を気にせずに年越しができるのだろうか。とりあえず、ホルモン注射を打った直後の体調不良の有無等を知りたい。「副作用など、年末は大丈夫でしょうか。来年は、子供の学校の役員を引き受けるかもしれないこともあり・・・」と聞いてみ
0
カバー画像

自分探しのはじまりは、ここから  #23

退院して約二週間が経ったころ、診察を受けに病院へ行った。診察してくれた医師は、退院許可を出した“優秀だが高飛車”な医師だ。傷や乳房を確認し、リンパの腫れや、切開した周辺が硬くなって痛むなどの症状は、良くなるのに2年はかかると説明してくれた。2年か・・・、長いな。待合室で、入院中に同室だった人に会った。元気そうだ。挨拶したついでに、優秀だか高飛車な医師の愚痴を聞いてもらった。とりあえずその件は、高飛車だけど案外話すと良い人だ、という結論に至った。確かに、そうかも。でも、病人に高飛車な態度は、控えて欲しい。今、心が弱ってるから。入院中から続く腰の痛みは、引かなかった。手術した部分を庇うように寝ているので、余計に痛みが強まっているようだった。というわけで、思い切ってニトリで低反発マットレスを購入し使用してみた。高価ではないこのマットレスが、こんなに腰痛から自分を解放してくれるなんて!期待以上に、順調に腰の痛みが治まったのだ!まさに、お値段以上、だった。二十日も経つと、腕も十分に上げられるようになり、洗濯物を干すなどの、腕の可動範囲の広さを要求される家事が楽になってきた。以前のように過ごせるようになってきたことが、いちいち嬉しい。こんな、自分の体と向き合って今までの生活を取り戻すだけで精一杯の時期に、子供の小学校の次期PTA役員のことで連絡が来た。無駄に、胃が痛み始めた。
0
カバー画像

自分探しのはじまりは、ここから  #22

退院して、一週間ほど経った。手術の痛みは、傷口よりリンパ節部分の腫れの方が痛い。痛みを逃すために、リンパ部分をさすってなだめる。ずっと、痛み止め、眠剤は欠かせない。本来の手術予定日だと参加できなかったはずの、子供の学校行事に参加した。手術の日が決まった時に、その行事には入院していて行けないことを伝えると、子供はとても残念がっていた。いつもはグズグズ言わないタイプなので、珍しかった。どうしても、実行委員として頑張る自分を見て欲しかったのだ。しかし、ありがたいことに手術日が早まって、こうして痛みを堪えつつも、子供の委員としての活躍を見ることができた。なんてラッキーなんだ。色々な人たちから頂いたチャンスと配慮に感謝だ。一緒に参加していた夫が、見事じゃんけん列車で勝ち残り、ステージに登って歌を唄うことになった。優勝者が罰ゲームを受けるような企画だ。通りで、子供が事前に『じゃんけん列車で勝っちゃダメだよ』って言ってたわけだ。夫は歌が大の苦手なのに〜、ぷぷぷ。バタバタしながらも、一生懸命に、得意げに、自分の仕事をこなしている子供が、愛おしかった。頑張っている姿を見られて良かった。子供と一緒に帰るため教室前の廊下で待っていると、帰りの会で子供が表彰されていた。「テストで100点取った時と、人の為になるような良いことをした時に、先生からシールをもらえるよ!そのシールを日本地図の台紙に貼って、日本一周コンプリートしよう!」という取り組みの、コンプリート一番乗りだったのだ。先生は、「テストの100点だけでは、こんなに早くコンプリートはできません。なんといっても、人の役に立つことを沢山していたから、
0
カバー画像

自分探しのはじまりは、ここから  #21

入院五日目、退院の日。夫と子供が迎えに来てくれた。急遽決まった退院のため、病院側の書類ができていなかったが、後日送付ということで、すぐに退院手続きは終了した。痛み止めとかゆみ止めを処方してもらった。薬が無くなったら、市販薬でいいとのこと。本日も痛み止めはしっかり服用しようと思うほど、痛みを感じる。処方された10日分では足りないかもしれないので、ドラッグストアでロキソニンは購入しておきたい。同室の乳がんだった人から、病室を出る時に声を掛けてもらった。お子さんにどうぞと、おしゃれで美味しそうなゼリーのお裾分けを頂いた。そんなやり取りが、しみじみと嬉しい。退院後の診察が同じ日らしいので、もう一度、お会いできそうだ。どうぞ、ご無事で。帰宅すると、思ったより部屋が散らかっていた。「ちょっと〜、なんで片付けてないの〜(怒)」と、開口一番クレームを発すると、子供と夫の顔がパッとほころび、「あ〜、いつものお母さんだ!安心した〜」「本当だ〜、いつもと変わってなくて良かった〜、あははは〜」と、とても喜んでいた。病気になって弱り切っているかもしれないお母さん・妻と、これからどう接していけばいいのか、それぞれ考えていたのだろう。「私は、そんなにいつも怒ってばかりって言うのかいっ(怒)」「そ〜だよ〜(笑)」と、どこか緊張の糸が切れたように二人は笑いっぱなしだった。一息ついてから、手術した後のおっぱいを皆んなで見てみる?と提案してみた。ずっと気になっていたのだろう、二人とも即答で「見たい」と言った。手術した乳房は小さくなり、乳輪も含めて全体的に、保護シートでカバーされている傷口に向かって、いびつに引き攣れ
0
カバー画像

自分探しのはじまりは、ここから  #20

入院四日目。朝、目覚めよく起きたが、体を洗っていないので、自分の体臭が気になった。相変わらずドレーン部分がジワリと痛む。体液がジワジワ出ているようで、パックに半透明の赤い液体がそこそこ溜まっていた。手術した場所には保護シートがテープで貼られている。元来肌の弱い自分は、案の定、そのテープにかぶれてしまった。子供の頃流行ったソックタッチでは100%かぶれ、ずり落ちる靴下に悩まされ続けたタイプなのだ。看護師に伝えて、レスタミンコーワクリームを処方してもらう。いやはや、強靭な皮膚が欲しい。看護師に便秘を相談すると、運動にいいからと、最上階の展望台に行くことを勧められた。展望台は、ほどんど人がおらず、静かで、空気が心地よく冷えていて、さらに眼下に見下ろす眺望が素晴らしかった。こんなところがあったのか、最高だ!結婚する前は遠方に住んでいたため、わざわざ飛行機に乗って、友達と遊びに来た、この場所。今、最上階から、眺めている。自分が将来住む街並みになるなんて、あの時は全く想像していなかったことだった。こんな人生のページがあったなんて。夕方はドレーンを付けたまま、シャワーを浴びた。看護師に「入浴介助しますよ」と言ってもらったが、断って自分で浴びた。こういう時、「介助され慣れていない自分」が足を引っ張る。サポートの申し出に感謝しているが、「いや、そこまでご迷惑を掛けるのは・・・。大丈夫です、自分でなんとかします」という気持ちが前面に出てくるのだ。さらに、今更感が否めないが、また裸体を晒す恥ずかしさもあった。尿管カテーテルをしてもらい、なんなら、手術の時には体の中まで見られているのに。がん治療と、そ
0
カバー画像

自分探しのはじまりは、ここから  #19

入院三日目、昨晩は寝返りを打ちつつ、少し起きてはまた眠るの繰り返しだった。看護師によると、点滴に眠たくなる成分も入っていたとのこと。そうだったのか。そこそこ眠れて良かった。午前中には尿管カテーテルと点滴を外して、ドレーンだけになる。その作業の時に手術後の胸を見て、温存と言えども随分と小さくなったなぁ・・・と、思う。ベットから起きて、着替えをしようと立ち上がると、ふら〜っと倒れそうになり、慌てて看護師に支えてもらった。たった数日寝ていただけで、バランスを保って「立つ」という感覚を体が忘れているようだった。年を取っても寝たきりにはなるまいと、固く誓った。吐き気もなく、体調はまずまずだったので、ドレーンから繋がっているパックを入れたポシェットを肩から下げて、少し歩いたり運動をした。この病院から渡されたポシェットの柄が、とにかくダサい。でも、パジャマ姿でウロウロしているのだから、どっちにしろ、全てがダサい。だから、まぁいいじゃないか、という気持ちになった。自分で歯磨きもできるし、トイレにも行ける。こんなことが、自由を保障する大切な要素なのだ。夕方に、夫と子供がお見舞いに来た。小学校の開校記念日だったらしく、配られた紅白饅頭を持ってきていた。皆んなで一緒に食べようと、我慢していたらしい。「紅白饅頭って、やっぱり美味しいよね〜」と、2個の饅頭を3人で分けっこして食べた。子供の気持ちが溢れている今回の饅頭は、格別に美味しかった。皆んなで、デイルームから素晴らしい夜景を眺めていたが、子供はサザエさんの漫画本を見つけ、夢中で読みながら笑い始めた。テレビアニメでも漫画本でも、とにかくサザエさんが大
0
カバー画像

自分探しのはじまりは、ここから  #18

入院二日目。いよいよ、手術の日が来た。やっと、とでも言うべきか。眠剤と自宅から持ってきてもらった枕のおかげで、昨晩はぐっすり眠れた。麻酔は吐き気のリスクが少ないものを使いますと、麻酔科の先生より説明があった。ネットの体験ブログでは、術後の吐き気に悩まされる記事もあったので、ホッとした。夫と皆勤賞を諦めた子供が、病室にやってきた。そこから手術室まで、看護師と共に全員で歩いて行った。あれ?ドラマで見るように、ストレッチャーに横たわり運ばれていくんじゃないんだ、と少し落胆した。どこか、悲劇のヒロインまがいの気持ちが心の隅っこに芽生えていたのだろう。おしゃべりをしながら手術室の自動ドアまで行き、看護師の「は〜い、ここでお別れで〜す」の言葉を合図に、大切な家族と笑顔でバイバイをした。子供は、おちゃらけながら満面の笑顔を作って手を振っていた。相変わらずの、無邪気さ爆裂だ。全く悲壮感の無いライトな別れは、手術台に向かう気持ちを軽くした。やっぱり、それでいい。麻酔時には、数を数える事なく、すぐに意識が無くなった。手術後、ストレッチャーで運ばれている最中、名前を呼ばれて意識が戻ったが、その時に自分は「名前を呼ばれたけど、なんだろう?まだ、寝ていていいよね。すごく気持ちがいいから」と思い、またすぐ目を閉じた。後日聞いたところでは、その時にしっかり目覚めて欲しかったようだ。だったら、そう言ってよ。再度、目が覚めた時には、既に病室のベッドに横たわっていた。血栓予防の足に圧をかける道具が装着されていて、シュポーシュポーと大きな音が鳴っている。尿管カテーテルと、手術個所にはドレーンが体に差し込まれている。
0
カバー画像

自分探しのはじまりは、ここから  #17

入院2日目の朝、病室のベッドから見た朝日は白かった。自宅から見る朝日はいつも赤いのに。たぶん、遠くにある丘のせいで、日の出から少し時間が経過した太陽しか見えない立地なのだろう。朝日を見るのは好きで、自宅でも時間が合えば眺めることが、ままある。キャンプで、冷える早朝、青い富士山を眺めつつ、コーヒーを飲みながら迎える朝日も格別だ。それにしても、太陽の光が差し込む瞬間は、ある意味神々しい。あの光のビームは、物凄いエネルギーだ。こんなことがいつまで続くのかと繰り返す思考から抜け出せない夜が明けるあの瞬間、地平線を登ってくる太陽の光から届けられる躍動感は、いつも自分を安堵させるのだ。洗面などを済ませ、朝食をいただく。午前中は予定が無かったので、運動不足解消のため廊下を歩き、素敵な景色を眺めに行ったりした。午後は、アイソトープの検査をした。同じ病室の人も同じタイミングだったようで、同じエレベータに乗り一緒に地下の検査室へ行く。そこで、少し言葉を交わした。自分より10歳くらい年上に見える、気さくな人だった。一緒に、頑張ろう。この病院は、放射線など特別な施設は地下にあるのだ。だから、地下に用事のある患者は、おしなべて軽症ではない、ということでもある。乳房に打つ、アイソトープの検査の準備のための注射は、思った以上に痛かった。また痛い思いをしなければいけないのか、これからも何度となく痛い思いをして、我慢しなくてはいけないのか?もう、一生分の痛みを味わった気がする。痛みから解放されたいな、そう思いながら我慢した。数時間後に大きな機械に横たわって撮影をするのだが、一旦、病室に戻らなければいけない。その
0
カバー画像

自分探しのはじまりは、ここから  #16

自分のベットの周りに荷物を置き一段落すると、乳腺科の先生たちが物々しく、ぞろぞろと5人くらいでやって来た。先頭を歩いていた一番偉い先生が、挨拶をしてくれた。こんな風に徒党を組んで歩いてくるのは、ドラマの中だけだと思っていた。私の担当医師は、立ち位置からして下っ端のようだったが、後ろの方から声を掛けてくれたので、手術を早めてくれたことに対し、お礼を伝えた。優しい笑顔が返ってきた。やっぱり、この先生で良かった。夫と子供がお見舞いに来て、子供から「お母さん、大好きだよ」というミニお手紙を貰った。大切に、ノートに挟んで仕舞った。色々思うところはあるだろうが、病院でも、子供は相変わらず無邪気を絵に描いたような天真爛漫ぶりで、安心した。夕食は、ご飯がパサついていなくて、まぁまぁ美味しかった。これなら退院まで、食には困らないだろう。ところが、困ったことが起きた。手術では電気メスを使うので、結婚指輪は外さなければならない。結婚から十数年経った今、自分は約10キロ増量しており、自力で指輪は外せそうになかった。よく、おばあちゃんの家で見かける植物「金のなる木」の葉の根元に、五円玉がどういうわけだかはめられている「こんなに丸くて大きな葉に、どうやって五円玉の穴をくぐらせたの??」と同じ状態に、自分の薬指はなっていたのだ。子供の頃、まだ五円玉の穴に通るくらい葉が小さいタイミングで五円玉をはめて、あとは葉の成長に任せておくだけというカラクリを祖母から教えてもらい、驚いた。それと同じ現象が自分の薬指に起きていたのは随分前から分かっていたが、いよいよ困る日が来たのだ。看護師が二人掛かりで、あの手この手を使い
0
カバー画像

自分探しのはじまりは、ここから  #15

やっと、入院する日が来た。入院患者数人のグループとなり、案内担当のスタッフから入院中の諸々の説明を受けて、9階の病室に案内された。他にもグループがあり、ピストン輸送のように捌かれていた。通院している時は気づかなかったが、こういう役割の仕事もあるのだと、驚いた。なるほど。とてもニッチな仕事だか、これをする人がいるお陰で、大きな大学病院で目まぐるしく立ち働く看護師がスムーズに動けているのだろう。知らなかったな。病棟の廊下の窓からは、観光地として有名なビルや観覧車などが見えた。花火の時期なら、とってもよく見える超穴場スポットだ。これも、知らなかったな。病室は4人部屋の、窓側だった。気分転換に外が見られるのは、ラッキーだ。一緒に案内された人が同じ乳がん患者で、他の二人は、入院して数日経っている別の疾患患者のようだった。カーテンがほぼ閉められていたので、軽く挨拶だけ済ませ、あまり接触はしないようにした。そして、仕切りのカーテン一枚では、目隠しができても、音がダダ漏れだから気をつけなくてはと、過去の入院エピソードを思い出していた。入院は初めてだと思っていたが、子供を出産するときに入院していたのだ。当たり前だが。不思議なことに、病気ではないため、自分の入院経歴にカウントされていなかった。あのときは二人部屋で、カーテンで仕切られた隣のベッドには、既に出産を終えた先客がいた。カーテンが閉められていて姿が見えなかったので、カーテンが開いたときに話しかけてみようと思いつつ、寝姿を見られないように自分もカーテンを閉めて寝入ってしまった。しばらくして話し声で目が醒めると、隣に数人の友人がお見舞いに来てい
0
カバー画像

自分探しのはじまりは、ここから  #14

入院の数日前に、また病院に出向いて、入院準備についてあれこれ説明を受けた。麻酔科ではアレルギーの有無や麻酔時のリスク、乳腺科では手術内容を丁寧に説明された。担当医は、終始優しい笑顔で、穏やかに話してくれていた。今、リンパ部分に痛みを感じていて心配だと伝えると、「乳がんは本来痛くはないものだけれど、がんだと判ると痛みを感じてしまう患者さんが多いんですよ。でも、大丈夫ですから、安心してください」と、なだめてくれた。その言葉に大いに安心し、全幅の信頼を寄せ、手術中に全摘の判断になった場合は、先生に全てお任せします、と伝えた。初っ端に乳房再建の希望を伝えた時の怖かったイメージとは、全く違う人みたいだ。本当に、あの時の「やめたほうがいい!」は、医師として伝えたかった強い思いだったのだろう。不器用な人ほど、正直なものだ。自分は、要領のいい、口先だけの人間が苦手だ。この人生の岐路で、自分が信頼できる人に担当してもらえて、幸運だと思った。看護師からは、病院の売店で購入できるT字帯や、レンタルをするといい浴衣、胸帯は授乳期用の前びらきインナーが代用できるので、西松屋などの安いものでもいいなど、教えてもらった。できれば、入院・治療時だけしか使わないものは安く済ませたかったので、ありがたいアドバイスだった。いよいよ、人生初の入院、手術だ。こんなことが、自分の人生のシナリオにあるなんて、思いもよらなかった。そういえば、20代の頃は、占いが大好きで、よく当たる占い師を知人から教えてもらうと、いそいそと行ったものだ。そのころ、あるミセス占い師に見てもらった時、なんだかハッとした後「あなたは、これから、すご
0
カバー画像

自分探しのはじまりは、ここから  #13

いよいよ、計画していた旅行の日が来た。手術前に、皆んなでお母さんのおっぱいとサヨナラしようという、家族露天風呂温泉旅行計画だ。朝早くに出発して、高速サービスエリアのアイスや、道の駅で食べたそばと松茸ご飯が美味しかっただけで、もうウキウキした。予約しているペンションへ行く前に、善五郎の滝へ寄った。熊よけの缶を鳴らしながら坂を下ると、迫力のある滝がどどーんと迎えてくれた。すごいエネルギーだ。見ることができて、良かった。ペンションに着くと、早速、貸切で露天風呂に入った。温泉はもちろんのこと、家の風呂でさえ大好きな子供は、もう大はしゃぎだ。きゃっきゃしながら、皆んなでおっぱいとサヨナラをした。これでいい。夜は、ペンションご自慢の食事をたっぷり楽しんだ。かわいい前菜、ほっとする煮物、楽しみにしていた和牛ステーキ、自家製かぼちゃプリンなど、温かみのある創作料理をゆっくりといただいた。また露天風呂へ行き星空を楽しんだ後、部屋に戻ると、子供の頭にコツンとカメムシがぶつかり、さらに腕にくっついた。驚いて嫌がる子供を「気にするな〜」となだめる夫の腕にも、別のカメムシがくっついた。見上げると、部屋の天井にカメムシが何十匹もいた。子供は悲鳴を上げて嫌がったが、夫と自分は爆笑した。「なんでだよ、カメムシ〜」と、とにかく可笑しくて、笑い転げた。翌朝、部屋から朝日が昇るのを見ていると、夫が「山がキレイに見えるかも!」と、カメラを持って急いで外へ出て行った。自分も外に行くと、日の出とともに乗鞍岳の山々が、朝日に美しく照らしだされていた。その景色と朝の冷たい空気は、とても清々しかった。美味しい温泉卵等々が食べ放
0
カバー画像

自分探しのはじまりは、ここから  #12

手術日がやっと決まった。夫の海外出張と重なりそうだったが、提示された日で了承した。しこりが見つかってから手術を受けるまでに、3ヶ月以上待つことになったが、やっと、がん細胞を自分の体から取り出してもらえる日が決まったのだ。どこか、気持ちが軽くなった。後日、病院から電話があった。他の患者の手術キャンセルが出たので、予定より2週間ほど早まるが、その日に手術を受けられますか?という内容だった。出張の話を覚えてくれていた先生直々に連絡をくれたのだ。とても、ありがたくその申し出を受けさせてもらった。さて、手術の日まで、やっておきたいことがある。「死ぬまでにしたいこと」、ということではなく。まずは、毎月のように会っておしゃべりをしていた大切なママ友にだけは、しばらく会えないと伝えたい。連絡を取り、いつものファミレスで、自分の今の状況を伝えた。話を聞いていた彼女は、ハンカチで目頭を押さえて静かに涙を流してくれた。気休めのような励ましの言葉は無かった。彼女の、その有り様が、やっぱり自分には心地良かった。元気になったら、また、会おうと約束した。家族とは、手術をして体力がなくなる前に、旅行に行こうという話になった。皆んなでお風呂に入って、お母さんの手術するおっぱいとサヨナラしよう、という企画だった。乗鞍高原の家族露天風呂があるペンションを見つけ、善五郎、番所など、いくつかの滝を見るためのトレッキングをメインに、アクティブに過ごすことにした。ペンションは、自家製の野菜を使った料理が自慢のようで、食事も楽しみの一つになった。計画を話し合っているうちに、ワクワクしてきた。がん患者だっていうのに。手術を受け
0
カバー画像

自分探しのはじまりは、これから  #11

母から離れて、20歳から10年間、一人暮らしをした。29歳の時に、もうすぐ結婚しようと思っている人がいると、母に電話をした。今、大学院生で、大学生の時は奨学金を貰い、贅沢しないで生活をやりくりしてきた、地に足のついた人だと説明した。すると、母が思いがけないことを言い始めた。「あなたも、奨学金もらって、大学に行けたのにねぇ〜。」「え?何のこと?」「あれっ、先生から聞いてなかったの?高校2年の保護者面談の時、この子は成績がいいから奨学金をもらって大学に行かせてあげてください、もったいないですよって、言われたのよ。でも、お母さん、あんたが高校卒業して就職したら、やっと楽になれると思ったのに、また4年間学生を抱えるのかと思ったら嫌になって、断ったのよ〜、あははは〜〜〜」「え?初めて聞いたんだけど」「でも、あんた、いっつも勉強したくない〜って、言ってたでしょ〜」「いや、そうだけど、でも・・・」早く、電話を切りたかった。高校の保護者面談は、教師と保護者の二者面談だったため、その話を、今の今まで、全く知らなかったのだ。自分には、そんな道もあったのか。それなら、大学で勉強したかったな。大の得意科目だった科学と生物、もっと学びたかった。結局、専門学校も、大学も、行かせてくれなかったんだ。母との電話を切って、直ぐに、彼氏に電話を掛けた。母との会話を伝えながら、涙がポロポロこぼれてきた。彼氏は、直ぐにそっちに行くからと言った。本当に直ぐに、あっという間に、彼氏は来た。ドライブしようと、悲しみで潰れた自分を部屋から連れ出してくれ、夜の高速をぐんぐん走り、一緒に夜景を観た。そして、「結婚したら俺が大学に
0
カバー画像

自分探しのはじまりは、ここから  #10

冬休みが明けると、学校に就職希望を告げ、3年次に進学した。10クラスのうち、1クラスだけが、就職や大学以外に進学希望の生徒達の、寄せ集めクラスだった。就職組なんだから、勉強は好きな科目だけ頑張ればいいや、後は、就職組の友達と楽しく遊んで、それなりの学生生活を送っていければいいさ。苦手な科目の勉強を必死にしなくても、もう困ることもない。なんなら、楽でラッキーかもね。そう考えて、学生生活を送った。就職活動では、学校を通して、母に言われた通り、伯父が紹介すると言っていた会社に応募した。担任教師から、この会社にコネがあるなら、その人の名前と部署、役職を確認するように言われた。母に確認すると、「伯父さんが、△△会社の〇〇さんと知り合いだってことしか知らない。向こうでなんとかしてくれるんでしょ。部署や役職なんて聞いてない」と言った。そういえば、菓子折りを持って〇〇さんへ挨拶に行くとか、縁を繋ぐための行動を何もとっていない。おかしな話だ。それでいて、母は、何もする気がないように見えた。なんか、もう、よく分からなくなった。担任教師には、よくわからないと伝えたが、結局、その会社には面接を受けに行くことにした。面接では、両親の離婚理由、父親との交流の有無、母親の勤務状況など、自分のことよりも、親についての質問が多かったが、精一杯、誠実に答えた。結果は、不採用だった。その知らせを伝える担任教師は「人事担当の人は、面接の受け答えなど高評価だったので、自分も必死にお前を推してくれたって言ってたよ。でも、お前の家庭が・・なぁ・。お前自身の問題ではないぞ」と、すごく残念そうな顔をしながら、言葉を濁した。その
0
カバー画像

自分探しのはじまりは、ここから  #9

なぜ、学位取得にこだわり、高卒であることにコンプレックスを感じていたのか。それは、自分の心が未消化の過去にある。自分が小学校6年生ごろに親が離婚した。戸建ての家から、風呂なしのアパートに引っ越しをした。転居先の、知り合いの全くいない中学校に入学した。この環境の変化を気の毒に思った親戚から、可愛いマルチーズを譲ってもらい、飼い始めた。初めは、こんな母子家庭としての小さな暮らしを、楽しくさえ思っていた。しかし、日が経つにつれ、安っぽいアパート暮らしや母子家庭であることが、新しい人間関係の中で、自分の評価に繋がっていると感じてきた。今まで、当たり前に揃っていた戸建ての家、車、そして両親。失うまで気づかなかった、生まれ育つ環境から他者が勝手に推測する、自分の資質。この頃の昭和の時代は、毎年クラス名簿が配布され、そこには住所等の個人情報に世帯主の名前が記載される欄があり、その名前で母子家庭かどうか、すぐに分かる仕組みになっていた。今までとは、同じ自分ではなくなっていた。毎日働きに出る母親の姿を見て、自分が協力できることは、お金で迷惑を掛けないことだと考えた。ユニフォームや道具などを買い揃えなくてはいけない部活は、しないでおこうと決めた。帰宅組の友達は結構いたので、問題は無かった。中学2年生の時、国語の課題で「将来なりたいものは何か」という宿題があった。自分は「何もない」と素直にプリントに書いて、提出した。すると、個室に呼ばれ「どうしてだ、なにかあるだろう?誰だって、夢があるはずだ」という、動揺している国語教師との面談が始まった。その時の自分の気持ちは、「夢を叶えるためには、自分への投資が
0
カバー画像

自分探しのはじまりは、ここから  #8

食生活が悪かったのかも、生活習慣に問題があったのかもと理由を探し、本当に純粋な親切心で「健康な食事メニュー」の料理本が夫の実家から送られてきた。何かを改善しなければね、と。そんなことは、言われなくても分かっている。自分が初めに、たくさん自分を責めたのだから。しかし、その親切なアドバイスは、「がんができたのは、あなた自身に落ち度があったからじゃないの?」と言われているようにしか、捉えることができなかった。実母の家系は、乳がんの伯母も含むがん家系だ。いろいろ、複合要素があるだろう。この数ヶ月、たくさん乳がんについて調べて勉強した。分かってるんだよ、分かっているんだよ!自分の死と向き合うことで精一杯の中、まるで周囲への配慮をも強制されているかのようで、息苦しくなった。泣きたくもないのに、次から次へと、涙がぽろぽろこぼれてくる。自分の「これから」や「いつか」は無いのかもしれない、悲しさ。夫や子供に対する、妻や母親を早くに失わせてしまうかもしれない、申し訳なさ。「心配して あ・げ・て・い・る」というメサイアコンプレックス的感情に感謝しないと、わがままと言われる、理不尽さ。まだ、手術日も決まっていない。こうしている間も、がんは自分の体を蝕んでい続けている。怖い。残りの貴重な時間を、こうやって泣いて、後悔して、悔しがって過ごすのか?あまりにも、それは自分に対して失礼じゃないか。自分のために、前向こうぜ。泣くだけの日々を過ごして死んでいくのは、嫌だから。そうだ、やりたいことだってあっただろう?なんだっけ。家族・子供優先にして、後回しにしていたことがあっただろ。思い出せ。そして、リストにしてみよ
0
カバー画像

自分探しのはじまりは、ここから  #6

大学病院で、新たな検査が始まった。MR、採血、レントゲン、針生検、CT。針生検は、今回で二度目だが、やはり痛い。柔らかい乳房に、肉片を採取するための太い針を突き刺すのだから、当然だが。採取後の患部にテーピングを施され、かなり、かぶれた。そういえば自分は肌が弱い方だったと、思い出す。この、肌の弱さは、その後の治療にも不都合だった。まぁ、それはさておき、数日かけて受けたこの検査結果から、がんのタイプと進行具合を判断し、治療方針を決める流れになっていた。数日後、検査結果が出た。しこりの大きさは1.9センチ、ステージⅠ、リンパの転移なし、しかし、がんの顔つきについてのグレードが3だった。顔つき?グレード?それは、転移のしやすさに関係するものらしい。気持ちが沈んだ。これからの治療法について、ホルモン治療か、化学療法をするのか、この時点では未定だった。この大学病院を選んだのは、乳房再建を受けたかったからなので、その希望をこのタイミングで医師に伝えた。すると、医師の表情が厳しくなり、「あなたは、早期発見でとても良い方なんですよ!多分、手術は温存療法を行うと思います。胸は残りますよ。でも、自家組織再建をすると、体の他の部分にも傷ができてしまうんですよ!!それでもいいんですか!!!」と、かなりの勢いで叱られた。医師の怒りに、かなり驚いた。自分は、乳房の喪失というコンプレックスから自分自身を守りたいと思っていたが、医師は、手術によるダメージから体を守っていくのが最優先だと言っているのだろう。沢山の患者たちの苦しみや死を目の当たりにしてきた医師の言葉なのだから、それに従おう、そうするべきだと思えた。
0
カバー画像

自分探しのはじまりは、ここから  #5

検診時から3回目のマンモグラフィーを受け、大学病院でも、画像ではがんの影がほとんど映っておらず、疑いを持って見なければ分からないくらいだと説明された。ということは、検診でいつもと違う医師がしこりを見つけてくれた、あの強い触診がなければ、自分のがんは見過ごされていたということになる。本当に、感謝しかない。自分にとっては偶然とも呼べる検診医師との出会いの幸運を喜び、時々、なぜいつもの医師はしこりを見過ごしてきたのかという苛立ちが、繰り返し自分の思考に割り込んできた。しかし、確実に、がんになった悲しみと不安の方が、大きく気持ちを圧迫していった。検査ばかりで、これからもまだ続く。まだ手術日は決まっていない。その間に、この体に潜む爆弾は、どう変化して自分を侵襲しているのか。自分の人生は、思ったよりも早く終わりそうだ。「いつか、やってみたいな。できたらいいな」のいつかは、訪れないのかもしれない。随分、いろんなことを後回しにしてきたものだ。なんだって、こんなに遠慮しながら、我慢して生きてきたのだろう?いや、楽しんでやってきたものもあるじゃないか。誇れるものも、あるじゃないか。本当に、そうか?明日、目覚めなくても後悔しないか?やらなかったことで後悔するものはないか?いや、ある。いくつも、ある。この現世にある、この体とこの魂の組み合わせは唯一のもので、いづれ確実に消滅するものなのだ。だが、このままこの体を消滅させることは、この魂にとって申し訳ない。まだ体が動くうちに、魂の望むものを体験させてあげたい。そうじゃないと、せっかく生まれてきたのに、可哀想じゃないか。なぜか、そう思った。そして、今まで沢
0
カバー画像

自分探しのはじまりは、ここから  #4

やっと、乳がん専門医からの紹介状を持って、手術を受けるための大学病院へ行く。予約時間は、午前8時30分だ。午前中、またも、耐えかねる痛みのマンモグラフィーとエコー検査を受けた。念には念を入れるためなのだろうと、無理やり自分を納得させる。その後は、いろいろな書類を渡され、記入する。様々な同意書や、がんの告知は受けたいか・受けたくないか等、決めなくてはいけないことが多いと知った。その後、診察の予定があるが、いつまで経っても呼ばれない。テクニカルな呼び出し機の音を聞き逃したのか、不安になる。午後2時過ぎに受付で確認すると、「順番にお呼びしておりますのでお待ちください」と、お決まりのフレーズを、当たり前にいただく。午後5時過ぎになると不安もMAX。診療終了の音楽が流れ始め、自分が何か大きなミスをしていたのではないかと、自分が呼ばれないままでいる理由を脳内で探しまくった。「順番にお呼びしております」と再度言われることに抵抗を感じ、受付でもう一度確認するかどうか、ムダに悩み始める。そして、ついに、呼び出し機が鳴った。診察した医師は、「急なオペが入ったので遅れました、申し訳ありません」とお詫びの言葉を述べてくれた。「この待ち時間なら、余裕でハワイに行けていたよ。病院が終わるまで、朝一からずっと待つってなんやねん!こっちは、がん患者なんだぜ!」という怒りは消え、緊急でオペを受けることのできた患者の無事に、思いを馳せた。忙しそうな医師から、午前中に記入した書類の、「がんの場合は、宣告は本人に直接する」という選択通り、がん宣告を受ける。多くの人が必要になりますよと、気を遣って入眠剤を勧めらるが、乳
0
カバー画像

自分探しのはじまりは、ここから  #3

予約をした乳がん専門病院へ、検診時のマンモグラフィー画像を持参して行った。その画像と触診等を行なって、再診断をしてもらう勝手なイメージを持っていたが、実際には、数週間前にも行なったあの激痛を伴うマンモグラフィーをもう一度、そして、新たにエコーと針生検を受けた。触診をしているときに、医師の顔が曇る。嫌な予感がはしる。子供の年齢を聞かれたので返答すると、医師は「9歳か・・・」と2回呟いたあと、無言になった。終始、優しく語りかけてくれていた医師が言葉を続けられなくなった様子から、検査結果は期待できないと、覚悟をした。一週間後、検査結果を聞きに行った。覚悟通りだった。慎重に低いトーンで告知した医師が、こちらのあっさり受け止める態度を見て、安堵しているのがよく分かった。検診と専門病院のマンモグラフィーでは、しこりがほとんど映っていなかったが、エコーでははっきり映っていたこと、検診の触診で見つけてもらったことはとても幸運だったことを説明してくれた。自分がいつも受けている検診場所は、「マンモ+触診」か「エコー+触診」のどちらかを選んで受けるシステムだった。そして、精度がいいと思い込み、「マンモ+触診」を受け続けていた。しかし、今回の説明によると、乳房の密度が高い人は、マンモグラフィーでしこりが映りづらい、その場合はエコーの方がいいということだった。毎回マンモグラフィーで乳房を押しつぶされることに激痛を覚える自分は、そのタイプの人だった。手術はこの専門病院では行なっていないので、手術のための病院をどこにするのかという話に移った。乳房再建に積極的なところで手術を受けたいという、検査後一週間考えて
0
カバー画像

自分探しのはじまりは、ここから  #1

乳がん体験。ゆっくりと、9年前を思い出し、綴っていこうと思う。毎年受けていた健康診断。痛いから憂鬱なマンモグラフィー。いつもと同じ検診場所、同じ先生。けれど、この年だけは、いつもの先生とは違う人だった。今までの先生とは比べ物にならないくらい、渾身の強い力で押しながら触診をする先生だった。触診中は、内心「痛〜い。いつもはこんなに強くないよ〜。いつもの先生がよかったな〜。早く終わらないかな〜」と思っていた。その触診の手が、同じ場所を何度も往復し、繰り返し探る。「何故だろう?」痛みに耐えながら、不安が湧き上がった。いつも、風呂で体を洗うときは、セルフチェックをして問題なんてなかったはずなのに、と思っていた。しかし、先生は言った。「この辺に、しこりがありますね。強く押さないとわからない場所なのですが。でも、大丈夫だと思いますよ。しこりが、がんとは限りませんからね」慌てて、さっきの先生のように渾身の強い力で押してみる。確かに、硬いものが、あった。今までの力では、全く気づかなかった深いところだった。
0
カバー画像

世界にたった一枚のCD

数年前に私は乳がんを罹患しました当時は自分でも恐ろしくなるくらいに毎日が辛い日々でしたお金もない・家族もいない・治療は辛い・髪の毛は抜けている…それでも生きていかなくてはならなかったので必死でしたそんなある日無料の音楽イベントを見に行く機会がありましたフルートとピアノの生演奏です『ピンクリボン』をテーマにしていてまさに当時の私にピッタリのイベントでいたお金がなかった私には『無料』であることも大変にありがたかったです演奏は素晴らしいものでしたとくにアメージンググレイスは心に穏やかな光を燈してくれるようでした素晴らしい演奏をしてくださったフルート奏者にお礼を伝え、自分が乳がん患者だとお伝えすると涙を流してくれましたそこからその奏者とは連絡を取るようになりました知り合って数か月後私は転移した腫瘍の摘出オペのために入院することになりました(ちょうど今くらいの季節です)奏者は電車を乗り継いて2時間ほどかけてお見舞いに来てくれたのです(京都の端から大阪市内まで)そして一枚のCDを私に渡してくれました「河瀬さんへの応援の曲を作りました」と今そのCDを聞きながらこのブログを書いています『私は癌になって良かったのかもしれない…そりゃならないほうが実現できた夢はたくさんあるんだけれど、こうして人のあたたかさを知ったわけだから』世界に一枚だけのCDですなんと私は恵まれているのでしょうか実はプロのバイオリニストさん2名からもCDをいただきましたそのうち1名は私のイラストをCDジャケットに採用してくれました(それだけでなく売上金の一部を私の医療費に寄付してくれました)私には頼れる親族はいないけれど、こう
0
カバー画像

No,110 20代では早い? 痛みは? 服装は? 「乳がん検診」

20代では早い? 痛みは? 服装は? 「乳がん検診」の不安や疑問、産婦人科医に聞いてみた 10月は「ピンクリボン月間(乳がん月間)」で、毎年、乳がんの早期発見や治療を目指す啓発活動が行われています。乳がん検診の検査方法には「マンモグラフィー」や「乳房超音波検査(乳腺エコー)」がありますが、「20代でマンモグラフィーは早いですか?」「生理中でも受けられるのかな」「どんな服装で行くのがいいんだろう」など、検査について不安や疑問を持つ女性は多いようです。  年代問わず、自分の体と健康を守るために、女性が正しく知っておきたい「乳がん検診」のさまざまな疑問について、産婦人科医の尾西芳子さんに聞きました。 マンモグラフィーは痛みを感じる人も Q.乳がんについて教えてください。 尾西さん「乳房にできる悪性の腫瘍が乳がんで、女性ホルモン(特にエストロゲン)に反応して大きくなる性質があります。そのため、初潮が早い▽妊娠・授乳経験がない▽高齢出産の経験者など、エストロゲンにさらされる期間が長い人ほど乳がんになりやすいです。また、脂肪の多い食事でリスクが上がるといわれており、近年の高齢出産の増加や食の欧米化により、日本でもなる人が増えています」 Q.乳がん検診の「マンモグラフィー」と「乳房超音波検査(乳腺エコー)」は、どのような検診方法なのでしょうか。 尾西さん「『マンモグラフィー』は乳房のエックス線検査です。乳房は厚みがあるので、重なっている部分にがんがあると見えにくいです。そのため、乳房を専用のプレートで挟み、2方向から撮影します。 一方、『超音波検査』は、あおむけになり、超音波を発生・探知する
0
カバー画像

No,96 乳がん検診「マンモグラフィー」と「超音波検査」はどう違う?

乳がん検診「マンモグラフィー」と「超音波検査」はどう違う? どっちを受けたらいい? 産婦人科医が解説  毎年10月は「ピンクリボン月間(乳がん月間)」です。乳がん検診の検査方法には「マンモグラフィー」や「乳房超音波検査(乳腺エコー)」がありますが、「どう違うの?」「メリットとデメリットが知りたい」「どっちを受ければいいのか分からない」など、検査内容の違いに関する疑問の声もあります。  乳がんの検査方法である「マンモグラフィー」と「乳房超音波検査」には、どんな違いがあるのでしょうか。産婦人科医の尾西芳子さんに聞きました。 それぞれに得意・不得意な「病変」がある Q.まず、乳がんについて教えてください。 尾西さん「乳がんは乳房にできる悪性の腫瘍で、女性ホルモン(特にエストロゲン)に反応して大きくなる性質があります。そのため、初潮が早い▽妊娠・授乳経験がない▽高齢出産の経験者など、エストロゲンにさらされる期間が長い人ほど乳がんになりやすいです。また、脂肪の多い食事でリスクが上がるといわれており、近年の高齢出産の増加や食の欧米化により、日本でもなる人が増えています。 年間約9万人の日本人女性が乳がんにかかっており、女性が一生のうちにかかるがんとしては、最も多いがんとなっています。また2020年には、乳がんによって亡くなった人の数が1万4650人に上ります」 Q.「マンモグラフィー」「乳房超音波検査(乳腺エコー)」とは、それぞれどのような検診方法でしょうか。 尾西さん「『マンモグラフィー』は乳房のエックス線検査です。乳房は厚みがあるので、重なっている部分にがんがあると見えにくいです。その
0
カバー画像

乳がんと子宮頸がんの記録#13 セカンドオピニオン2

やっと自分の名前が呼ばれた。診察室に入ると医師が優しい笑顔で迎えてくれました。そして紹介状を見て私が乳がんの手術をしたばかりでこれからも抗がん剤や放射線をしなくてはならない事を知り「大変だったね。よく頑張ってるね。体もだけど心の方が辛いでしょ?」と言われて涙腺が崩壊しました。先ほどの病院でひどい言い方をされていたので余計に力が抜けたのだと思います。そして詳しい検査をしてもらいがんが4cmになっていると。これは何年も前から「病変はあったよ。がん検診行ってなかったの?」と聞かれました。「毎年がん検診してました。」そう答えると先生は驚いて「どこの病院で?」と聞かれたので先ほどの病院の名前を言うと「あー・・」と言葉をなくした瞬間あの病院はあまり良い噂がないのだろうな。と察しました。地域密着型のクリニックで地元ではそこそこ有名ではあったのですがその件があった2年後突然閉院しました。私としては「でしょうね。」と言う思いです。つづく・・・
0
カバー画像

乳がんと子宮頸がんの記録#12 セカンドオピニオン

いつもがん検診をしている病院からがん告知をされやっと希望する病院へ。ここは大きな病院で沢山の患者が待合室にいた。新患は予約できないのでかなり待ちます。と言われていた。それでもその先生にお願いしたかった。私は今までたくさんの同病の友たちと出会ってきました。そして何人もの友が虹の橋を渡っていきました。その友たちがみんな言っていた事。それは毎年がん検診行ってたのに気づいた時にはステージ4と言われた。体調が変だと思ったけど病院で大丈夫と言われたからそのままにしていた。あの時セカンドオピニオンを受けていたらもっと早く発見できたかもしれない。みんなそう言って悔やんでいました。私もそうでしたががん検診をしていても100%大丈夫!ではない。って事があるのです。その医師の細胞の取り方で結果も違う。納得いかない時は必ず他の病院へ行きべきだと思っています。そして私たち患者も色んな情報や知識を得る事が大切だと思います。自分の体を守れるのは自分だけですもんね。3時間待ってやっと診察室に呼ばれました。つづく・・・
0
カバー画像

乳がんと子宮頸がんの記録#11 子宮頸がん告知とひどい医者

子宮頸がんの結果の日前日から眠むれなくて朝早くから病院へ行く準備をしていた。子供達を学校に送り出してから病院へ向かった。物凄く緊張していた。病院に着いて待合室で待ってる間手の震えが止まらず早く結果を聞いて安心したいと思っていました。名前を呼ばれて診察室に入り椅子に座ろうとした途端「癌だったから紹介状書くから。」って言われて愕然としました。ここの病院では大きな手術が出来ないから他の病院へ紹介状を書くと・・私はもし何かあった時は「この先生にお願いしよう!」と決めていた医師がいた。でもここの医師は自分の先輩がいるからと違う病院を進めてきた。押し問答がはじまった。どちらも譲らず・・・私は医師に自分に命だから自分で決める!と言った。その医師は人が変わったように冷酷に「私は命の保証しないですから勝手にしたらいい。」と言ってきた。そして子供のようにむくれた。これにはさすがに呆れました。私はこんな医師に何年もがん検診をお願いしていたのだ。自分を殴ってやりたい気分だった。見かねた看護師さんが仲裁に入った。むくれた子供のような医師に一言言って診察室を出た。(それは秘密です 笑)この後看護師長さんが来て私に平謝りで私が希望する病院へ連絡してくれこれから向かいます。と予約もしてくれた。看護師長さんにお礼を言ってすぐにセカンドオピニオンを受ける為自分で決めた病院へ向かった。つづく・・・
0
カバー画像

乳がんと子宮頸がんの記録#10 まさかの子宮がん検診

退院から1週間後私は子宮がん検診へ行きました。子宮がん検診は毎年受けていていつも問題なくクリアしていたので今回も安心のため検診を受るつもりでした。いつもの病院へ行き検診した時に先生が「あれ?」って言ったんです。「あれ?」ってなに???その習慣ザワッとして凄い不安に襲われました。そして診察室に呼ばれた時ちょっと気になる「びらん」があって細胞取ったから検査に回すから。と・・・乳がんで告知された時の感情が甦った。怖い。結果は2週間後。また恐怖の2週間の始まりだ・・・でも毎年検査してるし今まで1度も引っかかった事がないからきっと大丈夫と思い込もうとしていた。寝れない日が続きやっと2週間が経った。つづく・・・
0
カバー画像

乳がんと子宮頸がんの記録#9 入院生活~退院

入院生活は10日間でした。術後2日目からは普通にしていれば痛み止めもいらないくらい元気になっていました。でも術後は腕が上に上がらないのでリハビリが始まります。これがなかなか大変で手術した傷が痛くなりました。朝は体操もあります。入院中は同じ病気の人がたくさんいて子育て世代の人も多くいました。夜寝れない時にこっそり遊びに来る人もいました。皆これからの事が不安で眠れないのです。同病の人と話すととても気持ちが落ち着きました。今もその人とはたまに連絡を取り合って近況報告をしています(*^^)あっという間に10日が経ち退院許可が下りて自宅に帰れることになりました。退院した日は子供たちが私を喜ばせようと部屋を綺麗に掃除してくれていておやつも用意してくれていました。家に帰ってきてやっぱり自宅はいい!と実感しました。そしてこれからはストレスをうまく発散して健康に生きようと思っていました。今後放射線と抗がん剤を受けなくてはいけませんでしたが私は頑張って乗り越えてやる!と強気でいました。そしてこの1か月半後私はまた手術をする事になるとは思っていませんでした。つづく・・・
0
カバー画像

乳がんと子宮頸がんの記録#8 術後の経過

術後2日目から痛み止めもいらなくなり普段通り過ごせていました。友人がお見舞いに来てくれて私の元気さに驚いていた。病院では診察が終わった後は病衣ではなくトレーナーにスウェットスタイルでいたので余計に普段通りの元気な私に見えたのだろうと思う。でも心の中は不安でいっぱいだった。これからの治療、生存率 リンパ郭清してるからリンパ浮腫にも気を付けて生活しないとならなくなる。日中は家族や友人、親せきなど毎日来てくれたので強い自分を演じきれていた。でも夜になると色々考えてしまい眠れなくなっていた。手術前日は爆睡したのに( ´艸`)夜中に起きていると不安ばかりが大きくなった。これからの治療もだが私は後何年生きられるのだろうか。そればかり考えていた。せめて子供が成人するまで生きさせてほしいと切に願っていました。
0
カバー画像

乳がんと子宮頸がんの記録#7 手術終了

麻酔から目が覚めるとすべてが終わっていた。2時間半の手術だった。左乳房温存手術をした。目覚めた瞬間左腕が痛だるく辛かった。夫に摩ってもらいとても楽になった。麻酔が効いているのか次の日まで何度も寝たり起きたりを繰り返していた。その間夫は夜までずっと手を握っていてくれた。凄い安心感だった。そして夫は主治医からリンパ節奥にまでに思った以上に転移があったと告げられていた。私はこの時、この事実は告げられていなかった。次の日この事実を知る事になる。癌自体1センチもないのにリンパ節に転移が多いのは100人に1人くらいだと。進行が早く癌の顔つきが悪いと言われた。再発や転移の可能性が高いと言う事だ。放射線治療をした後抗がん剤治療をする事が決定した。現実を突きつけられ怖くてたまらなかった。術後の傷より心が痛かった。そしてそれを治す薬など無い。この日から寝れない夜が続いた。連日可能な限りそばにいてくれる夫。帰り際「ありがとう。」と言ったら「また明日ね。」と笑った夫が素敵に見えた。どうやら麻酔の影響が残っているようだ(笑)つづく・・・
0
カバー画像

乳がんと子宮頸がんの記録#6 手術

手術当日。歩いて手術室に着くと沢山のスタッフの皆さんが元気に「おはようございます!」とほほ笑んでいた。この日は快晴。おかげで気持ちが少し上がる。さっそく手術台に乗せられる。ひんやりと冷たかったのを覚えている。まさに「まな板の鯉」である。こうなったら煮るなり焼くなりしてくれ!と思っていたが手は恐怖で震えていた。看護師さんが「大丈夫!寝てる間に終わるからね。」と私の手をそっと握ってくれた。この時とても安心した。手を握られるってこんなに気持ちが落ち着くんだと初めて知った。余談だが私はその時から心が折れそうな友人がいると手を必ず握るようになった。悩んでいる子供の手も握る。手には物凄いパワーがあると知ったから。それからすぐに体に沢山の装置を付けられ麻酔科の先生が入ってきた。麻酔科の先生に「大丈夫だからね。」と言われた。本当に優しい人ばかりだった。私は麻酔科の先生に「口から心臓が出そうだから早く寝かせてほしい。」と言ってみた。皆さんに爆笑され少し和やかムードになった所で麻酔注入!意識がなくなる中看護師さんの手の温もりはしっかりと感じていた。私は今でもこの看護師さんに感謝しています。入院中もたくさんお世話になることになりました。あっという間に意識が無くなり目覚めた時、すべて終わっていました。
0
カバー画像

乳がんと子宮頸がんの記録#5 入院

入院当日普段通り子供たちを学校に送り出してから病院へ向かった🙂子供たちが不安にならないように朝からふざけてばかりいた。うん。これていいのだ!☺☺私はまつ毛エクステとジェルネイルをしていたので事前に確認したところまつエクはOK!ジェルネイルは外して爪を短く切るように言われた。数年前からジェルネイルをしていたため自爪がペラペラだったので退院する頃には深爪になってしまいました😓この日は身体測定・CT・エコーを撮り明日の手術の説明や院内説明で終わった。その後は何もする事が無くベッドでゴロゴロ。院内ウロチョロ。明日は数人の人が手術だった。私は1番手だった。何でも1番はいいと思っていたが・・これはちょっと怖かった。その日の夜眠れないだろうと看護師さんが眠剤を持って来てくれた。みんな手術前夜は寝れないから服用してるんだよ。と優しく言ってくれた。そうだよね・・・みんな緊張するよね。不安だよね。と考えていたら眠剤飲む前に爆睡していた・・🤭恐るべし自分である。手術当日看護師さんが手術着を持ってきてくれたので着替えていざ手術室へ!朝から来てくれていた夫に手を振り手術室へ向かった。夫の方が泣きそうである。ドラマみたいにストレッチャーに乗るのか?と思っていたら元気モリモリなのでしっかり歩いて向かった。初めて見た手術室は沢山の機械や装置がありそしてスタッフが待機していた。前日爆睡していたくせに突然もの凄い恐怖に襲われた。やっぱり私も人の子のようだ・・・つづく・・・
0
カバー画像

乳がんと子宮頸がんの記録#4 入院準備

入院は2週間後に決定した。 そしてその翌日手術になった。 入院期間は10日~2週間らしい。 入院までにした事。 私が家にいなくても困らないよう 夫や子供たちにどこに何があるか説明。 わかりやすい場所に移動させたり作り置きできるおかずを作ったり 学校の事や塾や習い事フル回転で とにかくゆっくりする暇など無かった。 これは私にとって良かったと思っている。 もしゆっくりする時間があったら 楽しい事なんて考えられなかっただろう。 常に怖さと闘っていたと思う。 入院までにMRIを撮りに行ったり 何度も病院にも通った。 そして入院前日子供たちがケーキを作ってくれた。不格好なケーキだったがとても美味しくて本当に嬉しかった。そして手紙をくれた。ベッドに入る前にひとりで読んだ。手紙の最後には、お母さんは強いから絶対大丈夫。癌になんて負けない。そう書いてあった。これは子供たちの願い。そうあってほしいと思って書いたのだと思った。そう思ったら涙があふれてきた。泣かないと誓ったのに。何があっても耐えてやる。そう思っていた。
0
カバー画像

乳がんと子宮頸がんの記録#3 セカンドオピニオン

私は入院が決まるまでにもう一か所病院に行っている。セカンドオピニオンである。そして2か所目に行った病院で手術をする事にした。その理由は評判の良さはもちろんだったが主治医のとても優しく患者目線でいてくれる事。看護師さんやスタッフの皆さんの対応の良さ。そして医師以外スタッフ全員が女性だった事。以前の病院は検査技師が男性だった。いくら病気になったって毎回胸を出すのには抵抗を感じていた。中には胸のエコーを撮りながら顔をマジマジと見てくる技師もいた。最悪である。だから私もマジマジと見返してやったりしていた。闘う相手が違うがこの頃の私は常に戦闘モードだった(汗)そんなストレスが嫌だったし「癌になったんだから胸が無くなったり変形しても仕方ない。そんな人は沢山いるんだから。服着てるから見えないだけ!」と笑いながら言った医師の言葉に納得がいかなかった。癌になろうが私は死ぬまで女性なのだ。どんな扱いだよ!と思った。癌の治療だから主治医とは一生のお付き合いになるかもしれない。心から信頼できる医師を探そうとセカンドオピニオンを受けた。そして今の主治医に出会って本当に良かったと思っている。
0
カバー画像

乳がんと子宮頸がんの記録#2 家族に伝える。

突然の乳がん告知。頭の中が真っ白になった。私には夫と中学生と小学生の子供がいる。この幼い子供たちに何て説明すればいい?そして私はこの子たちが成人する姿をみる事が出来るのだろうか?父をがんで亡くしたばかりで母の心には、ぽっかり穴が開いた状態なのに娘が癌になった。って言わなきゃならないの?残酷すぎる。これから過酷な治療がはじまる。主治医からは髪の毛も抜け落ちて薬の副作用でむくみが強く出る。と言われた。体調だけではなく見た目も変わるのだ。家族に何て言おう。容姿が変わるから隠しきれないだろう。どのくらい泣いただろうか。夫にすがりついて泣いた。怖い。とはじめて言葉が出た。夫も泣いていた。大丈夫と言いながら泣いていた。散々泣いて私はもう泣かないと誓った。泣いていたら病気に勝てない気がしたし何より家族が不安になると思ったから。子供達には明るく伝えた。お母さんの胸に悪いものがあるからそれを手術で取ってもらうからちょっと入院する事になっちゃった。中学生の息子は黙っていた。小学生の娘は嫌だと泣いた。抱きしめる事しか出来なかった。抗がん剤などの治療の事はまだ言わないでおこうと夫と決めました。そして入院し手術を迎える事になりました。
0
カバー画像

乳がんと子宮頸がんの記録#1 がん告知

はじめまして。さくらと申します。私の乳がんと子宮頸がんの記録です。2012年、春。胸にしこりを見つけた。ものすごい胸騒ぎと焦りがあり冷や汗が出るほどだった。すぐに乳腺外科へ検診に行き小さなしこりが2つあり細胞診をすることになった。結果は2週間後。この2週間が地獄のように辛い日々になる。結果がわかるまでネットで色々調べるがいい答えなんて見つからない。ネガティブな感情ばかりで2週間過ごした。2週間後乳がん告知を受ける。限りなくⅢに近いステージ2bリンパ節にも転移があった。診察室の椅子から崩れ落ちそうになった。なんで?どうして?わたしが?物凄い恐怖に襲われた。信じられずにいた私に医師は言った。「がんばりましょう。私も最善を尽くしますから。」この言葉に我に返り「負けられない。絶対に負けられない。」と心に誓った。宣告された患者は嫌でも闘うしかない。闘うしか私には選択肢はなかった。ここから私の人生の第2章が始まった。ここからが始まりでもっとつらい現実が待っていました。
0
カバー画像

肺転移のこと 「がんが治らない」=「治療できない」とうことではありません。

こんにちは。うさぎです。!(^^)!がんによる転移肺に転移することは 多くがん治療中・がん経過観察中に長く続く咳や痰 血痰胸痛 息切れ 呼吸困難など気になる症状が出てきたときは、主治医に相談することがすすめられます。(肺転移は症状が出にくいので、症状がないから安心とは言えないのがつらいところです。)呼吸器の症状があるからといって、がんの転移とは限らない抗がん剤の副作用の場合も多々ありまずは主治医に相談するメリットがあります!国立国際医療研究センター がん総合診療センター副センター長 清水千恵子先生によると、肺転移に関して大切なことは①がん転移でなくても呼吸器の症状が出ることがあるので、受診して原因を見極めることが大切②乳がんの肺・胸膜転移の治療は全身的な抗がん剤治療が基本③単発の主流の場合は手術することもあるが原則として遠隔転移の場合は手術適応にならない④症状緩和の方法があります 鎮咳薬、医療用麻薬、酸素療法、胸水穿刺、胸水ドレナージなどの方法があります。💛肺に転移したがんは手術の適応にならないことが多いのはなぜ? 目に見える転移巣だけを手術でとっても、すでに微小ながんが肺のあちこちに転移していたら、手術の効果があまり期待できないからだそうです。 がん治療を終えても”転移”のことは常に頭から離れません。定期的に検診して早期発見すればよいのでは?と考えがちですが、定期的に転移に関する検査をして早期に転移を発見しても生存期間には差がない場合も多く、大切なのは「自分の場合はどうするのが最善なのか?」主治医の先生によく相談することが必要です。がん転移した場合 「治らない」「根治は難しい
0
カバー画像

家族や親戚に乳がんの人が多くて心配⇒自分はどうしたらいい? 山内英子先生の講座よりヒントを得て

こんにちは。うさぎです。家族や親せきに”乳がん””卵巣がん”の人が多い自分も乳がん卵巣がんになるかもしれない・・・  心配もしかしたら 単に心配のしすぎではなくて、”遺伝子”が関係しているかもしれません。「現状を知り、自分なりの選択肢を選び行動する必要」あるかもしれません。2021年10月に聖路加国際病院乳腺外科部長 山内英子先生の講座を聴講しました。内容の一部をお伝えします。『正しい情報・知識を力に前へ!』年間の乳がん患者さん 9万人そのうち 遺伝性乳がん卵巣がん症候群の方は 2700人~4500人家族性乳がんの方  9000人~18000人*家族歴のみられる乳がんの患者さんでは、乳がん発症に「遺伝的要因」が関係していることがあります。💚遺伝性乳がん・卵巣がん症候群に関係する遺伝子BRCA1遺伝子 BRCA2遺伝子BRCA1遺伝子 BRCA2遺伝子は誰もが持っている遺伝子ですが、これらに変異があり、さらに本来の機能が失われると、乳がんだけでなく卵巣がんにもかかりやすいことがわかっています。これらのどちらかの遺伝子に病的変異がある場合に「遺伝性乳がん卵巣がん症候群」と診断されます。🧡遺伝性乳がん卵巣がん症候群の特徴40歳未満で乳がんを発症している両方の乳房にがんを発症する片側の乳房に複数回がんを発症する乳がんと卵巣がん両方発症する男性で乳がんを発症する・・・男性の乳がんはBRCA2と関係する可能性があり遺伝子検査を受けた方がいいといわれていますすい臓がん前立腺がんを発症することがある家族の中に乳がん卵巣がんの人がいる💛遺伝子は子供に受け継がれるの?BRCA1 BRCA2の遺伝子
0
72 件中 1 - 60
有料ブログの投稿方法はこちら